2017年10月12日木曜日

憲法論議七不思議の一つ

選挙期間ということもあって憲法論議が盛んである。

何かと言うと9条ばかりについて議論をしている。

昨日など、投票権が18歳以上に引き下げられていることもあって、ある高校の期日前投票所の風景が放映された。と同時に、憲法改正に関連した講演(講師は誰であったかな・・・)も挿入されていた。聴き手は高校生である。

エエ〜、みんな憲法というものの存在意義はなんだと思う?それはですネエ、憲法は国家権力を縛るもの、国民は自由、国民は憲法で縛られないんです、そうではなく権力を縛る。それが憲法なんですネ。憲法というものはそのためにあるんです・・・

イヤハヤ、マッタク、何だかそんなことをしゃべっていた ー とてもではないが、「話していました」などという礼儀を守った表現を付与する気にはなれませぬ。まあ、「公民」の授業がきちんと行われていれば、こういうアジ演説のような邪説の誤りは高校生もすぐに気づいていたとは思うが。

放送するテレビ局もテレビ局である。やはり『頭脳は新聞社にまかせ、テレビ局は肉体で稼ぐ』、今でもそんな風なのだろうか・・・。

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憲法30条の規定を引用しておく。
国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う。
いわゆる納税義務の規定である。

憲法は国家が国民に提供する公共サービスのコストのうち、何パーセントを税として負担するべきであるとは定めていない。しかし、日本国憲法施行後、戦後日本ではずっと赤字国債はタブーとされ、昭和40年度までは均衡財政が守られていたことを思い出せば、憲法30条の規定する「納税の義務」とは、基本的には公共サービスの費用は国民が責任をもって税として納付する主旨である、と。そう解釈するのが自然だと思われるのだ。

まして国家財政のうち3分の1が税ではなく、必要な税率引き上げをしぶり、一部の富裕な国民、投資ファンドなど金融機関、外国人、あるいは日本銀行に国債を購入してもらう形で財政資金を調達している現状は、そもそも憲法30条に違反していると。小生はずっとそう考えている。

国民もまた義務を負い、憲法には縛られるのである。疑いの余地なし。納税の義務のほか、憲法はあと二つの義務をも定めている。憲法は権力だけを縛るものではない。

というか、<国民主権>である以上、権力を縛るイコール国民を縛る、こう言っても可であろう。いかに「国民の名において」ではあれ、やってはいけないことを定める。それが憲法である。こう言ってもよい。本当に主権者が国民で、日本国憲法が真に<民定憲法>であれば、こう考えるしか考えようがないであろう。

『憲法は、権力を縛るのであり、国民は縛られない』という意見が、なぜいつまでもテレビ界の「常識?」としてまかり通っているのだろう? これ、七不思議じゃ、ずっとそう思っているのである。不思議じゃ、ほんとに。

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で、9条の話題に戻る。いかに日本人が国民の名において「許せぬ」と思う場合でも、現行の9条ある場合は絶対に武力の行使は許されない。そう書いてある。自衛権云々は戦後日本で発達した屁理屈だ。国民の名における場合でもできないのだから、政府も理の当然として出来ないのだ。これが本筋のロジックではないか。

「できない」と憲法に書かれていることを「こういう場合ならできる」と政府が言っているのは、国民が本当はそう考えたいからである。結局のところ、政府は国民の写し絵にすぎない。なので、ロジックとしてはおかしいと感じることも、結局は通る。定着して、これで良かった、理にかなっている、と。

本当は縛られるべき国民が、縛られたくないと本当は思っている。だから『国民は縛られないのです』と堂々と語る人が出てくる。『縛られるのは国民ではなく政府です』という理屈を選ぶ。国民はフリーだと結論づける。実は最も危険なチョイスであるのだが、戦後日本社会の本質はこんな風に要約してもそれほど間違っていない。そんな気がしているのだ。

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