2017年8月28日月曜日

この報道用語は「情緒主義」から生まれたのではないだろうか

知る権利と忘れられる権利との選択(?)という。これまた、いかにもマスコミ各紙の好みそうな表題だ。

教え子の小学生への強制わいせつ容疑で、愛知県警に逮捕された臨時講師の男の公判が名古屋地裁岡崎支部で進んでいる。男は4年前にも別の小学校で性犯罪を起こし、停職処分を受けていた。男が名前を変えたこともあり、情報が共有されなかったという。
(出所)朝日新聞 DIGITAL、2017年8月26日配信

そもそも「権利」というのは「憲法」や「法律」の明文があってはじめて担保されるものだ。法的根拠がなければ、それは「慣習」として定着している常識(=Common Sense)であるはずだ。これにも該当しないとすれば、これ大事ダヨネ、ソウソウというレベルの「日常用語」である。どうも小生、勉強不足で「知る権利」や「忘れられる権利」がどこで規定されているのか知識がない。そんな権利は、小生の少年期から青壮年期にかけて言葉もなかった。なので定着した慣習であるはずはなく、故にそんな権利が存在しているのだとすれば、いつの時点でか国会で規定されたか、でなければ誰かが使い始めて広まったファションに近いものだ、と。 どうしてもそう感じてしまうのだ。

要するに、「知る権利」にしても「忘れられる権利」にしても読者の情緒に訴える報道用語じゃあないのかと、そうも思われるのだ、な。

ただ、上の問題提起は意外となかなか深い。これも事実。結構入り組んでいる問題である。

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ロジックとしては『公的機関が正式に決定した判断は、立法はもちろんのこと、行政にせよ、司法にせよ、すべて国民に公開されなければならない』という原則に従うべきだ。「だって公共機関の決定なのですから」というわけだ。ロジックはまずこうなると思う。

故に、いわゆる「前科」は公的情報の一部をなし、原理としては共有されるべき対象である。求められれば(よほどの理由がない限り)隠蔽するべきではない。その処分の結果そのものだけではなく、決定の際の責任者、経緯等々を確認できる文書も同様である。

中央官庁で日常的に作成されているメモや事務連絡でさえも「公文書」であると、隠蔽するのは怪しからんといって内閣支持率が急落するほど大きな騒動があったのだ。公的な処分は当然のこと、誰もがアクセスできるよう公開されなければ筋がとおらない。

こう考える以外に議論のしようはあるだろうか?・・・あることはあるのだな。

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それでは、公的機関が関係しない私的処分はどうか。たとえば、ある人が何らかのトラブルで勤務している●●社人事担当部局から減給や停職処分を受けたとする。その人が、会社を退社し、別の会社に就職しようとしている時に、その別の会社が元の会社に当該人物について何らかの処分歴があるかどうかを照会することは可か?

さすがにこれは、小生、素人だ。法律では照会をうけた会社に何らの(伝えることも、秘匿することも)義務も課していないように(感覚的には)思う。処分は会社による行為であり、社内では周知のことであるから既に個人限りの情報ではなく、当該人物の「個人情報」には当たらないとは感じる。が、要確認だ。

それでもある程度は検討は可能だ。

もしも不祥事を起こされた元の会社が、その事実が広く共有されるよう積極的に情報を提供するとすれば、これまさに江戸時代以来の「奉公構」になってしまう。近代以前、「奉公構」は単なる追放(=懲戒免職)ではなく、類似の就職機会をも奪う重い刑罰として機能した。元の所属先から「回状」を出された人物は社会の最底辺に身を落として生きるしか道がなかった。これは個別の主家による刑罰である。これと同じことをいまやってしまうと、憲法で禁止されている「私刑」になる。免職でなく、停職であっても、その情報を広く提供すれば結果は同じだろう。同じ結果であるから、求めに応じて処分歴を提供しても、やはり民間関係者による「私刑」となる(そう思われる)。

上の問題がなかなか深いのは、公的機関による処分であっても、要求に応じて個人の処分歴を公開してしまうと、実質的に禁止しているはずの「私刑」(法律によらない刑罰を課す行為)を公共機関が行ってしまうからである。それとも公共機関なら許されるのか。

行政情報公開の原則と、私刑禁止の法理と。どちらを優先するかである、な。だから、意外と深い問題だ。

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【29日午後加筆】

それにしても今朝の北朝鮮によるミサイル発射に対して政府やマスコミ各社がどう反応しているかをみると、実に面白い(と思う)。

安倍政権は(当然のこと)『わが国を飛び越えるミサイル発射という暴挙はこれまでにない深刻かつ重大な脅威だ』と非難の声明を出している。それで、トランプ大統領と電話会談をして『圧力強化で(日米は)一致』したと、そう報道されている。

実に、淡々とマスメディアはそれを伝えている。政権を支持するのか、日米一致一本道でいいのか、もっと強硬に対応せよと言いたいのか、どうやら意見らしい意見はマスメディアは持っていないようだ。

森友事件や加計騒動ではあれほど食い下がって反政権闘争を展開したのにネエ・・・。
怒ってみたってショウがねえべヤ。あっちは安倍さんじゃあなくってサ、国なんだわ。こっちが怒ったって、向こうは打つんだからサ、怒ったって何がどうなるってもんじゃないっショ!落っこってくるわけじゃあねえからサ、何発かうたれているうちにサ、だんだん 慣れていくっショ(笑。
メディアの人たち、実際こんな感覚なんですかねえ・・・恐ろしいといえば恐ろしゅうござんす。

状況としては、マスメディアはもっと怒らないといけない。強硬路線を支持するなら日本独自でもっと強化せよと主張するべきであるし、対話路線なら制裁オンリーの現政権の外交路線を非難しなければならない。融和路線を主張しなければならない。政権をもっと批判しないといけない。何が違法か判然としない加計問題では、それができたのだから、政権批判ができないはずがない。そうじゃあござんせんか?

どう見たって、この春先以来の報道姿勢といまのスタンスはつじつまがあっていない。

地方の一大学の一獣医学部、大阪の(どうでもよい)一小学校の設置問題には腹がたっても、隣々国によるミサイル実験にはあまり腹が立たない、と。やはり、論理というより、いまの「情緒」を大事にしているようでもあり、これまた情緒主義報道の和風ヴァージョンなのかもしれない。韓国のことを云々はできないねえ。まあ、日本では身の回りの細々としたことを書き綴る日記が日記文学として世に迎えられ、自分の感想を縷々とつづる私小説が高く評価されてきた。そんな感性にあった事実報道が覚えず情緒主義になるのは、ある意味、自然のことかもしれない。


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