2017年9月25日月曜日

選挙戦: スローガンではなく、具体的作戦がなければ問題外!

最近の不祥事の当事者になった国会議員たちがそれぞれ所属する政党を離党し、それでも無所属での立候補を選択し、支持者に説明会を開いたり、駅前で運動を始めているようだ。

ある候補は『子供が幼いときには手厚い児童手当、働いている間は安心して働ける社会、老いてからは安心のできる年金。これらが揃わなければ安心社会とは言えません!』、こんなアピールをしている。

反対する人間などはいないのはもちろんだ。

誰もがそうであってほしいという主張を繰り返しアピールするのは、「あなたいま幸福ですか?幸せになりたいと思いませんか?」と、誰しも本音としてもっている願望をついてくる宗教団体の布教活動と同じである。

宗教なら信じればそれで救われる。しかし、政治は宗教ではない。票を投じる有権者もバカではない。当たり前のスローガンではなく、どうすれば出来るのか?具体的作戦を語らないと票は増えないだろう。

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子育て支援、医療支援、手厚い年金を保障して安心社会を築くことは増税なしでは絶対に無理である。『増税なしで出来ます』と言う人は必ずいるし、現にいたこともある。しかし高齢化社会・低税率・高福祉を現に実現している国は一つもない。出来ないからである。『消費税率を20%まであげましょう。安心社会は夢であってはダメだ。おカネを出しましょうよ。それを財源に100年安心社会は必ずつくれるのです』、こんな構想を述べるのでなければ、手厚い社会保障は100パーセント嘘になる。ここまで有権者はわかっているのである。消費税を累進所得税率や法人税率引き上げ、環境税強化、資本課税強化に言い換えれば更に一層リベラル色が強くなる。語るべき構想を語らず、実現不可能な夢物語しか語らないので、政治に失望するのである。そういう悪循環がある。

その原因の一つとして、議員に当選することが、特に若年で議員を志す場合には議員であり続けること自体が生活設計の一部になる。こんな事実があるのかもしれない。国会議員の副業は禁止されてはいないものの、現実には兼業が相当困難である点もあるだろう。だから議員が職業になる。落選すると失業する。なので落選を極端におそれる。率直に語るべきことを語る勇気が出ない。そんな仕組みになっているのではないだろうか。

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そもそも国会議員は(特別)公務員であり、すべての国民に奉仕する公僕であると定義するのも問題が多い。国会では多数派が形成され、多数派の求める政策が実行されるのは当たり前である。<多数派の利益≒国民の利益>とみなして割り切るのが、任期のある国会議員による代議制民主主義の大前提ではないか、そう思うのでござんすが、誤りでありましょうや。

なにも「安心社会の建設」ばかりがスローガンたりうるわけでもない。「あなたには夢はないですか?富裕層に仲間入りしたくはないですか?もし事業の構想をお持ちなら、私たちは支援します。自由を保障します。活力のある社会、未来のある社会をつくりませんか?自由な経済圏を私たちはつくります。職業規制は廃止します。開業規制は廃止します。私たちは事業から得られる利益には課税しないことを約束します」、こんなアピールに魅力を感じる有権者も必ずいるはずである。配当課税は残すがキャピタルゲイン課税は撤廃すると言えばもっと新自由主義的になるだろう。誰もに安心は保証しないが、夢を追う人は応援する。夢を追う人を応援する人も応援する・・・。こんなアピールも十分魅力的であると(小生は)思うのだけどネエ・・・。

ビジネスには必ずターゲットがある。ターゲットを定めないマーケティングはない。自社製品は日本人全てのために提供しているのですなどと語る経営者がいれば、『あなたバカですか』と。必ずダメ出しをされる。政治もそうである。ある人達にとって嫌なことは他の人たちにとっては有難い。ある人達の希望は他の人達は邪魔をしたいものである。

政治団体(=政党)は、自党のターゲットをどう定めるか?ここが最も大事な出発点だ。ターゲットが定まれば、ターゲット外の人たちが忌避するような政策を訴えてもよいのである。ターゲットが支持すれば政党としては成功なのだ。というより、そうしなければ実行可能な政治戦略はつくれないはずだ。もちろん勝敗は数で決まる。決まったものが正しいのだ。なぜ正しいかは学者が考えるべき事柄である。これが民主主義の本質というものではござらぬか。

選挙区で選ばれた議員一人で出来ることは一人分の事である。党をつくり力をもたなければ大きな事は出来ない。「国としてこうする」と目標を決める「政党」は現代社会の政治的駆動力なのである。経済の場における「会社」と同じだ。

すべての人たちに平等公平に奉仕する会社はない。会社は顧客や支持者を喜ばせるために行動するのである。そうでござんしょう。政党だって、つまる所、おんなじでござんせんか。

代議制民主主義とは、つまるところ、私欲・支配欲をどうマネージして、社会制度にとりこみ、公益の向上へとつなげていくか。そのための工夫である。それ以外の見方がありましょうや。
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ところが、自民党は総合家電メーカーのような大規模政党である。「誰にでも何でもお役に立ちましょう」と言っているようなものである。トップ企業がこう出てくると、他企業は大事な側面で「尖がっている」項目を一つ設けて、あとは大体トレンドに合わせる。それが差別化のための理論的最適解でもある。実際、そうなっている ― もちろん共産党は別である。

本当の意味での対立軸がいつまでたっても与野党から出てこない。「これが国民のためになるのです」と、それしか言わないから、そもそもターゲット(=支持基盤)が真に求めていることを本当にやる気があるのか。そんな問いかけすら、するだけ無駄であるのが現在の小規模野党群である。民主党政権時には、あろうことか自民党の伝統的支持基盤を吸収しようとしているように見えたこともあった。『要するに自民党にとって変わりたいだけか』。小生はそう思ったものでござる。

与党と野党のコア・コンピタンスがぶつかりあう、「外面美人戦略」を放棄して、選択と集中に徹底して、支持基盤の本音を剥き出しにした衝突がいつ始まるのだろう?

現在の日本社会には確かに社会的な断層が形成されつつある。だから、やる気があれば、自民党への真っ向勝負もできるはずだ。自民党支持層は誰にでもわかっているのだから。  ー いや、無理かネエ、大体そもそも、マスメディア企業そのものからして、日本のエスタブリッシュメントだ。組織が固まっている共産党ならいざ知らず、自民党に真っ向から勝負するような(自民党になり変わるだけならば可)真のリベラルなど、巨大メディア大手につぶされるのではないか、と。それでもネット上で・・いや、それもダメか、それでもしかし、公職選挙法の穴がどこかにあるのではないかネエ、と。そんな風に思われるのである。

一体いつになったら日本の政治は面白くなるのだろう?

ま、ともかくも安倍政権の右翼的感覚には頻繁に拒否感情を感じるが、それでも自らのターゲットを喜ばせることを目標とし、と同時にターゲット外の人たちの怒りとの差し引き計算を常に忘れないところは、政治家としてあるべき模範である。そう思っているのは事実だ。

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