2018年5月20日日曜日

メディア(=大衆)と関係者たちの戦略ゲーム?

レバ・タラを議論するのはそもそも意味のないことだというのはその通りだ。

しかし、最近年の日本社会で顕著になってきたメディア主導の「社会的制裁」をみると、その特質を理解し、進行を予測する能力を磨いておくことは、非常に重要である。特に、組織マネジメントの地位にある人たちにとっては、メディアが演出する「世論」というか「群集心理(→経済では市場心理と呼んでいるもの)」をケーススタディで徹底的に理解しておくことが危機管理に必須の学習項目になってきている。

ケーススタディでは、前例を分析し、そこから今後に生きるメッセージを抽出することが主なトレーニング内容になる。レバ・タラを考えることは思考能力を磨くうえで格好のエクササイズだ。

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現在世を騒がしている「日大関学アメフト騒動」で日大側の視点からレバ・タラを整理してみよう:


  • 1回目のファウル(=悪質タックル)で直ちに選手を下げていたら。

試合直後に監督自らが関学側に謝罪に出向くことが必要だっただろうが、監督辞任に追い込まれることはなかっただろう。逆に言えば、何らかの計画的悪意があったならば、こうしていたはずであるとも言える。ということは、そのままプレーを続行させたこと自体、悪意をこめたプレーを計画的に指示していたという見立てとは矛盾している。日大側の言っている「偶発的」という表現は、日大指導陣の目線にたてば、一面の真相を表している可能性はある。


  • 2回目のファウルで選手を下げていたら。

1回目のファウルで一発退場になっていないこと自体、ラグビー、サッカー、野球など他の種目のプレーヤーの感覚からみると不思議であるそうである。『アメリカン・フットボールではあんなことは普通なのですか?』と聞く人もいる。アメフトをやっている人も『イヤ、イヤ、そんなことはないです』と応じているのだが、2回目のファウルで下げていれば、非難は1回目のファウルでプレーを続行させたレフェリー判断に向かっていた公算が高い。もちろんこの場合でも試合後に謝罪の意を関学側に伝えることは必要だった。ということは、逆に言えば、この時点で下げていないこと自体、悪意のある計画を実行したとは推察できない、という見方もある。つまり、何か隠したい悪意はなかったと、そう推察する余地もあるということだ。はじめから悪意があったのなら、あまりにも露骨に悪意的であり、愚かに過ぎるだろう。


  • 試合後ただちに謝罪の意を発言し、負傷した関学選手を見舞っていれば。

ラフプレーに対する非難はあったにせよ、関学側は謝罪を受け入れている状況であり、関学が記者会見を開き抗議をする事態にはならず、和解への道を進むことができたのではないか。今回の騒動のきっかけが関学側の抗議であるのは明らかだ。ということは、日大側にはそもそも計画的な悪意というものは最初からなく、故に悪意を隠すための体裁をつくる必要も感じておらず、そもそもが礼儀やマナーも二の次であり、相手に対するリスペクトもなかったので「この程度の事は謝る必要もない」と、タカをくくっていた、と。こんな見立ても可能かもしれない。


  • もし動画サイトもSNSもなければ。

『見ていた?』、『いや見てなかったなあ』ということで水掛け論になり、レフェリーがそのままプレーを続行させていたことでもあるので、うやむやに終わったに違いない。今回の騒動は、動かせぬ事実が誰の目にも明らかになるツールが存在しているという技術革新があって初めて起こりえた。そんな時代の特性が日大側にはピンときていなかったのではないか。選手の「想定外のプレー」が意外な騒動になり、しかも傷害事件とも指摘され、かつそれが故意であるというストーリーとあまりにも辻褄があう発言を選手にもしていたので、ついに対応に窮し立ち往生している、と。まあ、日大側の視点にたてばこんな見立てもできるかもしれない。

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今後の進展を予想しておく。当面は日大の監督は辞任するものの、兼務する常務理事の職には留まり、またアメフト部のコーチ陣もそのまま残留するということである。

予想の前に前稿にも書き記した部分を再掲しておく:
マスメディア、というよりマスメディアが煽る世間の群集は、法を運用する政府や法曹界のエリート達よりもはるかにスピーディに、実効性あるペナルティを、加害者である日大に加えるだろう。日本大学という巨大な私立大学が世間に対して無条件降伏の白旗を掲げるまで、世間の非難・攻撃は止むことはないと予想する。イメージダウンによる大学経営面の損失は莫大であろう。 
日本社会を律する規範は、すでに法律からモラルへと作用の重心が移りつつある。法曹エリートから大衆へと実質的な権力が移りつつある。この変化を日大は見るべきだ。

既に、メディアのターゲットは「日本大学」に向けられている。順に予想をリストアップする:

  1. 残留するコーチの氏名、前歴などがネットで公開され、特に「(反則を)やるやろな」と試合当日の朝、反則を行った選手当人に念を押したというコーチが先ずは炎上すると予想する。
  2.  上のコーチが世間の攻撃に耐えかねて辞めた後は順に一人ずつ氏名と顔がネットで公開されメディアによる攻撃の的となる。辞めた前監督の前に1年で解任されたT氏にも取材記者がインタビューを求めるだろう。解任前後の経緯も記事となる。
  3. 一斉にか、一人ずつかは分からないが、コーチがすべて辞める。
  4. マスメディアの標的は再び常務理事にとどまっている日大前監督U氏に向かう。併せて、日大アメリカンフットボール部自体の廃部を世間は「期待」し、求めはじめる。この時点で、当事者である日大にも関学にも、また大学連盟にもスポーツ庁にも事態は制御不能になる。
  5. 日大の前監督は常務理事退任を余儀なくされる。これが10月頃の時点になるか。
  6. 日本大学の運営そのものに世間の非難は向かう。アメフト部の存続だけではなく、アメフト部以外の部の内情に世間の目が向けられ、あらゆる不祥事が洗い出される。また、非難のターゲットは<暴力体質>を肯定してきた理事長にも移る。
  7. 日本大学の学内内部の派閥対立が週刊誌で繰り返しとり上げられるようになる。日大OB層は人数も多く各分野に分厚く存在する。人的ネットワークも多様である。状況は複雑化する。
  8. おりしも大学受験の志願を決める季節でもあり、大学経営面での打撃が云々される。

まるで太平洋戦争時の日本の戦略と同じである。同じ戦略をとれば同じパターンで敗北する理屈である。

一般に戦略ゲームにおいては相手の予想を超える大胆な行動のみが勝利をもたらしうる。量的に勝る相手に抵抗しながら一歩ずつ後退するという発想では最後には無条件降伏以外に選択肢がなくなり全てを失う。

・・・

この後に更に予想されるのは、他の大学の特に運動系部活動に残っている(かもしれない)暴力体質に世間の関心が向かうことだろう。これもまた洗いなおされてくると、日大以外にも打撃を蒙る大学が出てくるのではないか。事態がここまでに至れば、大学スポーツの在り方、教育と運動との両立の状況、授業出席・単位修得と練習時間との整合、スポーツ推薦、卒業判定等々、ありとあらゆる側面が民放ワイドショーの格好のトピックとなる。私立大学のブランディング・ツールと化している大学スポーツは混乱を極めるだろう。戦後日本でずっと常識として受け入れられていた(特に私立大学の)運動系部活動の在り方は根底から改革を余儀なくされるに違いない・・・そして、大学スポーツが一巡すれば、今度は特にスポーツ名門校と評される高校部活動の暴力体質、パワハラ、(それからセクハラ?)となる。・・・いやはや大変である。カオスとなる可能性すらある。

ちょうど韓国の文在寅大統領が五輪をきっかけに南北融和を進めようとしたところ、この先の進展が不透明になり、南北の当事者にも制御不能となる可能性があるのと似ているようでもあり、ちょっとした火遊びが大火事になるとはこの事だ。

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もしも昨日の前監督の謝罪の直後、つまり本日の朝、日本大学の決定として「U氏とコーチ全員の解任・U氏の人事担当解除・学外関係者を含む調査委員会立ち上げ・アメフト部新体制編成への基本的な考え方」をパッケージとして大学が公表していれば、(その実際的機能はともかく)世間にはサプライズとなっていた(かもしれない)。

トラブル解決のオーソドックスな手順は激変しつつある。法曹専門家のテクニカルな発想では課題解決に失敗することが増えている。重要項目は<法的責任>ではない。<真のコミットメント>になってきた。空虚なポーズではなく<背水の陣>をしく覚悟が求められている。もやは<調整>の時代ではない。起きているのは<サバイバル>のための闘争である。負ければ損をするのではなく消え去るのである。実に厳しい。理屈よりも意志が決定的に重要なのだ。そんな時代になってきていることを見なければならない。

『・・・すべては私の責任でございます』ということはコーチの責任ではない、故にコーチは留任してもよいのだという論理は法律的な三段論法であって、いかにも弁護士好みの立論だ。しかし、トラブルが社会化されたときの戦略ゲームでは、法的ロジックではなく、社会心理に受け入れられるかどうかで勝敗が決まる。

解決のためのルーティンが日本では変わりつつある。これが善いことなのかどうか小生はまだ判別がつかない。良い面も悪い面もある。稿を改めて書きたい。








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