2017年4月30日日曜日

ワイドショーが「おしゃべり」となっている一例

ワイドショーが世間で果たしている役割をどう見るかは、つまらないテーマであるように見えて、「報道(?)の自由」や「表現の自由」ともつながることでもあり、いくらマイナスの影響(=メディア産業の外部不経済)が認められるとしても、現代憲法下においては中々に難しい問題である。

ただ、専門家を「利用」した一方的な意見表明が、それを観ている視聴者の側からみると事実を説明するというより、(誰かの)放送意図を実現するためのツールになっている例が多くあるのは事実だ。

どうみてもメディア産業は、経営者によって経営されている民間企業なのであり、特定の経営戦略によって毎日の活動が決定されているのは当然の事実だろう。

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たとえば、現在米軍と米軍に協力している日本の自衛隊は北朝鮮に軍事圧力を強めているのであるが、そのような行動は日本国憲法の第9条『・・・武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する』という規定と矛盾している、現在の政府による行動は違憲である、という意見があった・・・。

確かに、北朝鮮問題は国際紛争である。軍事的圧力とはすなわち武力による威嚇である。故に、憲法が「放棄する」と規定している行動に該当する。確かにロジックである。

しかし、どうなのだろう。日本国の憲法からみた議論をするのであれば、日本人の側から見た議論になるのではないか。

確かに軍事的圧力は北朝鮮にとっては「威嚇」になる。が、北朝鮮から見るときに「威嚇」になるかどうかを日本人は考えなければならないと日本の憲法は求めているのだろうか?

これも一寸妙な解釈だと思うのだなあ。

こんなことを言い出せば、自衛隊という武力の存在自体が北朝鮮にとっては脅威であるかもしれず、だとすれば北朝鮮の国益からみた判断から「日本はそれを保有するべきではない」という結論が直ちに出てくる ― そうでなくとも憲法第9条の2項は『・・・陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない・・』と規定しているので、自衛隊という武力集団が存在する現状は違憲であるというロジックはとっくの昔からある。

このような議論はどこか奇妙だ。

議論が複雑になるのは、そもそもロジックが通らない現実を放置しているからで、現状を放置したまま、憲法上の議論をいくら積み重ねても、もはや時間の無駄であると小生は思っている。

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日本からみれば北朝鮮から武力による威嚇をうけている。これは事実だ。

既に日本が威嚇されているので相手による武力行使を抑止しようと行動する行為は自衛行動に該当するのか、しないのか。

地下道を歩いているときに無頼漢に囲まれ脅かされたときに、格闘の姿勢をとることは、その姿勢は威嚇であり、腕力に訴えることはしないという誓いを破っていることになるのか、ならないのか。

もしワイドショーが、まっとうな雑談であれば、当然こんな反論も予想される。学会なら直ちに提起される質問だろう。

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武力の行使は、国を問わず、時代を問わず、どんな場合に許されるのか。この問題は、一片の文言では片づけられないほど、複雑な問題であり、一体歴史を通して幾通りの平和条約、不戦条約、和約や講和が結ばれたであろうか。古代から現在に至るまで、それでも戦争や武力の行使が止むことはない。

核戦力を保有すれば(少なくとも保有国相互では)戦争を抑止できるという経験的な事実は信頼性あるメカニズムになりうるのか。そんな世界とはどのような世界であるのか。

結局、国際的外交戦略の「目的」とは何なのか?

もし真っ当な雑談であれば、誰かが必ず問うはずだ。この疑問をすっ飛ばして、おしゃべりだけをしても、メディアが何かの機能を果たしたとは言えないと思うのだ、な。ま、CM料金の負担者であるスポンサー企業の立場にたてば、現に観ている人が(ここに)いる以上、役に立っていることにはなるのだが。


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