2017年8月26日土曜日

「当選=有権者の代表」とリスペクトされない時代もやがて来る

1990年半ばから2010年代にかけて<官民の民>がずっと優勢である。もちろんその背景としてバブル発生とバブル崩壊に対処しようとした旧来の官僚主導体制の堕落と破綻があったのは言うまでもない。

その頃、官の言い分があるとしても選挙で当選した政治家が一喝すれば、有権者はそれに拍手喝采したものである。民主党政権における菅直人・元首相が『異論があったら君達も選挙で当選してから言いなさい』と(官僚幹部に対して)言い切ったのは、(本当かどうかは知らないが)時代を象徴する一例だろう。

そんな時代がもう25年近く、一世代ともいえるほど長い期間、ずっと続いて来た。思想の寿命としてはもう大分長くなったと言える。

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ところが・・・

少し以前になるがTVのワイドショーで飯塚市の市長・副市長が勤務時間内に庁舎を抜け出し、別の建物で賭け麻雀に興じていたという話をした。聞けば経営者出身の地方政治家だそうである。選挙で当選して3期目ということだった。

う〜ん、確かに(声高には言えぬが)「賭け麻雀」なるものは小生がその昔に勤務していた役所でも行われていたし、「賭けゴルフ」なることもやっていた。やっぱこれって「犯罪」だよネ。ダメだよね。

こんな風に「犯罪だよネ」と発言している人は多いのだが、普段から相当多くの人は実際に賭けをやっている。これは厳然たる事実だ(と思う)。事実であるとずっと前から知っておきながら、いざとなると「これは犯罪です」と指摘して追い落としへの口実に使うのは、簡単にいえば「罠」である。法律には合致しているが卑怯であろう。

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とはいうものの、地方議会議員の不祥事、東京オリンピックにまつわるゴタゴタ等々、色々とあがってくるスキャンダルや混乱を聞いていると、「選挙で当選した」ということそれ自体にどれほどの価値があるのだろうか、と。(安定しているかもしれないが)安い給料で黙々と勤務している公務員という集団は、時として「異分子」が混じるかもしれないが、全体としてはより高く信頼できるのではないか?機能的ではないか。少数の政治家に任せるのは危ないのではないか・・・

大体、宝くじの当選ではあるまいし、選挙の当選を振りかざすエリート意識も鼻持ちならない・・・。嘘が必ず混じっている選挙運動よりは、公務員試験の受験勉強のほうがずっと誠実な努力ではないだろうか、そこに嘘は混じっていない、と。

……もしこんな感覚が芽生えてくるとすれば、その時点から以降、選挙制度に基盤をもついわゆる「政党政治」は間違いなく機能不全をおこすだろう。そう思いながら「また出てきたか」とTVを視ている。

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ずっと昔の官僚集団は、同年齢層のわずか1パーセントを占めるにすぎない帝国大学卒業生しか高等文官試験を受験することはまずなかった時代の人々であり、その中でも東京帝大、京都帝大という少数の大学卒業生しか実際に採用されることはなかったと聞いている。そして最後に出世を遂げるのは、同じ東京帝大卒でも旧制一高を卒業した人物にまずは限られていた。そんな伝説もあったくらいだ。しかしながら、点数第一ということは、血縁・人脈・縁故はゼロの裏返しでもあったのだ、な。

試験の受験資格は全国民に(建前上は)あり、国公立学校の授業料は極めて低廉であった。戦後になってしまうが、小生のカミさんの兄は某国立大学の医学部を出たが、その当時の授業料は3万円だったという。貨幣価値を考慮するとしても安い。少年マガジン1冊が40円か60円くらいの時代であったから、今の価値に直せばざっと15万円である。月当たりで1万2千5百円/月。これなら親の仕送りがなくとも奨学金とバイトで自活できる。戦前はもっと授業料が安かったと亡くなった父親は語っていたーというか、教師になる師範学校、軍人になる陸軍士官学校、海軍兵学校は無料だった。

こう考えると、意欲(と頭脳・力量)さえあれば開かれた学業機会を活用して誰でもが高等教育をうけ「公職」につく道があった。そんな道を(努力して)歩んだ官僚集団は、それ自体が開かれた民主主義社会の成果であった。そうとも言えるのではないか。

少なくとも人脈や地盤、そして何よりも先祖に著名な人物を持っていると言う血統的優位が価値をもつ政治家集団よりは、世襲の困難な官僚集団のほうが、小生よっぽど民主主義に合致しているように思えますぜ。

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満ツレバ欠ケル。栄枯盛衰。ピークを迎えれば、あとは下り坂になる理屈だ。

規制緩和、民間主導。この理念にも自ずから賞味期限がある。経済理論としては、決して間違ってはいない。しかし、正論が通らない時代は反復的に交代的に現れるものだ。正論が常にとおるなら、大体、敗戦などあるものではない。

全ての時代を通じて一貫して合意され、支持されて来た社会科学的仮説は一つも存在しないのが現実だ。時代状況が変われば、正しいとされる政策も変わる。社会科学は正当化のためのツールとして利用されて来たのが現実だ。学問分野にも栄枯盛衰はある。

社会は正常状態に収束しつつあるのではなく、非エルゴード過程として収束点なき漂流を続けている。これが社会経済発展の実証的真相である。

近代日本において、最初は薩長藩閥、明治から大正にかけ発展を遂げてからは政党政治、その後政党が官界を侵食し、官界が政治の場と一体化し、そして政党が財閥と癒着してきた段階で政党不信が高まる。1929年の世界大恐慌で金融政策をしくじるに至り、それまで逆境にあった軍人集団への期待が高まる。軍部と相応じた異端派革新官僚が下克上のように台頭し、国家総動員体制の確立と軍国主義へと走る。その後は知ってのとおり、崩壊と占領、独立、戦後日本の再出発となる。

こう列挙すると、トレンド要素とともに循環要素が確かにあるようだ。単純な「振り子理論」では素朴すぎて話にならないが、(一つの切り口として)官と民との間の潮の満ち引きを振り返ると、次第に逆転しようとしている。そんな予感を覚えるのだ、な。

これら一連の事柄が、現行憲法そのものの賞味期限まで意味するものであるのかどうか。そこまで分かるはずはない。

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