2017年7月22日土曜日

上西議員的間違いの本質は?

上西小百合・衆議院議員がツイッターで炎上している件は、騒がしい今年の世間にまた一つ話題を提供した形になっているのだが、中でも(大げさに言えば)哲学的関心をも集めているのが、熱狂的サッカーファンにあてた次のメッセージだ。

サッカーの応援しているだけのくせに、なんかやった気になってるのムカつく。他人に自分の人生乗っけてんじゃねえよ。

このツイートに対してサッカー選手の立場から次のコメントがつけられたのは、上の言葉が予想以上のインパクトをもったからだろう。

J1・FC東京の石川直宏選手も自身のTwitterで、「自分の想いだけでなく、人生乗っけてくれる皆の想いを胸にピッチで戦える事がこの上なく幸せだと感じる選手がいる」と、サポーターや選手の心情に対する理解を求めた。その上で、「そんな雰囲気も是非味スタで感じて欲しいな」と実際の試合を観戦に来るよう願った。

× × × 

少し話は変わるが、昨晩、同僚のT准教授と寿司を食べ、その後近くにあるおでん屋にいって、4時間ほどを過ごして帰った。

話は、村上春樹から葉室麟が道新に連載している新作『影ぞ恋しき』へ進み、そして雨宮蔵人シリーズの第1作『いのちなりけり』の話となり、そうなると舞台は肥前佐賀藩になる以上、当然のことながら山本常朝の『葉隠』になったのは自然な流れである。

その『葉隠』は小生の非常な愛読書で、好きになったきっかけは(これも月並みだが)三島由紀夫の『葉隠入門』をずっと昔に読んだことだった。

記憶している下りは幾つかあるのだが、上西議員の考え方が根本的に「おかしい」、というか「非日本的」だと感じたのは、次の一節も手伝っているのかもしれない。ちょっと引用しておこう。
エロース(愛)とアガペー(神の愛)を峻別しないところの恋愛観念は、幕末には「恋闕(レンケツ)の情」という名で呼ばれて、天皇崇拝の感情的基盤をなした。いまや、戦前的天皇制は崩壊したが、日本人の精神構造の中にある恋愛観念は、かならずしも崩壊しているとはいえない。それは、もっとも官能的な誠実さから発したものが、自分の命を捨ててもつくすべき理想に一直線につながるという確信である。(出所:新潮文庫『葉隠入門』、37頁)
サッカーと天皇制を横並びで比べるのは無茶ともいえるが、極端なこの二つのケースにも共通項が存在していることには、多くの人が賛同するのではないかと思うのだ、な。その共通している要素は歌舞伎『勧進帳』における九郎義経と武蔵坊弁慶の主従からも伝わってくるわけで、これは男女の愛ともどこか違っているかもしれず、女性には理解しがたい心情なのかもしれない。

要するに、好きな人、好きなチーム、好きな会社にとことん捧げるという非合理な心理であり、これを三島由紀夫は「恋愛感情」と言っているのだが、現代日本語で使われる「恋愛」とは実質的意味が違うかもしれない。つまり、外観としては『好きなチームをただ応援している』ように見えるのだろうが、つまりは好きで、好きで仕方がない。そこを実感として理解できないと、日本人というのが理解できんのじゃあないか。そう思うのだ、な。

葉隠はまた『人間一生誠にわずかの事なり。好いた事をして暮らすべきなり』と語り、また『一生忍んで思い死にする事こそ恋の本意なれ』と言っている。 忠義やら「信なくば立たず」とか、理屈っぽいことは書いていない。

上西議員の言うことは、個々人は主体的に最も意義(=私益でも公益でも文化的価値でもよい)のある生き方を計画し、それを実行するべきであるという個人主義的最適行動原理の観点から発したものかもしれず、もしそうならそれはそれでこの30年間非常に増えてきた考え方でもあるのだが、結局、非常に深いところにある日本人的心理に共感できてはいない。理解できていない。女性だからなのか、若いからなのか、分からない人だからなのか、それは分からない。が、少なくとも日本社会で政治家という仕事をやっていくには大事なことが欠けている。これだけは言えると感じた次第。

× × ×

実は、『葉隠入門』で太く赤線を引いている箇所がもう一つある。これも覚え書きとして引用しておこう。

「我人、生くる方が好きなり。多分すきな方に理が付くべし」、生きている人間にいつも理屈がつくのである。そして生きている人間は、自分が生きているということのために、何らかの理論を発明しなければならないのである。(95頁)

要するに、死ぬか生きるかになれば、ほとんどの人は生きたいと願う以上、生き延びる方策のほうが正しく、死に急ぐほうは間違いだということになる。だから生き延びたほうが正しかったという理論がつくられ、事後的に死んだ方は間違っていたということになってしまうのだ。それは仕方がないことだが、真の意味でいずれが正しいかということは別にある。

反・学問的言説としてこれ以上に鋭い哲学はない。また、ストレートにズシンとくる思想もない。

注:
小一時間ほどして読み返すと本稿には公人とはいえ「個人名」が登場している、それに「女性は何トカ」の表現も混じっているネエ・・・変えようもないが。何年か前に通知なく投稿を削除されたことがあった。本稿のドラフトは別に保存しておこう。いざという時に無くさずにすむ。






2017年7月20日木曜日

一言メモ: 議院内閣制の下の国会議員と官僚(=部下?)

またまた稲田防衛大臣の失態がメディアを賑わせている。「戦闘」という二文字が記載された日報を隠蔽するという決定を大臣が了承していたか、了承はしていなかったか、という点でまたまた報道と否定の水掛け論になっている。

ホント、今年はこういう「水かけ論」があまりにも多い。

「水掛け論」にならざるを得ない段階で一般読者・視聴者に報道してしまうメディア各社にも大いに責任があると思われるのだが、これは別として、いまは以下の一言メモ。

本ブログで最近まで立ってきた観点とは別の方向からみたときの「見え方」である。これまた「水掛け論」になるかも。

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行政府を構成する中央官庁のトップの多くは国会議員である。特に、その人事を司る総理大臣は国会が指名する。つまり、日本の統治形態は議院内閣制であるわけで、これは小学校から勉強する基本である。

立法府が行政府をしきるという議院内閣制で国会議員が行政府に入ってくるのは、当然の人的配置であるわけだが、議員はあくまでも国民が選出し立法府に雇用された公務員である。他方、行政府に雇用され、実働部隊となっているのは官僚であるー自衛官も定義上は官僚である。官僚とは行政府を構成する人的資源である。

戦前期には行政府が立法府、司法府に優越し(だからこそ軍部が独走できた)、戦後は立法府が「国権の最高機関」となっているが、戦前も戦後も原理としては三権分立制をとってきた。

つまり行政府に雇用されている人材は、立法府に雇用されている議員(及び職員等)の部下ではない。民間企業にはオーナーがいるが、国会議員も官僚もオーナーではない。どちらも国の使用人である。

官僚は試験に合格し、議員は選挙で当選して採用される。選抜方式が違うが、この違いは主として必要とされる能力や職務への適性の違いを反映するものだ。上級官僚を選挙で選んでも良いし、一部の国会議員を試験や推薦で選んでも良い。実際、戦前期には勅選議員がいた。採用区分の違いは選抜コスト最小化・公益最大化の論理によるもので、それぞれの方式自体に尊重するべき価値はない − ある日の選挙でより多くの票を獲得するということと、ある日の筆記試験でより多くの得点を獲得することと、どちらがより多くの努力を必要とし、どちらがより尊重されるべきかという問題に正解はおそらくないだろうと思うのだ、な。

事務次官以下の官僚集団が閣僚の部下である形になっているのは、(主に)国会議員が中央官庁に「出向して」上司の椅子に座るからである。民間出身者が同じ椅子に座るのと本質は変わるところはない。

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仮にだが、大臣に「政治家としての傷」をつけないために、事務当局のトップが責任をとって辞めるという形がとられるとすれば、議院内閣制、というか維新以来の三権分立の原則に反するだろう。

国民の多数派を代表する国会が内閣を構成し、内閣が行政府を指導するのが原理ではあるが、「非合理な行為」(≒国民に説明できない理由による行為)によって議員が行政府の資源を毀損するとすれば、憲法が国会に与えている権利を超えていると言うべきだ。

問題は、行政府を指導するべき「内閣の失敗」をどの機関がいかにして認定するかだ。社会システムの失敗には、「市場の失敗」、「官僚の失敗(=行政府の失敗)」、「国会の失敗(=選出制度の失敗?)」などが挙げられ、それぞれ日本は経験済みであり、曲がりにも失敗の可能性が認知され、対応策がとられてきた。しかし「内閣の失敗」はまだ議論されたことがないのではないか。

専門分野ではないが、このような問題については法学者の議論の積み重ねが既にあるのだろう。あとで勉強することにして、いまはここにメモを書いておく次第。

2017年7月16日日曜日

断想: 変わらない要素が歴史の一貫性をつくる

どうやら北朝鮮を相手に軍事行動を展開するのは危険すぎて不可能であるようだ・・・、当たり前のこの事実をアメリカ・トランプ政権も理解して来たようである。だから「戦略的忍耐」があったのにネエと、今更気がついても遅いワイ! と言っても仕方がないか。

中国がつないでいた北朝鮮という名前の狂犬が、トランプと名乗るならず者と仲良くし始めた主人に疑いをもって、暴れまわったあげくに綱を噛みちぎり、みんなが困り果てていたところ、ロシアの狩人プーチンが力づくで犬を抑え付けて、ロシアの番犬にした。
 ま、こんなところではないかと。

思うのだが、一人の人間であっても若い頃の夢はなんども思い出すものだ。そういえば『初恋はまひるの月のようなものだ、見えなくてもそこにはあって、暗くなるとまた姿を現す』、何かこんな文句を聞いたことがある。夢も初恋も似ているところがあるのだろう。

一人の人間でもそうだから、民族や国となれば、一度もった夢は100年も、200年も見続けるだろう。

アメリカの夢は周知のように20世紀初頭以来、中国という巨大マーケットでビジネスを展開して大儲けすることだ。日本はその前に障壁を築こうとしたのでアメリカの敵になった。いまは、当の中国政府から自由思想が警戒され、いまだ見果てぬ夢のままである。

ロシアの夢は満州と朝鮮の獲得である。日露戦争は、それを心配する日本が早手回しに行った予防戦争であった。ロシアは日露戦争で夢が一度は途絶え、その後のロシア革命によりロマノフ王朝は倒れ、ソ連が引き継いだが、そのソ連もすでに消え去った。が、ロシアとして同じ夢をまだ持っていてもおかしくはないし、夢は夢であってこそ夢であるというなら、同じ夢を確実にいまももっているだろう。

第2次世界大戦で、国際情勢はまったく様相を変えたようにみえるが、結局同じところに戻りつつあるのかもしれない。

中国が分裂するとすれば、南と北に別れると思っていたが、まずは満州(=東北3省)とモンゴルを包む辺りで不穏な空気が醸成されてくる。こんな進展もあるかもしれないと思い始めた。

GDPなどという数字は余り使える指標ではないのだな、こういう場合は。核兵器を持っていても機能しないだろう、こういう場合は。

東北部が中国であるのは清王朝の遺産で、その清王朝がなくなったいま、元々中国であったことはないのが満州という土地だ。

歴史は繰り返すと言われるが、そのままの形で繰り返されることはない。人間は歴史に学ぶことができるので、予想できる結果を避けようとするからだ。しかし、ずっと同じ夢をもち、同じ動機を持ち続けるのも人間の常だ。同じような出来事がなんども反復されるのはそのためだ。そして、最後に決定的(=final, absorptive)な結果がもたらされて、歴史は大きな曲がり角を迎える。そう思っている。

2017年7月14日金曜日

消費税率10%引き上げのリスクは?

内閣府の景気動向指数研究会が最近の景気変動状況について審議結果を公表している。
議論いただいた結果、2014 年の状況は景気の山を設定する要件を満たさず、研究会 としては、第 15 循環の景気の谷以降、景気の山はつかなかったとの結論について全委員の意見が一致した。これを踏まえて、経済社会総合研究所長が、第 15 循環の景気の谷以降、景気の山は設定されない旨、発言した。 また、研究会の意見を踏まえ、内閣府として、景気動向指数の採用指標についても、 一致指数の採用指標の拡充等、引き続き検討していくこととした。

小生は、以前にも投稿した通り世界景気は、2014年後半以降2015年にかけて景気後退局面に入り、2016年第一四半期に底入れしたと見ている。これは2007年末にピークをつけ2008年にはリーマン危機を招いた大きな景気の山から7年を経た後の設備投資循環のピークだったと認識していることでもある。世界景気としては、だ。日本は世界景気と100パーセント共時的にシンクロして変動しているわけではない。が、それでも日本の景気は世界経済の動向に敏感に感応しやすい特性を持っているので、世界経済とは関係なくずっと長期的に景気拡大局面が続いているという判断は非現実的だと思う。


さて、安倍首相が消費税率10%引き上げ再延期を表明したのは2016年6月1日のことだ。そもそも消費税率は、まず2014年4月に5%から8%へ、2015年10月に8%から10%へ引き上げると『社会保障と税一体改革』(2012年2月17日閣議決定)の中で決められていた。2014年4月の引き上げは実施したが、2015年10年の第2段階引き上げ実施を延期していたわけである。予定では、2017年4月つまり本年4月から消費税率は8%から10%に引き上げられることになっていた。それを2019年10月まで引き上げ時期を再び2年半延期したのだった。

しかし、内閣府の景気判断は先月の景気動向指数研究会でも議論があったように、日本経済は延期を表明した2016年6月には景気拡大局面にあった。そう認識していたはずだ。にもかかわらず、必要な財政需要を措置するための税源を放棄する決定をしたのはロジックが通らない。

なるほど、昨年6月時点の日本経済は、景気判断が微妙だったとは思う。しかしながら、昨年の5月14日という時点で予測計算を投稿しているように、その時点に入手できる簡単な景気動向指数系列を用いるだけで、間もなく景気は底入れするという可能性が明瞭に見通せていたはずだ。 既に、2016年初から原油をのぞいた国際商品市況は回復への動きを示していたことも考慮すれば、2016年6月という時点で景気の先行きを心配して、2017年4月に予定されていた税率引き上げを延期するという結論を下すのはロジックが通らない。

昨年5月頃に景気分析をしていたはずの内閣府はどこをどう見ていたのか?よくわからないのだ、な。

確かに熊本地震の発生という天災要因はあったが、これはこれで対応可能であり、復興需要もまたあったわけだ。

もし本年4月に消費税率を8%から10%に引き上げていれば、引き上げ延期で実施が見送られた年金機能強化、子育て支援、介護支援も実施できたはずであり、先日の都議選でも大いにアピールできたはずだ。

もちろん、2パーセントの税率引き上げでも3月中の駆け込み需要、4月以降の反動減があったとは思う。

このトラウマが自民党にはあったのだろうが、1997年4月に実施された3%から5%への消費税率引き上げは、同年夏の「アジア危機」と重なってしまった不運があった。というより、1996年が相当の蓋然性をもって景気の山であったにもかかわらず、97年4月から税率引き上げを強行した経済財政当局に判断の無理があった。

今回の引き上げと97年の引き上げを同一に見るべきではない。

また2014年4月の5%から8%への引き上げは、景気がピークアウトする直前で実施されている(この点、政府の公式の景気判断とは違う)。1997年4月ほどではないが、時期の選択が完全に正解というわけではなかった ー というより、消費税率引き上げという戦略的な構造改革を景気循環という足元の状況に関連づけて議論するのは政治の堕落ではないかと小生は思っている。どうしても契約最終年にあたる今シーズンに優勝したくてエースに連投を強いたり猫の目打線で奇道をとる監督の場当たり戦術と相通じている。ま、とにかくも

羹に懲りて膾を吹く

消費税率引き上げにまつわるトラウマが自民党にはあるのだろう。


さて、消費税率10%引き上げだが、このまま行くと、2019年10月だそうである。しかし、小生は予測しているのだが、2014年第2四半期あたりに直近の景気の山があったとすると、次の中期循環の山は2021年前後にやってくることになる。

小生は東京五輪まで景気が続いてくれることを期待しているが、五輪後の景気崩壊をもひそかに恐れている。五輪がある2020年までは株価の変動に一喜一憂せずにもっておこうと思うのだが、2019年の後半にはそろそろ売っておいたほうがいいか。早手回しにそう思ったりもしている。株式市場は実体経済よりも先に変動するものだ。

なので、2019年10月から消費税率を引き上げたとして、引き上げ後それほどの時間がたたない内に株価が急落し、その後実体経済も落ちて行く。そんな経過をたどる可能性はかなりあるのではないか、と。それこそ1997年4月の引き上げ劇の再現になるのではないかと予想したりしている。

次の設備投資循環の後退局面は、中国経済も成熟化を深めているので、これは厳しいですぜ。深い谷になりますぜ。日本で経済政策を失敗したりすると、またまた政権交代があるかも。そんな風に考えたりもする。

ま、昨年6月の時点では「中国景気はいまだ着実とは言えないので、アジア危機再来の可能性を考えれば、消費税率引き上げ延期もやむをえない」と、そんなことを書いてはいたのだが。

長期計画は着実に実行しておくべきだった。安倍首相自らが約束したことでもなく、理にかなった戦略でもあったのだから、引き上げ後に多少の経済的波乱があっても直接の責任にはならなかった(はずだ)。今後、こんな風な後悔の念が高まるとすれば、ちょうど太平洋戦争開戦直前を思い起こすのと似て、再び『あの時、こうしていれば』の歴史的好例になるかもしれない。

2017年7月10日月曜日

メモ: 憲法改正まで何歩進んでいるのか?

以前の投稿ではこんなことを書いている。安保関連法案が成立した直後の頃だ。

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どちらにしても、戦後体制は大きな曲がり角をユックリと曲がろうとしている所だ。これからの進展についていま予測していることをリストアップしておく。

  1. 反対デモが報道されたが、通常、デモは反対のためにするもので、賛成デモはあまりしないものだ。放映された反対デモの背後には、相当数の賛成派、というより「理解」派、「同感」派、「いいんじゃない」派等々の国民が多数いると推察される。大体、全国の主要大学のどこで学生集会が開かれ、どこの大学で「安保法案反対全学スト」が議決されたのか。小生の大学では、立て看板はおろか、ビラもポスターも全く、一枚も目にしない。食堂で学生達が安保関係の話しで議論している様子もない。マスメディアもまたコア層がどこにあるかに気がつき、報道の姿勢を変えていくだろう。それも「急速に」である。
  2. 政権批判は来春あたりまで続くと思うが、それと同時に戦後の憲法学界の潮流について様々な企画がなされ、憲法学界だけではなく各分野から色々な意見・指摘が掲載される。そんな中で、誰か、いずれかの憲法学者が自己批判的な文章を発表するのではないかと思われる。それをきっかけにして、憲法学界の中の旧世代と新世代の間で論争が始まる。そして新世代の中から台頭する「新立憲主義」が世間の喝采をあびる。概ね4、5年位の間には新しい潮の流れが目に見えてくる。
  3. そんな新しい立憲主義の展開、浸透から第9条だけではなく、複数の条文を対象に憲法改正案が(名誉回復、というかリベンジの意味からも)学界から提案され、次に与野党が合意する臨時憲法調査会が設置され、その答申を元にして改憲が発議される。今から8年ないし10年くらいはかかるのではないか。残念ながら安倍現総理が憲法改正にまで至るのは無理だろう。無理をすれば必ず制度的欠陥が混じる。
  4. この改憲発議までの8年乃至10年の間には、必ず今回の安保法制について違憲訴訟があり、最高裁はいずれかの時点で違憲判決を出す。それによる混乱と新立憲主義の浸透から憲法改正への動きが多くの国民から支持される。

大体、こんな風な予測をたてているところだ。

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2015年9月19日投稿だから、投稿時点から2年程が経過したことになる。

昨日、近くの書店に寄ったので、このところ評価の高い篠田英朗『集団的自衛権の思想史−憲法九条と日米安保』を購入しようとしたところ、やはり地元の町の書店ではダメだ。売れる見込みがないのだろうか、置いてないのだな。今年度の吉野作造賞を受賞しているはずなのだが。

仕方がないので、上の本を大衆向けにしたと言われる『ほんとうの憲法:戦後日本憲法学批判』を買った。ちくま新書だから、すぐ読める。

上の投稿で書いた2年前の予想図では、現時点はどの段階に相当するのだろう。

日本の閉鎖的な(=ガラパゴス化した)憲法学界に対して学問的見地から適切な批判がされ始めたことはそうなのだろうというか、そうあるべきだと思うが、ただ憲法学界内部から溢れ出て来た自己批判というわけではない。ではあるが、思うに上の段階2の前半部分までは来たということなのか。

前の投稿では改憲発議まで8年乃至10年かかるだろうと予想している。2015年から数えているので、2023年乃至2025年になる。国民投票、(賛成多数の場合に)公布、施行までを考えれば遅くて2027年までに施行というところか。発議までを早めて5年程度に出来ないだろうか、と。そんなことも前稿では書いている。となると発議が2020年。施行が2022年頃。どうしても施行は東京五輪の後になる。そんな改憲予想図を描いていたわけである。

安倍現政権が願望しているのは(確か)2020年新憲法施行であるそうだ。

今はやっとせいぜいが段階2の前半の最初である。まだまだ前途遼遠だ。ほとんど不可能だろうと予想する。

おそらく北朝鮮問題が深刻化でもしない限り、発議まで8年乃至10年はかかるという最初の予想通りだと思う。そもそも発議にすら至らないかもしれない(それもまた客観情勢を考えれば非現実的だとは思っているが)。

2017年7月5日水曜日

自民惨敗が今後に投げかける本当の意味合いとは

ワイドショーなど町の噂では、都議選の自民惨敗によって安倍政権の終わりが始まるとか、政界再編成が進むとか、誰が都民ファーストの会に合流するかとか、色々な話になっている。これはこれで面白いのは事実だが、一つ大事な着眼点があるとすれば2012年12月から始まった第2次安倍内閣のレガシーは何であったか、いや「現状から推測するに何がレガシーになりそうか」という問いかけの方だろう。


とにかくこの20年以上、何かと言えば「改革」という単語が口にされており、「改革」を目指さない政党は政党にあらず、あるのは「リベラルな改革」と「保守改革」、この二つのみである情けない状況が続いている。

が、真の意味で国の形を変える改革をこの20年間に求めるとすれば、元首相・橋本龍太郎が基礎付けた行革のみである(と小生は思っている)。いわゆる「小泉改革」は、橋本行革で実現した中央省庁再編成と内閣主導の体制が可能にしたもので、いうなれば「橋本行革の残り香」のようなものである(と小生は思っている)― 安倍官邸の力はその残り香を更に煎じ詰めて、人事で苦くしたようなものじゃなかろうか。

いま小泉改革は「橋本行革の残り香」であるとたとえたが、それでも郵政改革は元首相・小泉純一郎が真に有していた問題意識を解決しようとしたものであった(のだろう)し、前代から引き継いだ課題であるにせよ「司法改革」もそうである。また、経財相・竹中平蔵が主導したものであったにせよ1990年代から引きずってきた「不良債権問題」を根本的に解消したことも政治的成果として今後ますます評価されると思う(と小生は思っている)。

本当の意味で「改革」を目指した内閣であれば政治的遺産が残るものなのだ。


先日の都議選における自民党惨敗をきっかけにして、今後始まるであろうことは第2次安倍政権のレガシーは何であるだろうか。この問いかけであろう。つまり、「安倍政権はなにを成し遂げた政権であったのか?」という総括を多くの専門家や素人が話すようになる。そして常識化する。通念が形成される。

そうなると、候補としては三つの成果があげられることは確実である。

  1. 特定秘密の保護に関する法律(2014年12月10日施行)
  2. 集団的自衛権容認の閣議決定と平和安全法制整備法等の安保関連法(2016年3月29日施行)
  3. テロ等準備罪の新設(2017年6月成立)

主たる成果はこの位ではないか。そして、この三つとも安倍政権が本来目指していた志であるようにみえ、確かに極右を基盤とする政権の個性がよく表れていると言える。

一方、経済政策のほうは、規制緩和や自由化が強調されているが、実は具体的な成果はほとんどないのが現実だ。電力自由化などはあるけれど・・・、医療や雇用、教育でのコア領域では目玉になるような、「これが自由化だ、創造的破壊だ」と言えるほどの成果はまだない(はずだ)。日銀が担当する金融政策は黒田総裁が就任直後からそれまでの白川前総裁の路線とは正反対の方向がとられ、いわゆる「アベノミクス」がスタートしたが、その後具体的に緩和・撤廃された規制は細々としたものであったのが現実ではないかと見ている。掛け声の大きさほどには、日本経済に新たなイノベーションは進んではおらず、むしろ日本の美点や匠の技を自画自賛するような風潮が高まっている(と小生は感じている)。つまり保守化している。

確かに、マクロ経済的にみて日本の雇用状況は劇的に改善され、株価も上昇したが、2012年12月以降の株価上昇は世界で進行した国際マクロ的な現象であり、現在の人手不足も多分に団塊の世代の退職、若年者人口の減少からもたらされている部分が大きい。この数年を振り返る時、改めて気がつくのはかつて続々と登場した「楽天」や「ソフトバンク」、「アスクル」、「ライブドア」等々といった荒々しくともエネルギーにみちた日本新興企業群の後続がさっぱりとだえている現状のほうだ。

あえて言えば、米国でヒラリー・クリントンが当選し、TPPが発効していれば大きなレガシーになっていただろうし、この点はアンラッキーというしかない。欧州(そして英国)と現在交渉中のEPAも最終合意に至れば(まだ未確定ながら)高く評価できる。更にまた、消費税率引き上げの三党合意(2012年6月)を覆して、約束を破ったことをどう評価するかがある。が、この点はなお微妙なところだろう。

要約すると、アベノミクスの旗印の下で既存の枠組みと対決しようとして、現実には決定的対立を避けて来た面が(今までのところ)目立つ。「岩盤規制」とはいうが、実は「規制は岩盤のようなのです」という言い訳として(これまでは)使ってきた。どうもそんな現実がそろそろわかってきた。そういう段階に来ている。もともとアベノミクスは三本目の矢が欠けていると言われて来たが、考えていたのはTPPの一本槍だったのか。「外圧」の他にはヤル気がなかったのではないか。そんな疑いが生じて来たのがいまの段階だ(と小生は思う)。

つまり、安全保障・軍事・治安領域においては過激なほどの政策方針変更を断行しているのに対して、経済・国民生活領域においては変更することに甚だしく臆病で冒険を避けている。それが現政権4年半の特徴だと言える ー その典型が理論的には必要で、確実に望ましいといえる消費税率10%引き上げ、世界的には微小とさえ言えるたった2パーセントの引き上げ(軽減税率対象の拡大も含め、それでもなお)の延期であった。

もちろん、これら全てが政治戦略であり、最も実現したかったことを先ず実現したと言えばそのとおりなのだろう。確かに安全保障は経済と暮らしより前に担保されるべきものではある。が、とはいえ、とってきた選択が本当に必要で、真に国民が望んでいたものと一致していたのかどうか、まだ理解は不十分だというのが(小生の)印象だ。


誰もが支持するような、国民のニーズに合致するような政策が現に展開されているのであれば、少々の不祥事は乗り越えられるものである。

要するに、大学における授業評価に似たような政権評価が、安倍政権に対して、これから多くの専門家によって語られるようになるだろう。あるべき状況に戻る、ということか。

その意味で、安倍政権というより「安倍一強」は確実に終わる。これから増えてくるこうした評価の眼差しに耐えるほどの政治的遺産を現政権は残しつつあるのだろうか?

恐いとすれば、この問いかけが一番恐いかもしれない。

政権の本当の敵がいるとすれば、前川前次官でもないし、都民ファーストの会でもない。まして消滅寸前の民進党ではない。本当に恐いのはこのような総括的な評価の視線だろう。



2017年7月4日火曜日

この先1年間は政治のノイズが拡大しそうだ

予想通り都議選では自民党が惨敗、公明党、共産党は良好、民進党は(予想を超えたとはいえ)消滅寸前という結果になった。

安倍首相の総裁選三選にも黄信号が灯る、かと思うと北朝鮮はまたミサイルを発射する。この先、来年にかけては政治的変動の季節になりそうである。

これは自然現象だが、北海道と熊本では地震があった。

ま、実に面白くなってきそうである。経済的には、ランダムな凹凸はあるにせよ上り基調でそれほど心配ではない。キーポイントは2019年10月まで延期された消費税率の10%引き上げだが、その前に総裁選がやってくる。今後1年間程度は純粋な意味での政治の季節になりそうである ー もちろん中国の不動産バブルの制御に当局が失敗するなどの異変がなければだが。

決定的なファクターは、「都民ファーストの会」が登場した点で、これによって何も極右勢力を基盤とする安倍内閣でなくとも、保守層は自分の意識にあった政権を選べるようになってきた、そんな変化がまだ兆しの段階ではあるが、民主党政権の崩壊以来初めて出てきたことだろう。

(参考)

長期的にはよい方向に向かっている気がするが、それにしても騒がしい。経済的には、緩慢上昇が通常のパターンである上昇局面が2016年前半から続いていて、その認識に変わりはない中(注:小生としては。公式の景気判断とは別)、政治的には想定外のノイズが次々に発生して、もう<ノイズ慣れ>してきたくらいだ。あまり使わない言葉だが<政治的ボラティリティ>を考えたいところだ。

何を予想するにせよ、ノイズは予想形成に織り込んではならない。政治の将来は、政治的なファンダメンタルズで決まる。つまりマスコミや失言ではなく、国民のニーズや政策で最終的には決まってくる。

しばらくは騒々しい政治鳥の鳴き声に平穏を破られそうな酉年である。

2017年7月2日日曜日

いざというとき、念のための覚え書き

ストレスの多い仕事はどこにでもある。やり切れないが、やり切れなければやりきれないほど、社会には必要とされていて、誰かがしなくてはならない。そんな仕事も結構ある。まして自分が志願してやり始めたからには、音を上げることもできない。逃げることができない。悪循環だ。

将来必要があれば、下の愚息に言ってあげたい言葉がある。メモしておけるうちにメモしておこう。

にっちもさっちも行かなくなったら、三つのことからやれ。
まず自分の手をみろ。見続けろ。それから目をつぶって拳を胸にあてて自分の鼓動に耳をすませろ。そして目をあけて鏡か窓か水があれば自分の顔をじっと見ろ。これが三つだ。何をやればいいか分かるさ。分かるまでは三つのことだけをやればいいよ。
正直、こんなことしか言ってあげられない自分を再発見するような日は来てほしくない。念のための覚え書きである。

そういえば、亡くなった父は『雲を見ろ』と言っていた。最初に聞いたのは何歳の時だったかもう忘れた。いずれにせよ幼年の頃だ。これもいい。確かに役立った。好きな雲が出来たのはそのお蔭だ。

2017年6月30日金曜日

『好機即ち危機、勝利即ち敗北の契機也』を地でいく政治家たち

よく下の愚息を相手に口にする好きな言葉は、『長所即ち短所なり、好機即ち危機なり、勝利即ち敗北の始まり也』、『強みを生かして弱みを直すのは不可能な理屈だ、強み即ち弱みゆえ』、大体この二つである。

首相の足元・細田派に属する稲田朋美議員。防衛大臣は要職だ。政調会長から防衛大臣というのは自民党のエリートコースだ。しかしながら、抜擢即ち転落の契機となるー思い起こせば、亡くなった小生の父もそんなエンジニア人生を送った、いやこれは関係のない話だ。

首相が宣言したような「細田派四天王」の一角どころか、いまや豊田真由子議員、下村博文議員とともに「細田派ダーティスト三人衆」というブラックホールに向けて落下中のように見受けられる。

世の中分からないものだ、というより"Such is Life"というべきだろう。

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もちろん政治の世界にのみこんな格言が当てはまるわけではない。

Appleが初代iPhoneを発表して丁度10年。あれから世界は変わり、当然Appleという会社も変わった。そして、変わったことが今日のアップルの実質的停滞につながっている(と見ている)。同じことはMicrosoftについても言える。が、Microsoftはクラウドに乗り遅れAppleより以前に既に停滞の兆候を示してきた。それが逆に良かった。GoogleのAndroidに侵食されてきたことが、従来のゲームを見限る動機になってきた。

次に勝つためには、まず負けなければならない。勝ち続けている間は、次にやってくる停滞の時期に備えなければならない。停滞がやってきて初めて次の新しい発展に向けて全力で準備することができる。進む道が一本道となり迷いが消え覚悟ができる。

もちろん一度の敗北でノックアウトされる人、ダメになる会社もある。この辺の自然淘汰で世の中進歩すると考えれば、小生も結構、予定調和説の支持者なのかもしれない。

2017年6月29日木曜日

一言メモ: 来年秋までの予想(その1)

来年秋までの将来予想:

まず①だけを先行的に。
安倍首相は自民党総裁選挙で三選されない。
ブログでそんなことは書けないが、賭けてもよい位の自信がある。敢えて今日の時点でメモにしておけば、これからが面白くなる。今後1年余は、第1次安倍内閣と概ね同じような推移を辿ると予想する。もっと前に政変があるかも・・・17年前の「加藤の乱」と似たような騒動があるかも。


これで 今月は投稿回数が半分の15日を超えた。それだけ世間が騒然として、書きたいことが多かったのだろう、と。まとめにはならないが。

2017年6月28日水曜日

メモ: 行政における政治家の役割(?)と内閣人事局

またまた稲田防衛省の失言が世を騒がせている・・・これで何度目なのかねえ?靖国神社には皆勤賞ものだそうだし。選挙ではお力をいただきたく自衛隊からもお願いします(この通りの言葉ではなかったかも、念のため)とは、まさかね。

まこと現政権の首相は女難の相があるのだろうか、ますます剣呑になってきている。一度お祓いでもしてもらった方がいいのじゃないか。他人事なら心配になる今日この頃であります。

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政治主導とは何なのだろう?

教科書通りに考えてみようか。

簡単に言えば、法律を制定し、国の予算を決める国会が、行政府に優越するという単純な原則だ。まさに憲法で規定されている通りだ。もちろんこの理念は、陸海軍の意向に国全体が引き摺り回された反省にたっている。

武力をもった自衛隊を含め、どの官庁も行政府がそれ自体の意志をもって活動しようとしても、国会は立法府としていつでもその省庁設置法を撤廃して廃止することすらできる。行政府は国会の決めた法律に従わねばならず、国会は行政の要請を(不適切だと判断すれば)きく必要はない。

その国会は、すべて普通選挙によって選ばれる議員から構成される。それだけではなく、国会議員から首相が選出され、その首相が内閣を編成する。ここまでやれば、選挙とは無縁の官僚が暴走したくても、絶対にできない。そんな制度になっている。

戦前の帝国議会は、陸海軍の軍事予算を認める権限はあったが、大臣は現役の軍人であり、その活動は(元帥は天皇であるにせよ)ほぼ自ら決めることができた。戦前の制度と戦後日本の制度がここまで異なる以上、問題が発生するとすれば、違う問題になることは当たり前だ。同じ轍をふむ可能性は、法制上、ないと言うべきだろう。


法律(及び法律に基づくその他政令・省令・告示など)は、全ての国民に対して均しく適用される。しかし、国会は一部の集団から利益を奪い、別の集団に利益を配分することも可能だ。そんな制度を国会で定めればできるわけであり、こんなことまでできるのは、議員が普通選挙で選ばれるからだ。故に、たとえ公平でないと思われる改革が行われるとしても、国会がそれを決めるのであれば、そのような不公平は受け入れる。これが民主主義社会が自己変革するときの基本ロジックだ。政治とはこういうものを指す言葉である。

行政府は、国会の立法意志を実行するための実働部隊である。事後的な結果としては、行政府の公務員は常に与党の側の意志を実行する。だから社会の多数派の利益の側に立って行動する。個々の公務員は政治的意志を持ってはならない。国会議員を中心とする内閣の命令によって行動しなければならない。内閣に従っている限り、国会の意志を実行していることを意味し、個々の官僚はニュートラルであり、不偏不党であり、行政機関が政治的に活動することにはならない。

これは統治の論理として確かにトリッキーなところだ。

とはいえ、こう考えると政治家が政治家であるのは国会議員としてであり、内閣の一員として大臣の椅子に座っている時ではない。

まあ、教科書的にいえば、日本の国の形はこうなっている。

***

文科省前次官が何度もいう『行政がゆがめられた』という非難の言葉は、多分、上のような筋道からだろう。

政治は国会の場において行われるべきものであって、内閣や一部官庁において政治的なことがらが行われていくべきではない。行政は無私であるべきなのだ・・・

ウ〜ム、昔はこういうことを語る先輩がいたような気がする。

もちろん、いまやっていることは極めて政治的なのであるが、もう役人は辞めたしね、というわけなのだろう。

***

本当は、政治的色彩を持たざるを得ない案件は、行政府の裁量に委ねるのではなく、国会が最終判断に一枚噛んでおくことが必要なのだろう。政治的案件については、国会の承認が必要だと決めておけば、なんの問題もないわけだ。そもそも多数派が与党になっているのだから。与党の中の少数派のみが利益を誘導しようとしても、国会はそれを承認するはずはないのだから。

政治と行政は明確に線を引くべきだ、と。こういうことかもしれない。内閣は政治の執行部で、政治は国会という場で行う。これが戦後日本の国の形なのだろう。

上級官僚の人事は、内閣官房に人事局が設けられ、内閣が決定できることになった。それは縦割り官庁の弊害を避け、政治のスムーズな実行に必要だとされたからだ。しかし、官庁が政治の意図通りに行動しないのであれば、行動するように規則を密に定めればよい。進捗を報告させればよいだけの話だ。国会にはそれができる。

もしもマイナス面が大きいなら、内閣が人事統制を行う先験的ロジックはない。何しろ国会は内閣総理大臣も指名しているのだ。上級官僚の人事を了承したって奇妙でないだろう。行政府が人事原案を提出する必要はあるだろうが、国会が人事原案を検証し、承認する権利をもつほうが、ひょっとすると文字通りの「政治主導」になるとともに、むしろこの方が官僚の士気は上がるのかもしれない ― 両院で承認するのか、衆参のどちらか適当な院で承認するかの判断は別にあるだろうが。

こうしておけば、誰の利益にも奉仕しない無私であるべき官僚の活動は、すべて国権の最高機関である国会が制御、いや担保できることになる。これは、総理や大臣に頭を下げる官僚たちにも有難い仕組みだろうし、本来の筋でもあると感じるのだが。

ひょっとすると現在の内閣人事局は、完成途上で中途半端な仕組みであるのかもしれない。



2017年6月26日月曜日

実にみみっちいトラブルだったのが真相? 加計学園問題

文科省の前次官がインタビューに応じる機会が増えてきて、段々と(文科省からみて)何が問題のコアだったのか、その辺が不勉強の小生にも「理解」できてきた。ということは、これまでは問題の核心がサッパリ分からなかったというのが正直な所でもある。

要するに

  1. 文科省は規制緩和に反対している抵抗勢力ではないのだ。大学新設についてもそうだ。
  2. 獣医学部の新設は門前払いしてきた。それは獣医の需要見通しがないからだった。
  3. この現状で新設を認めるなら認めるのもいいが、なぜ1校なのか。京都産業大学も新設を希望していた。
  4. 1校だけと条件をつけるにしても、なぜその1校は総理と親しい人が経営している方なのか?不透明である。
  5. 規制緩和の名を借りて、官邸と親しい人が得をしているとみられても仕方がない。
筋が通っているではないか。これなら誰でもわかる理屈だ。そう思った。それならそうと、なぜそれを在職中に言わなかったか。大学新設の従来の理念を所管官庁としてなぜ正面から堂々と語らなかったのか。どうせ事務次官は長くて1年。すぐ辞めるのだから言えるでしょう、と。そんな疑問が残るにしても、だ。

***

獣医学部については、文部省告示により全ての新設を門前払いしてきた。その告示を撤廃させて、新設を自由化するのが、獣医学部の規制緩和としては本筋だった。そういう攻め方をしなかったのは内閣府の側のようであり、内閣府の方から『1校だけ認める』という結論にしたのだった。

前次官の話し、内閣府の説明を聴いていると、これまでは1校に限定した理由として日本獣医師会がうるさくて文科省が抵抗していたからという点が挙げられていたが、当の獣医師会は公式にそのような要望を出したことはないと言っているところを考慮すると(追記 6/27 そうそう、要望書は確かに出ていて、1校に限ると公的に明記せよと記されているのだが)、どうも内閣府の方から「政治的配慮を加えて」1校にした、と。どうやらそういうことであったようでもある。だとすると、内閣府は余計な「忖度」をしたというのが真相かもしれないのだなあ。

獣医学部新設は、従来の方針をくつがえして自由化します、と。そうすれば透明であったのだが、その路線は内閣府はとらず、1校だけの限定許可とした。だとすれば、獣医師会と関係の深い菅官房長官や麻生財務相に遠慮したのだろうか。そんな憶測もありうるのだな。

***

まあ、とにかく2校新設にすればいいのを1校だけ認めますか。話はそんな実にみみっちい話であって、文字通り「お話にならない」。これが加計学園にまつわる大騒動の真相であったかもしれない。バカバカしいこと、限りなし。

何が岩盤規制に穴をあけるじゃ!!

***

考えてみれば、文科省はあれほど多数のロースクール新設を敢然と認めて、『今後は事前審査ではなく事後評価で高等教育行政を進めていきます』と大見えをきったのだ。あの時も弁護士需要の数字はあったが、大体、そんな見通しなど当たらないことは誰でも知っている。結論ありきで数字は作られるのが経験的事実だ。

実際、弁護士は過剰となり、ロースクールは当初の半数にまで減った。それでも自由化した文科省は社会からそれほど酷く非難されているわけではない。責任を追及されているわけではない。設置自由化は理念として正しい。多数の人はそう考えている証拠だ。

その文科省が獣医学部の1校や2校の新設で本気で抵抗するか??

まあ、告示を撤廃しないまま新設を認めるのは、確かに規制に穴をあけることでもあり、内閣府のお手柄ということになる。

分からないのは、需要見通しがないのに新設は認められないという文科省の言い分だ。確かに、ロースクールの時は「見通しなど当てにならない」と熟知してはいたが、数字はあった。今度はその見通しがなかった。

しかしながら、だ。需要見通しが本当になく、大学経営の見通しも立たないなら、なぜ私立大学を新設しようという人がいるのか?

変である。

仮に、獣医師需要増加の見通しがないとしても、大学新設には意味がある。新設を認めれば新たに参入した大学が、顧客(=入学希望者)を既存の大学から奪取せざるを得ない。その中で、競争メカニズムが働くはずだ。理屈でいえば、最も劣悪な教育をしている獣医学部が退出を余儀なくされ、優れた大学は残る。

どの産業分野でもそうだが、潜在的参入企業があることが、技術進歩と品質向上をもたらすことは経済理論だけではなく、経験から確認されてきた事実だ。

このように考えると、獣医学部新設に関する文科省の姿勢は、既存の獣医学部の利益を保護するだけで、獣医師教育の進歩を重視してこなかった。このような批判から免れることはできない。

***

この件で展開された内閣府と文科省との論争(=議事録に詳細に記録されているとのことだ、小生はそこまで調べたことはないが)でも主たる論点となった「規制が必要である挙証責任」は、やはり規制をしている当の官庁である文科省にあった。そう考えるのが筋であり、内閣府があえて告示撤廃を迫らなかったのか、内閣府が求めても文科省が規制にこだわったのか、そこは明らかではないが、新設容認の線で事実上決着した後も、なんら手を打たなかった文科省はやはり行政機関として支離滅裂であった、と。このくらいは言えそうである。

どちらにしても、まあ、たとえば「司法改革」のような「改革」にはまったく当たらず、話の内容は実に細かい、どうでもいいような話し。それが「加計学園騒動」の実態であった。文科省前次官の話を聞いていて感じたことだ。

もし(万が一)この実態に民進党など野党は本当は気が付いていて、それでも政権を攻撃できるイイ材料があったと、あれ程までに加計学園問題に審議時間を消費したのだとすれば、かなり(という形容詞では不十分なほど)無責任である。やはり誰か黒幕に「使われていたか」と、そんな疑念が高まるのだな・・・。



ま、それよりは、いま世間の話題をさらっている二人の女性。小林麻央と豊田真由子(実名を出してもまったく問題はないでしょう)。片や100点満点、片や0点。二人とも人にいつも見られているいわば「公人」といえ、片や歌舞伎役者の妻である町の人、片や官僚から国会議員になった東大法学部卒の(というのは余計だが)超エリート。片や人を感動させており、片や人を唖然とさせている。片や将来のレジェンド、片や将来の「しくじり先生」の最有力出演候補。一方の女性はもう話を聞くことができず、一方は聞きたくなくとも聞かされそうだ。あらゆる意味で誠に対照的な二人の女性であり、こちらの方が、色々な事を考えさせられる。が、この話題はまた後日にしよう。




2017年6月24日土曜日

補佐クラスのメモを行政文書とすれば政府は「困っちゃう」のでは

ずっと昔のことに遡るが霞が関界隈の一人の住民として、そこで雑用に明け暮れていたことがある。雑然とした室内、電話の音、ゼロックスの稼働音などなど、タバコと灰皿の臭い、書類の臭いなどとともに当時の記憶がよみがえってくる。

さてと・・・文科省の一課長補佐が作成した文書が(おそらく上司の許可なくだろうが)マスコミの手に渡ったというので世を騒がせている。そのこと自体の適否はさておくとして、これは「単なるメモである」という説明に対し、「何をいうか!書いてあることは真実だろう」というので改めて「行政文書」は何かという神学論争が始まりかかっている・・・。ホント、日本の「ジャーナリスト」は神学論争が好きなのだ。

”Ah...What... ah..what is an official document?"
「行政文書とは何か?」を英語の質問に訳するとなると、どう言えばいいのだろう。返ってくるのは"What?"の一語だろうと思うのだが。


***


複数の官庁間で文書を確定する時は、いわゆる文案について「合議」(アイギと読む)をとる。それは公式の会議でもそうである(はずだし)、大事な打ち合わせでもそうである(はずだ)。

まず普通には、課長補佐クラスがメモをとり、それを課長にあげる。課長は自分のメモや記憶と照らし合わせて、多少の修文(シュウブンと読む)をほどこす。それを二人で局長室に持ち込み、改めて局の方針を決める。そこで一部の内容について「ここまで書く必要があるかどうか」、「あれも書いておくべきではないか」等々の話もする。必要に応じて、局レベルの文書に直し(ここで日付と担当局名が入る)、それを次官にあげる。もしそれを大臣にも報告するとなると、他の関係省庁が作成している(はずの)議事録と食い違いがないかどうか連絡をして「合議」をとることもあるーつまり相手の作成した議事録を「こちらに寄越せ」と電話をする。電話を受けた側は、昔は担当者が実物を持っていくこともあったし、ファックスで送ることもあった。今ではメールに添付しているのだろうか。

まあ、要するに「空中戦」の前に「白兵戦」をやっておくわけだ。そのプロセスの中で、補佐より下の係長や担当者まで下りれば多くのバージョンのメモがある。これらは全てどこかで参照される(口頭で聴くだけだ、コピーとしてはまず配布しない)。もちろん内容は(当たり前だが)微妙に違っているが、公式には課でまとめた文案が残り、局長室で決まった文案が局としては残る。

大体、このようにして行政プロセスは(今でも)進んでいっていると思う。もし「合議」をとらないと、省庁間で異なった現状認識、問題意識が残ることになり、たとえば次官会議や(最悪)閣議の場、更には国会の委員会審議の際に食い違いが露見することになり、その場合は「閣内不統一」の批判をあびることになる。

つまり、「政府」とは一つのみ存在する(→閣議は全閣僚の一致が原則)のであって、官庁は「政府」の手足に過ぎない。官僚主導とは手足が自分の意志をもつ。政治主導とは内閣という頭が指示を出す。雑駁に言えばそんな違いである(と小生は理解している)。ま、どちらが主導するにしても意志の所在・最終責任の所在は唯一つでないと混乱する。その意志の所在が内閣ならハッキリしているし、あらゆる案件について主管省庁(=最終的に責任をもつ官庁)は一つだから担当省庁の意志で決めてもよい。それはそれでよいのだ。どちらにしても行政府の意志は一つしか存在しない理屈になる。要は、政府として意志統一ができている。これが大事で、それを事後的に跡付けられる文書が「行政文書」でなければ「困っちゃう」でしょう。試験でいえば、計算用紙は答案ではない。これと同じである。

***

故に、(特に)所管省庁が複数に渡る場合は(単独省庁の場合でも所管する部局が複数に渡る場合は似たケースになるが)、公式の公開文書か、少なくとも「合議済み」文書のみを「行政文書」としておかないと、政府部内がカオス状態に陥ることはほぼ確実だ。

【追記 6月26日】 たとえば原発事故以前に東京電力社内には15メートルを超える津波を予測範囲に含めておくべきだという意見があったと報道されている。小生も、多分そういう意見は社内にあったのだろうと思う。実際、会社(役所も同じだが)には色々な人がいて、様々な意見があるのが普通の状態なのだからー奥さんたちが井戸端会議をしても同じ話題に対して色々な意見が出てくるだろう。しかし、そんな意見があったということと、社内組織で認知され、意思決定プロセスのラインに乗せられ、採用されるにせよされないにせよ、一つの見解として会社で共有するようなポジションを占めていたかどうかは、それこそ公式の社内文書を読んで見ないと何も言えない。『ああアレ?あれ、重要だったの?』、人間集団の意思決定は時間がかかり、面倒で、難しいのが現実だ。実際、小生だって新人の小役人であった時、生意気に参考資料を書き、部内会議で発表もしていたのだ。小生のそんな参考資料があったことを根拠に、事後的に何かが暗転したとして、「中にはこのような意見もあったではないか」と、そんな批判を外部から述べる人がいれば「それは違います、現実にはそれはそんな意見もあったということです」と。過去がまだ現在であった時の状況を分析するのに、未来の人の観点を持ち込んでは何だって言える。要するに、役所の中のメモ書きは、組織の意見でもなく、書いた本人ですら責任を持てない、一つの情報として提供する、そんな物であることもあるのだ(というより、そんな物が多い)。しかも、本当に重要なやりとりは、メモではなく、お茶の時間の雑談から得られることもあったりして、そんな時はメモは紙くずとなり、最終案は最初から書くことになる。いずれにせよ、課の最終版には日付と担当課名が入り、局の最終版にも日付と担当局名が入る(はずだ)。だから、メモを行政文書として残せ、あとで検証するからと言われると、現場はビビるだろうし、小生などは「大丈夫かねえ」と感じたりもするのだ。

アメリカや欧州の官庁でどのような事務の進め方をしているか詳細は知らない。日本の官庁の事務手続きも段々と変わってきているのは確かだ(昔はインターネットもワープロもレーザープリンターもなかった)。それでも中枢部の方針を末端まで意思統一するまでの手順は大きくは変わっていないはずだ。日本人の美意識や和の精神がガラッと変わらない限り、根幹の部分はこれからも変わることはまずないだろう。

文書管理規則まで上から網をかけられると、現場は困るだろうねえ。多分、マクロ経済のUnderground Economy(=闇経済)と類似の対応物である「裏帳簿・裏文書」が内部に蓄積されていくだろう。

企業も政府もすべて「組織」は結果がすべてだ。企業は利益をあげてナンボ、政府は多くの国民を豊かにしてナンボ、であるー政府は国民に幸福を与えるべきであるという問題は既に投稿済みだ。全て「組織」には目的があるのだ、な。途中の文書管理は、なすべき業務を最も効率的に、やりやすい仕組みで設計しておくのがベストだ。それには「慣行」を尊重するべし。アカウンタビリティやモラリティを組織戦略に持ち込むのは、小生の感性にはまったく合致しない。この点では、小生は極右なのかもしれないのだ。

2017年6月22日木曜日

徒然なるままの趣味の復活

漱石の『坊ちゃん』と同じく、ずっと昔、小生は部内の同僚達をそのキャラクターに相応しい動物に例えるのを趣味としていた(当人たちには直接伝えたことはない、もちろん。あくまでコッソリとやるわけである)。

最近の出来事からイメージして:

文科省前事務次官=セミクジラ
文科省副大臣=ロバ
文科大臣=白インコ
内閣府F某審議官=メガネザル
H某官房副長官=ヒキガエル
内閣官房長官=アライグマ
総理大臣=ヤギ

さらには
財務大臣=ヤマネコ
辞めたTPP担当大臣=ラッコ

フ〜〜ム、やはりというべきか、内閣側の人は概してドウモウであり、文科省側の人は水面下に消えたりして得体がしれず、その他の関係者も草食系のイメージでとらえていることがわかる。

アッと、野党の民進党代表を忘れていた・・・、何だろうなあ。まあ、またにしよう。

マスメディア各社のイメージはどうだろう。

サンケイ=スズメバチ
読売=たぬき
朝日=ニワトリ
毎日=キリギリス
日経=きつね
東京新聞=カラス
北海道新聞=樺太犬

まあ、こんなところかなあ・・・出来れば虎やライオン、ないしヒグマでもよいのだが、重量感があってぶれず、焦って誤報を流すこともなく、スクープがないからといって販売部数には影響せず、「木鶏」、いやいや真の「木鐸」であるような、そんな秘めた力を思わせるイメージをもつ報道機関がせめて一つは欲しい気がするが、現代日本においては(明治以来昔もそうだったろうが)夢のようなことだろう。

補足(6月23日):
テレビは各局にそれほどの個性の違いはない。風向きのままに一斉に放送している面がある。だからキャラクターを決めるのは難しい。合唱が好きなので田んぼのカエル。か、アブラゼミ。わが町ではエゾハルゼミの声がだいぶん遠くなってきた。6月上旬から中頃までの林の中はチイ、チイという蝉にしては儚げな鳴き声でいっぱいだった。

2017年6月21日水曜日

『敵は味方のフリをする』を地でいっているのか? 加計学園問題

加計学園問題について文科省から文書流出が止まらない。

大体、新設最終決定の以前に様々な事前調査・直接面談が行われるのは珍しいことではない。特に、有力候補についてはそうだ。

この辺は、ネット上にある複数の意見・指摘でも記されているが、公表されている議事録を確認すればすむことで、何も課長補佐あるいは担当者(?)クラスのメモを重要文書扱いにするような必然性はまったくない。

結論的に言えば、変である。もやはそう言わざるを得ず、関係者もとっくにそう感じ始めているに違いない。これはミスハンドリングから発生した失敗ではない。

***

前に投稿したが、こんなことを書いている。
今回の「騒動」は安倍首相が憲法記念日にビデオで公表した具体的改憲提案をきっかけに、それまでのゴシップ的スキャンダルから行政現場に生まれている思想的対立劇までもが垣間見えるようなドラマへ移行し、いつのまにか筋書きのない劇の幕が上がっている。そんな風な見方もひょっとするとありうるのか?そう感じる今日この頃なのだ、な。
実はこれらの背後には、自民党を構成する歴史的古層。つまり旧・自由党と旧・民主党の間にある活断層、さらに旧・自由党の中にもある保守本流と保守傍流の間にある活断層がいまもある、与党の深層にはマグマが流れこみ熱圧が高まりつつある、そういう政治的エネルギーの作用がひょっとしたらあるのかもしれない。そんな印象も何となくある・・・。
一層面白くなってきた。そうみている所だ。
現政権は攻撃されている ー 単なる野党のいやがらせではない、野党は「使われている」だけである(と、北海道から見ていても感じる)。

もちろん「使われている」のは、野党だけではない。マスメディアがまずは利用頻度の高い「通常兵器」である。あ、そうか・・・あと使われているのは官庁(=内閣の手足)であるはずの文科省もそうである。

***

マスコミを利用した攻撃手法は、最近のヒット作『小さな巨人』で主人公・香坂真一郎が駆使したやり方と瓜二つではないか。であるとすると、やり口が何だかマンガチックである。「闇将軍」といった権力そのものを感じさせる巨大さがない。

ま、どちらにせよ権力は政権側が握っている。支持率が低下してもまだダメージ・コントロールは可能だ(憲法改正は困難になってくるに違いないが)。総裁任期は来年9月迄だ。一方、攻撃する側はどこを攻撃してもよい。時を選択できる、攻撃対象を選択できる。隙のない敵はない。

かつて見られた自民党内部の権力闘争が久しぶりに展開されるのかもしれない。以前にも書いたが、実に望ましいことだ。

そもそも民進党の支持基盤は瘦せおとろえ、既に政権を担える独立変数から政権に反対するだけの従属変数というポジションに没落しきっている。自民党で昔風の<路線闘争>を展開できる社会条件が(小選挙区であるにもせよ奇跡的にか、ごく自然にか)できているのだ。

そうそう、前の投稿を修正する必要がある。『日本の新聞社は社会における中立的な言論機関という役割を失いつつある』と書いたが、そもそも最初から日本の新聞社は社会における中立的な言論機関などではなかったのだ。

2017年6月19日月曜日

「支持率」の信頼性と意味

最近の時代の流れもあって小生の勤務先でも毎学期の全授業について授業評価アンケート調査が実施されている。

実施時期は、コース終了後であるから、毎回の授業が良かったか、悪かったかではなく、授業全体を通して個別項目ごとに数値で評価してもらう(もちろん数値といっても順序尺度である)。自由記述欄も設けてある。

それでも回答全体の平均値をとると、なぜこのような評価になるのかが理解しがたいようなことは、意外と多いというのが雑駁な印象であるーもちろん、だから役に立たないというわけではない。数も言葉も使いようということだ。


ところで、安倍現内閣の支持率が急落したとメディア各社が報道している。どこでもサンプル数は千何百人というところだ。回答率は50%程度のところが多いようだ。回答率はまあまあだと思う。さて、もし全サンプルから直ちに回答が得られているとすると、標準誤差は1.4%程度、最大誤差を真値の両側2シグマ区間まで見込むとサンプルの結果が得られる区間の幅は大体5.6%となる。

故に、ほぼ同時点に実施された支持率調査の結果がメディア各社で10パーセント以上も違うという結果には(まず絶対に)なりえない。

しかし、たとえば毎日新聞の調査結果は36%であり、読売新聞が49%、日本経済新聞が49%、朝日新聞が41%という結果になっている。

同じ母集団を対象にしたアンケート調査が、これほど大きな食い違いを示すことは統計上の数理では説明できないことである。


メディア各社と調査結果との組み合わせをみると、現政権に批判的な新聞社が実施した支持率推定値は低く、現政権に近い側の会社の結果は高くなっている。

おそらく「数字をなめている(=捏造している)」ということはないのだろう(と小生は推測している)。

ランダムに抽出した電話調査(=購読者限定ではないと思うが)だと説明されているが、多分、その新聞社に対して好感を持っていない人は回答を拒否する傾向があるのではないだろうか。だとすれば、その新聞社と立場の近い人の意見がより多く反映されるのは当たり前である。

日本の新聞社は社会における中立的な言論機関という役割を失いつつあることの証左であるわけで、この話題もそのうちとりあげたいと思うのだが、それは後に回すとして、どうやら「世論調査」とはいえ、マスメディア各社が実施している調査結果は客観性を持っていないと考えるべきだ。この点はいま確認してもよい。


ただどの調査でも共通しているのは、現政権の支持率が足元で急落しているという事実だ。たとえば日経調査で示された不支持の理由は「政府や党の運営の仕方が悪い」がトップで、この選択肢を選ぶ人が前回3月時点より8%も増えているそうだ。

何だか毎回の授業で『今日の授業は良かったですか?』というアンケートをしているようで身につまされる。

でもまあ、この2ヶ月余り、政府の運営、国会の運営は何を審議しているかという中身以前の問題として、実に「最低」であった。

だから、この2ヶ月の現政権は「良かったですか?悪かったですか?」と聞かれれば、小生も「非常に悪かった」と回答するだろう。とすれば、「不支持」になるのですかね?ま、いいでしょう。「不支持」だ。

とはいえ、だから現政権は総辞職するべきであって、民進党内閣に政治を委ねるべきだとは、小生、考えてはいない。

「世論調査」とは何を調べたいのでござんしょう。聞いてみたいものでござんす。

2017年6月18日日曜日

メモ: △△主義という言葉の中身?

最近の社会では「言葉狩り」が盛んである。報道各社も自粛するような表現が増えている。

ここで小生もまた同じような「言葉狩り」をしても、社会的なスケールはなく、無視しうるほどの個人的行為であるはずだ。

今朝の道新にコラム記事があってタイトルが『植民地主義 問い直す』となっている。北海道という地で「植民地主義」といえば、大体書かれていることは大まかに見当はつくのだが、この「△△主義」、若い時分からよく使ってきたが「主義」って何なのか?そもそも「植民地主義」という主義はありうるのか?(まあ、現実にあったことは知っているが)

そのための覚書きである。

***

もしここにプロ野球の監督が二人いて、一人は「エース中心主義」といい、もう一人が「打撃主義」と言っているとすれば、それは意味を持つ、というかありうる。しかし、一人の監督が「私は勝利主義ですから」というと奇妙だ。だってプロ野球の監督をしている以上、勝利を求めるのは究極的には当たり前のことであり、チームの勝利はすべての監督にとって最終的目的に他ならず、当たり前のことを言っているだけだからだ。

つまり、主義というのは文字通り「主たる義」の意味を持つ造語である。義という漢字は「道」とか「筋」というニュアンスに近いので、主義とはわかりやすく言えば「自分が行くべき道」というか、そんな風にも言い換えられる。

要するに、主義とは行くべき道であって、最終的目標を示すものではない。資本主義とは資本、つまり私有財産に重きをおく社会。社会主義とは社会全体に重きを置く法制システムを表す。主義であるとしても、資本なり、社会なりが人間にとっての最終的価値を示すわけではない ー 人間にとっての最終的価値は「幸福」であることは西洋の哲学では大前提として置かれている。

***

「植民地主義」という言葉に奇異な感覚を覚えたのは、19世紀グローバルな標準で「植民地主義」という主義は日本にあったのかなという疑問を感じたからだ。

確かに19世紀には欧米列強による植民地獲得競争が激化した。それは資本主義が発展する中で選ばれた「政策・戦術」であって、未開拓の地域(ではあれ、それは他国であり自国ではなかったのだが)を最終的には軍事的に侵略し、植民地として領土に編入し、そこに社会資本を建設し、自国と同じような経済制度を導入し、市場として囲い込み、課税対象にも組み入れる。そんな行き方(=主義)が高い経済的利益をあげ、自国民が豊かになるための早道であった。こういう事実に支えられた行動だった。要するに、資本主義があり、植民地主義が選ばれたというロジックがあった。

そこで日本の植民地主義である。それは西洋で発生した植民地主義と同一の戦略であったのか?日本の植民地は、実はカネばかりかかり、その割には儲からなかったという指摘がずっとある。

今朝の道新で「そうだったのだなあ」という具合にわかった(気がした)のだが、幕末から維新後の日本の(国としての)目標が「独立維持」であったとすれば、つまり日本国民が独立した国民として"survive"することが幸福実現への本来の道とされていたなら、その時代の日本は「国防第一主義」をとっていた。そういうことになる。とすれば、日本の「植民地主義」は、国防第一主義から選択された基本戦略だった。

もちろん国防を最優先(=主義)としても領土は広ければ広いほうがよいと決まっているわけではない。しかし、自国の周辺には自国の衛星国が並んでいる方が良いに決まっている。もし、そんな期待が持てなければ植民地に編入する方が良いに決まっている。これが基本的なロジックだ。

ロシアで起きたボルシェビキ革命がマルクスが理論的に考えたプロレタリアート革命とは似て非なるものであったと同じ意味で、日本の植民地主義もまたいわゆる「植民地主義」とは異なったものだった。そう言えるのではないか。

つまり国が(人が)同じ行動をしたとしても同じ動機に基づくわけではない。しかし、「主義」とは動機に着目して分類するべき言葉だ。

いやはや「言葉狩り」にしても細かいなあ・・・

2017年6月17日土曜日

結末? 加計学園騒動

本日の日本経済新聞:
安倍晋三首相は16日の参院予算委員会で、学校法人「加計学園」の獣医学部新設計画に関し、自ら個別の指示をしたことはないと強調した。学部新設条件の修正を指示したと指摘された萩生田光一官房副長官も関与を否定。文部科学省に内閣府が「総理のご意向」などと早期開学を促したとされる一連の文書内容との食い違いは大きく、疑念は晴れないままだ。
(中略)
福山氏は「疑問が全く払拭されていない」などと指摘。共産党の小池晃書記局長も「国民の大多数は納得できないと言っている」と訴えた。国会最終日の審議は食い違いが解消されないまま時間切れとなった。
(出所)http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS16H58_W7A610C1EA2000/

 この件は何度も書き記したことだが、たとえばネットで<加計学園>をググって見ると、報道各社の記事はもちろんのこと、出版社が運営しているサイトにアップされている記事、個人で公開しているブログ記事等々、あらゆる情報が即座にアクセス可能となる。中には、大手新聞やTVがまったく触れていない資料をとりあげながら、全体としてどのような経緯があったと推測できるか、詳細に述べている解説もある。このような優れた見解はアクセス頻度も高いので、Google検索では自動的に上位に表示されてくる。それらの記事を、小生、Evernoteに(一時的に)まとめて、ラベルを付けている。

今回の騒動は「ゲスの勘ぐり」、「馬鹿馬鹿しい」とも形容されているし、「疑問が全く払拭されていない」、「納得できない」という人もいる。が、敵対勢力はいつまでもずっと敵対するものだ。

もうこの話題はいいかな、という感じ。誰でも時間を少しだけ割けば、<疑念>はほとんど解消できるはずだ。一般の人もこの位は結構容易にやっている。特定のTV、特定の新聞に依存するのが一番ダメである。もはや情報インフラとしての役割は放棄しているようだ。ブログやSNSを補完する一つの情報としてのポジションに地盤沈下してしまった。

加計学園騒動とは、「騒動」の中身を起こした側も、その中身を「騒動」にした側も含めて、大体、どんなことであったのか。それほど大きな<疑念>は小生にはもう残っていない。自ら調査したわけではない。ネットでアクセス可能な情報を全体的にみれば誰でもわかる。そういう時代になったということだ。

<疑念>が晴れないのは大手新聞社に勤務している記者くらいのものだろう。それは自分の仮説が立証されなかった落胆を表しているのかもしれない。一面的な取材しかしていないので本当の意味でワケが分からなくなっている可能性もある(ネットにアップされている文章を盗作するわけにもいかない)。あるいは「こう書いておけ」とデスクから指示されているだけかもしれない。

新聞・TVといった大手マスメディアがなぜ情報インフラとしての適性を失いつつあるか?アウトラインは出来ているが、その考察はまた別の機会に。

2017年6月15日木曜日

メモ: 文科省の組織的危機?

小生のカミさんの祖父は戦前期に地元の高等女学校の校長をやっていたが、それ以前は内務省勤務の役人であったので、文部省が管轄する高女の校長は官界では筋違いのポストであり、文部省から見ればポストを内務省に一つ奪われたのだと思っている。

こんな人事が可能であったのは、内務省(及び文部省)が主導する国民精神総動員体制が昭和12年にスタートしたことも大いに与っていたのかもしれない。(義理の)祖父は、校長在職中に薙刀を正規科目に導入するなど国民精神の発揚に幾つか貢献したと聞いている。が、その分、引退した戦後の日々は辛いものがあったに違いない。いずれにしても、ずっと昔のことで、小生、カミさんの祖父とは直接話したことはない。

その内務省は、軍国主義日本と一心同体であったという科で、戦後になりGHQにより完全に解体された。陸軍省・海軍省の消滅は当たり前にせよ、非軍事部門で完全に解体された巨大官庁は内務省のみである(はずだ)。まあ。消滅という意味では司法省と法務省とを比べるべくもなく、こちらの方がより厳格であったかもしれないが。

いま進行中の「加計学園騒動」は、最初は森友風のスキャンダルに見えたが、いまや内閣府対文科省の官庁間対立、規制緩和を推進する政権派とそれに反発する官僚派の対立、更には地元の愛媛県の前知事で文科省の大物OBでもある人物と今回の騒動の首謀者である前次官、この二人が率いる文科省内の派閥対立の様相も呈してきており、ここにきて非常な盛り上がりを見せ始めた。

ここまで「燎原の火」のように騒動が広がってくると、なるほど国会は一度閉じて態勢を立て直したい。安倍現政権がそう願うのはごく自然だ。まあ「第一次でも特有の鈍感さがあったしねえ、危機管理の失敗だよなあ」と言うのはたやすい。どちらにしても、これから夏にかけて霞が関人事の季節となる。予想するに、今年度は大荒れ必至だろう。いずれ世間の関心は別の話題に移るだろうし、どの官庁のどの局長がどんな考え方の持ち主で誰の派閥に属するかなど、誰にもわかるはずがないし、関心も持たれないだろう。

ある無責任な報道では「文科省内奇兵隊(=喜平隊)」の蠢動を予測したりしているようだが、残念ながら時代は幕末ではなく、現実には高杉晋作というより「ミスター通産省」と称された佐橋・元通産事務次官と佐橋派(国際派に対する国内派)が辿った軌跡を文科省・喜平隊は辿っていくのだろう、と。そう憶測している・・・すまじきものは宮仕え、である。組織内主流派として我が世の春を謳歌した人間集団が、豈図らんや「一夜」にして没落し、落魄した晩年をおくる定めになるのだから。この種の悲哀は、たまたま1990年代に銀行経営幹部に出世したエリートも同じであったし、たまたま2011年3月の福島原発事故発生時に経営幹部に登りつめていた東電幹部も同様であった。まったく宮仕えなど出来ればするべきではない。

これは予測であるが、現政権が長く続くようであれば、文科省本省の局長級、更には課長級ポストの幾つかが「官庁間交流の拡大」という名の下で経済産業省、総務省あたりにあけ渡されていくのではないだろうか。ひょっとすると、国立大学の事務局長、都道府県の教育長、市町村の教育委員会の相当数も10年程度が経つうちに総務省・自治官僚に徐々に侵略されてしまうのではないか、と。この程度の弱肉強食の競争原理はいまも現実に霞が関界隈では働いている。

これらの進展は官庁人事欄を見るくらいしか確かめようがなく、せいぜい『文藝春秋−霞が関コンフィデンシャル』で一般の人は知るくらいだ(文科省の人事はほとんど書いてもくれないが)。いやはや「前事務次官」ともあろうお人がねえ・・・意地は通るのかもしれないが、長い目で見れば「大暴発」であるのは必定だ。自分を慕ってくれる若手が哀れではないのだろうか。

「組織防衛」には「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」ことがもっとも重要なのである。たとえ都落ちをしても、やがて「天施り日転じて」時節がやってくるのが世の習いだから。まさに"Die Alte Kameraden"でも歌われるように
Hast Du Sorgen schick' sie fort, 
denn noch immer gilt das Wort, 
schwarz und dunkel ist die Nacht, 
immer kurz bevor der Tag erwacht. 

Leid und Kummer das vergeht, 
weil die Welt sich weiter dreht, 
darum hebt das Glas voll Wein 
und laßt uns alte Kameraden sein.
明けない夜はない。世は必ず変わる。生き延びて旧い戦友たちと祝杯をあげることが一番ではないか。

追記:
それにしても、「メディア」、「報道」と総称されているとはいえ、媒体によってこれほど大きな質的差異があるのかというのが正直な感想だ。既に、加計学園騒動についてはネット上に数多くの意見・情報がアップされている。検索すれば誰でも容易にそれらの記事内容を読むことができる。すぐにだ。紙のゴミも出ないし、余計なCMもなく静かだ。そして、すべてフリーである。同じフリーのTV報道(ワイドショーも含めるとして)の情報精度の低さ、質的劣悪さは現時点の豊富なネット上の記事と比べても明白だ。大手新聞メディアは最新記事を有料購読にしているところが多い。ところが「最新記事」がまったく信頼できないことが、ここに来て明白になりつつある。総じて見ると、情報を提供するという役割を果たす上で、既存のメディア企業が優位にあるのは「スピード」だけである ー そのスピードも一部のトピックについてはYouTubeやFacebookに負けつつあるが。そして「内容」の劣悪さは余りにも明白だ。「早く知りたい」という需要を充すためにサービス料を支払うという理屈は確かにある。しかし、これほどアンバランスで一面的な情報にどれほどの利用価値があるのだろう。21世紀の情報インフラとして考えるとき、少なくとも現在の日本国内の大手マスメディア企業(特に、社員(?)の手になる内製サービス)は<差別化劣位>に置かれつつある。大手マスメディア企業は情報産業における百貨店であると言っても今後そう大きくは間違わないだろう。

このトレンドをそのまま延長して予測すると、いま大手マスメディアが行なっているいわゆる「世論調査」も、近いうちに<インターネット世論調査>が本格的に社会全体に定着し、リアルタイムで「ソーシャル・センチメント」が誰でもすぐに把握できるようになるはずだ。そうなれば回答者数は現在の千何百人ではなく、数万人オーダーになるだろう。標本誤差は無視できるほどになり、どの機関がやってもほとんど同じ結果になる。故に、メディア各社が世論調査にカネを使う動機はなくなり、おそらく新興企業が最先端の広告アルゴリズムを活用して運営するだろう。特定の会社や経営幹部の利益・思想から影響されにくいという点では、これこそ「マスメディア」の真の形になるはずだ。追記としては長くなったが、今日は(6月16日)これだけを書いておこう。

2017年6月13日火曜日

メモ: 「表現の自由」という語に混じるにおい

「表現の自由」は憲法で保障されている基本的な人権の一つである。

確かに、信教の自由や思想の自由が奪われることの惨めさは、それこそ「表現」に尽くしがたいものがある。その惨めさは、おそらくは少女時代のマリア・スクロドフスカ(後のキュリー夫人)が自国の国家元首の名を教室できかれ、どうしても自国を占領したロシア皇帝の名を答えることができなかったという、そんな幼少期に感じる理不尽な力の意識に相通じるところもあるだろう。

しかし、最近はとても鼻につくというか、鼻を刺激する腐った臭い、大変高邁な理想である「表現の自由」とは全く似つかわしくない卑しい動機が入り混じっているような感覚に襲われることがある。

そんな感覚を覚える人が、万が一、増えているとすれば(大げさにいえば)民主主義の危機だと思う。ま、いまのところ小生の言語的アレルギーの発症くらいですんでいるのだと思うが。

***

それは、人間 ー 職業的には作家であっても、研究者でも教員でも、あるいはビジネスマンをやっていても構わないのだが ー 個人としての立場ではなく、マスメディアという会社に所属する記者(=社員)としての立場にある人、会社から出演を依頼された人、あるいは経営幹部が自社が出版・放送するメディアを利用して、「表現の自由」を主張している時に特に強く感じるものだ。

その時の「表現の自由」とは、「報道の自由」と結びついていて民主主義社会の不可欠な構成要件をなすものであるという主張と一心同体の関係にあるのが普通だが、実は「表現」ではなく「営業」の自由を指しているのではないかと感じることが多く、言い換えると「販売部数拡大の自由」、「視聴率引き上げの自由」、「利益追及の自由」が各社の本質的動機になっている・・・というか、『なっているのではないか』という疑念の存在自体が、それを聞いている小生の心理を苛立たせる。そんな状態であるのだな。

憲法でいう人権は法人企業の営業の自由とは全く次元が異なる。20年間努めてきた会社が倒産して職業を奪われたからといって、国はその人の人権を保障する義務はなく、失業状態が法の下の平等に反するわけでもない。保障するとすれば、失業保険を通じて生活基盤を保障する。そういう話になる。すべては経済の議論なのだ。

経済の議論(=カネのやりとり、毎日の暮らし)をしているときに、表現の自由やら、内心の自由やらを話題にすれば、議論が混迷するのは当たり前だ。何を作って売るにしても、それは自己表現の自由だなどと議論する愚か者は(多分)いないはずだ。そんなことを認めれば、市場経済システムが破壊されるかもしれない。

経済的自由の原則とは、自由である正にそのことにより結果に対して責任を有するというものだ。製造物責任はその観点に基づくし、汚染者負担の原則もそうだ。

マスメディアが唱える表現の自由とは、実は営業としての報道(というか、情報めいたものを提供すること)の自由なのであるから、企業行動の結果には責任をおう。これが出発点になる、というのがロジックだ。しかし、メディア企業は憲法上の不可侵な権利である「表現の自由」、さらにはどこで規定されているか小生はよく知らないのだが「知る権利」などに置き換えて議論することが多い。

民間企業であるマスメディア企業が「表現の自由」を口にする時、どことなく下卑た感覚に襲われて、とても不愉快になることが多いのは、それが「営業現場の戦術」になっている、というか「まさかそうではないよね」という疑いがあること自体が既に問題だ。この心理状態はとても解決困難なのだ。

2017年6月9日金曜日

これはお薦め: モリ・カケ騒動に関連して

今年の新春から初夏にかけては、文字通り『モリとカケ』でドタバタ、ドタバタという感じで時間だけが過ぎていった。その間には、トランプ政権による北朝鮮軍事行動の現実味が高まり、この時ばかりは「それどころではない」というのだろうか、どのマスメディアも米海軍の空母派遣と北朝鮮の徹底抗戦ばかりを報道していた。夏にかけて、モリが終わって、カケの話ばかりが話されるようになったのは、トランプ政権のロシア疑惑や大統領自身の司法妨害疑惑が高まり、アメリカの方がそれどころではなくなった、それとともに北朝鮮危機がピークアウトし、これに合わせる形で「平和が戻ってきたので、また例の話をしましょうか」と。まあそんなノリなのであろう。つまり、世界情勢をみながら、『いまはこの話をしてもいいよね』という感覚が最初から露見しているので、甚だ迫力がなく、視聴率や販売部数を目当てにしたメディア企業の営業である側面が容易に見て取れるところが卑しいといえば大変卑しいのだが、残念ながらフォローするのも大変面白いのが事実だ。

とにかく多くの立場から、当事者である文科省、愛媛県側も含めて、意見や見解が既に多く報道されてきている。あとは、一人一人がどう思うかで、今後の方向性が決まってくるのだろうが、これは知性的で賢明な見方だという記事を見つけたので、メモしておく:

「忖度」、そして「政治主導」

著者は元テレビキャスターで今は教育界で仕事をしている畑恵氏だ(出所:HUFFPOST、2017年6月6日)― ハフィントンポスト自体が朝日新聞と親密な関係にあるようなので、どちらかといえば上の記事内容も反政権側に寄っている傾向が窺われるのだが、ロジックの通った良質の見解だと思う。

ただ、畑恵氏の意見の最大の骨子は「政策決定の透明性」という点にあるのだと思う。確かに政策決定は透明であり、決定までのプロセスは全て公開されることが望ましい。これが基本であると小生も同感だが、では『全ての政策決定は公開するべきである』と問われれば、それはその政策が追及している「戦略的目的」による。こう言わざるを得ない。

すべて政策は、足元の状況を改善するためのものか、長い時間尺度の下で効果を期待する戦略的なものなのかという区別がある。政策を公開するべきかという点についても、公開するべきだという民主主義的要請がある一方で、いやしくも政策であればそれを成功させる必要があり、そのためにはコミットメントを公表するか、その時点では秘匿するべきか。こうした戦略面からの要請もあると考えるのがロジックである―この点に関連して以前に投稿したことがある。

内部情報の詳細は知らないが、規制緩和・市場自由化に対する反対勢力が強固なことは、福島原発事故で東電という大企業が弱体化したことで、初めて電力自由化が経済産業省によって加速されてきた事実からもうかがい知ることができる。電力以外にも医療や教育、さらには各種専門的サービス業などには多くの規制がある。規制はすべて「正しくて意義のあるルール」であったはずだ。これらの規制を緩和しようというのが、ここ20年、というより30年を超えて一貫して努力されてきた戦略である。ある意味では、規制緩和とは規制死守を求める勢力と緩和しようとする勢力との政治的戦争である。このような現実の中で、「〇〇の方向で決定しようと提案いたしますが、皆さん、いかがでしょうか?」といった伝統的意思決定方式が機能するかどうか。このような方式ではダメであるという認識から「政治主導」、「官邸のリーダーシップ」が強調された、というのが日本の近過去である。小生はそう記憶しているのだが、そうではなかったか。

今回の「騒動」は安倍首相が憲法記念日にビデオで公表した具体的改憲提案をきっかけに、それまでのゴシップ的スキャンダルから行政現場に生まれている思想的対立劇までもが垣間見えるようなドラマへ移行し、いつのまにか筋書きのない劇の幕が上がっている。そんな風な見方もひょっとするとありうるのか?そう感じる今日この頃なのだ、な。

実はこれらの背後には、自民党を構成する歴史的古層。つまり旧・自由党と旧・民主党の間にある活断層、さらに旧・自由党の中にもある保守本流と保守傍流の間にある活断層がいまもある、与党の深層にはマグマが流れこみ熱圧が高まりつつある、そういう政治的エネルギーの作用がひょっとしたらあるのかもしれない。そんな印象も何となくある・・・。

一層面白くなってきた。そうみている所だ。


2017年6月8日木曜日

アメリカの政治: 歴史は繰り返すか?

トランプ大統領の発言、というよりツイッターの書き込みから垣間見える大統領ご本人の精神状態が、いよいよ本気で心配されるようになってきたという。

周囲を驚かすというのはいつもの事だが、テロに見舞われた直後のロンドン市長に暴言を吐き、市長から「(何か答えるより)私にはいまやるべきことがある」と扱われてしまったというので、心配の雰囲気はいやが上にも高まっているらしい。

以前にも投稿したことがある。

100年前(厳密には99年前だが)に第一次世界大戦が終わったが、ドイツ帝国を倒し、連合軍を勝利に導くうえでアメリカの参戦は決定的だった。そのアメリカ外交戦略を主導した民主党・ウィルソン大統領はまことに人格高潔な人物であり、戦後に国際連盟設立を主導したのも米大統領であった。ところが、先日に日本の麻生財務相もパリ協定、ひいてはTPP脱退を思い出したか、これにかこつけてアメリカを揶揄したように、アメリカはその国際連盟に加盟しなかった。国内で批准されなかったのだ。『そこまでの国なんですよ、アメリカは』という意味のことを財務相は語っていたそうだ。

高校の世界史教科書でもそのことは解説されており、アメリカの不加盟こそが国際連盟の弱体化(いまの国連も十分弱体だが)、ひいては第二次世界大戦の勃発を招いた、そんな失敗の根本的原因であるとされている。

まあ、アメリカの立場から見れば国際連盟加盟を却下したのもわかるような気がする。欧州の戦争にアメリカが参戦し、膨大な戦死者を出したが、『そもそもなぜ他国のためにアメリカはそこまでしなければならないのか』と。アメリカは英仏に利用されただけである、と。この憤懣に加えて、国際連盟を設立して本部をスイスのジュネーブに置き、「世界平和」の維持に努力すると。アメリカから見れば『いい加減にしてくれ」になるわけであり、アメリカが国際連盟に加盟しないという選択をしたのはとりわけて自分勝手でもなく、"America First"で言うような自国中心主義にも当たらないだろう。この辺が公平な視線だろうと感じたりするのだ。

ウィルソン大統領のあとを継いだのが共和党のハーディング政権である。ハーディング大統領候補は"Return To Normalcy"(正常な状態への復帰)を旗印に掲げ、"America First!"を連呼して第29代大統領に当選した。ところが、そのハーディング政権は、「オハイオ・ギャング」たちの「お友達」政権となり、数々の汚職やスキャンダル(それと暴言、失言?)に塗れるという結果になってしまった。そして、当のハーディング大統領自身も就任後2年余がたった後、病死してしまったのである。最近年においては、その政権の政策を見直す向きもあるようなのだが、ワースト大統領のランキングには毎回登場するのが人格高潔なウィルソン大統領の後継者ハーディング大統領である。

いま何となく懸念されているのが、100年前の歴史が繰り返されるのかどうか、になってきている。

2017年6月7日水曜日

「加計学園騒動」で世論は分かれている

加計学園騒動そのもので書くことはなくなってきた。ただ、結末、というかこの騒動がきっかけになって、何がどう進んでいくかは全く予想できない。おそらく、<事前には>予想できないことが起こってきて、<事後的には>「加計学園」も一つのきっかけだったねえ、と。そんな風に物事は進んでいくのだろう。

圧倒的多数のマスメディアは、何ということか文科省前次官が正しく、総理、官房長官、そして組織としての内閣府、更に言えば国家戦略特区という制度そのものが悪い、と。そんな風な論調をとって、前次官の一言一言をそのまま流している状況である。

野党も国会の場ではマスメディアの論調に乗っている ー 「乗っている」というより、どこかの誰かの意図が背後にあるような印象も受けるのだが、だとすれば民進党などはツールとして使われていることにもなる・・・。

他方、「森友事件」と異なるところは、現在の状況に批判的な意見も出てきている点だ。覚書として整理しておこう。

記事1:橋下徹氏、森友や加計学園における安倍政権の対応を指摘
結論から言えば森友学園問題と同じく、安倍政権側にダイレクトにお金が渡っていない限り不正・違法性はない。・・・特に今回の獣医学部の新設を規制するような「需給調整規制」こそ日本の行政を歪めている典型例。すなわち加計学園に獣医学部の新設を認めたことよりも、これまで52年も獣医学部の新設を認めてこなかった文科省こそが行政を歪めている。そして何よりも前川さんも自ら手を染めていた文科省のルール違反の天下りこそが行政を歪めている。(出所:livedoor NEWS 2017年5月31日)
記事2:前川前次官の“反乱”に霞が関の官僚は非難ごうごう(八幡和郎)
 前川氏の言い分が事実無根とはいわない。「内部のメモ」としてはあったのかもしれない。だが、内容は最低限、著しい誇張だ。上司(官邸上層部)から希望をほのめかされても、あんな直接的な言葉で相手方に伝えるような部下(官僚)などいるはずない。
 守旧派の抵抗を排しての獣医学部新設は十数年前から構想され、民主党政権で大きく前進し、安倍政権が国家戦略特区制度を創設して岩盤規制に穴を開ける機が熟した。地域バランスから「四国でも戦略特区を1つ」というのも合理的判断だ。(出所:産経ニュース、2017年6月6日)
記事3:加計学園「問題」は本当に「問題」だろうか(古川康)
いろんな事情で全国的な制度としては担当府省がやりたがらないことをまず試しにある場所でやってみる、と言うことがこの特区制度の意味。だから国家戦略特区についての責任者は安倍晋三内閣総理大臣になっている。それぞれ所管の大臣にしておいたのでは物事が進まないからだ。
だから国家戦略特区について、責任者である内閣総理大臣がどのように考えるか、ということはとても大きい、と僕は思う。今まで報道されたところだけを見ていれば、今回の件は国家戦略特区のあり方としてそんなに違和感はないような気がしている。
もちろん友達だからやる、知らない人だから断ると言うような行政のあり方はおかしい。しかし、一般的にはメディアと言うのは役所側の主張に対して批判的な論調を持つことが多いが、今回の件についてだけは「文部科学省の主張が正しく、それが内閣府によって曲げられた」と言う流れで報道されているように思う。(出所:BLOGOS、2017年6月6日)

記事4:“告発”前川氏を文科省大先輩が“一喝”「文科省の態度を反省すべき」(加戸守行愛媛県前知事)
「加計学園」問題に関する、あるインタビュー記事が話題になっている。同学園の理事長が、安倍晋三首相の友人のため、愛媛県今治市に獣医学部を新設する計画が「総理の意向」で進んだと主張する前川喜平前文部科学事務次官(62)に対し、同省の先輩で、愛媛県前知事の加戸守行(かと・もりゆき)氏(82)が反論しているのだ。・・・加戸氏は「知事在任中に困っていたのが、牛や豚などの動物を扱う公務員獣医師が不足していたことだ」と述べている。前川氏の認識とまったく違う。 
 前川氏が強調した安倍首相の意向についても、加戸氏は「安倍首相が加計学園の理事長と友人だからと(意向を)言っていたとしたら、10年、5年前に(獣医学部が)できていたかもしれない」といい、加計学園の計画を高く評価している。(出所:産経デジタル、2017年6月6日)
記事5:経団連会長、加計学園問題「優先度低い」
経団連の榊原定征会長は5日の記者会見で、学校法人「加計学園」が国家戦略特区に獣医学部を新設する計画が国会審議の主要テーマになっていることに苦言を呈した。「集中して議論してほしい項目が山ほどある。優先順位からすれば加計学園ではないだろう」と述べた。榊原氏は国会で優先的に議論すべきテーマとして、北朝鮮問題やテロ対策、環境政策をあげた。(日本経済新聞、2017年6月6日)

愛媛県前知事にとどまらず、中村時広・現愛媛県知事が開設予定の獣医学部が「風評被害」を被ると懸念しているのは当然のことだろう( 出所:産経WEST、2017年5月25日)。読売新聞による前次官下ネタ報道も大方のメディア報道に棹さすという意味ではここに含めてよいのかもしれない。

どうも、こうしてみると安倍政権に対して産経新聞は徹底支持、朝日新聞は徹底攻撃、読売新聞は(何となく)政権派、そんな構造が垣間見え、ある意味で「代理戦争」を演じているとも言えそうだ。この周辺に数多くのブログやフェースブック、ツイッターといったソーシャル・ネットワークが網の目のように社会に「意見」を拡散させながら「世論」という一つの実態を形成しているのが今という時代なのだろう。

まあ、こんな構造は以前から周知のことでもあり驚くほどでもないが、上の少数例を見るだけでも日本社会の「チャンとした」人達は『加計学園問題は特に問題ではなし』、その他の圧倒的多数は『「特区」という制度を悪用して「うまい汁」を吸っている奴がいる』と。受け止め方にはそんな分断構造、というか分布の構造があることが、どことなく伝わってくるようだ。この分布の構造と各メディア企業の読者層、政党の支持基盤が重なり合って、現在の状況をもたらしている。そう思うのだ、な。ま、これもまた以前から「そうなってるよね」という程度の印象を与えているわけだが。

こんな中で、いま興味津々でみていることは「民共一体」の行方。つまり本来はリベラルな保守勢力であった民進党が選んだ共産党の「外出着」になるという生き残り戦術が、結果として極右からリベラルを含むいわゆる「保守層」が(意図しているにせよ、意図してはいないにせよ)自民党あるいは親自民党小規模政党に吹き寄せられるという結果をもたらし、そのことがまた何かをもたらす。そんな方向で起こる出来事の実際の形である。








2017年6月6日火曜日

自分のための年表をつくっている

このブログを遡ってみていくと、政治的な話題が結構数多く登場している。

世間の井戸端会議では、まずは近隣の人の噂、次にオカミの批判、さらにあげれば遊びと食い物。大体はこのくらいで何時間はすぎるものだ。

ただ、政治的なことが自分で好きなわけでもない。小生、小役人をやっていた末期の頃、具体的には1988年から大震災のあった2011年までずっと日記をつけていた ー それ以前の記録もあるのだが、ワープロ専用機のファイル形式でフロッピーディスクに保存されていて今も読めるのかどうか不明だ。ちょうど二人の愚息が幼児期から大学を卒業して独立するまでの、長いようで実はそれほど長くもなかった時間に重なり合っている。その日記に書いていることは、とても細々とした事ばかりだ。その日の食事や寝た時間、家族で外出した行き先と、そこでどんな事があったのか。そんな事ばかりを飽きもせずに書いている。仕事でやっていた細かな作業も書いている。今では使わないPC上の小道具をインストールした、そんなことも記録している。政治的な事柄を書いているこのブログ(WEB LOG ≒ 作業日誌)よりも、その頃に書き続けていたチャンとした「日記」の方がよほど作業日誌的である。その頃、そんな細かい事がなぜ大事であったのか、今となっては思い出せない事が多い。

このブログは、多分、自分のための年表を作っておきたいのだろうなあ、と。そう思う。

考えてみれば、江戸幕府が出来た西暦1603年にも小生の先祖は、多分、いまも親戚が暮らしている四国松山の近くで、まあ海賊か、でなければ少し内陸に入った辺りで地道な百姓でもやっていたのだろう。源頼朝が征夷大将軍になった1192年にも、やはり四国で、そうでなければどこかの土地で暮らしていたわけだ。

徳川家康や源頼朝がどんな地位に就こうと、どんな権力を得ようと、特に何という関係もなかったはずだ ー いや、・・・少しは面倒な事態に巻き込まれたのかもしれないが、特に言い伝えもないということは、忘却しても良かった細かい事だったのだろう。どんな細かい事がその時はあったにせよ、社会の大きな流れは、たとえ最高権力者であっても変えようはなく、出来ることは周囲から支持されるかされないか、その意味では一人一人の人間のやっていることは誰でも同じである。

どの時代のどの先祖であっても、食事をして、何か食っていけることをやっていたには違いがないとすれば、いま生きている小生と大体は同じように日を過ごしていたわけだ。とすれば、後になって何か作業日誌的なものを読み返すとすれば、その頃はどんな時代であったか、どんな出来事が世を騒がせたのか。知りたいのはそんなことだと思う。だから年表を目で追うような、その年の十大ニュースを思い出すような記述の方がずっと役に立ちそうなのだ、な。

この辺が何となくわかってきたので、直接的な当事者ではないが、政治的なことを書き続けている。空気が乾燥していると、火事が増える。大火になるかもしれない。大火が起きれば大きな事件になる。自分には関係ないが、大きな事件になったそんな事を書く。書けば大火そのことに加えて、その前後の世の中がザックリと思い浮かんでくる。空気が乾燥していて、風が吹き荒れていた季節が実感としてよみがえる。そんな風な、ちょうど自分のための「年表」をつくりたい。そんな感覚で、このブログには結構政治的なことが書かれている。そう思っている。

2017年6月1日木曜日

「第三者委員会」は県外の人に頼むほうがいいとはねえ・・・

専門家の見解には時々「噴飯もの」、というか唖然とするようなものもある。

例によって朝のワイドショーを視ながら食事をとっていると、話題の一つに「いじめ事件」があった。卒業を間近にした中学生がクラスメートのイジメに耐えかねて命を絶ったという悲しい話である。

話の根幹は地元の教育委員会のお粗末な対応ぶりと、本省から指導(電話であろう)があった翌日に「イジメなし」の結論をひっくり返し、「イジメは確かにあった」と。何ですかこれは、というのでニュースにまでなったのだろう。

外部専門家による「第三者委員会」が機能していない実態があるというので、某専門家の意見が紹介されていた。

曰く

(第三者というのであれば)県外の人に依頼する方が適切だと思われる

なるほどねえ〜、では千葉県ならばいかがでしょう。う〜む、千葉は近すぎるな。純粋の県外人とは言えぬかもしれぬ。では、神奈川県なら・・・、いや関東地方はやめておこう。いっそ関西の方にお願いしましょうか?

こんな話をカミさんとしたところだ。

依頼される西日本在住の専門家がいるとして、そんな遠いところに時間をとっていかなければならないのか、と。使命感を奮い立たせるには努力を要するだろう。なぜ地元の人で解決できないのか。「出来ないんですよね」という証拠は?そんな証拠がもしあるとして、『そんな複雑な人間関係があるとすれば、ちょっと縁のない私には難しいですねえ』、・・・堂々巡りの話しだ。こんな状態を「小田原評定」という。


制度とは器である。器の使い方がわからなければ、あってもしようのないものだろう。

組織とは、品質管理の4Mになぞらえれば、Man=Machine=Method=Materialのうちの「やり方=Method」と「ツール=Machine」、「素材=Material」を映し出す。教育委員会という組織を外から眺めていると、「やり方」や「ツール」、「素材」に弱点が(すでに)あるのかもしれないが、本質的には「ヒト=Man」が原因だろう。

失敗の原因は、しばしばヒューマン・ファクターにある。いくら技術革新を進めても、人がタッチする限り絶対になくならない失敗。そんな失敗もある。昔の倫理、儒学は、ヒューマン・ファクターによる失敗を繰り返さないための学問だと思っている。何の価値もないわけではなかった。

2017年5月31日水曜日

「流行」に30年遅れでついていくのはアリなのか

今年の終盤国会は、相変わらず加計学園(と、出来れば森友も?)騒動と前文科次官の暴露戦術にかかりっきりという状況に近い。

対北朝鮮外交を問い直すことはせず、統合幕僚長による憲法への自衛隊明記は有難いとの発言の政治性を検証することもせず、米国抜きのTPP維持路線が日本の国益につながるのかどうかも全くとりあげない。

ゴシップ戦略を採用したからといえば仕方がないのだが、与党も与党、野党も野党。内閣支持率が下がるのとシンクロして、民進党支持率も下がるのは、ごく自然な結果である。というか、民主党を政権に押し上げたリベラルな保守層は既に同党を見限り、もはや残された支持層は社民党や共産党を支持してきた階層と重なりつつある。逃げた支持層の一部は自民党支持のリベラル層を分厚くしつつある。ポスト安倍の自民党は少なからず変化するだろう。民進党の歴史的役割はもう終わったかもしれない。政党としての運命は、そろそろ極まりつつあると言えそうだ。

こんな事情もあるので、スキャンダルをいくら暴露しても、与党の支持基盤が対立勢力に侵食されるという社会的メカニズムが働かなくなりつつある。日本では小選挙区制が二大政党をもたらすことはなかった。こんなところだろうなあ。

下らないので、仕事か本のことを作業日誌として書いておく。

***

村上春樹の本を最近になって初めて何冊か手にとった。デビュー後、40年遅れでやっと偏屈な小生も世の中に追いついてきたか・・・。

書店の棚で『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』を見つけて、こんなものも書くのかと買って読んでみた。「ああ、こんな文章を書くのか」と快い印象を受けた。これを知らなんだら、読もうという気にはまだなっていなかったろう。

『東京奇譚集』で「ああ、ムラカミとはこんな世界なのか」と見直した。

少し長いものを読んでみようとチャンドラーの新訳『大いなる眠り』を読んでみると、息切れすることなく、一貫した流れが作られていた。

で、最新作の『騎士団長殺し』を読み終えようとしているところだ。小説として最上の味わいだと思う。他の作品との比較をするには知識が不十分だが。

随分以前になるが入ゼミ面接のとき、志願者に何か好きな本はあるかと聞いたところ、村上春樹が好きだと答えた学生がいて、『ノルウェイの森』はなんども読んだというのを覚えている。森村誠一や赤川次郎ばりのミステリーではないのだろうがブレイク中の人気作家だろうと軽く聞き流したのは、結果として大きな損失だった。そういえば尾崎豊を初めて聴いたのも、当人が死んでから以後、それからは10年遅れの愛聴者になった。

やはり若い人たちのいうことには真剣に耳を傾ける方がよい。

ただ、ノーベル文学賞。どうだろうか。ま、こんなことは、本当のところ、どうでもよいのだろう。前にも投稿したことがあるが、新しい何ものかがそこに創られている、というか提案されているかどうか。選ぶ側はそんな価値観を持っているのではないかと書いたことがある。つまりロジカルにいうと、独創的であるかどうかだが、その点では安部公房の作品を読んだ時のショックには比べようもない(その安部公房もカフカが世に登場した時の衝撃には及ばないだろう)。安部公房の世界は面白いというより怖いものであり、それは世の中の怖さに対応するものでもあったと今は思う。ムラカミ的世界には、(いいにしろ、悪いにしろ)読者を楽しませる要素が多く含まれている。

いろいろあるが、確かに読まないでいたのは損だった。
この齢になって少し世界が広がった気がする。

2017年5月25日木曜日

「乱」は「らん」でも、ちょっとなあ・・・です

歴史は繰り返す。一度目は悲劇として二度目は喜劇として。

文科省の前事務次官が在職中の内幕を暴露するという戦術で現政権に公然と反旗を翻すに至った。「乱」である。

一昔も二昔も前にあの界隈の一隅で多忙な毎日を送っていた身としては、こんなこともあるのかと慄然とせざるを得ない。

もしもクダンの「怪文書」が本当に文科省にあったもので、多分それは担当課の書き捨て前提のメモであったのだろう、その時の事務次官がその書付を元に部内会議を仕切っていたとして、いまの時点でその文書は本物だと言えば、それが本物であるという正にそのことにより、在職中の内部事情を漏洩したという判定になるのではないか。

もし無いものを「あった」と言っているだけであるなら、単なる虚言で終わる理屈だ。

内部機密に関する<真の>情報を新聞記者に漏らしたからこそ外務省職員は処分されたという(これも大昔の)前例を待つまでもない。

国家公務員法違反になるのではないか。そもそも行政の方針は政治家、つまり内閣にゆだねることになっている。1990年代の惨憺たる失敗を踏まえ、中央省庁は再編成され、高級官僚の人事システムも改革され、政治主導の原則は益々強化されてきた。部下である公務員が『正義』やら『公益』やらを持ち出し始めれば、そもそも利害が対立する制度改革も国際交渉もまったく出来なくなる可能性が高い。民間であっても、退任した副社長が記者会見を開いて現経営陣を非難するなど、そんな事件が勃発すれば、そんな会社はどこからも相手にされなくなる。

実に危険なギャンブルだ。
それとも有力な政治家の陰謀が背後で進行しつつあるのか・・・。それにしては、筋が悪い。そもそも内閣府の規制緩和政策に対して抵抗していた(いまも、いる?)のが文科省であるのは「教育」にタッチする人には周知のことで、この点は事実というしかない。大きな流れをみればマスメディアが文科省前次官を最後まで支援するとは考えにくいのだ、な。まあ、「放送業界」もまた規制に保護された「既得権益層」とみれば、業界丸ごと案外に文科省官僚集団に与するのかもしれないのだが・・・。

必敗の乱である ー ま、乱というのはいつでも必敗なのではあるが。

思い出すのは有名な「加藤の乱」である。野党が提出した森内閣不信任案に賛成票を投じるため本会議場に入ろうとする加藤紘一議員を抱え込むように阻止する谷垣前幹事長の映像は何度も放送されている。

あれも「乱」であった、な。一週間程度の間に当時の野中幹事長に鎮圧されてしまったが。2000年のことであった。・・・そうか、もう17年もたったか。うたた凄然の心持ちである。

それに比べると、今回の乱は部下が政権に反旗を翻すという点では、江戸時代・大坂町奉行所の大塩平八郎の乱のようなものだろうか。

マスメディアは面白がって「判官贔屓」というものか、この2月までは非難・バッシングのターゲットにしていた同じ文科省次官をバックアップする気になっているようだ。そうすればそうするほど、教育行政の中枢である文部科学省自体の組織的危機が進行するのは確実なのだが、そんな感覚はメディア企業には求めても最初からないのだろう。そういえば、文科省の天下り斡旋を摘発したのは、国家戦略特区を担当するのと同じ内閣府の再就職等監視委員会であった。同じ霞が関住人ではあるが、恨み骨髄というのはこの事であったのだろうなあ。『武士の情けも知らぬのか』、『掟を破っておいて言い訳か』、『この恨み、忘れるなよ』・・・と、こんな感じであるのだろうか。

嗚呼、悲し、無惨の涙に耐えかねて・・・であるなあ。

(31日追加)「官僚」は「国民のために」とか、「公益のために」とか、独善に流れやすい妄想は捨てて、内閣のために仕事をする。つまり選挙で選ばれた政治家の要請を実行する。そのための方策を提案する。21世紀になって入った若手の官僚はこの大きな流れはとっくに分かっているのではないだろうか。


2017年5月24日水曜日

ほんのメモ: 未来の「皇族」、というか「皇位継承問題」

こんなことを書けば、戦前期なら不敬罪になるだろう。

が、ミーハー的興味は抑えがたく昨日もカミさんとこんな話をした。

「女性宮家、日本会議っていう極右系の団体があるんだけど、猛反対しているらしいね・・・」
「真子様や愛子内親王は結婚後に皇族にはしないってこと?」
「そうだろうね。というか、娘だけじゃなくて、娘の息子も女系だからダメって理屈だね」
「でもさあ、もしもだよ、悠仁親王が天皇か皇太子になってさあ、娘しか生まれない可能性はあるよね、その時に愛子さんに息子が生まれたらどうなるの?」
「愛子さんは、その時は民間人だから、その息子も皇族じゃない。そうなるね」
「でも悠仁様の娘は後を継げないよね」
「男子がいなくなったら、敗戦時に連合軍から追放(?)された旧皇族を迎えたらいい。そんな考え方なんだろうね」
「娘の息子がいるのに、そんな遠縁の人が跡継ぎになるの?」
「確かに誰も納得しないかもね。だから、そうなる前にルールを作っておくのが大事なんじゃない?」

もし内親王が結婚後も皇族であるとして、宮家をつくるとすれば「▲▲殿下」と呼ばれるのだろう。その時は、夫の民間人も「▲▲殿下」になるのだろうか?う~む、それは難しいだろうなあ。殿下であるのは夫人の方で、旦那はそうではないからだ。これまでは殿下は全て宮家の当主である夫の方であり、その妻は「▲▲宮妃殿下」と呼んでいればよかった。逆のケースをどうするかだ。イギリスではエジンバラ公という呼び名があり、その名前も「公」という実質を伴っているからいいのだが、日本ではそれもできないだろう。ただまあ、先日の道新のコラム記事によれば(それも経済学者の宇沢弘文先生のケンブリッジ時代の思い出を引用して、という話だが)、ケ大の大食堂で食事前の乾杯を女王陛下に捧げるとき、たとえご夫妻臨席の場合であっても、夫君のエジンバラ公には捧げなかったという。隣の同僚にその理由を聞いたら「子孫を残すためだけの男に誰も忠誠心など持たないヨ」と言われたとのこと。それで宇沢先生はケンブリッジに長くいるつもりがなくなったという話だ。そんな話もあるから、この問題は微妙で難しい。

5代将軍・徳川綱吉は、娘・鶴姫の婿である紀州藩主・徳川綱教に後を継がせようとした。娘の息子どころか、単なる娘婿である。実の兄の息子、つまり甥の綱豊がいるにもかかわらずである。これに「筋が通らぬ」と反対したのが徳川光圀である。しかし、水戸黄門・光圀も、後継者が娘婿ではなく、娘の息子であったら強硬に反対できただろうか。

いやはや、下世話な話でござる・・・。

2017年5月23日火曜日

断想: China Dream? vs American Dream?

中国の習近平国家主席の現在の夢は終身国家主席の地位に就くことだと噂されている(明言は、当然ながら、できないことだろう)。

ひょっとすると、それは可能かもしれない。
では、終身国家主席が終着駅かといえば、息子(娘がいるそうだから、娘婿、それとも娘本人)が後継者として同じ地位を世襲することが認められるかどうかも夢になりうるだろう。

もしそうなれば、中国は別の国となる。国名を変更するだろうし、名実ともに新たな王朝国家として復活することになるわけだが、ひょっとすると実はこうなるのが"China Dream"かもしれない。

思うのだが、こうなったとしても必然的に非民主主義国家であるとは、小生どうしても思われないのだ。

戦前期・日本は天皇が国家元首であった。しかし、天皇が自分で決められる事柄はほとんどなかったのだ。軍国主義は、庶民出身の職業軍人集団が天皇を(文字通り)「神聖化≒傀儡化」することで実現された。成立の背景をみれば、日本の軍国主義がデモクラシーに反するものとは言えないだろう。軍国主義イコール国民総動員なのだから。

その事情は江戸時代の将軍も同じだったろう。江戸時代の各藩には殿様がいたが、殿様がやりたいことをできていたとはとても思われない。家老だって事情は同じだろう。

非民主主義的国家が必ず非民主的に運営されるとは限らない。そこには(いるはずの)独裁者もいないし、(いるはずの)権力者もいないかもしれない。収奪によって黒字のはずの財政は赤字で破綻しているかもしれない。支配されているはずの国民に多額の債務を負っているかもしれない。権力は形式だけにとどまっているかもしれないのだ。

逆に、民主主義的に法制化された国家で、権力が集中する状況も頻繁にやってくる。特に普通選挙で選ばれた政治家は正当性をもつ。強権的な税制改革を実行しうるのは、独裁者もそうだが、同じことは国民から支持されている民主的政治家もできる。同じことができるなら、独裁者と強力な民主的政治家でどこが違うのだろう。

★ ★ ★

ピケティの『21世紀の資本』は確かに面白い経済書だ。そもそも所得分配論は経済学の中で地味で人気のない分野だった。その面白さの大半は、確かに$r > g$が(理屈はともかく)歴史的に成り立ってきた。この点にあって、実はそれ以外にはないとも言えるのだが、具体的に記述されている事実は文句なく面白い。結論しているのは、結局『不平等は続く可能性が高い』ということと、国際的資本課税が必要だという2点に過ぎないのだが、地味なテーマでここまで読ませる筆力は侮れないものがある。

とはいうものの、内容本位で言えば、ピケティの師匠にあたるアトキンソン(Anthony Atkinson)による『21世紀の不平等』がはるかに充実している。この本の第1部は、歴史的事実でピケティを補足しているような所があるが、確かに「読ませる力」は弟子のピケティに軍配があがる。が、白眉は第2部だ。特に第6章の『資本の共有』は、経済政策に関心があるなら<必読>に値する。


アトキンソンが当たり前のように淡々と指摘しているように、ロボットは誰が所有するか。これが今後将来の最大の経済問題になるのは確実だ。人工知能の知的財産権、ビッグデータの著作権(?)・・・、すべて扱いは同じである。21世紀の不平等は、21世紀の所有権の再設計へと至らざるを得ない。それを正面から提案している。財産権の不可侵が近代市民社会の土台だとすれば、時代は大きな曲がり角にさしかかろうとしている。この歴史的洞察力には凄みがある。

以前の投稿でも書いたが、ロボットが人間のやるべき仕事を全て奪ってしまったとする。ロボットの管理もロボットが担当するとする。その時、人間は雇用されることはなくなる。もしロボットが資本財であれば、資本分配率は100パーセントになる理屈だ。

もしロボットで代替する方が生産性があがるのであれば、そうした方が社会は豊かになり、人間はより多くの余暇を楽しむことができる。故に、そうした方がよい。しかし、分配問題をその前に解決する必要がある。このような社会では、資本に帰属する(はずの)営業余剰をいかに分配するかが、その時の最大の政治問題にもなるはずだ。新しい所有権と新しい受益権、新しい決定権を議論する必要がある。

アトキンソンが提案するように、全ての国民に成年定額資本受給権を認めることで問題が解決できるのかどうか、小生には定かではないが。

いずれにせよ、こんな時代が本当にくるとすれば、いわゆるAmerican Dreamは歴史的役割を終え、文字通り一つの時代が終わることになるのだろう。


2017年5月18日木曜日

メモ: 貧すれば鈍するの野党の惨状

今は北海道に暮らしているが、両親は元々愛媛県の人である。小生も小学校までは父が勤務していた某大手合繊企業の工場がある四国松山近郊の小さな町にある工場の傍にあった社宅で育った。父はそこでナイロンの生産管理を担当する技術者をやっていたのだが、その工場は今は炭素繊維を生産しているというのだから、小生が過ごしたのも遠い昔になった。

松山の隣町(というには隔たりがあるが)今治市に国家戦略特区が指定され、四国で初めての獣医学部開設が(総理大臣のバックアップが本当にあったのだろうか)認められることになったのは暫く前である。

一地域が大学・学部開設許認可の権限を独占する文部科学省の岩盤を打ち砕いた末の悲願達成であったのだろう。

ところが、その話が国会の政争の具になってきている。

実に情けないことだ。

国家戦略特区は内閣府所管の業務である。官房長官や特命担当大臣がいるとはいえ、内閣府は内閣総理大臣の監督下にある。組織の長たる大臣の指導に従って官僚が他省庁と折衝したとしても、上司の命に従ってそうするのは当たり前である。折衝の中で「うちの大臣が直々に通せと言ってますのでね」と言うとしても、話して当然の科白である。必要なら大臣折衝に持ち込んでやる。

これを何を血迷ったか「不祥事」であるかのようにマスメディアは報じている。

関係者の努力に泥をかけるとはなあ・・・。京都産業大学の申請は却下されたと報道されているが、同一地域に重複開設することはできないと言われていただろうが・・・。

貧すれば鈍す。文字通り「情けなきこと 涙こぼるる」だ。
野党の政略はもはや戦略の名には値しない水準になりつつある。現地で仕事に取り組んでいる人たちの立場から見れば、国会の場を借りた野党議員の言動は、もはや「国政調査」を超えて「公務執行妨害」にあたると感じているに違いない。



・・・イヤハヤ、今日はさすがに憤懣に耐えかねて書きたいように書いてしまったなあ。冷静になろう。

2017年5月17日水曜日

原資は「税金」だからというフレーズの裏の意味合い

上のフレーズはよく聞く言葉だ。何か不祥事があるとメディアもよく使っている。江戸時代のご印籠と同じ力をもつ。

「公人」たる者、常に「天知る、地知る、我知る、人知る」を忘れてはならない。

なるほどよく分かる言葉だ。

ネットを見ていると、次のような下りがある。先ごろ不適切な言動が原因で経済産業政務官を辞めた某二世政治家のことだ。

▲▲氏の不祥事を縷々紹介したのは、ゲスな話に興味があるわけではない。中川氏は政務官辞任後に開かれた4月18日、21日、28日、5月9日、11日の衆院本会議を全て欠席している。議員の務めを放棄したわけだ。衆院議員の歳費は、期末手当や文書通信交通滞在費を含め年間約3200万円にのぼる。もちろん原資は税金だ。中川氏は議員の仕事をしていない。これでは税金泥棒と言われても仕方あるまい。

(出所)産経新聞、5月14日(Yahoo!ニュースより)

確かに男女の交際は「個人の自由」だが、議員の活動に影響があったとすれば、税金の無駄になる。理屈は分かる。

★ ★ ★

しかし、上の論法に沿っていけば色々な話になっていくのではないか。

たとえば義務教育には税金が投入されている。

授業中にやかましく私語をして、授業を妨害する行為は税金で運営している業務を妨害する行為、つまり公務執行妨害である、と。

そもそも「ズル休み」を認める親の行為も税金の無駄にあたる。というより、教育を受けさせる義務があるという憲法の規定に違反している。

あるいは、引退後のサラリーマンは年金生活に入る。過去の積立金も原資だが、基礎年金には税金が投入されている。高齢者は、原則、税金からお金をもらっている。税金を使う人を「公人」だというなら、高齢者はすべて公人だ。然るに、暴力や暴言を抑えられない高齢者が増えている。トラブルメーカーになることも多い。自動車保険料も上がった。何ということであろう、税金のお世話になりながらその資格を疑わせる行為をする老人がいるとは。

まだある。国立大学の学生には税金が投入されている(国立大学ほどではないが私立大学にも助成金が入っている)。ところが某国立大学医学部在籍者が凶悪な事件をひき起こしても「税金泥棒」という非難はされていない。が、明らかに税金泥棒にあたるだろう。

これらの反社会的行動にはより厳しい姿勢で接するべきだ、すぐにこんな話しになるのではないか。

・・・実に、器の小さい、コセコセした言葉だと日頃から思っている。

★ ★ ★

「原資は税金」という点が、それほど重要なのであれば、より多くの税金を納めた国民はより多くの貢献を日本国にしていることになるのではないか。

より多くの貢献をしているのであれば、より多くの権利を持っても不思議はないのではないか。

投票権だって納めた税金額に比例するようにしたほうが良いのではないか。理屈が通るのではないか。実際、株式会社はそうしている。税金を納めていないのであれば、参政権もなくて仕方がないのではないか。そもそも多額納税者が真っ先に参政権を得たのだ。

カネに話しを戻すなら、必ず上のような話になる。格調が低いことおびただしい。

非課税証明の対象になっている人は、「原資は税金だから」という言葉を(自称)ジャーナリストから聞くたびに、肩身の狭い思いをしなければならないということか・・・。いやいや、税金を一切納めていない人はいない。消費税は必ず納めているはずだから。しかしねえ・・・。

どちらにしても、よく聞く「これも税金なんですから」という表現、実にデリカシーのない言い方だと思う。

★ ★ ★

払った税金の金額によらず全ての日本人が参政権をもつという普通選挙。大正時代にそれを可能にしたのは徴兵制度だと思われる。つまりすべての日本人に兵役の義務があったからだ。カネよりは命。命をかけて国を守る義務を引き受けている以上、税金は関係ないだろう、と。そういうことである。

ただ、上の議論はあくまで戦前期の日本に通用した話しだ。だから、カネを納めているという次元に話が戻る。カネの話しに戻るなら、払っている金額が最も大事になるのじゃないか。

たとえ議員の報酬がゼロであり、税金などは投入せず、議員活動がボランティアであるとしても選挙で選ばれ、有権者の信頼を受けている以上は、信頼を裏切らないことが信義というものだ。こんな議論をすれば格調が高くなるというものだ。戦前であれば「承詔必勤」。報酬をもらっているからやれという思想はそこにはなかった。

まあ、もちろん上の考え方にも副作用はある。信義、つまり自分を支持してくれた人たちの方を向き、その信頼に報いる、その人たちのためにこそ行動する。・・・いけないだろうか?

2017年5月16日火曜日

初の憲法改正は「公布」に劣らず情けない「改正」になるかも

首相が憲法改正の必要性を訴え、そればかりではなく日程まで提案するという状態になって、曲がりなりにも憲法が茶の間の話題にもなることが増えてきた。

いわゆる「改憲派」は、日本国憲法の制定過程がいかにも情けなく、敗戦後の占領時代に押し付けられたものというこだわりがある。

しかし、このままの状況で行くと、初めての憲法改正が首相の提案どおり、2020年に施行されるとしても、それはそれで実に情けない憲法改正に終わる。そんな可能性も無視できないと思う。

***

憲法の勉強は小学校の授業でもある(はずだ)。中でも戦争放棄については、特に重要性が高い事柄だと思う。

小生の中学校時代であったか、高校時代であったか、それは忘れたのだが、いまでいう「公民」、当時の科目名なら「政治経済」の授業であったと思うが、たまたま第9条の話になった。社会科担当の教諭が『・・ですから、日本は戦争を放棄しているわけですね。で、戦力は持たない。そうなっています。つまり、自衛隊は戦力ではないという話しです・・・』と、そんな話があったように覚えている。その時、10代であった小生は、『ということは、自衛隊が持っている武器は使わない、使わないから武器ではないってことだよな』と、周囲のクラスメートとひそひそ話をしたような記憶があいまいなまま残っている。

戦後日本を支えてきた「正統派憲法解釈」であると言ってもいいだろう。

が、この憲法解釈が日本社会の「本音と建前」を学ぶ事始めにもなっているとすれば、やはり情けないわけであり、きちんと筋を通すとすれば「自衛隊を解散する」か、「戦力をもつと書く」か、この二つのいずれかになる。

潔癖なティーンエイジャーの感覚からみて憲法の授業は非常にキレが悪いのは仕方がないのである。「現実には」という議論は憲法学でできればするべきではないだろう。

***

漫談ではないが、あれから50年。

憲法学者は、自衛隊の存在、自衛隊が保有しているハイレベルの武器、武装。持たないはずの「戦力」とどう整合させて行くのか、この半世紀の間、自分の専門分野についてほとんど何の学問的進展をも示せず、何の草案も提案もなしえなかった(と、専門外ではあるのだが、そう見ている)。

安保関連法が成立したあと、今後の進展について予想したことがある。2年前の投稿に書いている。そこでは集団的自衛権の容認と安保関連法の制定がショック療法になって、これまでとはレベルの違う新しい法理論が専門家から提案され、新立憲主義のような考え方が立ち上がってくる、と。そんな風に予想していた。それでも、議論の収束には時間がかかり、安倍現首相の任期中には改憲は難しいだろうと、そう書いていた。

ところが、今のままではまるで住所変更届でも出すような感覚で、「行政の一環」として、日程どおりに安倍現首相の任期中に憲法改正となってしまうかもしれない。

ちょっと憲法のこの条文、困るんですよね、なおしましょうかネ(→修正:なおしてもらいましょうか)。

そんな感覚である、な。

そうなったら、そうなったで、今度は『この改正は当時の安倍内閣に押し付けられた条文です、実に情けない』と。

まあ、少数派からみれば憲法は「押し付けられたもの」といつでも見えるのだろうが、もっと情けないとすれば憲法学界から何の学問的議論もおこってこないことだ。

2017年5月14日日曜日

今年の"Sell in May"は不発だった?

『申酉騒ぐ』が日本の格言なら、"Sell in May"はアメリカ株式市場の格言だ。これには続きがあって『5月に売って、9月まで戻るな』となっている。

要するに、秋口に株を買い値上がりをまち、5月には売れという投資ルールが当たることが多い、そんな経験則を伝えている。

そういえば、昨年の4月、5月は底値を探るような展開だった。が、1年毎の季節変動というより、夏のブレグジット(Brexit)をどう見るかで不安が先立っているという説明が多かった。その前の2015年の5月も冴えない動きだったが、これも株価の季節性というより国際商品市況の暴落と景気後退が心配されているような説明であった。すると案の上、15年には上海市場が大暴落を演じた。5月に売れという格言はまさに的中したのだが、マクロ経済の変動とたまたまマッチしただけだという人が多かったろう。

今年はどうか。


やはり冴えない動きだ。

しかし、WSJの見方はかなり強気である。

 足元の景気拡大ペースが遅いという懸念は過去のものとなった。目下の注目は次のリセッション(景気後退)にどう備えるかだ。(中略) 5日に発表された4月の米雇用統計が堅調だったことを受け、米経済は正しい道筋をたどっており、FRBはこれまでやってきたことを今後もただ続けていくべきだという見方が一段と強まった。金融情勢は「安定期」にあるようだ。

(出所)WSJ、2017年5月9日

頭打ちのNY株価には、現在のアメリカ経済やFRB当局の見方が織り込まれているはずだ。とすれば、6月から9月まで今年のNY市場はプラスのサプライズが続き上げ基調を辿るのではないか。

理屈で考えると、株式市場に特定の格言が当てはまることはない。その裏をかいて利益を期待する投資家が必ず出てくるはずだからだ ー 市場が十分に効率的なら。故に、単純に過去の経験が繰り返されることはない。

しかし、毎年の年中行事は固定されていて、会計制度や決算の時期も固定されている。同じ時期に、投資家が同じような行動をとりたくなる。そんな反復性があるならば、株価にも現れるはずだ。だから『5月に売れ』。下がるべくして下がるなら、予想通り横ばいになるのと実質は同じである。

たとえ株価が停滞してもアメリカの金融情勢は「安定期」にあるとは、そんな意味だろう。

とすれば、『申酉騒ぐ』が文字通り東京市場で演じられたとしても、それほど驚くことではないことになる。北朝鮮リスクで東京市場は4月から5月にかけて低迷したという人が多かったが、その低迷は本当に北朝鮮リスクでもたらされたものなのか?怪しいものだ。そうなるべくしてそうなった。予想通りであったのかもしれない。予想と外れたトランプ大統領のシリア空爆はあまり関係なかった、その後の心配もあまり関係なかった、実はそうだったかもしれない。

2017年5月7日日曜日

メモ: これって現代の「統帥権干犯」論ではないか

先日、安倍首相が2020年改憲方針を提唱するや、いわゆる護憲派が猛反発しているそうである。

反対自体はその通りだと思うが、その理由の中に気になる、というか面白いものがある。

曰く
安倍総理は憲法改正については国会の熟議に任せると言ったはずだ。そもそも首相が憲法改正を提唱するのは筋が違う。
確かに、憲法改正は立法行為というより、国会が発議し、国民投票で決着するものであるから、行政府の長である総理大臣が提唱するのは筋が違うと言えば、違うのだろう。

ただ、どうなのだろうなあ?

自衛隊が違憲とされる余地を残している現状は、行政を担う長からみれば最大の問題点の一つだと考えても、それほど奇妙には感じられないのだが。

また、議員内閣制である以上は議員の1人として、また政権与党の総裁として、発議に向けて一言あるとしても、それほどおかしなことをしたわけではない(と感じる)。

むしろ、『内閣はこの件に口をはさむ権利はない、違憲である』と意見表明を封殺するかのような護憲派の言い分は、『内閣が軍事の問題に口を挟むのは統帥権干犯である』という言い分とそれほど大きな違いはないと思う。

もしもある1人の国会議員が憲法改正に関する自己の見解を新聞や雑誌に発表して、それが世論に影響を与えれば、『国会は国会として発議する権限があるだけであり、憲法改正は国民が決める。発議してもないのに、一議員の立場で具体的な案を提唱するのは筋が違う』と、そんな『口を出すな』という風な言い方を護憲派はするのではないかと推測する。

誰でも憲法については意見を表明する権利はある。「口を挟むな」と言うのは戦前期の軍部が発明した「統帥権干犯」の発想に通じるものがある。

デモクラシーとは、結局のところは、50%以上の日本人がよしとする方向を国として認めるという原理だ。政治はこの原理に沿って、そのプロセスの中で発生してくる色々な問題を解決していく活動である。

政治家が(政党が)議論をして、勝敗がつけば、勝った側の志が通る。数で勝った結果にせよ、デモクラシーとはそもそもそういうものではないだろうか。その昔、勤務していた役所の大臣が言ったことが理解できず、反発した自分を思い出す。

曰く
理にかなった政策を提案したとして、それが理由で選挙に負けたとすれば、有権者の方が正しいんだ。たとえ理にかなった政策であっても、それは実行してはいけないんだ。
反発した自分が間違っておった。今ではそう考えるようになった。まあ「成長」したのだろう。

戦前期の「神聖なる玉座」のように、多数の勢いを防ぐ防壁のようなものは、今の日本にはないのである。あるのは、日本国民の意識だけである。




2017年5月6日土曜日

「高等」教育無償化の前にやるべきこと

先日、安倍首相が憲法改正に向けた方針を語り、2020年にはいよいよ改正憲法かというので、この話題がにわかに盛り上がっている − とはいえ、まだ現実感がないのか、TVのワイドショーではスルーしている。

改正のポイントとしては、第9条はそのまま残して、自衛隊を保有することを明記し根拠規定を整えるというのが一つ、さらに教育無償化を実現する規定を設ける。具体的なことはまだ未定なのだろうし、そもそも財源があるのかどうかも分からないが、意外と前向きの印象を与えたようである。

ただ、思うのだが「教育無償化」は既に維新の会が提唱していることで、その趣旨は高等教育無償化である。大体からして、高等学校までは義務教育化せよという声が以前からある位だから、いまさら高校は無償にしますからと力説しても、ちっともインパクトがないのは確実だ。趣旨は大学(さらには大学院?)無償化でなければなるまい。

しかしこれを実現するには、以前にも投稿したように色々な難問がある。さらに言えば、それらの難問がないとしても、高等教育無償化の前にやることがあるのも事実だ。

***

こんな記事が人気を集めているらしい。

 米国での寿司・和食ブームはとどまるところを知らない。米調査機関ピュー・リサーチセンターの2015年の調査では、米国人が日本と聞いて最初に思いつくものの首位は寿司・和食だった。日本貿易振興機構(ジェトロ)の13年の調査では、米国人が好きな海外料理で和食・寿司はインド料理を上回り、首位・中華料理とほぼ並ぶ2位だった。農林水産省の調査では北米の日本食レストランは13年からわずか2年間で1.5倍の約2万5千店に急増している。
(中略) 
 昨年、日本で「スシポリス(寿司査察官)」という短編動画作品が放送された。邪道な寿司を出す店を取り締まる捜査官を主人公にした作品だ。06年に日本政府が導入しようとした海外の和食レストラン認証制度に着想を得て、皮肉をきかせたものだ。海外からの激しい反発で導入は見送られたが、農水省は諦めていない。昨年には海外の料理人の和食調理技能を認定するガイドラインをつくっている。「適切な」知識・技能を習得した海外料理人の育成と情報発信をうたう。 
 だが、寿司の世界は急激に広がり、もはや日本政府が統制できる範囲をはるかに超えている。その規模と市場原理によってスシポリスが活躍するまでもなく、人気が定着する中で自然に自浄作用も働いている。 
 寿司のおきて破りの現地化と並行して、米国の都市部では築地からネタを空輸するような本格派の寿司屋も増えている。サンフランシスコでもミシュランの星を取る本格的な寿司屋が増えた。日本食ブームが長期間続き、日本で本格的な寿司を食べる経験をした人が増えたのが背景にある。 
 それを象徴するのが有名寿司店「すきやばし次郎」の職人、小野二郎氏の人気だ。ドキュメンタリー映画「二郎は鮨の夢を見る」は米国の料理好きの間でカルト的な人気を誇り、和食の話が出れば「ジローに行ったことがあるか」としょっちゅう聞かれる。14年のオバマ前米大統領の訪日時の会食場所に選ばれたのもこうした理由からだった。


こんな風なので寿司職人は引く手数多という。たとえ寿司職人になったとしても、世間はそう甘くはない。こんなデータもネットにはある。

平均年収:400万円でした。(口コミ調べ)
平均給料:22万円~34万円

すし職人の平均年収の範囲はおよそ300~500万円
一流すし職人の年収:700~1000万円
※九兵衛の年収を売上客数などから予測してみたところ1500万円以上になると予測されます。

海外すし職人(ニューヨーク)の年収:700万~1056万円(求人より)
海外すし職人(上海)の年収:400万~600万円(求人より)

(出所)平均年収.jp

確かに職人修行で期待できる生活もそれほど楽なものではない。

とはいうものの・・・、

そもそも大学新卒者が正規社員として採用されるのは60%〜70%程度という。
参照:https://www.mizuho-ri.co.jp/publication/research/pdf/today/rt150126.pdf

非正規社員の年収は7割が200万円に届いていないというデータがある。昇給もほとんどない。
参照:https://mainichi.jp/articles/20160120/k00/00e/040/231000c

大学新卒者の平均年収も200万円程度である。
参照:https://careerpark.jp/4882

現状がこんな惨憺たるものである時、大学教育の根本を改革せずに「高等教育」だからという理由で無償で大学に進学できるようにすれば、どんな状況になるだろうか。

授業料がゼロになるなら大学(大学院にも?)に進学する動機を刺激する。しかし、独立して生活できるスキルを身につけるには、日本国内の大学(大学院も?)はほぼ全て役には立たない(もちろん学部による)。そして、本来は「もっと儲かる」はずの職人修行は、外国から日本に来た外国人に占められる。そんな実に情けない状態がもたらされるだけではあるまいか。

寿司職人だけではない。大工ほか建具職人、畳職人、表具師、染物屋、織物屋、仏壇職人、石材職人などなど、手に職をもった職人層の最近の収入傾向を調べて見るとよい。

現代という時代は、「和の文化」が金になる時代なのだ。日本の中で旧来の大学教育を受けても金にならない。そんな時代になりつつある。このことをもっと真剣に考えて見るべきだ。

政策的に無償にするというなら、確かにそれが日本人の公益となり、支援するだけの価値がある。まず先に、そういう状態にしておくには、役に立たない教育を続けているだけの大学の多さに目を向けなくてはダメだろう。




2017年5月5日金曜日

断想: 無常ということ

北海道の港町にも桜前線が到達した、と思っているうちにもう桜吹雪である。

明治の正岡子規以来、俳句の極意は写生であり、叙景であると言う人は多い。しかし、目の前にある物をそのまま言葉にしても、中々いい俳句にはならないものだ。やはり作る人の心情が伝わったところで、傑作は傑作になるというものだ。写生だけではダメであるし、美しく作っただけでも感動はしない。
夏草や 兵どもが 夢の跡
むざんやな 甲の下の きりぎりす
憂き節や 竹の子となる 人の果て 
旧里や 臍の緒に泣く 年の暮
どれも芭蕉の名句である。が、このように並べて見ると、まったく違ったところで、違った言葉で出来ている俳句ではあるが、伝えようとしている思いはたった一つであることがよく分かる。

それは何より「人の世は儚く、人生は短い」ということだ(と思う)。目に見えている全ての外界は仮の姿であるとする「無常観」とも言える。世界は無常であるが故に、過去と現在が時間軸に順序付けされず、そのまま同じものの重なりとして認識されているという哲学もそこにはある。先日来、本ブログでも投稿しているが、「存在」を時間の中にのみ見るという立場も同じである。

人は過ぎ行くが故に人でありうるのだ、と考えるとすれば人間はなんと言う孤独で、さびしい「存在」だろう。いや「存在」という名称で呼べるかどうかも分からないのが人だ(と思う)。

存在、それはつまり流転と見る立場は、仏教思想の影響下にある日本文化ならではのものと思いがちだが、そうと限ったことではない。

たとえば12世紀に生きたペルシアの詩人オマール・ハイヤームの詩集『ルバイヤート』の中の一句:
地の表にある一塊の土だっても、
かつては輝く日の面、星の額であったろう。
袖の上の埃を払うにも静かにしよう、それとても花の乙女の変え姿よ。
芭蕉が俳句に込めた世界観と、ここに歌われている儚き世界と、どこが違うだろう。


2017年5月2日火曜日

ワイドショーと並んで増えてきた番組

ずっと以前になるが、その時代時代のヒット曲、ヒット曲の歌詞には、その時代の雰囲気や景気の良し悪し、さらには社会的に信んじられていた理念までもが映し出されるものだという先生がいて、ちょうどその頃、勤務先の広報誌の編集をまかされていたこともあって、その先生にエッセーを依頼したことを覚えている。

もう一昔も二昔の前のことだ。

原稿を書いてくださったその先生もとっくに鬼籍に入った。


そのことを思い出して、気がついたのだが、ヒットナンバーばかりでなく、たとえばどんなタイプのテレビ番組が相対的に増えてきているか(減ってきているか)という番組傾向にも、その時代が表れるものではないだろうか。

そんな目で最近の(出版業界はさておき)テレビ番組の編成傾向を振り返ると、目に見えて増えてきた分野が三つある。一つは、言うまでもなく報道と素人コメンテーターを混合したワイドショー。小生が「若い頃」(いやだねえ、こう言う齢になったとは)は、ニュース番組やニュース解説はあったが、井戸端会議風ワイドショーは一つもなかった(と思う)。

残り二つは、クイズ番組とミステリー番組(というよりテレ朝風・警察ドラマ)だ。

ミステリー番組は、また別に語るとして、最近よく見るのは特にクイズ番組に東大や京大など日本国内(ばかりには多分したくないのだろうが)エリート大学の現役学生が、回答者や出題者になってよく出演していることである。小生が若い時代にもクイズ番組はもちろんあったが、東大生や京大生、慶大生などが(たまに偶然で出場することはあったが)、番組の中心要素として出るなどという演出はなかった(ように思う)。

小生、最近のこの現象を「東大生=芸能人化現象」と名付けているのだが、要するに(何を勉強しているかどうかとは関係なく)東大生であること自体に芸能ビジネス上の価値が認められてきている。そこにマスメディア産業が番組素材として注目していると。そういうことだと考えているわけだが、そこで登場するクイズは暗記している知識を問うのが多いのは当たり前として、知識が役に立たない「頓知クイズ」もまた大変多いのだな。ナゾナゾが高級化したような問題だ。もちろん正解がある。

公務員試験にも頓知クイズが出題されていたくらいだから(今でもそうなのだと憶測するが)、「下らない」と却下するつもりは全くない。子供がナゾナゾを喜ぶのは全然下らなくないのだが、ただ 「優秀」とされるはずの大学の現役学生がこのような暗記クイズや頓知クイズに強いことで場が盛り上がっているのを見ているよりは、やはりプロの歌い手が情感タップリに熱唱するのを聴く方がずっと”プロフェッショナリズム”というか、”職人の冴え”というか、ずっと高密度の実質を感じるのだなあ。

思えば、こんな歌番組もずいぶん減ってしまった。

まあ、小生以上にヘソが曲がっている人間は少ないと自負している。こんな感想を持つこと自体、偏屈そのものだと言われればそうなのだろう。


ただ思うのだが、着想鋭くまるであっと言う間に知恵の輪をとくような感じで、難し気な頓知クイズに正解を出せるというのは、どんな状況で役に立つ能力なのだろうか、と。

だって「正解」などは現実にはないことが多いし、「正解」があれば複数人が相談すれば、まずは正解に到達するものだからである。

ずっと前に小役人をしている頃、暗礁に乗り上げて関係部署すべてが降りる気配がないときに、ハッと灯がともるような感覚で「こうしてはどうですかね!」と提案することが何度もあった。誰もが着想しないような方向から、無駄な努力を続けずにすむような、見事なショートカットのような解を見つけたように思ったものだ。

その幾つかは、当時、ずっと年長の上司に採用され、そんな時には小生も自分が評価されたことを嬉しく思ったものであったが、今から思うとそれらの「解決策」はほとんどが屁理屈やトンチ、言いくるめに類するものであり、そうでなければ裏道や抜け穴を使った奇襲のような策だった。

自分と関係者がとにかくその場をしのぐには役立ったが、難航している問題を解決するような大技ではとてもなく、故に真の意味での信頼を得るには何の役にも立たない知恵だったと今では猛省している。ましてや、「これ以外に方法はありません!」と声を大にして主張したその時の自分を思い出すと、周囲を振り回し、迷惑をかけ、結局は回り道を強いてしまったという後悔が今になって針のように心を刺すことがある。

歴史上の人物と比較するのは傲慢だが、帝国陸軍の参謀・石原莞爾が満州事変の基本作戦を立案した時に『こうするしか問題は解決できません!』と、浅掘りの「知恵働き」で提案したのでなかったなら幸いだ。

・・・「エリート」というのは問題を解く才能を評価されてきた人材なのであり、常に正解があるものと前提して、正解を探してばかりいる、そんな人間たちなのである、特に日本的教育システムにおいては。


カミソリで切れるのはせいぜいが髭や皮膚である。木を切り倒すには重い斧が必要であり、岩を砕くには大砲と砲弾がいる。

「知恵伊豆」と呼ばれた松平伊豆守信綱は、将軍が通る道に巨石があって難儀している人たちをみて、穴をほって埋めればよいと即座に提案して感心されたそうだ。

将軍家光の時代、知恵伊豆は名臣ではあったが、その知恵が歴史を通して輝いているかといえば、実はそうではなく、知恵や才覚というのは案外、到達距離が短く、賞味期限も短いものだと思ってしまうのだ。

ゲーテは『つねに努力をする者は迷うものだ』と天才・ファウストのことを評しているが、だとすれば99回の失敗のあと、最後の1回で正解をみつける。そんな「無駄な努力」を敢えて続けてしまう。本当に驚嘆するべきことがあるとすれば、信じられないほどの時間を自分の目的のために現に使ってしまうことなのだろう。

そんな努力のプロセスは、当然ながら「番組」になるはずもない。一見難問と思われる問題に、瞬時のうちに正解を出す頓知クイズのほうが絵になるわけである。「これ、正解ないですよね」ではダメなわけである。

「絵になる」ことは価値の一つではあるが、「絵になる」才能が求められている才能だと誤解され、そのような活動に資金が投入されるとすれば、やはり日本の科学の未来は危ない。見ていると、そう思ってしまいますネエ・・・。

ワイドショーだけではなく、ここにも民間ビジネスである現代マスメディア産業の外部不経済があるかもしれない。言葉やエンターテインメントは世間を映し出しているとともに、映している世間を支えることによって、社会の進展に影響を与えもするものだ。これが「外部経済効果」でなくしてなんだろう。

モノにせよ、サービスにせよ、提供者の能力レベルを超えて提供されることは決してない。

最近、気に入っている経験則である。「報道」は情報自体に含まれる価値で評価されるべきものだが、そこに作り手の意図が混じれば、もはや「報道」ではなく、情報としても疑うべきものになるのだ。

2017年5月1日月曜日

小人閑居から申酉騒ぐになってきたが・・・

以前の投稿を見ていたのだが、これは我ながら卓見だと感じたのが一つ。
本日は、WBC決勝、大相撲大阪場所、それから降ってわいたような森友騒動にかかわる籠池理事長の国会証人喚問の三つが重なり、どれもTV中継で視聴率が見込めるとあってマスコミ「現場」は「嬉しい悲鳴」をあげているという噂だ。
(中略)
小生の上の愚息は熱烈な相撲ファンである。
NHKは証人喚問を終わりまで、Eテレは高校野球、その余波で大相撲が5時からの中継開始になってしまったと、嘆いていた。
国会・予算委員会という劇場で上演されているドタバタ劇よりは、ここ最近の大相撲の方がもっと緊迫感があり、かつ幅広い視聴者から希望されている番組であったのではなかろうか。少なくとも、小生は甚だバカバカしく、とても最後まで観る気にはならない内容であった。
もしも森友事件の登場人物に首相夫人の名前がなければ、大相撲を押しのけて中継されるようなイベントにはならなかったはずだ。
(中略)
まあ、これらすべて、トランプ米新政権がいまだ機能不全であるためだ。
何もリアルな衝撃となって、日本に投げかけられるものが出てきていない。
中国は党大会の年であり「内向き姿勢」。韓国もまた政治的に機能不全状態。ヨーロッパもまた選挙の年であり「内向き姿勢」。英国はEU離脱でそれどころではない。
加えて、世界経済は2015年~16年に進んだ石油等の国際商品価格暴落から回復し、明るい見通し。心配される状況ではない。
国際政治経済をみると、日本はいま何をしてもよい、というか宇宙遊泳に似た状態なのである。
このチャンスを生かしてロシア外交を大いに進めればいいのにと思うのだが、所詮、択捉や国後は日本国民の関心外と思われる。ロシアは共同経済活動にロシアの法律を適用すると主張しているが、このことを大きく報道したマスメディアは皆無である。瞬時のうちに話題から消え去った。
投稿日付:2017年3月23日

4月に入ってからは、ト大統領が敢然と攻勢に出て東アジアは騒然となった。トランプ政権がついに走り(暴走?)始めた。想定外のその衝撃の中で、さすがの「森友騒動」も急速にテレビ画面や国会舞台からフェードアウェイしていった。

やはり「リアルな衝撃」は、「疑惑の衝撃」、「想像上の衝撃」を打ち消すわけであり、この事自体は、日本社会がまだまだ健全である証拠であった。

ロシアの出方や思惑、日本の対ロ外交が鍵となる点も上の投稿には書き込まれており、我ながら感心した次第だ。

どちらにしても閑居していた頃の国会は、よく言えばディベート、悪く言えば国会中継の視聴率向上を目指した営業としか外部の目には映らない。そんな印象であった。

しかしながら、北朝鮮が日本に向けてすぐにはミサイルを打つ心配はない。狙われるとすれば、まずは米海軍か韓国であろうと安心する心理が心中に広がってきたのだろうか、この2、3日になってまた森友騒動が再開される模様になってきたのは、やはり「小人閑居」の癖が抜けないのだろう、と。

時折しも大型連休の真っ只中である。やっぱりね・・・。「閑居」である。

そう見ているところだ。
いやまあ、あとから振り返るといかなるストーリーで語られるのだろうか?昨年から今年にかけての世情は。

2017年4月30日日曜日

ワイドショーが「おしゃべり」となっている一例

ワイドショーが世間で果たしている役割をどう見るかは、つまらないテーマであるように見えて、「報道(?)の自由」や「表現の自由」ともつながることでもあり、いくらマイナスの影響(=メディア産業の外部不経済)が認められるとしても、現代憲法下においては中々に難しい問題である。

ただ、専門家を「利用」した一方的な意見表明が、それを観ている視聴者の側からみると事実を説明するというより、(誰かの)放送意図を実現するためのツールになっている例が多くあるのは事実だ。

どうみてもメディア産業は、経営者によって経営されている民間企業なのであり、特定の経営戦略によって毎日の活動が決定されているのは当然の事実だろう。

***

たとえば、現在米軍と米軍に協力している日本の自衛隊は北朝鮮に軍事圧力を強めているのであるが、そのような行動は日本国憲法の第9条『・・・武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する』という規定と矛盾している、現在の政府による行動は違憲である、という意見があった・・・。

確かに、北朝鮮問題は国際紛争である。軍事的圧力とはすなわち武力による威嚇である。故に、憲法が「放棄する」と規定している行動に該当する。確かにロジックである。

しかし、どうなのだろう。日本国の憲法からみた議論をするのであれば、日本人の側から見た議論になるのではないか。

確かに軍事的圧力は北朝鮮にとっては「威嚇」になる。が、北朝鮮から見るときに「威嚇」になるかどうかを日本人は考えなければならないと日本の憲法は求めているのだろうか?

これも一寸妙な解釈だと思うのだなあ。

こんなことを言い出せば、自衛隊という武力の存在自体が北朝鮮にとっては脅威であるかもしれず、だとすれば北朝鮮の国益からみた判断から「日本はそれを保有するべきではない」という結論が直ちに出てくる ― そうでなくとも憲法第9条の2項は『・・・陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない・・』と規定しているので、自衛隊という武力集団が存在する現状は違憲であるというロジックはとっくの昔からある。

このような議論はどこか奇妙だ。

議論が複雑になるのは、そもそもロジックが通らない現実を放置しているからで、現状を放置したまま、憲法上の議論をいくら積み重ねても、もはや時間の無駄であると小生は思っている。

***

日本からみれば北朝鮮から武力による威嚇をうけている。これは事実だ。

既に日本が威嚇されているので相手による武力行使を抑止しようと行動する行為は自衛行動に該当するのか、しないのか。

地下道を歩いているときに無頼漢に囲まれ脅かされたときに、格闘の姿勢をとることは、その姿勢は威嚇であり、腕力に訴えることはしないという誓いを破っていることになるのか、ならないのか。

もしワイドショーが、まっとうな雑談であれば、当然こんな反論も予想される。学会なら直ちに提起される質問だろう。

***

武力の行使は、国を問わず、時代を問わず、どんな場合に許されるのか。この問題は、一片の文言では片づけられないほど、複雑な問題であり、一体歴史を通して幾通りの平和条約、不戦条約、和約や講和が結ばれたであろうか。古代から現在に至るまで、それでも戦争や武力の行使が止むことはない。

核戦力を保有すれば(少なくとも保有国相互では)戦争を抑止できるという経験的な事実は信頼性あるメカニズムになりうるのか。そんな世界とはどのような世界であるのか。

結局、国際的外交戦略の「目的」とは何なのか?

もし真っ当な雑談であれば、誰かが必ず問うはずだ。この疑問をすっ飛ばして、おしゃべりだけをしても、メディアが何かの機能を果たしたとは言えないと思うのだ、な。ま、CM料金の負担者であるスポンサー企業の立場にたてば、現に観ている人が(ここに)いる以上、役に立っていることにはなるのだが。


2017年4月29日土曜日

民進党の不審な選択

もうひと昔の事になってしまったかのような扱いを受けている「森友事件」。このたび、また籠池元理事長と財務省高官との会談を録音した「物証」が出てきたというので、にわかにまた色めき立っているのが民進党であると。そんな報道があった。報道によれば、週明けの予算委員会でも首相以下を追求していくとのことだ。


政治の話とはまったく別で、水と油ほどの違いがあるが、妙に共通しているような気もするので例え話に使いたいのが、数学の問題の一つである級数の発散・収束の判定である。

級数とは無限個の数字を加えて(減じて)いくときの値であり、無限個の数字の合計が一定の値になっていくなら収束、一定の限界におさまらず無限大になってしまうなら発散という ー 無限大にはならないが、一定の値には収まらない場合は振動という。

たとえば
$$
1+\frac{1}{2}+\frac{1}{3}+\cdots+\frac{1}{n}+\cdots
$$

という級数には「調和級数」という名がつけられているが、この和は一定の値に収束はせず無限大に発散してしまうことは、ルネサンスの時代には既に知られていたそうだ。

ところが上の式を少し変えて
$$
1+\frac{1}{2^2}+\frac{1}{3^2}+\cdots+\frac{1}{n^2}+\cdots
$$
このように分母を二乗した和の合計が$8/5$にかなり近いことを突き止めたのは数学者オイラーである。オイラーは人類史上最大の数学者5人の中にまず入るはずだが、そのオイラーは晩年に至ってから、上の和が正確に$\pi^2/6$に収束することを証明した(参考:デュ・ソートイ『素数の音楽』)。

素数の研究の歴史において、上の級数を更に一般化したゼータ関数
$$
\zeta(p)=1+\frac{1}{2^p}+\frac{1}{3^p}+\cdots+\frac{1}{n^p}+\cdots
$$
が極めて重要な役割を演じるというのもオイラーの着想であり、いわゆる「リーマン予想」につながる道がここにある。


確かに「森友事件」が政治的な問題であるのは蓋然性が高いのだろう。しかし、この事件が国全体において占める問題性の規模は、既に一定の限界以内に収まるという判定もまた蓋然性が高いのではないだろうか。もちろん「真相」はまだ藪の中である。正確な事実は分かっていない。とはいえ、発生した事件の規模、影響の規模、担当組織の腐敗性等々、一連の不祥事に含まれるすべてのマイナス要素を累積するとしても、全体としてはせいぜいが一定限界内にとどまる事柄であり、ということはつまり調査・捜査・検査機関がある以上、詳細は担当組織にルーティンとして行わせその結果をまつ。この方向が合理的である。

理屈ではこうなるはずだ。

これに対して、北朝鮮と米中、この数日はロシアがこれに加わってきた感があるが、更にまた韓国、国連など、直接に日本の安全と将来に直結する問題は複雑な外交関係の下で制御されていくべき大問題である。

それだけではなく、核開発とミサイル実験を続ける北朝鮮がどうなっていくかは、まったく予断を許さない。だからこそ、不安を煽るような放送が幾日もワイドショーで続けられているわけだ。


森友事件は数学でいえば発散はしない。日本国の国益を毀損するとしても一定限界以内である。これに対して、北朝鮮とこれに対する外交方針は収束・発散自体が分らないと言えるのではないだろうか。

政治家の存在意義は、問題の規模そのものさえ明らかでない事案を審議し、一定の判断を下すことで全体としての結果を制御していく。こういう作業にある(と小生は思っている)。だからこそ、政治という仕事に意気を感ずる。ある意味でワクワクする人も時にいるのだろうと推測する。

野党である民進党は、北朝鮮に関連した外交を政府任せにするのではなく、韓国との意思疎通に努力したり、またトランプ政権の軍事的圧力とは別の北朝鮮との対話の可能性を提案したり、少なくとも現行戦略とは別の路線を提案するという選択があってもよいと思うし、野党ならするべきだと思うのだな。

ところが、足元では先ずは「森友事件」を更に追及するという選択をしたかのようである。

仮に(そんなことはあり得ないが)安倍政権が森友不祥事のゴタゴタに嫌気がさし、政権を放り出すとすれば、「憲政の常道」に従って民進党を中心とする新政権があとを引き継ぐのが理論的には妥当である(と考えるのが筋だ)。しかし、国会審議において、解決可能であるかどうかすら今なお分からない北朝鮮問題に関して、民進党は自党の外交方針すら具体的に提案していないのだ(本ブログの投稿者の不勉強のためかもしれないが)。

この点を明らかにせずして、問題規模が一定限界内であることがかなりハッキリしている森友事件を先に問題化し続けるというのは、政治的にまったくロジックが通っていない。

もはや大局観も喪失してしまったか・・・・。

民進党という政党は、政党としていつ崩壊してもおかしくない。この点だけ今日は予測、というか(改めて?)確認しておく。



2017年4月28日金曜日

そもそも動機が理解できない職業もある

いま関心をもっているテーマ:


  1. 小生が若い時分は、仕事の合間にプライベートがあった。現在は、プライベートの延長に仕事があるのが理想だ(と思われているのではないだろうか)。が、このことは敗戦後ずっと無理して回してきた日本の社会が自然な状態に戻ってきた証拠だと個人的には思っている。今後、そうなっていくのだろうか?
  2. どんな人が「政治家」などという割の合わない仕事につこうとするのだろう?だってそうでしょう。(例えば)中国のように政治家として大物になれば○億円どころか、○千億円の資産を築けるならリスクを犯してでも挑戦するのは悪くはない。まさに『人生意気に感ず、功名誰かまた論ぜん』だ。しかし、企業経営者とちょっと仲良くしただけで疑惑をもたれる、役人とちょっと「業務上の相談」をしただけで斡旋だと疑われる、謝礼はいかん、贈答品はいかん、冠婚葬祭出席は気をつけろ、と。ずっとメディアに監視される・・・。まして隣国のように逮捕されたり、有罪宣告をうけるリスクが大きいのであれば、いったい政治を志すモチベーションって何だろう?

米大統領は少し違う。
 オバマ氏:「8年間のホワイトハウスでの生活を終え、妻と私は皆さんと同じ民間人に戻ります」 大統領を退任したオバマ氏の民間人としての気になる今後についてですが、実は年金生活に入ります。CNNによりますと、1年間の年金額は20万7800ドル、約2400万円になる見通しで、これまでの大統領としての報酬は年間約4600万円ということで、その半分ほどが今後一生涯、支給されていくということです。さらには、シークレットサービスによる身辺警護や事務所の経費、旅費などは「手当」として税金から賄われることになっています。実は、アメリカの大統領というのは、現役時代ではなくて「辞めてから稼ぐ」と言われていて、クリントン元大統領の講演料は1回約1400万円です。他にも本の印税や民間企業へのコンサル料なども含めると、クリントン氏が退任以降に得た収入は約216億円になるということです。ちなみに、アメリカの大学の分析によりますと、オバマ夫妻の場合、退任後に得られる収入は約278億円に上ると予測しています。
(出所)ANNニュース、2017-01-22

そもそも小生、人のために何かをするのは億劫だ。

とはいえ、トップや代表にいる人がいかに重要であるか、国や会社を思い起こせば誰でもわかる。優れたリーダーシップで恩恵を現に受けるのは、その他大多数の普通の構成員だ。

にしても、それはそうなのだが、マンション管理組合の理事長をするくらいですら、管理費の使途が適正であったかどうか、常住座臥疑惑の眼差しでみられるというものだ。針のむしろに自発的に座ろうと言う人はなぜそうしようと思ったのだろう。

本音をきいてみたいと思うのだが、なかなか、腹をわって話せる人がいない。

2017年4月26日水曜日

情報ビジネスとのつきあい方

このところマスメディア、というよりマスコミを超えて発展しつつある情報ビジネス全体を考えているのだが、情報とのつきあい方こそ豊かで賢明な暮らしを実現するのに最も重要になってきた。

昨日の東京市場では株価が三日連騰して1万9千円台を回復した。その説明はこうだ:
東京株式市場で日経平均は3日続伸。終値で3月30日以来、約4週間ぶりに1万9000円台を回復した。為替がドル安/円高方向に振れたことが重荷となり、朝方は小安く始まったものの、懸念された北朝鮮による核実験やミサイル発射などの挑発行為がなく、地政学リスクへの懸念が後退した。
(出所)2017年4月25日、ロイター

北朝鮮問題が一つ山を超えたから株も上がったんですヨネ、ですか。

実際には、地政学リスクの後退で三日連騰というのはタイミングが合っていないのだが、まあ、こんな言い方もあるのかもしれない。何しろ業界現場の心理というのは無視できないから。

ところが、こんな下りもある:
市場では「目先のリバウンドは一巡した感もある。日米の景気はそれほど楽観できない。米GDP成長率の鈍化などを考えると、米国株の高いPERがいつまで維持できるのか疑問もある」・・・
(出所)同上

景気はこの先どうなるか分からん、と。

これに対して、まったく異なる判断もある。

 黒田東彦総裁の率いる日銀がわが世の春を迎えている。2%インフレの達成にはまだまだ距離があるものの、日本経済の体温が着実に温まっているからだ。金融政策のカジ取りを今のまま保つだけで、緩和効果は着実に高まっていく。(中略)
 
日本経済については、すでに経済協力開発機構(OECD)や国際通貨基金(IMF)が、実質成長率の見通しを上方修正している。IMFは17年の日本の実質成長率見通しを1.2%へと、前回1月時点に比べ0.4ポイント上方修正した。この修正幅は英国の0.5ポイントに次ぐ。

 シリア、北朝鮮をはじめ地政学リスクに事欠かず、フランス大統領選など欧州政治の行方にも気をもむ。こうした政治の不透明性に比べて、どっこい世界経済はしっかりしている。
(出所)日本経済新聞、2017年4月25日

実際に、日本国内の設備投資は足元では急テンポで上向いてきている。広く将来不安が残っているならこんなことはない。

ある人は『日米の景気は楽観できない』と語り、別の人は『どっこい世界経済はしっかりしている』と言う。

同じ現実を見ているのだが、「正反対」ともいえる意見が同時に出てくる。こんな状況は社内の会議でも日常にごく自然にあることではなかろうか。

これが現実だ。

だからこそ、情報ビジネスとのつきあい方が最も大事である。自分にしっくりくる意見を探すのでは本末転倒だ。逆である。広くバラバラの意見をきく。バラバラがよい。自らも考えて最も客観性をもった見方を探す努力が欠かせない。これは自らの責任でやるべきことだ。

データを「批判的に」分析する仕事をビッグデータ分析で実現するのは非常に難しいはずだ。しばらくは人間がやるべきことだろう。

2017年4月24日月曜日

メモ: 世界と日本社会の実態とワイドショー的噂話との隔たり

相変わらずTVワイドショーを代表例に、世間の井戸端会議は北朝鮮問題で一色である。このところの東京市場株価の低迷も地政学的リスクの表れであると説明されてきた。

いよいよ原子力空母カールビンソンが海上自衛隊との共同訓練を始めたというので、テレビ画面のキャスターたちの語りにも熱が入ってきた。

ところが本日の東京市場では株価が急騰した。
理屈に合わぬ!

専門家の解説は「昨日のフランス大統領選挙で極右のルペン候補が終盤に失速し、中道のマクロン候補との決選投票になったが、まずはマクロン候補が勝利する、フランスのEU離脱はない、そんな見通しになったので金融市場は安堵しリスクオンになっている」、と。そんな説明である。

フランス大統領選挙など日本のテレビはまったくのスルー状態であった。国内新聞も概ねそんな扱いだったと感じている。

とはいえ、東京市場の株価急騰はフランス大統領選挙からうかがわれる世界的懸念の払拭の表れであるという説明は、きいてみれば成程と納得できることである。韓国市場は、本日、というよりこの一週間株価は上がっている ― 上海市場の下落基調が一寸気になるが(香港市場はそんなことはない)。

確かにアメリカのビジネス界でも米国・北朝鮮の緊張関係の行方が意識されるようになってきているとの報道が一部にある。

とはいえ、日本国内の井戸端会議と日本国外の現実やら、世界スケールのセンチメントとは相当食い違いがあるようだ。なんだか文字通りの「井戸端会議」、というか「井戸の中のおしゃべり」に見える。

まして本日の道新が社説で力説しているような「国民の疑念を忘れたかー森友学園問題」などと言われてしまうと、本当にこれは日本国を揺るがす大問題であるのかどうか、正直なところピンとこない。ま、眉をひそめるような経緯があったのはそうなのだろうなあとは印象的に感じているが・・・。でも、結局は「会計検査」の話になるのではないか。違いますかねえ。

世界と日本社会の進展の本筋を客観的にとらえている(=とらえられる立場にある)人たちと、情報バブル的な井戸端会議を聴くことで世界を誤解しつつある情報弱者といえる人たちと。いわゆる「デジタル・デバイド」という言葉がアメリカで流行したことがあったが、日本にも同じような情報格差・意識格差なる病理が広まりつつある。そんな印象をうける。何とかしないといけないのじゃあないか。情報格差をうむメカニズムは何か?情報の提供側の経営戦略に問題があるのか?情報の受け手側の知的レベルに問題があるのか?いずれにせよ、既存の新聞、テレビといったメディアは現実には大して役に立っていませんぜ。

いっそのこと、明治時代のように国家・社会・世界を論じる「大新聞」と身の回りの世間話を書く「小新聞」と、そんな風にセグメントを切って、情報商品としても差別化、専門化するべきではないか。戦後一貫して変わらない情報ビジネスは、テレビの民放と新聞だ。江戸の瓦版を新聞に進化させた明治という時代は大したものであった。

そんな風に感じる今日この頃である。

もう少しでゴールデンウィークだ。
この春は、さすがに政府関係者は外遊を最小限に抑えるという報道だ。そうだろうねえ、さすがに。
得てして、桜散る季節に変事というのは起きるものだそうだが。

2017年4月22日土曜日

わけが分からぬ: 言葉の混乱

このところマスメディアと言いつつ、実際にはTVのワイドショーがいかに酷いかを書いてきたように思うので、書かれたメディアである新聞も酷いということをメモに記してバランス(?)をとっておこう。

共謀罪の捜査範囲に「一般人」も含まれないことはないと法務副大臣が国会で答弁したというので、「これは許せぬ」と野党がいきり立っているとの報道がある。

やれやれ・・・この半年で意味不明な区分が幾つ出てきたのかネエ?

公人、私人、一般人(とそうでない人)。「民間人」は以前から使っている。小生が若い時分には公務員と「みなし公務員」というのもあった。「みなし」だから民間人ではあるが、「純粋の民間人」ではないという風に理解していたが、いま思い出してみるとサッパリわからない。

本日の報道でいう「一般人」とはどうも「民間人」とも違うようだ。おそらく公安上の捜査対象組織に含まれていない人達のことをいうのだろうが、捜査対象などいくらでも変わるだろう、と。「捜査対象=非・一般人」ではないかとも思われるのだが、こう言うとまあトートロジーになるねえ。

書いている小生もわからなくなってくるくらいだ。

真剣に議論し、真剣に報道するなら、言葉の定義、概念の定義を問い直すのは不可欠の準備だと思うのだが、ホント、最近の新聞は新しい言葉を不用意に使うのでわかりにくい文章がますます分かりにくくなっている。

2017年4月21日金曜日

朝の瞑想: 色即是空

朝方目が醒める前に何となく特定のテーマについて考えることがある。そして、目が覚めてしまうと、何かを考えていたことは覚えているのだが、その内容はまったく記憶に残っていない。そんなことが割とあるのだな。

今朝もそうだったのだが、今回ははっきりと覚えているので、記しておこう。

テーマは「存在」ということだったので、先日の投稿の続編ともいえる。

***

人間の認識は全て変化をとらえる、というか変化や運動をとらえるしか人間は認識しようがない(と思う)。

そもそも五感は、光や空気の振動をとらえるものだ。光や音に対して感覚器官が反応(=化学的変化)するので人間の脳が外界を感知(=化学的変化)するわけだ。

大体からして、デカルトの『我思う、故に我あり』という出発点。思考は脳の特定のプロセスである以上、時間の中にのみありうることだ。故に、自己という存在も時間の中でのみ定義できることだ。

人間にとって「存在する」という時の存在とは、原理上、「時点Tにおいて〇〇が在る」という存在・非存在とは別種の事柄だというのは、そういう意味だ。しかし、存在、つまり「在る」というのは「時点Tという一時点において、そこに在る」と。そういう意味だ。そんな本来的な意味で、何かがそこに存在しているとしても、人間がその何かを時点Tにおいて認識することはない。その何かが、何かを放射し、どんな形態でか変化したり移動したりする。そんな場合でしか認知することはない。厳密な意味で、静止している何かを「そこに何かがある」と認識することはロジックからして不可能である。

とすれば、もしも仏性をもった、あるいは神的な存在があるとすれば、阿弥陀如来や神なる存在は永遠であり、変わることのない存在であるので、人間がその存在を知ることはない。そんな理屈になる。

とすれば、阿弥陀如来や観自在菩薩のような仏性をもった存在があるとすれば、人間にとっては何もない「無」として存在する。そして、人間が在ると思っている物は、すべて移ろい行く変化の相にある。

まさに万物流転。神は無として永遠に在る。

ふ〜む、これって『色即是空、空即是色』が意味することではないか。

ここで目が覚めた。


2017年4月15日土曜日

戦争とマスコミ: この巨大な現象を理解できるのか

アジアが「世界の火薬庫」になりつつある。

色々な見方が出ている:


  • 北朝鮮の次回核実験が米国による単独軍事行動の引き金になる。
  • ミサイル発射基地を初回の攻撃で全て破壊することは不可能であるから、北朝鮮は反撃可能である。日本にもミサイルが飛来すると思われる。それを全て迎撃できるのか。
  • ソウルは通常砲撃で破壊できる。ソウルは火の海になろう。
  • 犠牲者は100万人に上るだろう。
  • すべて朝鮮半島で米韓合同の作戦を実行する際は事前協議が必要である。事前協議なくして、一方的に米軍が半島内で活動すれば、条約違反になる。同じことは、日本国内の米軍基地使用と後方支援を認める日本政府との間にも言える。軍事作戦にはやはり日米事前協議が必要である。
  • 北朝鮮押さえ込み手段は中国が保有している。たとえば石油パイプラインを停めれば北朝鮮経済は半年ともたない。しかし、その場合、中国が難民、暴発などのリスクに対応する必要がある。
  • 中国が北朝鮮押さえ込みに誠意を見せなければ、アメリカは北朝鮮と関係する中国企業に経済制裁を加えることができる。さらに、為替操作国認定に踏み込み、輸入課徴金を課することができる。万が一、そうなれば中国経済は大混乱になるだろう。外交的失敗の責めを負い習近平国家主席は今年の党大会を乗り切れない。

とにかく、あるある。百家争鳴の状況だ。

そんな中で、東京市場の株価はかなり下げている。不思議なのは、上海市場は昨日現在で3246.07、香港ハンセン市場が24261.66と、依然として底堅いことだ。中国による北朝鮮外交不調、アメリカによる経済制裁、中国経済への大打撃と、そんな展開を心配する人は中国大陸にはほとんどいないということか。

それに対して、日本は。株価が下がっている。国内経済をみればいま株価が低迷するのはおかしい。地政学的不安という人も多いが、だとすれば韓国株価の方がもっと影響を受けるはずだ。

韓国総合株価指数をみると、確かに3月下旬の2180程度から直近では2130程度まで下がっている。下落率2%余り、だ。一方、日経平均は3月上旬の19600辺りから直近では18335。下落率は6%。韓国は東京よりむしろ堅調だ。

TVのワイドショーでは、森友が消えて北朝鮮問題を扱うようになった。またもやそれ一色になっている。が、これほど騒いでいるのは日本のテレビだけではないのか・・・?実際、海外の新聞で北朝鮮問題を扱っている扱い方は、それほど大きなものではない。ネットでオープンにしている紙面から明らかであるし、SNSでフォローしておけば自然にそんなバランス感が得られる。

そもそも3月下旬から、バランスよくフォローしておくべき複数の話題であったのだ。まあ、最近の若い世代は(就活生を除いて)日本の大手新聞は読まないというし、テレビはほとんど見ないようだ。故に、世間を見る目は意外と健全かもしれない。

日本のマスメディアは大丈夫なのか?

森友騒動でもそう思いましたが、つくづくと北朝鮮への不安というより、それを報道する日本のマスコミなるものに対して、より大きい不安を感じるのでござります。

2017年4月9日日曜日

「未来志向」は過去とは無関係になるのか?

"Korea Fatigue"(韓国疲れ)という言葉がアメリカで頻用されているかと思いきや、最近は日本でも使われるようになったという。

過去にばかりこだわり、サッパリ未来に向けての協議を受け付けてくれない、そんな苛立ちがあってのことだろう。

それはそれで(実務担当者の立場に身をおけば)理解できる。仕事が捗らない、これはやはり困る。仕事というのは「これからどうする」が基本姿勢であるからだ。

仕事には、確かに時間軸というものがあり、過去・現在・未来という順序で管理されている。

しかし、それは物理的な見方だろう。

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「未来志向」という言葉には過去への目線は含まれないのだろうか?

そうではない。

未来志向の未来を検討するというのは、どんな未来を望むかという問題である。

未来志向だからといって、実際の役には立たない親の墓は廃棄して、毎日の暮らしのためだけに資金を使いたいとは、多くの人は望まないだろう。未来志向とは、未来をどうするかであり、過去をどう見るかと裏腹の関係にある。これがロジックだ。

過去をブランクと前提して、純粋の未来だけを考えれば、過去は一切なく、それ故にその時生存している世代が自己利益だけを考えて最適なプランを実行すればよい。しかし、親や祖父母の世代を現実には記憶している以上、過去をブランクであると仮定するのは不可能である。歴史をすべて忘れ去るような未来を語るのは実際にはできないのだ。

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というより、過去の記憶が存在するのは現在という時点であり、未来を意識するのも同じ現在である。

記憶の中には、失われた町や世を去った人たちが変わることなく呼吸している。そもそも人間の意識に時間軸というものはない。意識されている世界は時間なき世界だ。

人間が外部世界を理解する能力をもっているのは生存に有利だったからだ。ただそれだけである。カントは、時間と空間という枠組みの中で外部世界を人間が理解するのは、そうすることしか出来ない、つまり時間も空間も人間が元々もっている理解の仕方(先験的範疇)でしかない。現実に時間や空間というものが外部世界に存在していることにはならない、と。そう考えた。

確かに意識の中に時間はない。過去と未来の間にどんな本質的な違いがあるのだろうか。

こちらが「未来志向でいきましょう」と言ったところで、異なった記憶をもった人間は、異なった未来を望むものだ。どんな未来を求めるか。異なった過去の記憶をもつ人間が同じ現在に立つことで理解しあうしかないだろう。

2017年4月5日水曜日

自主避難=自己責任? これは暴言なのか?

稲田防衛相、金田法相の次は今村復興相ということか?

今村雅弘復興相が4月4日午前の閣議後会見で、東京電力福島第1原発事故による自主避難者への対応をめぐるフリーランスの男性記者の質問に激高し、「出て行きなさい」「うるさい」と声を荒らげる場面があった。産経ニュースなどが報じた。(中略)
今村復興相は、自主避難者の支援に国の責任がないか問われ「福島県が対応し、国は県のサポートをする。この図式でこれからもやっていく」と説明。自主避難者が帰れないのは自己責任と思うかとの質問には「基本的にはそうだ。国はできるだけのことはやった」とも答えた。
自主避難者は、国の避難指示を受けなかった地域から、被曝を心配し遠方に避難した母子ら。福島県に取材した朝日新聞デジタルによると、2016年10月時点で全国に約3万人いるといい、同紙は「強制避難者に比べて東電の賠償や国の支援が薄く、福島県民の『分断』につながると指摘されてきた」と伝えている。
今村復興相は4日夕、報道陣に「感情的になった。今後こうしたことがないよう対応したい」と自身の発言を謝罪。会見で自主避難から帰還できない人への対応を問われた際に「本人の責任、判断だ」と述べたことについては「避難命令を受けた人との違いということで言った。自主避難の方にもいろいろやってはきている」と語った。
(出所) The Huffington Post, 2017年4月5日

カミさんは話している。
そりゃ政府から避難指示は出てないと言ってもサ、線で引くわけでしょ?道路の向こうまでは避難しなさいといわれたら、うちは区域外だから安心だって、そうはならないヨ。やっぱり子供がいれば心配だし、避難しようかなってなるのが当たり前だよ。
う~~ん、これほど単純な決め方でもなかったと思うが、避難区域を定める以上、「避難区域内」と「避難区域外」に明確に二分されるのであって、グレーゾーンに対する斟酌というのはなかったのだろう―とはいえ、これまで自主避難者にも公的な支援はあったわけだから、全くの自己責任で勝手におやりなさいというわけでもなかった。

***

識別、つまり"Classification"は、ビッグデータ分析でも現在最も急速に発展しつつある領域である。事実・データに基づいて適否・完治・合否などを判断する技術はますます精密になってきている。

そんな状況からみると、原発事故被災地の取り組みはいかにもアナログ的で、もう少し客観的で科学的な方法というのは工夫できないか。そんな風にも感じられる。

***

ただ、自主判断で避難した人が「もう戻りません」といった場合、それはもう「避難」ではなくて「転居」になるのではないかなあ、と。小生がそう話すと、カミさんは「そりゃそうかもしれないけど、それだって仕方なくそうなったわけでしょ、自分の判断だったわけでもないんだよ、関係ない人があれこれ言うのは可哀想だよ」。

確かにカミさんがいうとおりでもある。しかし、国なり福島県が支援するとなれば税金から支出するわけで、関係ない人たちの財布であるわけだ。となれば、口を出す権利は誰にでもあるという理屈でもある。

一度避難すれば、時間軸にそって永遠にその人は「避難」していることになるのか?やはり「避難している状態」と、「避難先に定住して、生活基盤が整った状態」と。ちょうど重傷を負ったあとの傷口が開いている状態と、傷口が閉じて心配がなくなった状態と、公的な支援が必要だとすれば、まだ「避難状態」にあるのかどうか。「定住」するのか、「復帰」するのか。そんな審査のステージは必要である。小生はそう思うのだがなあ・・・。

ま、自主避難者はこれ以上支援の必要はないというのは、いささか一律かつ機械的で、乱暴な措置であると。大半の人はそう感じるはずだ。

2017年4月1日土曜日

流行語大賞候補: 忖度(ソンタク)

森友事件のコアは、いうまでもなく「国有地売買価格が適正であったか」である。さらに学校開設認可手続きの適正さも問われている。そしていずれにおいても、財務省や大阪府の側に安倍政権の意向を忖度(ソンタク)した可能性がある。それが違法(?)なのだ、と。違法でないとしても政治責任(?)がある、と。

忖度という単語は外国語にはなりにくい言葉であると報道されている。とはいえ、忖度という言葉は和製漢語ではない。四書五経の一つである『孟子』に遡る言葉であるようだ。

ネットで検索してみると、以下のような解説が見つかったーこの辺が(100%の信頼性があるかどうかはともかく)ネットの素晴らしいところだ:
〔孟子、梁恵王上〕詩に云う、他人に心あり、われはこれを忖度す、と
忖度の「忖(ソン)」は、「立身偏(りっしんべん)に「寸」だから、他人の脈をはかり、心臓の動悸や不整脈のあらわれを診る」ことを意味する。
(出所)和・漢・洋・才! 語源のブログ

だからというわけでもなかったろうが、小生が若い時分、まだ小役人をやっている時は「忖度」は当然するべきことであり、下にいる者は上にいる人の胸の内を忖度して判断をしなければならないと、常にそう指導されていた。

組織というのは、本来はバラバラの個々人が協働して一つの目的を追求する以上、目的意識の共有は不可欠である。目的の共有は「忖度」となって現れる。これがロジックだ。


しかし、忖度が大事であると言われてはいたが、小生が自ら(例えば)閣僚や、まして総理大臣や官房長官の胸中を忖度しようなどとは一度も発想すらしなかった。必要なかったのだ。忖度する対象は、まあ自分が所属する課の課長、せいぜいが局長どまりであって、事務次官の心の内すら忖度しようと考えたことはない。さらに言えば、局長クラス、事務次官クラスであっても、時の大臣、時の総理大臣の心を忖度することがあったのだろうか・・・、まあ無視することはなかったと想像するが、忖度したかとなると、雰囲気的には極めて疑問だと思っている。

当たり前であった。

官僚は官僚内部の慣行によって人事はすべて決まっており、大臣、というか「政治家」が官僚の人事権をもつと法的には規定されていたはずであったが、実際に政治家が官僚の人事に介入するなどということは、まず考えられなかった。そんな時代であったのだから、総理大臣や政治家が何を本当は望んでいるか、下々の小役人にはどうでもよいことであった。


官僚国家ではなく、政治が主導する国家にしたいと思ったのは、日本人自身である。そもそも民主党政権が自民党から政権を奪ったのは「政治主導」を旗印にしたからではなかったか。

高級官僚の人事を霞ヶ関に割拠する中央省庁から内閣で一元管理する方向へ、日本のマスメディアはどれほど熱望し、支援し、一体何年をかけてそれを実現したのであったか。

いま官僚は内閣に服従している。内閣が人事権を把握しているからだ。服従するのであれば、トップつまり「政権」の意向を忖度するのは当たり前のことである。その政権は民主的手続きによって構成され「正当性」を有し、「支持率」も高いのだから、尚更だ。

だからこそ、「たかが」というのは小生がへそ曲がりであるせいだが、森友クラスのゴタゴタでこれほどまで長期間国会が紛糾するのは、官僚集団の意図せぬサボタージュがあるのではないか。そんな風にも思われるのだな。

かなり読者数がいるはずのニュースサイトには「忖度」をネガティブにとらえる意見すら公表されている。

政治家が恣意的に官僚統制をするべきではない。官僚の行政は「公平に」、「民主的プロセスによって定められた法規に沿って自動的に」、「文書として」進められるべきであって、政治家のいかなる意向も混じるとすれば不適切である。これこそ、かつての官僚国家・日本の特質(の一側面)であった。

政治家の意向を忖度する必要がないのであれば官僚主義がよいというロジックになるのではないか。デモクラシーというより、むしろビューロクラシーを良しとすることになるのではないか。

事件の黒幕を知りたいならば、それによって得をするものを探せ、だ。

そう邪推しているところである。

2017年3月29日水曜日

社会科学は技術革新をもたらしうるものなのか?

半月前に鼠径ヘルニアの手術をした。術後診断でOKが出たので先週末から東京に滞在し、姪の初リサイタルやら、大学入学祝いやらで動き回った。そうしたら、傷跡に貼られてあったテープがいつの間にか剥がれてしまい、夜になってみるとジュクジュクとしている。

翌朝、ホテル付近の外科にいった。感染したという診断だ。応急処置をしてもらい抗生物質を4日分投与された。「飲みきってくださいね」、「戻ったら元の病院に行って診てもらってください」。深いところまで感染が進んでいれば厄介だと脅かされる。

それで昨晩北海道に戻ったので本日再び地元の外科にいったのだが、感染は拡大していないものの、傷口が閉じるのは日数がかかるらしい。どうやらこの辺の回復スピードにも年齢が影響すると見える。

ヤレヤレ、である。


それにしても、医学の技術進歩は甚だしいものがある。知人や先輩には癌にかかった人も多くいるが、手術のあとは抗癌剤を服用しながら、(確かに当初は大変だったと思うが)元の日常に復帰して、もう長い時間がたつ。

癌や心臓発作、イコール寿命という見方は大きく変わっている。これが医学的な技術進歩の賜物であるのは言うまでもない。

工学的な技術進歩が製造業のイノベーションをもたらしてきたことも明らかだ。疑う人などはいない。

では、経済学や経営学のような社会科学の展開が、何か政府の経済政策や、企業の経営戦略において技術進歩をもたらしてきただろうか?社会科学の対象は人間集団のあり方だが、何かが精密な尺度において「真理」であると確認された瞬間はあるのだろうか。

経済学では常に何らかの「論争」が展開されており、学問上の競争は激しく、主流派の考え方も明白に確立されている。では、それだけの論争をしてきた歴史に見合うだけの社会の進歩があったかと問われれば、どうも自信がない ― まあ「市場メカニズム」のメリットを理論的に証明していることが経済理論の土台でもあるのだが、「市場」が最善の状態をもたらしえないという認識から例えば医療制度や育児制度、師業・士業サービスのあり方などが設計されていることも事実だ。

新興国の発展は経済学上の進歩の賜物なのか?経済学が進歩することで、経済の実態がより安定したり、より速く成長したり、より豊かな社会を実現したことがあるだろうか ― 経済学者はもちろん「ある」と考えているはずで、「歴史をみよ」と語るはずではあるが。

こんな疑問に対して、小生の若い時分であれば、「ケインズ革命を見よ」、「新古典派総合をみよ」という受け答えになっていたのだが、これもせいぜいが3、40年の賞味期限しかないような自己満足であったといわれれば、どこまでが経済学の進歩によるものかどうかわからなくなるのだ。


本当に進歩しているのかどうか分からない。のであれば、実際には退化しているとしても、人々はそのことに気がつかないだろう。

戦後日本の高度成長は、戦後になって導入された新しい技術がもたらした果実であった。高度成長は、誰の目にも明らかな技術進歩の証しであったが、それと同時に自然破壊や水俣病など様々な公害・外部不経済をも生み出した。そんな負の側面を解決することなくして一層豊かな社会を実現することはできなかった。

もしいまも、隅田川の水が真っ黒で悪臭を放ち、光化学スモッグで目が痛む毎日が続いているとすれば、本当に高度成長によって日本社会は進歩したのだろうかと疑わしくなっていただろう。

いまICT技術の進歩によって社会が生み出す情報が飛躍的に拡大してきている。確かに便利になるというのは進歩である。しかし、情報化の進展が何かを破壊しているのは、高度成長を支えた重化学工業が自然や生活環境を破壊したのと同じロジックで、疑いのないところだろう。情報産業の大手企業であるマスメディアが、高度成長時代の石油化学業界、金属産業と同様に、何らかの負の外部経済を生み出していることもほぼ確実である。何もフェースブックがインフラとなって拡散した「フェークニュース」を挙げるまでもない。他にも無数の例があることは誰でも認めるはずである。

いわば「情報公害」という表現になるだろうが、もしこんな問題が本当に存在するなら、まずは「情報産業による公害」という概念定義が必要である。モノであろうが、サービスであろうが、情報であろうが、生産にはやはり一定の品質管理、品質向上を目指した自己検証システムの確立が不可欠であるのは当然の理屈だ。コストは内部化されることで初めて規制なき自由経済は正当化されうるのだ。

確かに「知は力である」。だからといって、「情報」なるものが全てプラスの価値をもつとは限らない。こんなことは遥かな昔から分かっていたはずではないか。