2017年1月15日日曜日

「イバショ(居場所)」の話から共生関係、更には公私の公について

昨日は1年ぶりの(当たり前だ)センター試験監督をやって疲労困憊した。あれは受けるのも若者、監督をするのも若者、どちらにしても若者が取り組むべき、というか取り組める課題である。体がついていかない。

今回から壇上でシナリオを語る主任からは解放された。それでも一人また一人と手が挙がり、細かいトラブルが何度かある。そのたびごとに事務から参加したKさんに助けられた。Kさんは、まだ若い女性職員だが、対応準則に精通していて(=事前によく勉強していて)テキパキと応じることができた。感謝にあまりある。


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これが契機になった、というわけではないが、人が生きる上で最も必要とするものはなにか?椅子に腰を下ろして、そんな瞑想にふける・・・・・・



カネか?経済学者なら労働報酬と余暇の最適な組み合わせを分析するに違いない。それともモラルか?哲学者なら幸福に至る道としてのモラルを議論するだろう。

「やはり自分の居場所ではないかなあ・・・相手が自分に感謝し、自分も相手に感謝するような人間関係、単に雇ってもらいカネを毎月支給してくれる、それだけでは人間、やっていることを続ける気にはなれないものさ・・・」、と。まずこんな風に「居場所」が見つかったのかどうかが大事だと考える。


「居場所か、そういえば女性の人生というのも現代社会ではかなりリスキーになっているねえ、結婚をすると、子供ができると、それで仕事をやめて専業主婦になるとする。夫となる男性が自分のために生きてくれるか、自分は夫となる男性のために生きることができるか?この点がリスキーであればあるほど、自分のカネを確保しておきたいと、そう考えるかもなあ、・・・で、仕事が大事だ、仕事が大事となれば、自己表現になっているかと、議論は広がるねえ・・・」、まあ、確かに男性は働いて自分の食い扶持は自分で稼ぐことを当然だと考えている(人が多い)。女性は、そこが選択肢になっているのではないか。

これは「男女間の意思決定非対称性」かもしれないねえ(こんな用語はないと思う)。


「どちらも相手を必要としている、そんな共生関係が確立されているとすれば、というか家庭というのは本来はそういうものだったのだろう、夫のカネは夫のカネとは限らない、自分のカネも自分のものとは限らない、こういう共生の場が法制度に織り込まれていた時代も確かにあったのだけどねえ・・・この20年間、社会は進化してきたと言えるのかねええ・・・」

こんな風に思案をめぐらしていると、また一人、受験者の手が挙がる・・・ヤレヤレ


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徳川幕府は、自らを「公儀」などと名乗っていたが、本質的には単に「巨大な私的存在」でしかなかった。私的な存在が公的な存在であると自称することができたのは、それ以外の民(=国民)にとって平和をもたらす幕府という存在が望ましかったからだ。幕府は私的な勢力にすぎないが、収入源となる民が必要であった。

幕府は、競合し敵対的な勢力と競争をして勝った私的な勢力にすぎなかったが、一度、無数の民との共生関係ができてしまうと、他の私的存在にとっても幕府を「公儀」として受け入れるほうが得であり、こうして日本社会全体が共生システムとして完成されることになった。

要するに、大小さまざまな私的存在がそれぞれの居場所を得たわけである、な。だから、平和が続いた。

ゲーム論的には「ナッシュ均衡」に該当するが、これもまた「公なるものの本質暴露」であろう、といえば社会学になってくるか。


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本来的には私的な存在であった幕府を倒したのも、私的勢力であった薩摩・長州といった反幕勢力であった。その勢力が、天皇を中心とする明治維新という名で「公」を名乗った。

本来的には「巨大な私的勢力」である存在が、大多数の国民との共生関係を築こうとするとき、必ずモラル的な根拠を模索する。「正しい」という根拠だな。それが天皇という存在であった。

ここで、すべてが居場所を見つけたことになる。

明治政権は、本当は私的な勢力そのものであったが、それが公的な政府になりえたのは、その時代の日本人全体にとって明治政権を認めることが利益にかなっていたからだ。共生関係が(短期間であるにもせよ)再構築されたわけだ。

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その時の「政府」も本質的には私的存在である。

国民にとって本来の公的存在とは、互いに必要としている共有の資産でなければならない。これがコモンウェルス(common wealth)だ。具体的には、文化や慣習、伝統、家族制度、祭事、宗教、その他もろもろの要素がある。

政府や法制度も、国民の側からみれば本当はコモンウェルスであるはずだが、権力とは本当は「巨大な私的存在」であって、実際には他国(と国内の他勢力)と競争しているネーション(nation)として機能しているのであって、「国」といっても、本質的には私的な存在であるとみるのが真相だと、最近思うようになった。

本質的には国民の利益とは別の自己利益を自由に求める私的な存在であるのが「国」である。本当はこうだろう。そう思うようになった。まあ、そうは言っても私たち国民との共生を国は認識している、と。その仕掛けが民主主義である、と。確かに、理屈は通っているが、理屈は理屈である。マスメディアがよくご高説として述べる「民意=国家」など、欺瞞である。これはフィクションである。日本人なら誰でも知っている。

この点では、サッチャー元英首相の次の名言にますます与する者である。

 ... there is no such thing as society. There are individual men and women, and there are families
Source:  http://briandeer.com/social/thatcher-society.htm


よくいう「国益」とは、安定した共生関係が形成されていれば「国民の利益」だが、単に私的勢力としての「国の利益」でしかないケースは無数にあったし、これからもあるだろう。

本当は私的な存在である「政府」が、公私の「公」を名乗るのは、幕府が公儀と自称し、明治政権が国家を名乗ったのと同じであるとみるべきだろう。

とはいえ、政府や国が本質的には「巨大な私的存在」であるとは、特に民主主義社会では、憲法、法律、さらには「民意」と呼ばれるものに隠蔽されて、見えなくなっているものだ。共産主義社会であれば、もっと露わであるのだが。

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日本人が生きていくときに、人生そのものは私的なものである。

公私混同がよく社会的に批判されるが、公私混同を批判する社会的な勢力もまた本来的には巨大な私的勢力にすぎないことは、普段からよく見ておかねばならない。

真の意味での「公」、つまりコモンウェルスなり、真にパブリックなものの実体といってもいいのだが、それは厳密に私的な存在である一人ひとりの日本人の感性によるものだ。



・・・まあ、昨日はこんなことを瞑想させうる程度まで、じっと忍耐の丸一日であったわけだ。もう二度としないとなれば、それでも少しは寂しいかもしれないが。

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