2017年11月21日火曜日

国技「大相撲」の暴行騒動をきく本筋は

小生の上の愚息は幼いころから熱心な相撲ファンである。四股を踏む小学生時代の愚息を撮影した写真も数多く残っていて、それらを見ると歳月というもののたつ速さを実感する。最近まで使ってきたiPhoneからSONYのXperiaに機種更新したのだが、仕事帰りの車中でワンセグが見れるようなったと喜んでいる。相撲中継なら電車の中でも音声なしの画像だけでわかると話している(Bluetoothイヤホンを買えばいいように思うのだが)。

その大相撲界。いま九州場所の開催中であるにもかかわらず、話題はもっぱら貴ノ岩関に対する横綱・日馬富士関の暴行及び傷害(?)事件でもちきりである。

これは無礼な態度を叱責する躾だという人もいれば、パワハラだという若い人もおり、いずれ関係者の何人かは処分されるだろうが、その筋(=日本相撲協会、警察・検察?)は処分の仕方に大変苦慮することだろう。

× × ×

ここでは覚え書きとして:

一般人に対する力士の暴行事件ではない。角界の不祥事である。組織内部の統制という観点に加えて、やはり顧客志向という観点も大事だろうと思われる。もちろん社会的常識や大多数の納得感は欠かせない。

10年ほど前にも相次いで発生した不祥事があった。特に2006年から2011年まで毎年のように不祥事が連続的に発生した「角界暗黒時代」はまだ記憶に鮮明である。

その中には、横綱・朝青龍の暴行と引退もあったし(2010年)、大麻使用事件(2008年)もあった。大麻事件では当時の北の湖理事長が引責辞任をしている。その前の2007年には時津風部屋の若い弟子が稽古中に暴行されて死亡するという事件があった。

毎年のように発生するトラブルにファンは徐々に離れていたが、大打撃になったのはやはり「野球賭博事件」に大量の力士が関係していたことが明らかになり、幾つかの相撲部屋が家宅捜索をうけた事件であろう。2010年5月のことであり、直後の名古屋場所では初めてNHK中継放送が中止され、天皇杯、内閣総理大臣杯授与も行われなかった。これが大相撲を愛する堅いファン層を大いに侵食した。

そして翌年2011年の3月、大阪場所が中止に追い込まれた。野球賭博事件の根が角界にも深く広がっており、取り調べをうけた力士の中には相撲も賭けの対象にしていたと供述したものがいた。更に、八百長を認めた力士も現れてしまった。

この「相撲八百長事件」が致命的な打撃となり、相撲ファンは当時の大相撲に心底から幻滅したと言える。

今回の騒動でほぼ10年前の泥沼を思い起こす人も多いだろう。やはり、相撲の本筋は体を張った闘技ということであり、勝負の厳正さは相撲の命ということだ。単なるエンターテインメントではない。勝負にシナリオなどあってはならないわけである。しかも、相撲は日本の「国技」ということにもなっている。

この本筋にそうところに相撲ファンのコアがある。なすべき稽古もこの大原則から導かれる。そう思うのだな。

今回の騒動をどう裁くか。過去の事件の教訓を生かしてほしいものである。守るべき価値は守り、直すべきところを直してほしいものだ。

× × ×

相撲は格闘技であり、立ち合い様の張り手は当たり前のようにある。本割で張られる以上、稽古で慣れておかねば話になるまい。この点は、野球やサッカーとはまったく違う世界だ。

とはいえ、『殴ればわかる』、『殴られて悟る』という考え方では、指導の効果が出ないと小生は思っている。

小生自身も二人の愚息が成長している途上で、体罰に訴えたことがないわけではない。

殴ってしかるなら、なぜ殴るかが殴られる側にもハッキリと理解できる状況が不可欠だと思っている。

言葉で語るのが最善だ。しかし、言葉が上手な人が必ずしも善い指導者でもないことはだれでも知っている。言葉で語る話しに加えて、表情や動作、全てが表現手段である。師弟 ― のみならず親子、年上と年下等々 ― の間の信頼感は結構複雑なものだ。叩かれてその瞬間に何かが理解できる、理解できてそこでまた頬ずりをされる、抱きしめられる、そんな表現の仕方も確かにあるだろうし、特に格闘技の稽古では言葉外のコミュニケーションもありうると小生は思う。

× × ×

いま読んでいる本は相撲とはまったく関係のない『日本人のための第一次世界大戦史 世界はなぜ戦争に突入したのか』(板谷敏彦)である。その中にある下りなのだが、
表面上の軍律が厳しいのは士気が低いことの裏返し
という指摘がある。第一次世界大戦時のイタリア軍は『軍律は厳しく、無理な命令であっても突撃を躊躇するとどうなるのか、見せしめのための罪なき銃殺が部隊内で頻繁に行われ』ていたと説明されている。しかし、軍律厳しいはずのイタリア軍の現実の戦いぶりはまったく酷いもので、ドイツ軍、オーストリア軍に押し込まれ、食料は不十分で、かつ給与は低く、休暇もわずかであり、そのため1個連隊全体が反乱を起こすこともあったという。

暴力による指導や折檻をできる限り避ける方がよいのは、しばしば指導者の堕落を招きやすいからである。というより、指導者の力量不足や組織全体の堕落を暴力が象徴しているからである。

低品質の指導者はしばしば暴力や体罰、重罰・極刑に頼りがちであるという事実は、上の(第一次大戦時の)イタリア軍の惨状からも推し量れる。

× × ×

話しを戻す。

叱られた側が納得していない限り、殴打による指導・折檻が効果をあげていない、伝えるべきことが伝わっていない。これだけは明確な事実と言える。とすれば、今回の横綱・日馬富士の行為は、指導ではなく暴行である、と。いかに善意志によるものであったにしても、暴行だと認定されても仕方のない面は確かにある。

それにしても、(一部では批判の向きもあったと読んだことがあるが)北の湖前理事長が急逝した折に、今後の角界・親方衆を誰がまとめていけるのかと。そう心配する関係者が多かったようである。事実はその通りになってきた。そんな感じもするネエ・・・。

やや奇矯な人柄ではあるらしいが貴乃花親方が日頃提案していること自体は正論だと思う。組織内部の戦力として包容できる器がないとすれば大きな損失だ。しかし、そんな方向には向かっていかないだろう。

逆風に対して知恵なき内向きの姿勢が強まるだろう。先行きは暗い。

0 件のコメント: