2017年7月25日火曜日

新聞: 社会の公器たりえず、元の私企業として存続をはかるのが自然か

極右から右派までをカバーする産経新聞、極左(→赤旗の購読者層だろう)とまでは言えないが左翼の代表的な拠点である朝日新聞と。その中間に読売、毎日、日経と、最近は目立って新聞各社の政治的ポジションが明瞭に表面化するようになっている。

それに伴って、新聞各社と安倍政権との親密度にも違いがハッキリと伝わってくるようになり、その周辺に集合する同志(?)集団がネット上で互いにぶつけあうネガティブ・キャンペーンももはや罵詈雑言としか言えない様相を呈してきた、というのが2017年の日本の政情、社会状況の特徴である。

端的に言えば、敵対的党派感情の高まりと社会的分断の進行。

このように激しい党派的感情は、2009年9月16日に発足した鳩山内閣から2012年12月16日の衆議院選大敗で終焉を迎えた民主党政権の時代においても、見られなかったように記憶している。

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そもそもインターネットの台頭の中で新聞社(及び放送局)の情報独占は崩壊し、新聞社が大衆啓蒙的・中立的情報メディアであろうとするビジネスモデルはもはや持続不可能になっている。この点は十数年も前から多くの人に指摘されているところで、いよいよ日本でもそんなリアルな潮流の変化が目に見えるようになったか、と。そうみるのが自然だろうと思う。それが善いか悪いかという、そんな価値判断の対象ではなく、そうなるのは何故かという分析対象であるということである。

亡くなった父は、朝日新聞の記事を毎朝読んではこきおろすのを趣味としていたが、「もうこれはダメだ」と言って購読を止めることは一度もしなかった。その頃、情報取得で頼りになるのはTVがあるとはいえ何と言っても毎日朝夕の新聞であったし、新聞を読むことが真っ当な社会人であるライフスタイルでもあったのだ。通勤電車の中で日本経済新聞を広げて読んでいる人がいれば、その人は背広にネクタイをしており、その多くは日本橋や銀座、霞が関辺りで降りて行ったものである。

とはいえ、新聞社はもともと私企業である以上は、利益を上げる必要があり、読者は顧客である。である以上、顧客満足度を高めることが求められるが(でなければ、代金を払ってまで買ってもらえない)、情報はインターネットからいくらでも入手できる状況の下では、新聞から得られる顧客満足は単なる情報提供によって形成されるのではなく、顧客の志向に合致した味付けが新聞社の提供できる付加価値となる。その味付けとは一定の観点に基づいた見方なり解釈であり、原理的には野球の解説や天気予報の解説とあまり変わるところはない。新聞社が述べる論調に対して志向を同じくするファンが集い共感し合うのであり、その様子は好きな評論家が語る多事争論をきいて溜飲をさげスッキリした気持ちになるのと本質は同じである。こんな「納得感」こそいま新聞社が読者に提供できる付加価値の中身になっていると思うのだ、な。

新聞の紙面が党派的になるのは時代の流れであり、ニュートラルなジャーナリズムというのは存在できないのが21世紀という時代であると言ってもよいだろう。新聞の個性をわける党派性は、今後ますますハッキリとしてくるであろう。というより、ハッキリさせるほうが読者が喜ぶので、そうせざるを得ない社会状況に新聞社は置かれてしまっている。

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こんな時代の潮流を悪いとか、情けないと評価するのは適切ではない。理解するしかないのだ。そう、理解するしかなく、また分かってくると思うのだが、ただ一つ、新聞はもはや「社会の公器」ではなく、<社会主義者の|リベラル派の|中道左派の|中道右派の|極右集団の>主張。その意味では、「メディア」と呼ぶよりは「パンフレット」と言うべき出版物になってきているのが21世紀の新聞である。元々創立当初から各社は社風として個性をもっていたのだが、こうやって原点の理念に戻り、新聞社は21世紀にも私企業として存続するであろう。批判ではない。予想なのである。

ずっと昔、1934年10月に戦前期の陸軍省は『国防の本義と其の強化の提唱』というパンフレットを発表した。会社も組織もどこも「主張」というものをもっており、俗に「陸パン」と呼ばれるこの印刷物が、その後10年余の軍国主義日本の魁(サキガケ)となったことは忘れるべきではない。パンフレットは、意見の表明であるから、もちろんその自由は保証されなければならない。しかしながら、データや事実の断片を素材に編集された内容全体は、あたかも客観的解説であるかのような外観を呈している。未来への方向を知らせているような文面になっている。この点は、「陸パン」も現代の新聞も同様だろうと。そう思うようになってきた。

とすれば、その点を弁えて読めばよいわけであり、新聞社の購読者獲得競争の消長がそのまま社会全体の世論の在りどころを伝えると言う意味では、普通の雑誌市場に近い競争市場にいよいよなってきた。それはそれで進化していると見ているのだ。これもインターネットの登場と普及と高速化がもたらした社会の変化の一端である。

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進化それ自体は良いに決まっている。心配なのは次の点だ。

公器、というより特定の政治的立場にたった組織として自社の主張を展開し、新聞社が互いに競争をするのは、必ずプラスの価値をもたらすと思う。しかし、競争が過当競争になり情報の品質向上(高コスト・ハイレベル知的側面)より、むしろ面白さ追求(低コスト・エンターテインメント的側面)に力が注がれてしまえば、社会進歩の動力にはなりえない根拠なき敵対的党派感情(負の熱狂=Negative Fanaticism)を日本社会の中にばらまくだけの結果になるやもしれず、その場合のマイナス効果は計り知れない。

さて、こうなってくるとダ・・・・・こんな時代状況においては、新聞の販売システムもいずれ再構築せざるを得なくなるだろう。1社の新聞のみをずっと購読しようとする強固な顧客は数が限られてくると思うからだ ー 実際、日本社会で最多数であるのは「無党派」集団であるし、無党派集団に対して党派的記事を掲載するのはマズイ戦略であろう。かといって、無党派集団を販売ターゲットにしようとすれば、政治色は脱色して身の回り中心の小新聞にリニューアルしなければなるまい。これはこれで、競争の激しい市場である。小生宅も仕事から引退して日経記事を教材に使うことがなくなれば、そろそろいいかな、と思っている。また、新聞社の収益源も改革を余儀なくされるだろう。党派性とCM媒体としての適性は両立し難いからだ。どうやら今後2、30年のうちにはどの新聞社も大規模な経営改革を迫られると思われるのだが、このテーマはまた別の機会にとっておきたい。


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