2017年11月19日日曜日

「▲▲砲」が自然発生し繁茂しつつあるようだ

「文春砲」という言葉が日常化したかと思えば、今度はネット上のニュース、というか意見公表の共有空間ともいえるアゴラをたとえて「アゴラ砲」という語が使われるようになっている。

確かにアゴラという場は実に面白く、モノトーンで退屈な大手新聞社の紙面とは全然比較にならない。アゴラは意見を公表している著者が明らかであるが、新聞は誰がこんなことを言っているのか分からない。取材記者の意見か、編集局長の意見か、社長の意見か分からない。

「意見」というと大手マスメディア企業は「報道」を担っているのだと主張するだろうが、「何をどのように報道するか」という選択にそもそも主体的な意見が含まれている。事実をどう見るかはそれ自体が意見である。

前から言っているが、個人には参政権があり政治を語る権利があるが、法人には参政権がなく、会社として政治を語る権利はない ― マア、「語る権利もない」と言い切ると言い過ぎになるかもしれないが。

もう情報伝達のためのツールという視点において、新聞とインターネットの勝負は明確についてしまっている、と。小生は断言したい。

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たとえば、『公約違反の政治家を債務不履行で訴えられるか?』という問題提起があったりする。

こんな問題は、大手新聞もTVも真面目にとり上げられないに違いない。せいぜい、バラエティ番組でお笑いも混ぜて誰かが発言してポカッと叩かれる。そんな風に流すのがせいぜいである。つまり既成のマスメディアは、大手であるが故にあまりにも記事内容に自主規制、社会的規制を加えざるを得なくなっており、それが故に記事を読んでもまったく面白くない。かといって、内容にバイアス(=偏向、偏り)がなく、バランスよく世間の考え方を紹介してくれているかといえば、決してそうではなく、結局は自社の哲学や理念に賛同してくれる優良顧客層に買ってもらうために新聞を売っている、更には全国地域地域にある既存の新聞販売店を守るためには売れる新聞をつくる必要があるのだ・・・まあ、ブッチャケ、そんな成り立ちがあからさまになっている。それなら敢えて読む必要もない、と。もっとズバリ本質をついた同じ立場の意見はアゴラにある。勝負はついた。上ではそう書いたわけだ。

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ただ、公約違反の政治家を債務不履行では訴えられないだろう。なぜかといえば、政治家の公約は、支持基盤に対する約束であるにすぎず、反対派との調整を行う以前の段階であることは明らかなので、公約が実現されるかどうかは未定。つまり「公約とは予定」、「予定は未定」。それが選挙の時の「公約」というものだからだ。

もし一定の公約を掲げた政党が選挙で勝利を得たとすれば、国会でも多数派になる以上、公約を実現できるだろう。確かにそれが理屈ではあるが、無理に通せば「数の力で押し切った」と批判されるだろう。少数派も国民には違いなく、すべての政策は全体の利益になるものでなければならない。それが基本原則になっているからだ。損をする(=だから反対する)側に一定の保障を与え、少数派がそれで納得しない限り、多数派の「公約」は実現不可能である。そんな調整をしているうちに、多数派が次の選挙で負けたりすると、すべてリセットされる。

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公約なんてそんなものと言えば「下らねえ」と感じたりもする。

いまでも「軍事政権」はそこかしこにある。日本も国際環境によってはそんな全体主義国家に逆戻りする可能性がないとはいえない。命令できるなら公約は必ず実行できる。命令に服従しなければ「非国民」と判定すればよい。日本にもそんな時代があった。しかし、命令できる政府なら一度政権につけば、それ以後、公約などはしないだろう。トップと何人かの側近で政治をするだろう。

選挙にせよ、政治にせよ、民主主義にせよ、これらを前提すれば「公約」はこんなものだろう。「民主主義」とは「温かい家庭」と同じようなもので、口にするのは簡単だが、実践するとなると色々な問題が発生する。

とはいえ、こんな風に自分の頭で考えて見たくなるのは、問題提起が面白いからである。社会のことを理解するには、自分の頭で考えたいと感じることが大事で、「こんな事実がありますよ」というだけではもう不十分ではないか。まして、「これはこう見るのがよい」と上から目線で「教えてやる」といったスタンスで記事を書いて見ても、もう読者はついて来ないのではないかと思ったりする。

2017年11月18日土曜日

「政治ドラマ」、「政治俳優」、「政治女優」の時代なのか?

選挙に勝った<立役者>だというので小泉進次郎議員がブレーク中である。そうかと思うと、こんな記事も出始めた。

報道陣から代表辞任の思いを問われ、「日本と、そして東京が良くなることなら、なーんでもしたい」と意気軒昂だったがこの人の心変わりは速い。知事の任期を全うするかどうかも分からない。

(出所)産経ニュース、2017年11月18日配信

言うまでもなく小池百合子都知事の近況である。

政治が現実そのものであるという実感を喪失して、どこかで上演されているドラマに近いような感覚で聞くようになると、必要なのはワクワクさせるようなストーリーと、ストーリーの中で演技をする俳優と女優である。

前に投稿したように、元キャスターである小池百合子はマスコミがうんだ最上級の政治女優であった。 しかし、同女史はプロデューサーであるマスコミが期待する言動から外れて、勝手なことを発言し始めたので、役を降ろされた。あとは失墜の行く末が待つだけである。転落した大女優もまたマスコミ好みの主題なのである。

小泉進次郎も政治俳優の道を歩むつもりなら転落が近いだろう。

安倍総理はマスコミの脚本を演じるつもりはハナからないようだ。今の日本社会ではそれが正解だ。

予想だが、小池百合子女史は近い将来に「平成無責任女」と呼ばれるようになるのではないだろうか。マスコミがそう名付けるのではないか。かつてマスコミは植木等を「昭和の無責任男」と呼んで、一大ヒットを飛ばしたものである。平成無責任女・小池百合子を完成させるのは都知事辞任(→海外の大学客員教授就任?)劇をおいて他にない。

政治ドラマを考えているマスコミはその方向でいまシナリオを検討中だろう。いま、小生、そんな想像をしている。もしそうならば、先ごろから本ブログでも何度か投稿している「小池女史=嘘つき魔女」よりももっとタチが悪い悪ふざけであると思ったりする。

なぜそんな悪ふざけをするのか? 視聴率が上がるからである。販売部数が増えるからである。儲かるからである。ただそれだけだと小生は思ってみている。

実に、<国民の国民による国民のための政治>が<少数の私企業>の損得計算に利活用され、影響され、時に支配されている。憲法で保障された表現の自由には当てはまらない問題のはずである。表現の自由とは思想や信条、信教に関する個人の権利のはずである。私企業の利益とは関係のない、もっと基本的な概念のはずだ。しかし、誰も何も言い出せない。

情けない状況になってきた。

2017年11月16日木曜日

裁量的な行政 vs 恣意的な反対

この春から紛糾してきた加計学園獣医学部の新設が大学設置審で認可され来春には開校の運びとなった。

これで事態は収束に向かって間もなく一件落着かと思われたが、ドッコイドッコイと言いたいのか、野党はまだなお徹底追及する構えを見せている。土俵際で倒れながらも、背中に砂が付くまでは「まだ負けてない」と、そんなスタイルであるな。

野党の頑張り自体は尊敬に値するものだ。野党が無気力になれば、民主主義そのものが腐敗してしまう。とはいえ(公平な第三者で構成されると想定するべき)審議会の結論自体を認めない、その結論に沿った行政府の事務執行にまで国会が異論を挟むようになると、行政が停滞する。さらには立法府が行政府の事務にそこまで介入できる権限があるのかという問題も出てくるだろう。

行政権は行政府にある。明確に法律に反している、あるいは立法趣旨に反している時は、立法府は行政府の行為を変更するべきだ ー 行政組織、行政法分野には、小生、素人だが、多分、間違っていない。違法の場合は国会が取り上げる以前に即刻判断がつくはずだが、関連法制の趣旨に照らして不適切であるならば、不適切であると判断するプロセスが国会の場で必要だ。多分、そのプロセスも多数派である与党に影響されるだろう。それが選挙というものではないか。委員会の質問の場で政府の不適切を指摘することも当然ながら可だ。しかし、不適切の有無は法に沿って指摘するべきであり、「なんとなく感じが悪い」などという修辞や誇張は野党の信頼性を落とすだけだろう。

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どうやら野党は獣医学部新設に関わる石破4条件に反していると。この線から攻勢をかけてくるという報道だ。

そもそも石破4条件というのは、2015年当時に地方創生担当相であった石破茂議員がまとめ平成27年6月30日に閣議決定された「日本再興戦略改訂2015」(本文第2部・第3部)の121ページに記載されている、以下の一文であるらしい。

現在の提案主体による既存の獣医師養成でない構想が具体化 し、ライフサイエンスなどの獣医師が新たに対応すべき分野における具体的な需要が明らかになり、かつ、既存の大学・学部 では対応が困難な場合には、近年の獣医師の需要の動向も考慮 しつつ、全国的見地から本年度内に検討を行う。

上の文中の『本年度内に検討を行う』というのは、平成27(2015)年度中という意味である。「かくかくしかじかを考慮しつつ、本年度内に検討を行う」という文言は「来年度以降には一切の検討を行わない」ということを意味しない。もし「未来永劫」ずっと行政府の判断を縛るものにするなら閣議決定ではなく立法化しておくのが適切であった。そうすれば立法府が行政府を縛ることができる。

実際、当時の責任者であった石破氏は次のように語っている。

 「学部の新設条件は大変苦慮しましたが、練りに練って、誰がどのような形でも現実的には参入は困難という文言にしました…」。平成27年9月9日。地方創生担当相の石破茂は衆院議員会館の自室で静かにこう語った。


当面は獣医学部に参入できないようにしておこうという「行政判断」として上のような文章表現にしたということは明らかである。これ即ち「既得権益の保護」であり、現政権だけではなく、経済理論にも、近年の世界の経済政策の潮流にも反している ー この1,2年の保護主義には合致しているが。

集団的自衛権ですら閣議決定を変更して、それまでの「非」を「是」とした。いわんや一大学の一学部においてをや、だ。こんな些末な事柄など閣議決定をいつでも変更できるだろう。

というか、石破4条件なるものは元の文書を素直に読む限り「当面の方針」である。

「石破4条件」を盾にして正面から論争するとしても野党に勝ち目はないのではないだろうか。

確かに安倍政権は裁量的に色々な事を変更している。それが是か非かという問題はある。しかし、論理は曲がりなりにも構築している。野党の反対にはそれがない。このままでは恣意的な反対だと言わざるを得ない。そうなるのではないか。

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 まあ、小生もこの件については専門的にあらゆる記録を調べてはいない。ひょっとすると、▲▲が●●でこんな発言をしている、こんな資料が隠れてました等々、というような動かぬ証拠があるのかもしれない。

だが、しかし、政治とか経済のプロセスはその因果関係が多面的で複雑だから分かりにくいが、紙一枚で大きな政治的決定が為されることはない。紙一枚はリアルな諸事情の結果である。紙一枚がその後の進展を決めるわけではなく、その紙一枚を書かせた諸事情が決定していくのである。紙一枚の一言一句に執着して是非を議論しても重箱の隅をつつくだけの神学論争になるだけである。

『よお〜く調べてみたら、こんなことがわかりました』、『いやあよく分かったねえ』と。研究では確かにこんな局面もある。連想するのだが、ビッグデータの世界では、1千万件のレコードを分析して初めて分かってきたことがある。そんなニュースが時々ある。それほど重要な傾向があるなら、なぜ今まで気がつかなかったんですか。重要な傾向なら誰でも経験で気が付いているのではないですか、と。そう聞きたくなるではないか。

ビッグデータ分析にも創造性のある分析とつまらない分析がある。ビッグデータなら良いとは限らない。問題追及にも、真に社会を進歩させる追求と重箱の隅をつつくだけの追及がある。問題がある(ありそうだ)から追及する、それだけではダメなのだ。

細かな細部をつついて初めて分かることが、実は決定的に重要な主因であったなどということは経済分析、経営分析、あるいは政治分析においてほとんどない。基本的なことは粗々のモデルで大体分かるものだーもちろん一定の視点/パラダイムは大前提としてある。たった一つの細かな証拠が結論を左右するほどに決定的であったりする刑事事件とはここが違う。社会現象の分析と刑事捜査とは本質的に異なるものである。国会議員は、政治・経済・社会の理解者としての役割が主であって、刑事事件捜査の担当者としての感覚を持つ必要はない。

だから余り細かな事ごとを調べて、加計学園問題を理解しようなどという気にはなれないのだ。


2017年11月15日水曜日

「小池劇場」の終幕?

小池都知事が希望の党の代表を辞任して小池劇場の幕はおりた、とワイドショーにまた話題を提供している。

希望の党の立ち上げから50日。今夏の都議選で都民ファーストが圧勝してから100日余。昨年の夏、都知事選に自民党から抜け駆け立候補してから1年余。

先日の投稿では、小池劇場なる出し物、昨夏の都知事選で幕があいたと述べた。それは長大な喜劇であったと書いた。ジャンヌ・ダルクという悲劇のヒロインかと思いきや、ジャンヌ・ダルクが舞台の真ん中でスッテンコロリンと転んでしまう、実は公衆の大笑いをとる傑作ドタバタ喜劇であるとした。

ノーベル文学賞をとったカズオ・イシグロでさえも表現し切れない、現世のアヤがみてとれると。そんなことも書いた。

やっぱりそうであったか・・・今はそんな感想である、ナ。

そういえば、この秋に盛んに投稿したように、小池女史、勝負服も緑から黒に変更した様子だ。誰かがアドバイスしたのだろうか。

結局、マスコミに使い捨てられようとしている政治女優の一人である実態があらわになってきたということか。

栄枯盛衰。

人間も会社も、時にバブルがみるみる膨らむようなブームにわくことがある。しかし、長期的にはその人間の識見・力量、会社の経営陣の実力、その会社がもっている経営資源を反映するような結果に落ち着いて、全体の状況は定まるものだ。

人生には、政治人生、学者人生、医師人生等々、いろいろな人生があるが、人生を全うするだけでも立派な人生である。中途で▲▲生命を失うといった例は歴史上でも数え切れない。

大きな事を成し遂げるのは、その人の巡り合わせで大勢の人が集まるからであって、上昇したいというような「希望」があって出来るものではない。そもそもの志と時運がマッチすることが大事だ。

こんなことを考える機会を提供してくれた顛末であった。

2017年11月14日火曜日

家族 vs 福祉国家

最近は高齢者福祉から育児支援・教育支援になんとなく世間の注目が集まっているが、TVのワイドショーでもとり上げられているように、問題の規模や深刻さは高齢者問題をどうするかの方が段違いに大きい。これはもう放映される情景をみれば、誰でもが直感的に明らかだと思うのだな。

孤独死しかり、住居難しかり、生活苦しかり、病気になって病院に行けないという運動困難しかりだ。あらゆる人生苦が凝集されている社会問題が高齢者問題である。

★ ★ ★

どんな人間社会においても高齢者や幼少年をどう養うかはずっと問題であり続けた、これは当たり前の事実だ。

そして、その解決の主体になってきたのは、ずっと家族・親戚・同族であったことも事実である。「国」や「社会」は家族内、親戚内の問題について深くは入り込まないのが不文律であった。なぜなら「社会」という存在は実際にはないのであって、その実態は他の家族であるに過ぎないからだ。自分たちの家族内で発生した問題は、原則として家族内で解決するのが当たり前だというのが日本人の倫理だったと言える。そんな倫理がある以上、国は家族内の問題は家族に一任するのが、面倒でなく費用もかからず楽であったのだ。

その倫理・慣習を突き崩した根本的原因は、明治以降の兵役の義務と戦前期・日本の軍国主義によるいわゆる「根こそぎ召集」である。

家族や同族の生き残りのためならば生命を捧げることすら厭わなかった日本人の生活に、「国家」のために命を捧げよと求めてきた政府は明治政府が初めてである。そんな政府は1945年に(幸いなことに)消滅したが、家族や同族の上に国家や社会を置くという価値観はまだなお色濃く日本社会に残っている。

★ ★ ★

自民党の改憲案では家族の重要性を謳っているようだが、実際に最近とられてきた制度改正はずっと昔の尊属殺人重罰規定の廃止、個人ベースの国民年金制度、離婚時の年金分割、配偶者控除見直しの開始などなど、あくまでも個人個人に区分した生活保障が基本的な潮流になっており、家族をむしろ個々人に解体する方向を指している。

人生を通した生活保障は元来が家族や同族が行ってきたのであって、そうでなければそもそも「家族」や「結婚」、「親子」や「親族」などは単なる束縛であり、存在価値がないものではないかと思う。いやいや、現実に家族や同族といった観念は日本社会において面倒で不必要なしがらみとして捨て去られようとしているのかもしれない。この2、30年は日本社会の激変期であるのかもしれない。

それならそれでも構わないのだろう。ずっと昔は「世間」と言ったり、「浮世」と言ったりしたものだが、どう変わっていくか予測はできないのが社会である。それでもなお、老いた男性には別れた妻がおり、3人の子供がいるにも関わらず、誰一人として保証人がなく、老齢でいつ死ぬかわからないという理由で、住む家に困り、自分の死が早く訪れることを望むなどという状態は、哀れな国であるとしか思われない。

たとえば市役所や地域社会が何かの措置を講じ、国もそんな高齢者の社会支援をバックアップするというのは、かつての軍人恩給制度とどこか似ている感覚がある。問題がそれで解決されるなら、それでもいいのだろう。

しかし小生は、ずっと以前にも投稿したが、マーガレット・サッチャー元英首相が言った"There is no such thing as society. There are individual men and women, and there are families."、この社会哲学の信奉者だ。マア、単なる好みなのかもしれない。しかし、社会とは「他の家族」のことだ。社会が支援するというのは、他の人たちの財布から出してもらうということである。なぜ血の繋がった自分たちでまず助け合わないのかという疑問は、誰も口にしないだろうが、社会福祉にはいつも潜在しているウィークポイントだろう。この話題では、小生、社会の役割軽視、家族の役割重視、親族間の相互扶助尊重。疑いなく右翼である。

軍国主義や全体主義が持続可能ではなかったように、国民全体を一家族のように擬制するような社会福祉もまた持続可能ではないと思われる。

2017年11月11日土曜日

「日本の家電メーカーは世界に冠たる・・・」と豪語していた時代

東芝がテレビのREGZAブランド、パソコンのDynabookブランドを完全に放棄することを検討しているようだ。

歳月匆々、転た凄然というのはこの事である。

◇ ◇ ◇

小生が北海道の地方都市に移住してきたのは1990年代の初め、バブル景気は崩壊したものの、それから後に「失われた15年」という長い時間が必要とされていたとは想像もしていなかった頃だった。単なる株価の大幅調整、地価の水準調整。その程度に考えていた。

ただ日本の花形産業がそれまでの「鉄は国家なり」から軽薄短小の電機産業にシフトしていく方向は必然とみられていた。中でも日本が絶対的な強みを持つと思われていたのは、家電製品全般、半導体、精密機械だった。自動車は確かに強力だったが、まだまだアメリカのビッグ3が覇権を握っていて、トヨタやホンダ、日産はあくまでも世界市場への挑戦者という立場でしかなかった。

その電機産業は既にアジア全域にサプライチェーンを構築中であり、製品の信頼性、コスト優位性などすべてを含めて、絶対的な競争優位性を信じて疑わないという鼻息だったことを鮮明に記憶している。「生産のモジュール化がカギなんですよ」と何度聞いたろうか。

・・・まるで、ミュージカル『キャッツ』でグリザベラが歌うバラード「メモリー」の世界である。
Memory
All alone in the moonlight
I can smile happy your days (I can dream of the old days)
Life was beautiful then
I remember the time I knew what happiness was
Let the memory live again
メモリー 月明りの中
美しく去った過ぎし日を思う
忘れない その幸せの日々
思い出よ 還れ
今朝、カミさんが『大分寒くなってきたよね、そろそろ毛布もいるけど、ダイソンのヒーター、羽がついてない扇風機みたいなものがあるでしょ?あれもネ、いろんなヴァージョンがあるみたい。扇風機にもヒーターにもなって、静かみたいヨ』と眠いのに話しかけてきた。薄く目を開けると、もうiPad Air2を指でタッチしながら何やら調べている様子だ。

◇ ◇ ◇

アップルはアメリカ企業だ。ダイソンはイギリス企業だ。

日本の電機産業は世界に冠たる競争優位性を築いていたのではなかったのか。文字通り『過ぎし日を思う』朝のひと時であったのだ。

小生がまだ大阪で研究をしていたころ、主に使っていたのはNECのデスクトップPC98であった。DOSマシンである。ただ、その頃アップルのMacintoshが急成長しつつあって、やがて小生も研究費でSE/30を購入した。その後、Quadraまでアップルを使った後、ようやく追いついてきたWindowsに移行して、その後PCはずっとMicrosoftを愛用している。ただ、趣味の世界ではやはりアップルを使い続け、ウォークマンを二度ほど買い換えたあとは、iPodに移り、その後はiPhone2、iPhone4sと買い換えてから、いまのGoogle Nexusにたどり着いた。いやあ、SONYのオンライン・ミュージック・ストア・・・何と言ったっけなあ・・・使いにくかったねえ。それだけは覚えている。

小生が若かった頃にはなかったものが、今では広く使われていて、ライフスタイルは昔と一変してしまった。そんな新しい生活を支えているものは第一にスマホ、タブレットというよりインターネット。PCもタッチペンが鉛筆や万年筆なみになってきてデジタルノートがとれるようになった。買い物はAmazonだ。この冬にはEchoが日本にも登場する。毎日の家事では掃除・洗濯・料理がある。そのうち、掃除はダイソンのコードレス・クリーナーに買い替えてしまった。料理といえば炊飯器だが、それはまだ日本製だ。しかし、ホームベーカリーはフランスのTfal、やかんはTfalのケトル、コーヒーサーバーはネスカフェのバリスタ。まだ現役続行中であるのは、東芝製の洗濯機であるが、東芝は既に白物家電事業を中国に売却した。

こうみると、世界に冠たるはずの日本電機産業は中国や韓国の低価格商品に駆逐されて敗退したわけではないことがわかる。もちろん半導体が韓国勢に後れをとったことは事実だ。しかし、1990年代初めの時期、過剰設備を解決しようとして生産能力をスリム化した日本勢の戦略が韓国勢の拡大戦略を誘発したことも否定できまい。戦略的代替関係が支配している設備投資ゲームにおいて、日本の出方をモニターしているライバルの存在を意識することなく、何らコミットメントを発することなく、スリム化戦略を進めたのは油断というしかない。

世界を変えるような創造的な新製品はアメリカやイギリス勢に後れをとり、コスト優位性があるはずの既存製品では戦略ミスを犯した。戦略ミスは経営能力の問題だ。

競争優位を築いた先駆者が退いたあと、実際に手足を動かし、汗を流して動き回った後続世代が経営の舵取りを担うようになった。おそらく自分たちこそが世界市場の覇権を築いたという感覚を持っていたのだろう。それは錯覚だった。勝つか負けるかは、個々の兵士、個々の営業レベルで決まるのではなく、もっと上位レベルの戦略的判断を担う人たちの能力で決まるものである。一定の方向付けを与えられて個々の問題を解決できたからといって、世界規模になったメガ企業をどう発展させていくかという高度の問題は身に過ぎた問題であった。

◇ ◇ ◇

戦争はやってみないと分からないところがある。もっと危ういのは、負ける可能性を認識できず、必ず勝てると信じてしまう人物群が指導的なポジションを占めていることだ。まあ、最後にかつ人間というのは有能な人物ではなく、勝てると信じている人間であると、ナポレオンは言っているそうだが。そのナポレオンも敗れて人生を終えた。

黄金時代の日本の電機産業は、確かに韓国や中国の低価格戦術に被害を被った。しかし、アメリカ勢にも、ヨーロッパ勢にも創造性や魅力という点で敗退したのである。

決して安物にシェアを奪われただけではない。「世界に冠たる・・・」は、ヘボの勘違いであったに過ぎない。

「価値観や哲学、統制ある行動パターンとか、すべて間違いだったとは思えないんですよネ」と言っているようでは、電気産業だけではなく全産業において危ないと小生は思って見ている。

2017年11月10日金曜日

大国になれば「大国の論理」が出てくるのは自然である

訪中しているトランプ大統領に対して中国は「太平洋二分論」を繰り返しているとの報道だ。やはりそうか、という人も多かろう。

1930年代から40年代にかけて、大日本帝国の基本戦略は「大東亜共栄圏」というものだった。その狙いは、広域アジア圏からイギリス、フランス、オランダ、それからアメリカなど欧米の勢力を「排除」(=植民地を解放)し、独立したアジア世界を構築しようと。立派に言えばこのような戦略を実行していた。中国が「大国の論理」を振りかざしているなら、戦前期・日本も同じようなホラを吹いていたわけだ。

近年、中国が特にアメリカを相手にするときに主張する「二大国」、「太平洋二分論」は、かつて大日本帝国が主唱していた戦略とさほど違いはない。アジアのことにアメリカは口を出すな、と言っているわけだから。

なので、中国が主唱している「太平洋二分論」は、急成長を遂げつつある国なら必ず口にする発想に過ぎず、そういうものだと見るのが自然だ。が、その国が「大国」を目指している。この点は、やはり見逃せない事実であり、既存勢力との対立から地域を不安定化させる要因たりうる。古代ギリシアのペロポネソス戦争以来、覇権の交代が進む時代には、安定ではなく不安定が支配する(ツキディデスの罠)。

本当に現代の中国はペロポネソス戦争を見る目で見なければならないような存在なのだろうか?

◇ ◇ ◇

旧勢力の側にたって整理してみよう。

客観的にいうと、急成長する国家が危険な存在になるのは、以下の場合であろうと思う。

  1. 生産力が急速に発展し、債務国から債権国に移行し、発言力が高まった。
  2. その裏面で、マーケット、というより顧客や影響力を奪われた既存勢力があり、対立的な状況が生まれている。
  3. 新興国は、まだ文化的優越性を持たず、ヒトの流入、カネの流入が安定的に期待できない。
  4. 新興国がマクロ経済的な問題(=需要不足、失業増加等の混迷)に直面し、経済取引や経済政策以外の手段(政治外交的圧力、軍事など)で問題を解決したいと願う誘因をもっている。

アジア圏における戦前期・日本のポジションを上の1から4までの観点からみてみる。大日本帝国については上の1は事実だった。3も当てはまっていた。4も第一次世界大戦後の1920年代から30年代を通して確かにそう言えた。2はどうだったろうか。日本の国際的競争力はそれほどのレベルではなかったはずだが、第一次世界大戦の勃発から日本が欧米企業の顧客を奪取した状況が先にあった。大戦中に日本国内では設備投資ブームが発生した  ー  それが終戦後は過剰設備となったのだが。4の苦境は、大戦終了後の反動であった。やはり2も該当していた。大日本帝国については1から4までが全て当てはまっていた。

現在の中国だが対外純資産はすでに巨額に上っているので1は該当する。2も当てはまるだろう。日本は中国に、というより電気製品で韓国にという方が適切な部分があるが、その韓国が中国に顧客を奪われているとすれば、やはり2は当てはまると言ってもよいかもしれない。しかし、日本が生産拠点を中国に移している面もあるので単純に当てはまるとも言えない。3については、ヒトは集まっていない。が、カネは集まっている。実際、上海市場は好調、中国には大富豪がどんどん誕生している。しかし、中国の生活(Chinese Way of Life)、中国の文化(Chinese Culture)が世界に魅力を感じさせている状況ではない。ヒトは中国に憧れはしないだろう。3は半分程度は当てはまるというところか。4は微妙である、というより当てはまっていない。中国経済はバブルと言われるようになって久しいが、バブルは5年も10年も続きはしない。バブルというよりは高度成長時代というべきだった。が、成長率は必ずキンクする。中成長路線へのスムーズな移行ができるかどうかが今の問題である。成長している限り、国営企業の不良部門は必ず整理できる。

中国は対外純資産はプラスに転じたとはいえ、所得収支はまだマイナスであり、外国に支払う利子や配当の方が大きい。対外直接投資残高をみると、世界で10位前後であり、他を引き離すアメリカに次ぐ2位から9位までの諸国と同程度の横並びである。上の項目の2も該当するかどうか分からない。しかし、対立に至りそうな勢い、というか芽はある。この位は言っても可かもしれない(言えると考える人が、中国脅威論を述べているのだろう)。

中国に確実に当てはまるのは上の1。1だけである。他は全て微妙、もしくはハッキリと当てはまっていない。

こうみると、中国の「大国志向」は自国の問題解決のために採用される「拡大戦略」というよりも、経済成長がもたらす自然な結果であるとも言え、「志向する」というより「事実としてそうなる」、どちらかと言えば19世紀のアメリカ合衆国の成長とあい通じるものがあると思われる。

第一次世界大戦中のアメリカと北朝鮮危機の下での中国と、両国はいかに似たポジションをアジアにおいて占めていることだろうか。北朝鮮という厄介物がなければ、旧勢力(日本)の側が新勢力(中国)に対してもつ嫉妬がアジアにおける決定的な不安定要因になっていたかもしれない。「北朝鮮のおかげ」という一部政治家の発言は、案外、的を射ているかもしれないのだ ー そんな深い意味はないと思うが。

◇ ◇ ◇

ペロポネソス戦争のように旧勢力(コリント、スパルタなど)の側から新勢力(アテネなど)に戦争をしかけるということがなければ、新勢力である中国の側から軍事的抗争をしかけるという事態は予想しづらいものがある。ツキディデスの『戦史』に叙述されているように、ペロポネソス戦争を引き起こした根因として、旧来の商業国家コリントが新興の海軍国アテネに対して感じる嫉妬があったことは現代にも通じる歴史である。軍事強国スパルタはアテネと戦う積極的理由はそれほどなかったにも関わらず、軽武装国家コリントがアテネと対抗するために利用され、戦争に巻き込まれたと見るのがやはり正しいのだろう。

要するに、成長する中国自体が危険な存在であるとは小生には思われない。なぜなら、世界GDPが増加することは経済状況としてプラスに決まっており、まして世界の経済的不平等を解消するのに寄与するのであれば、倫理的にも善いことだ。これが道理だろう。というのが、現在の状況ではないだろうか。

そう。確かに古代ギリシアにおいて、ペロポネソス戦争勃発時においてアテネは未だ新興勢力であった。ギリシア世界の文化的中心ではなかった。ギリシア悲劇が花を咲かせるのはペリクレス時代というより、ペリクレス没後の戦時、敗戦直前までの暗い時代であった。プラトンがアカデメイアを開学したのは敗戦後の混乱しつつあるアテネである。政治的勢力としてアテネは没落途上にあった。政治的に没落したアテネにあって、文化的には花が開いた。後世に残る文化とはそんなものであろう。

まあ現状をみると、現代中国という地に非常に魅力的な文化が花開き、世界中の人を魅了するのは、まだしばらく遠い将来のことである。そうとも言えるようである。むしろ中国がそのような場になるように他国が対応していくことが、世界規模の幸福の増進になるだろう。これだけは言えそうである。

最終的に世界中の人たちが従うのは、優れた文化にであって、戦争の勝者にではない。アメリカの台頭によって欧州は地盤沈下したが、それが世界にとって不幸であったと論じる人はどこにもいないだろう。それと同じである。

覇権闘争にカネをつぎ込むことの損は日本も十分にわきまえておくのが賢明である。日本国が提供できる魅力を毀損するだけである。

『北朝鮮のおかげで政権のやりたいことができる』などという政治哲学では、文字通り「お先真っ暗」、成るようにしかならない。「一寸先は闇」という政治しか期待できない。これまた今の時点で言えそうなことである。

2017年11月6日月曜日

罪の公訴時効 vs 知的財産権の効力

近いうちに映画が公開されるので評判のミステリー小説『検察側の罪人』(雫井脩介:文春文庫)を読んだ。ミステリーとは言うものの、プロットは半分辺りで明らかになってしまうので、あとは相当程度ヒューマンドラマ的な味わいになっている。

内容の批評はさておき、一言だけ覚え書きを。

公訴時効によって罪を逃れた犯罪者が本来受けるべき罰を与えるに、いかなる罰が最も厳しく、苛酷であるか? それはやってもいない犯罪で立件し、刑に処することである。つまり、冤罪の苦痛は何ものよりも耐え難く悲痛である。もしも罰するなら冤罪より苛酷な「刑罰」はない。無茶な論理ではあるが、こんな着想が作品のベースにある。

殺人罪の時効がまだ15年であった時代が発端になっている。しかしながら、殺人罪の公訴時効は2010年4月27日に「刑法及び刑事訴訟法の一部を改正する法律」によって既に廃止されている。

20歳の時に犯した重罪は、たとえ90歳の老人になって罪が発覚しても、刑罰から逃れることはできない。国民(=公益を代表する立場に立つ検察)は、70年の時間の長さの中でどんな生活が営まれて来たのか、それは別問題として70年前の罪の責任を追及できるようになった。もしこんな状況が最初からあれば、上記作品の主人公(?)である野上検事は無理な冤罪工作をせずともすんだわけだ。

ここでちょっと思うのは、知的財産権の存続期限である。各種権利を整理すると
特許権: 出願から20年間
実用新案権: 出願から10年間
意匠権: 設定登録から20年間
商標権: 設定登録から10年間
著作権: 著作者の死後50年間(法人著作は公表後50年間) 
になっている。すべて有限期間である。

知的財産権の中には、社会生活を一変させるほどに決定的だった技術革新も含まれている。しかし、そんな特許技術も存続期間は20年間であり、その後は誰でもその技術を模倣して、利益を追求できるわけである。

社会全体に巨大なプラスの価値を提供した人物であってもその功績、というか報償を受ける権利は20年間で消失し、反対に犯罪という反社会的な行為を犯した場合には(特に重大な犯罪の場合であるが)無期限にその責任を追及されるというのは、表現は難しいが直観的にバランスがとれていないように感じる瞬間があった。

確かに公訴時効は、15年とおいても、25年とおいても、理不尽なことが生じうる。だから無期限に社会的責任は続くものとした。しかし、であれば、たとえば新素材や特効薬を見出した特許が20年間で消失するというのは、「世間というのは忘れっぽく、恩知らずである」と発見者は感じるかもしれない。技術が古くなり使われなくなれば、自然に消え去っていくということだが、使われているなら使用料は無期限に支払ってほしいと考えるかもしれない。豊かになれた功労者の恩を<社会としては>忘れてもよいなら、半世紀も昔の犯罪も<社会としては>忘れるとしても、それも在りうる考え方ではないか。そんな問いかけがあってもよいような気がした。

恩は忘れても恨みは忘れぬ、というのは理が通らない。そう問うても可だ。

まあ、ずっと歌い継がれたり、読み継がれたりする音楽や文学作品は、作者の生前はずっと、死後までも権利が守られているわけだから、犯した罪の責任も当人の死まで及ぶと考えても、整合しないとまでは言わないが。

◇ ◇ ◇

それにしても、小生、クリスティの『検察側の証人』は何度も読み返していて、同じ作者によるもっと高名な『ねずみとり』よりずっと愛着があるのだ。『検察側の罪人』というタイトルには、意味不明で思わず「ン~~ン!!」と唸ったのだが、読んでみると「なるほどね」と納得はするものの、一寸底が浅いなあという印象だ。

2017年11月4日土曜日

現代社会を象徴する迷宮: 年金制度

60歳を超えてからも国民年金には任意加入をして<継続>してきたと思い込んでいた。ところが、先日届いた基礎年金支給額の証明書をみると<満額>ではない。吃驚して色々と調べてみると、国民年金の任意加入手続きは居住する市役所で行うことになっている。ずっと以前、60歳になったときに勤務する大学内で年金関係手続をしたのだが、そのとき『年金関係はこのまま継続しますか』と、そう聞かれたのを記憶している。『ええ、継続でお願いします』と、そう答えたのだった。にも関わらず、だ。「国民年金への任意加入手続きは今回の手続きには含まれておりません」とか、「任意加入は市役所のほうで行ってください」とか、一言あってもよかったのではないか、と。そんな憤りを感じたのだが後の祭りと思うことにしていた。

それが少し以前のことだ。

カミさんがもう少しで60歳を迎える。これまでは小生の給与で国民年金保険料を払っていることになっていた。いわゆる専業主婦の「3号被保険者」である。小生はカミさんが60歳を超えても給与をもらう。カミさんは、しかし、60歳を迎える。「保険料支払ったことにしてくれるのかなあ?」、そういう疑問で、年金機構に電話をかけてみたのだな。

カミさん: やっぱりネ、払わなくても払ったことにしてくれるサービスは60歳で終わるんだって。その後、任意加入したいなら市役所に直接いって、手続きしてくれっていうことだよ。 
小生: やっぱりそうか・・・とにかく60歳で切れるんだな。給与はもらい続けるけど、それまでは払ったことにしてくれる、誕生日の後は払ったことにはしてくれない。自分で払いなさいと、そういうことか。なんか可笑しいけどねえ。 
カミさん: サービスだって言ってたよ(笑)。してくれるのはサービスだって・・・でね、その手続きはまだ出来ないそうよ。誕生日の前日から手続きが可能ですからって(笑)。そういう<規則>なんだって。あっ、それからネ、旦那さんが勤務し続ける場合は60歳からあと、国民年金への任意加入は認められないことになってるって。だから、大学の事務の人のせいじゃないんだヨ、定年が63歳だからさ、仕事を続けるでしょ、だから国民年金には入れなかったって事。 国民年金は入れないけど、厚生年金には入っているはずだから、そちらが増えてるでしょって、言ってたヨ。国民年金は、平均で1年63万円くらいなんだって。満額支給の人って、あんまりいないみたい。
小生: じゃあ『年金はこのままで行きますか?』というのは一体なにを聞いたのかなあ・・・ 
カミさん: でもおかしいよねえ、60歳からあと、▲▲タンは給料はそのままもらっていても保険料は払わないことになった。でもワタシの保険料は払ってなくても払ったことにしてくれていた。 
小生: これは分からないヨ。知らないうちに未納になったり、払っているつもりがいつの間にか払えなくなっていたり、一体全体、こんな制度は誰が作ったのかねえ・・・??
すべて制度は「そうなっているんですから」と思って、個人個人の行動の大前提として受け入れれば、大前提自体の合理性を問題視する必然性はない。そうなっているものとして、後の合理性を確保すれば、それで最適化されるからだ。

しかし、現在の年金制度、ずっと昔にフレデリック・フォーサイスの『悪魔の選択』を耽読したものだが、まさに今の年金制度は「悪魔の制度」であるような感じがする。

複雑にして精緻、精緻にして理解不能。しかし、機能している。

一体、だれがこのような制度を構築したのであろうか。

2017年11月3日金曜日

モリカケ・ロングラン・・・まさかないとは思うが

大学設置審議会で加計学園獣医学部(今治市)の新設が認可される方向となった。これでこの春から世を騒がせてきた加計学園騒動も一区切りがつくだろう。審議会の新設認可が出る前と後とでは問題の性質がかなり異なってくるのは明白だからだーというより、問題そのものが実存していたのかどうかすら相当曖昧な状態に置かれている。だからこそ、世間は納得していないとも言えるのだろうが、正に、問題はないということの証明は至難であるという一例になってしまった。

その「まだ問題はあるのか」という点だが、世間には、設置審議会の審議内容自体に疑問符をつける人もいる。あるいは、大上段に振りかぶって『大学設置審議会の加計学園の獣医学部設置認可は、問題が無かった事を意味しない』といった論調もある。

一般的には、大学設置審議会の認可には問題がある可能性が常にある。もちろん厳しい認可要件を設ければ、設置される大学に問題が潜在している確率を低く出来る。しかし、中央官庁が大学新設に厳しい要件を課すことが適切かどうかという問題も片方にはある。と言って、要件を緩くすると、日本国内の審査基準が国際基準より甘いのではないかというバイアスが生じる。いわゆる統計分析でいうアルファ・ベータ問題だ。審査を担当する委員も神の目を備えているわけではない。一般論を述べても、だから加計学園獣医学部について何かの具体的な問題点があると指摘することにはならない。一般論は一般論である。

森友はどうか。こちらは会計検査院の審査によりごみ撤去費用が過大に見積もられていたという結論が出てくる方向だ。値引きが過大であったということでもある。

しかし、この問題は詰めれば詰めるほど事務手続き上の瑕疵の有無の問題となり、直接の責任は近畿財務局、せいぜいは財務省理財局長まで監督責任が及ぶかどうかではあるまいか。ましてもっと上の事務次官、さらに上の麻生財務大臣にまで国有財産処分の不手際の責任が及ぶとか、行政府の最高責任者である総理大臣に責任が及ぶという風には、正直言って、ちょっと「同意しかねますなあ」と言わざるを得ない。

そんなことを言えば、小生が暮らしている北海道の地方都市の一隅で行われた国有地払い下げ、その後の宅地造成においても、何か東京の首相官邸の力が行使され、不正が行われていた可能性がある。そんな見方もとれるということになる。

まあ、とれるのだよということだろうが、そもそも力を行使する側において動機がないのではないか ― 森友経由でカネが政治家にわたるなどという裏の贈収賄の構造でもあるならまた別だが、しかし、話しは政治家がカネをもらったのではなく、寄付をしたというのが問題になっているくらいで真逆である。

ま、森友事件で問題があったとすれば、首相夫人が名誉園長をしていた。この一点だけではないだろうか。やはり、公の場で何か一言、夫人の釈明があってもいいような気もしないでもないが、『軽率なことでございました』というだけになるのは確実であるし、だから首相を辞めさせるという風にはならないのではないか。

ま、マスメディア大手はどれほどの扱いをしたいと予定しているかは不明だが、春先とはかなり違ってくるのではないだろうか。

2017年10月29日日曜日

文明は戦争で進化する??

戦前期日本の軍国主義を象徴する悪名高い刊行物として「国防の本義と其強化の提唱」(俗称:陸軍パンフレット、陸パン)というのがある。昭和9年(1934年)10月1日に発表され、世間はビックリ仰天した。誰が頼んだわけでもないのに陸軍が国家戦略の基本をマスメディアを通して提唱し始めたのだから吃驚するのは無理もなかった。

その書き出しはこうである。
たたかひは創造の父、文化の母である。試練の個人に於ける、競争の国家に於ける、斉しく夫々の生命の生成発展、文化創造の動機であり刺戟である。
(参考サイト)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1455287
(別サイト)http://teikoku.xxxxxxxx.jp/1934_kokubo.htm

満州事変、5.15事件と一部軍人の「決起」に刮目していた世間は、今度は不言実行の寡黙な組織だと見ていた軍部が「国家戦略」を語り始めたことに驚き、マスメディアも軍人集団というこの新参者の「理論」をもてはやした。新しい理論とは、国家的危機(≒存立危機事態)を乗り越えるための「戦略の必要」、「総動員体制の確立」だった。

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中世が終わり、特に15世紀以降、ヨーロッパがその国力において先進国・中国を凌駕するに至ったのは、戦争と内乱を契機にして技術文明、中でも軍事技術がより速やかに発展したことが主因である、と。これはよく指摘される点だ。戦争の敗者になる恐怖を克服しようとすれば、敵国よりも人口を増やし、軍事技術を進化させ、敵国よりも優れた兵器を保有することが欠かせない。そのためには先ず基礎科学の発展を国家として支援し、優秀な人材は身分や家柄、出自を問わず、実力本位で抜擢する。人づくりには大いに金をかけ学校制度を設けて体系的・組織的に育成する。このように、戦争の危機が常に目前にあるなら、負けないための国家戦略が何より重要になるのは事実だろう。これは理解しやすい話だ。

古代中国でも内乱があい続いた春秋戦国時代においてこそ、産業が大いに発展し、その後の漢帝国によるアジア世界制覇の基礎をつくった。日本でも庶民の農業生産技術とその結果である生活水準がもっとも速やかに発展したのは、中央政府の統制が衰えた15世紀から16世紀、いわゆる「戦国時代」であったとされている。

戦争こそ創造と文化をもたらすものであるというのは、確かに真相の一面をついている。

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上の話題に関連して、先日、大学の同僚と以下のような話をした。

小生: 確かに、軍に召集されると、色々な技術は身につきますよね。危険物取扱(笑)の資格も得られるし、大型特殊車両の運転免許も自動的に取得できますしね。この資格は、世間でも役に立ちますよ。 ツブシがききますから。
同僚: 土木技術とか、怪我の応急処置とか、それも出来るようになります。 
小生: 格闘技も身につきますよね。危険な状況から逃げるのでなく、そんなことは止めろと無頼漢にも言えるようになります。
同僚: 何より武器を扱えるようになります。最先端の兵器の構造や操作法を学ぶには、基礎科学の知識が要りますから、頭脳も必要です。数学が苦手とか言ってられません。 
小生: 敵国の言葉も知っている必要がありますヨ。大体は戦争ではなく、戦争の前か戦争の後かで平和である時の方が長いわけですから、その間に相手の発想や考え方を互いに話をしてよくつかんでおくほうがいい。 
同僚: 外国語も自然に身につく、と(笑)。 
小生: そうなんですよ。友人もつくっておけるわけです。だからネ、たとえば江戸幕府ができて17世紀の中頃、将軍が三代目の家光の頃になって、関ヶ原や大坂の陣を経験した人たちは「若い者はなっちゃいない」と。平和ボケしてると。槍一つ満足に使えないと。厳しい交渉もできんと。年寄りは本当に若い世代をバカにしたんですね。 
同僚: それは今の日本もそうですよ。戦争を知らない世代が心配だ。何もできんと。勇気もない。危機感もないと。そんなことをずっと話しています。 
小生: だけどネ、思うんですけどネ、江戸時代の最初の文化の花が咲くのは元禄時代ですよ。戦の世が終わって、戦争を知っている年寄りがみんないなくなった後です。戦争が完全に歴史の彼方に消え去ったあとに文化の花が開き始めた。それも戦いを知っている武士の町じゃありません。江戸ではなくて、商人の中心地であった大阪が舞台です。その後も、徳川250年の平和が続く中、現代にもつながる江戸文化が華やかに展開されたのは文化文政。1800年代の初めです。今に伝わる日本文化はみな戦争とは無縁の、平和から生み出されたものです。
同僚: 戦争は文化の母であるとか、父であるとか、それは違うと。 
小生: ハッキリ違うと思いますねえ。戦争をようやく忘れられる、そんな時代が来て、やっと人は本当の新しい文化を作り始める。そうではないのですかネエ。確かに、古代中国でも戦国時代に軍事技術が進歩した。その軍事技術で漢帝国はアジア社会の覇権を得た。しかし、戦争は戦争でしかありませんよ。残酷です。そこにあるのは死と破壊しかなかったじゃありませんか。戦争が終わって到来した平和な世界で古代中国の文化は花開いたわけでしょう。戦争の傷跡がいえたあと、次の戦争を準備する必要がなくなったとき、人間は文化的活動にエネルギーをさけるのだ、と。そんな風に感じるんですよね。 
同僚: 平和ボケするくらいじゃないと、新しい文化は生まれてこないと・・・そういうわけですか(笑)。 
小生: そう思ったりするんですよネエ。戦争は進歩に必要じゃあないんですよ。社会をオープンにして、ビジネスを自由にして、競争を促進して、誰でも富を得るチャンスを持てるようにする。これを世界の全ての人間に保証してやれば戦争などは必要じゃあないですよ。競争で技術は進歩できます。イノベーションは起こります。実際、イノベーションは平和な世界でも起こっているでしょ?それを国境で壁をつくる。難民規制だ、社会保障だ、守ることばかりを考えるから、壁の外側の人は暴力で侵略する。相手を破壊することによって自己の安全をはかる。そんな誘因を相手に与えるだけです。そうなんじゃないでしょうかネエ・・・。
同僚: 創造的破壊は戦争の代わりに世界を進歩させる・・・なるほどねえ。 
小生: 自由競争、自由貿易と戦争を比べるなんて無理筋かもしれませんけどネ(笑)、そんな風に思いません? 

北朝鮮危機を材料にして、政治を展開することは、新しい時代を切り開く政治戦略では決してあり得ない。ひょっとすると、選択可能なより良い世界へ至る道を閉ざすだけの愚策であるかもしれない。この点だけは頭に入れておかなければなるまい。

戦争の危機は創造の父、文化の母などではないのだと思う。

2017年10月27日金曜日

選挙のあと: ある会話

カミさんとこんな会話をした。

小生: (朝刊のページをめくりながら)それにしても今年はタヌキの当たり年だねえ。 
カミさん: (朝飯をテーブルに並べながら)そうなの? 
小生: 朝ドラの「ひよっこ」を主演した有村さんサ、タヌキ美人って言われてるらしいよ。 
カミさん: ああ、タヌキ顔ってこと? 
小生: そうそう。かと思うとネ、緑のタヌキ。これは小池百合子のことだね。 
カミさん: 緑って? 
小生: いつも緑の服、着てるじゃない。本人は勝負服って思ってるそうだけどサ。まあ、緑より、魔女服の黒のほうがファッションとしては人柄にピッタリ合ってるけどネ。 
カミさん: 魔女は可哀想なんじゃないの?都知事でしょ! 
小生: アハハ、まあ「都知事」なんだけどネ(笑)。そうそう、ある新聞には「女帝」と書いているのもあるなあ。そういえば、フランスの新聞大手に「フィガロ(Le Figaro)」っていうのがあるんだけどネ、投票日にパリに海外出張した小池さんのことを「逃亡中の女王」って書いたらしいから、まあ「女帝」っていうのもその通りかもしれないねえ・・・「女帝」か・・、処刑されたマリー・アントワネットということなのかな? いや、あれは「王妃」だもんな、というかそもそも聖なる乙女、ジャンヌ・ダルクだったはずだが・・・ 
カミさん: もう放っておきなさいヨ 
小生: 今年の流行語大賞、何になるだろうねえ・・・。これまでは『違うだろう!!』が圧倒的に大賞候補だったそうなんだけどネ、ここに来て『排除します』が追い込みをかけてるらしいヨ。両方とも女性が語った言葉だからナア、やっぱり今年は「女性が輝く年」なんだねえ。酉年っていうのはそうなのかなあ・・・。
カミさん: (にらみながら)調べてみたら
 それにしても小池代表、「創業者の責任」があるからと言って、代表続投の意志を表明したらしい。「都政に専念します」という発言と早くも矛盾して来た。

代表を続けてもウソをついた。代表を辞めてもウソをついた。そう言われるだろうねえ。

希望の党は今度の選挙で180人以上が討ち死にを遂げた。多くの人の恨みが集まってしまった。これまでのように一人で戦って来たなら、勝つにしろ、負けるにしろ自分だけで引き受ければよい。しかし、今度ばかりは多くの人の人生を変えてしまった。仲間に入れておいて暗転させてしまった。リーダーとして望んだ大敗のツケは、ずっと永くつきまとっていくだろう。

それにしても、「政治が趣味」という人もいるんだねえと小生はツクヅクと感じる。頼まれてもあんな修羅場には出向いていかないが・・・、人は色々、人生いろいろである。

画作は小生の趣味だが、絵を自分の人生にしなくて本当によかったと感じる。絵を職業にすれば、絵で勝負することになるし、そうなると高い評価を得られるような絵を自分も描きたいと。そればかりを思うようになる。多分、絵が苦痛になる。それは一番寂しいことである。趣味に他人の人生を巻き込むと、もはや趣味にならない。他人の人生を預かるなら、自分の人生をもかける職業にしないといけない。

【加筆:同日21:30】
巷間、小池代表をつるし上げている旧民進党議員について、負けてから大将を非難するのは仁義にもとるという批判がある。そうかと思えば、非難するのはもっともであるという指摘もあって、両論様々の状況だ。すべて戦いは、白兵戦である以上、兵隊個々の強さが最重要なファクターであるのは事実だ。しかし、個の強さで戦いの勝敗が決まるのならば、何も戦略や戦術などを論じる必要はない。『勇将の下に弱卒なし』ともいう。確かに、希望の党に「はせ参じた」(というより逃げ込んできた?)旧民進党議員は自分の意志でそうしたのであり、しかもそろいもそろって弱卒だったかもしれない。しかし、兵を挙げて戦う兵を募ったのは明らかに希望の党である。希望の党の目で『排除する。絞り込む』とも明言しているのだ。その最高責任者は自らその代表となった小池百合子女史である。戦うなら必勝の戦略を講じておくのは兵の命を大事に思う大将の責務であろう。4人のうち3人が討ち死にを遂げるという結末になれば采配を揮った将軍は自決するであろう。弱卒を強兵に変えることもできるのが勇将であるという格言に沿って言うなら、小池代表は少なくとも勇将ではなかった。周囲から『あなたのせいではありませんヨ』などと慰めてもらえるような立場ではない。ひたすら謹慎するのが当然である。これだけは言えそうである。まあ、小生の個人的感覚から言えばこんな印象になるだろうか。
身を捨ててこそ 浮かぶ瀬もあれ
出処進退の美しさを日本人は何よりも重んじるものである。マア、今となっては又もや御身大事、風を読んでいるようにホノ見えるので、遅きに失したのだが。

2017年10月25日水曜日

前回投稿の補足:選挙戦のあと

今夏の都議選のあと、民進党はたかが地方選である都議選惨敗の責任をとる形で野田佳彦幹事長が辞任した。その幹事長の後任をきめる人選がうまくいかず、結局、蓮舫代表まで辞任するに至り、民進党は代表選を行うことになった。すべてはここから始まった。

職業生活が最終盤にさしかかり、隠居が間近に迫り、余裕ができてきた割にはまだまだ世間の修羅場に興味が残っている間は、▲▲三国志というか、●●戦国時代というのが本当に面白くて、フォローしていると局面の変化ごとに次はどうなるかと思わず唸っているのだな。とにかくリアルタイムの覇権闘争を自分は安全なところに身を置いて観察することほど面白い見世物は世の中にはない ー 当人達は生きるか死ぬかなので、大変なことはわかっている、この点は実に申し訳ないとは思っている。

よく分からないのだが、民主党が政権を失うに至ったA級戦犯は野田元首相だというのが党内世論だと色々な媒体を通して伝わってきている。まあ、確かに解散の引き金を引いたのは野田首相ではあったからだろう。

小生は、民主党支持者でもなく、遠い北海道で暮らしているのでよく知らないのだが、外から見ていて、野田元首相=A級戦犯という認識は納得が到底いかない勘違いである。民主党が信頼を失うに至ったのは、第一に菅直人元首相、第二に鳩山由紀夫元首相のあまりの低品質とお粗末な管理能力が原因であった。小生のカミさんは『民主党にも普通の人がいたんだね、野田さんが最初に首相をやればよかったのに』と話しているくらいだ。こんな感想が、実は一番多いのではないだろうか。

聞けば、野田元首相が民進党の幹事長をやっていること自体に党内では反感があったという。聞けば、菅元首相が野田幹事長辞任の旗を水面下で振っていたという。もしこれが事実なら、菅直人・元首相は民主党を二度つぶした、と。そう言っても過言じゃないかもネエ。

もう瓦解したあとで何をどうやっても元には戻らないが、大組織(であったろう)を崩壊させかねないような人物は、常に組織の中にいるものである。組織のためになる人物は、自らの好悪は別として、その能力は認めるという姿勢が全ての党員に欠かせなかったのではないだろうか。特に「政党という組織」に所属して活動をしている人たちは。

内部の不統一にもかかわらず、民進党は潜在的には高いポテンシャルを秘めた政党組織であった。このまま消滅して結党までの苦労が水泡に帰すとすれば、創立の理念も失われ、日本の国益にとってマイナスとなるのは間違いない。

× × ×

ともかくも、今回の「政治ドラマ」の幕がおりた。犠牲をある程度覚悟していたはずの安倍総裁は想定外の大勝利を得た。民進党議員たちは理由もないのに流浪を余儀なくされ苦労をしたが合計人数では意外や勢力を維持した。前原代表は微妙だが、政治家としては終わっただろう。小池百合子都知事は政治家として大怪我をした。巻き込まれ事故かもしれないが、本人も無茶をした。再起不能かもしれない。

交通事故もそうだが大怪我というのは、往々にして、しなくともいいことをして、その時に不意に運勢が暗転して、やってしまうものである。

2017年10月23日月曜日

まとめ: 選挙のあとに

衆院選2017の結果は、各社の世論調査や事前予測をほぼなぞるようであったので、実際の開票結果は予測の確認といったような塩梅だった。投票率が53.7%というのは関係ない。投票率が仮に95%であったとしても結果に大差はなかったであろう。基礎的な統計学でわかることだ。

やはり与党の圧勝、希望の党の自滅につきる。

これまでの投稿から抜粋するだけでも、総括としては十分なような気がする。

一つは9月29日付けの投稿から以下の下り。
マスメディア各社は面白いものだから<これで政権選択選挙>になったと力説している(もはや解説ではなく、まして報道ではない)。
見ようによっては確かにそうだが、それよりは今度の選挙は<イメージ*ムード vs ファンダメンタルズ>のどちらがより確実な勝因でありうるのか。こうとらえる方が正確だと思って見ている。
やはり選挙の勝敗は経済や外交など各面のファンダメンタルズが最も決め手になることが再確認できたと。そう結論づけている。

北朝鮮、中国ファクターもそうだが、景気、雇用状況、株価動向、物価動向、対米関係、対アジア関係、対露関係等々、どれをみても政権交代を望むような情勢はなかった。森友騒動、加計学園問題が、選挙期間中に結局は大きな論点として議論が広がることがなかったのは、国民の目がゆがんでいるのではなく、それが現実のリアリティそのものであるからだ。実際、与党が大勝したあとの本日、日経平均株価は岩戸景気時の14連騰を57年振りに更新する15連騰となった。安心感である。このような情況では野党が与党に勝てる理屈は基本的にはないのだ、な。というか、こんな情勢の中で与党を追い詰めようとしても、いざ選挙となると、うまく行くには余程の事情がいる。余程の事情があれば、まずは内閣不信任案が通るはずだ。不信任でなく、経済社会が好転しているなら、普通は野党の負けだ。

もしも民進党の左から右まで全てを小池代表が受け入れて、共産党とも協力して、日本新党ブームの再来を目指したとすればどうだったろうか?小生思うに、それでもダメだったと推量する。そもそも統一的政策提言がない以上、野合批判には耐えられないのだ。日本新党が成功した要素として、小沢一郎の『日本改造計画』があり、その小沢本人がバブル崩壊後の日本の政治で様々な仕掛けを進めていたことを忘れてはならない。民主党が政権を奪った時も、前年秋のリーマン危機で経済が混乱していた背景もあるが、同時に民主党の「マニフェスト」に対して、また民主党に所属する議員達に対して、国民が鮮烈な魅力を感じたことも勝利をもたらす主因となっていた。

一言で言えば、今回の与党大勝は民進党が自ら蒔いたタネによるものであった。マイナーな森友・加計問題であっても、内閣支持率に執拗な打撃を与え続ける蓮舫・野田執行部の戦術はそれなりの効果をあげていた。少し見っともない戦術(加えて、それなりに負の副作用もある戦術)であったにしてもだ。6月15日未明の通常国会では内閣不信任案の動議を提出してもいる ー もちろん与党によって否決されている。民進党は既に戦闘モードをとっており、自民党は受けて立つ政局として認識していた。一部のマスメディアも反政権闘争を展開中であったことはまだ記憶も新しい。民進党はそのまま不動の体制を維持すれば、安倍政権はジリ貧だったであろう。安倍政権がその危険を回避するため、いつか好機があれば早期に衆議院を解散して、信を国民に直接問いたいと考えたのは周知のことであり、小生が暮らしている北海道にも早期解散の可能性は伝わっていた。

その民進党の体制が都議選の敗退の責任をとるという理由で覆ってしまった。自壊した。そこに隙と混乱が生じた。安倍政権は当然の選択をした。そもそも、好機がくれば解散というのは政権の基本戦略であり、民進党はそれを熟知していたはずだ。それを民進党は自らが最も不利な状態でさせた。まさに「敗北の方程式」である。勝負はここで決まっていたのである。要するに、そういう事であった。前原・小池会談は、つじつま合わせで瓢箪から出たコマに過ぎない。後始末の茶番劇である。

リアリティを無視して、シナリオだけを書いても、うまく行くはずはなかったのである。

さて、もう一つは10月2日付けから。
頭をつかって、風をみて、一日中動き回ったり、雲隠れしたりしているが、肝心の結果が出てこない。忙しいわりには効率が悪い。キョロキョロしている割には、結果的には迷い道にばかり入りこんでノロマである。だからキョロマ。語源はこんなところだろう。
キョロマ達が時代の風にあおられて走り回っても、目立つことは目立つが、それは輝くとは言わないだろう。不動の定位置にあって光を放つのでなければ、「輝く」という動詞は使えない。
今回の「希望の党」と「民進党」の合流騒動を通して、頭が一番いい人は誰であったか。それは女性ではない。やはり民進党の前原代表が一番頭がいい。小池さんは他人がやるべき汚れ役を代わりに引き受けた分、人がよくて頭がわるい。ただ悪いはマイナス、いいはプラスとならないところが、人間評価の面白いところだ。
世間では希望の党の小池百合子代表が、不評を通り越していまや嫌悪の対象にすらなった印象で落ちも落ちたりという感が拭えないが、そもそも上に引用したように、小池代表がやろうとしたことは、前原民進党代表が自らの手を汚してやらなければならなかった事である。前原代表をすら使い捨てにしなかったところに小池代表の甘さがあったといえば言えるだろう。かつ、そこに小池女史が政治家として内に秘めていなければならない老獪さ、狡猾さがいま一つであることの証明をも見てとれるだろう。そもそも同女史が政治家として築いてきた実績はそう大きくはない。同女史がもっている政治家としての真の力量はそれほど高くはないということはこの点からも明らかだったはずだ。

本当は冷静にそう見ておくべきだったのではないだろうか。「小池劇場」のプロデューサーは、ご本人というより、視聴率が欲しかった(と同時にアンチ安倍闘争を盛り上げたかった)マスメディア大手企業である。そうみれば、小池百合子といえども、マスコミに使い捨てられようとしている<政治女優>の一人に過ぎない。

◇ ◇ ◇

ま、今回の与党大勝は民進党の(敢えて希望の党とは書かない)オウンゴールである。しかし、オウンゴールで試合の決着がつくというケースは確かにあるのである。

今回の選挙が多分に偶発的なものであったにせよ、これが結果であることに変わりはなく、これから新たな情況で決められて行く政治的決定が、日本の将来を決める現実そのものとなる。マスコミは政治ドラマをプロデュースしているつもりであったろうが、実際に起こることはドラマではない。

曲がり角を何気なく曲がったら、そこが迷い道であったことにならなければ幸いだと思っている。

小生自身は、前にも投稿したとおり、一地方紙や小規模な専門家集団が発表する小雑誌ならまだしも、巨大なマスコミ企業が暗黙に一つの政治的立場をとりながら政治に大きな影響力を行使することには全て反対である。そもそもマスメディア大手企業は個人企業ではなく営利法人であるが、法人には参政権はなく、投票権もない。そのような法人が発表する政見は、具体的にどのような人間集団の意見を代表しているのか、ある人間集団を代表しているのか、特定人物の主義を伝えているのか、外国人を代表しているのか、他の企業の代行をしているのか、外からはまったく分からないからである。このような主体が、国民に広く影響を及ぼすという形で実質的に参政権を行使している状況は、まったく不適切だと思っている。

【10月24日加筆】
立憲民主党・希望の党・無所属を合計した旧民進党系候補者の当選者は公示前議席を上回ったとの報道だ。これまた<瓢箪から出たコマ>が回りまわった末の<もっけの幸い>であった。立憲民主党に吹いた追い風の強さがいかに強かったかがわかる。今回の選挙で風を起こしたのは、老いたお局・小池百合子ではなく若年寄・枝野幸男であったということだ。そしてその風は、電波に乗せる映像と言葉ではなく、とった行動の勇敢さに吹いた。これまた疑いのないことだ。
まさに文字通り
巧言令色すくないかな仁(論語・学而)
いい言葉だ。

2017年10月21日土曜日

メモ: 能力を構成する複数の次元

人生のかなりの割合を<仕事>というものが占めている。職業人生がうまく終わるか、失敗して終わるかは、その人の幸福を大きく左右すると言ってもよい ー もちろん仕事で失敗しても、家庭生活で埋め合わせられている人も多いし、この逆のパターンもある。ま、職業も家庭生活も両方ともうまくまとめたい。幸福へ至ることは西洋哲学では最高善とされている。善でありたいというのは、極めて論理的な願いなのだ。

幸福かどうかを結果、幸福を求めているその人の人間的要素を原因として大ぐくりに整理すると、瞬間的時間において考えるか、少し時間をおいた短い期間で考えるか・・・という具合に、能力にも複数の側面、というか次元がある。

いま現時点でどう話すか、何をするかを選ぶのは<感情>によることが多いような気がする。少し長めの時間をとった時に、是非や優劣の順序を決めるのは、やはり<理性>である。しかし、もっと長い期間をとったとき、方向軸がぶれず、一貫した努力を続けていけるかどうかは、理性というより<意欲>が大事だ。<意志>とも言える。そして、意欲や意志が適切であるかどうかは、最後にはその人の心の中にある<理念>が大事になる。では、その理念を形成するのは・・・。キリがないが、多分、その社会の慣習や伝統・美意識、宗教や哲学・世界観が軸になるわけで、マクロ的には<国民性>とか<民度>というものになって現れるのかもしれない。

この中で、いわゆる「頭がいい」というのは、理性の働きが速い、的確である、記憶力と論理的思考力が卓越している。大体、そんな意味をこめることが多い。頭だけではダメだというのは、感情の美しさや意欲、理念が高邁であるかどうかも同程度、というか一層重要であるからだろう。

ここまで書いてきて語呂合わせのように気がついたが、意欲といえば欲、意志といえば志だ。志(ココロザシ)といえばイメージが良いが、実は欲(ヨク)と一体のもの、実は同じものかもしれないねえ。そんなことだ。

2017年10月18日水曜日

メモ: 経済問題、最近の七不思議にまた二つ

今日時点で疑問に感じている点が少なくとも二つはある。なぜ本筋の議論をしようとしないのか、小生にとっての七不思議にリストアップした(もう七つは超えてしまったが)。

疑問1: 給付型奨学金の拡大
とりあえず簡単のため大学・大学院に議論の対象を限定しておきたい。「貸すのではなく、お金をあげるのだ」とすれば、どんな学生にお金をあげるのか、給付型奨学金の支給対象者の選別方法で紛糾するのは必至だ(授業料免除などは予算枠があるので学内で適否が審査されている)。 万が一、税金をドブに捨てるようなケースが発生するならば、どんな理想があれ、それ自体が悪(というより、退廃?堕落?)であろうから、支給による効果を最初にチェックするのは当然であろう。規模が小さいなら、世間の関心を呼ばずに「なんとなく支給」という方式もありえるだろうが、拡大するなら合理的に説明可能な方式を決める必要がある。これは非常な難問であるに違いない。
給付型の「学費支援」は日本は既に実質的に広範にやっている。 
公費で運営する国公立大学の授業料を一律的にさらに引き下げればよい。 
授業料をゼロにするセグメントがあってもよい。必要なら、国公立大学、学部・学科を新設したり、定員を増やせばよい。 
大学への合否判定で自動的にスクリーニングできるので来年度からでも実施可能だ。特に地方圏の子弟にとっては「希望の道」になる。経営の拙い割には不透明で国民の目が届きにくい私立大学を淘汰できるというプラスの効果も期待できるだろう。
戦前期は、陸海軍の士官学校、兵学校(現代の防大も同じ)、教員など教育指導者を育成する師範学校は授業料がゼロであった。ただ公費支給範囲がいかにも狭かった。が、経済的に恵まれない子弟が学問を志し、才能を開花させる道は提供されていた ー このことは日本が貧しさからスタートしたことの現れでもある。危機感の現れと言ってもよい。同じ危機感をもてば同じ選択につながるのではないか。
引き下げようと思えば簡単に引き下げられる国公立大学の授業料をまったく検討することなく、はるかに難しい制度設計が伴う給付型奨学金を議論するのは、やっぱり七不思議だネエ。そう感じてしまう。 

疑問2: 企業の内部留保課税
同じことは配当に対する分離課税税率を20%から(たとえば)30%に引き上げればよい。しかし、こうすると株主は配当で受け取るのではなく、内部留保による株価上昇という形でもらう方を選ぶはずだ。だから配当課税を重くしても税収は増えない理屈だ。 
故に、内部留保課税。目的は資本所得課税の強化である ー 資本課税にまで踏み込んでくると財産権不可侵とぶつかり社会主義に近くなる。同じことは所得税の累進度強化でも達成できる。アメリカなら共和党ではなく民主党政権がやりそうな政策である。 
配当・内部留保など資本所得に対する税率を引き上げるなら、日本企業に資金を投じる魅力が外国企業に比べて下がる。いまでも日本人にとってイギリス株を買うのは魅力的だ。というのは、配当の源泉税率はイギリス側でゼロである。加えて、イギリスでは法人実効税率が20%で日本の30%弱より随分低い(資料はここ、イギリスはもっと引き下げようと言っている)。それもあって英企業の配当利回りは非常に高い。だから日本株を買うより英株の方が有利だ ー アメリカ株ならいわゆる「配当の二重課税問題」があり複雑になるが、概して米企業の配当利回りは高く、米株有利の状況がある。今でも日本企業は資本調達で不利なのだ。 にも関わらず、もっと日本企業を不利にしようとしている。これは不思議である。
日本で新規事業が減れば、優良な就業機会が減る。収入は伸びず、低劣な仕事ばかりが増える。アメリカならこんな反対論が必ず共和党支持者から噴出して、与野党が伯仲するだろう。が、日本では「実は財務省も腹のなかでは考えていたのだ」などと、あたかも内部留保課税が正しい道であるかのような流れが出来かかる。これ、実に不思議だ。どちらが正しいなどと簡単に結論が出るような問題ではないのだ。
まあ、自民党政権では所得税の累進度強化は言い出せないだろう。分離課税廃止などは絶対無理ともいえる。これは自明だ。資本所得課税も言えない。だから消費税の税率引き上げを提案している。消費税率の引き上げは<党派的>と言えばたしかに党派的ではある。自民党の党益からみれば仕方のない選択だ ー 大衆福祉国家の理念が強かったヨーロッパは、それでも付加価値税20%の世界を築いているのだが。資本所得課税強化より穏やかな選択、たとえば所得税の累進度強化(さらには配当・譲渡益の分離課税廃止)を正面から訴えている政党が日本にないのは、やや不思議だ。低所得層から中の下までを減税、中所得層の上からは増税。人口でいえば利益を得る人が多いはずなのだが誰も言わない。近年の格差拡大は株式運用益の大小でほとんど説明できるはずだ。これを言う政党が一つもない。不思議だ。七不思議にリストアップしてもよいのだが、多分、ブレーンらしいブレーンがいないだけの話なのかもしれない。でなければ、自分の所得にとってマイナスだからかもしれない。

ついでにいうと、今度の選挙でどこかの党が口にしているベーシック・インカム。『私たちも言葉は耳にしています、良さそうネ、公約に入れておきましょうカ』という感覚で、まるで『サンタクロースが住んでいるお伽の国があるのヨ、そこではネ、・・・』という母の寝物語にも似ていて、どう考えておけばよいのか分からない。

2017年10月16日月曜日

一言メモ: これは本当に公選法違反にはならないのか?

2年ほど前に作った読書用メガネをなくしてしまった。ずっと昔の単焦点メガネはあるが、度が合っていないせいか、かけていると頭が痛くなる。「そろそろPCを使った統計分析実習は限界か」と感じてきたが、来年2月迄はやらなければならない。そんな事情で今日は隣町のS市にあるビックカメラまで出かけ、近くのテキストが読みやすい眼鏡を作ってきた。節約路線である。

選挙期間中というので駅構内のテレビでも選挙テーマのワイドショーを流している。と、KIOSKをみるとこんな広告がある。


余りの露骨さに呆れたので、帰宅してからネットの「週刊文春WEB」(本日現在)からコピーしたものである。

これは「希望の党」という政党の代表を誹謗している以上、特定政党に対するあからさまなネガティブ・キャンペーンである。発売は12日だから公示日より後である。

🔶 🔶 🔶

個人としてブログを投稿している小生ですら、選挙公示日の10月10日以降は特定の候補を貶める、あるいは逆に特定の候補をもちあげるような文章を書くのは、なんとなく気が引けて遠慮している。一般有権者の中のたった一人でも、やっぱりネ、そんな感覚だ。もちろん一般有権者はブログやツイッターで特定候補者を応援することができる。落選運動も可である ー 但し、メールによる依頼は駄目だとされている(参考資料はここ)。

いま疑問に思っているのは、個人による落選運動は可能なのだから、法人であるマスメディア大手にも可能であるという法理はあるのかという点だ。

🔶 🔶 🔶

市場において、消費者は商品を売っている商店主に対して売値を値切ることは自由にやってよい。むしろ対等の立場にある経済主体が競争し、かつ交渉しあうことで全体としてはより善い結果がもたらされるものである。しかし、大企業が中小零細企業に対して、同じ値引き交渉をすれば「独占的支配力の行使」、「優越的地位による交渉力の濫用」と判定されることが多い。だからこそ、独占禁止法がある。経済活動には過大な影響力が行使されないよう規制しているのだ。

同じ問題意識は、世論形成における影響力の大小にも向けられなければならないと思うのだが、どうだろうか。経済プロセスだけではなく、政治プロセスでも、個々人の集合体である国民の政治的意思が、少数者の影響を受けることなく、選挙結果に反映されることが重要になる。そのための環境作りは放っておいてもできるものではない。だからこそ公職選挙法がある。

🔶 🔶 🔶

選挙期間中に新たな事実/功績/スキャンダルが明らかになるなら、報道としての価値もマアあるのだろう ― それが報道に値するという判断が少数の編集部幹部によって行われるのはやはり不適切だと思うが。しかし、上の週刊文春の批判記事はざっとみて、古い話ばかりであり、あえてこの時機に出版するのは何か同社が政治的意図をもっているからではないかとすら感じる。

そもそも営利法人である出版社に投票権はないのだ。ない以上、選挙という社会活動に参入し、選挙結果を左右する影響力を行使してはならないと思うのだがどうだろう。

というのは、有権者である個々人は投票権を持っていることを判定可能であるが、法人はそもそも国内で法人格を有しているだけの擬制的存在であって、その法人が有権者のある集合を代表しているのか、投票権を有しない外国人の意志を代行しているのか、まったく分からないからである。後者の可能性が理論的にもせよ否定できないのであるから、投票権がない営利法人が結果を左右するかもしれない政治的意見を公開することは、不適切だと小生は思うがどうだろうか。

営利法人である出版社が特定の政党を批判したり、支持したりする活動を是認するなら、たとえば経団連(→自民党を支持しているはずだ)が自民党を支持するコマーシャルを流したり、医師会(→やはり自民党だろう)やその他業界団体が同じことをするのもOK、全国の商工会議所(→ここもまず自民党だろう)が特定の政党を支持するコマーシャルをテレビで流すのもOK、その他の株式会社が特定の政党を支持するCMを流すのも、印刷物をホームページに掲載するのもOKになるのではないか。

しかし、上に挙げたどの団体も個人ではない。投票権は持たない。投票権を持たない法人が選挙に影響するかもしれない意見をあえて述べる動機はない、というか持ってはならない理屈だと思うがいかに。出版社についてもまた同様なロジックがあてはまる。





2017年10月15日日曜日

「無党派」というマイ・イデオロギーは何を意味するのか

選挙の結果を決めるのは「無党派」である。選挙がやってくると、例外なくマスコミはそう言っている。大体、有権者全体の確か4割ほどが無党派に属しているのだろうか。

が、よく考えてみると、「無党派」なる政治的立場というものは、一考に値する、というかそもそも最大集団が無党派だという状況になるというのは一体どういうことなのか。そんな疑問もわいてくるのだな。

「無党派」が最大の政治集団であるような先進国はほかにあるのだろうか?

こんな文章がネットにある。
希望の党はおそらく50議席も取れない結果に終わるだろう。そうなれば、小池氏の責任問題に直結し、人々は彼女から急速に距離を置き始めるに違いない。政治は結局、その時々の風や勢いだけで突っ走ると、失速したときに自らを支える軸がないので、新たな風や勢いに吹き飛ばされて終わる。安倍晋三氏が、一度は権力を失墜しながら復活できたのは、勢いを失った彼を支える人々が側から離れず、再起のチャンスを皆でお膳立てしたからだ。 
それでも世論調査では、比例での投票先に希望の党を入れるという人が根強くあるが、そうした人々の多くが、おそらくは無党派層であり、政治的関心の薄い人々だろう。他党に入れるという人に対して、希望に入れるという人は話題に飛びつきやすい「なんとなく層」が多く、彼らの多くは、投票日が晴れていれば遊びに行き、雨が降れば外出を控えるだけのことである。
(出所)植村吉弘「希望の党は大敗北に終わるだろう」、2017年10月14日

非常に冷めた目で「無党派」集団の行動パターンを見通している。大体、そんなところだというのが真相だろう。

ただ、小生自身も若い時は子供も二人いて小さく、平日は仕事があり、カミさんも家事に忙しく 、たまの週末はどこに買い物に行こう、どこに遊びに行こう、と。そんな話しばかりで、わざわざ寄り道をして「投票しとこうか」と現実に投票所まで足を向けたのは稀ではなかったかと。そう記憶している。まあ、5回に1回くらいは投票したろうか。それも国政であって、地方選挙などほとんど行ったことがない。40歳になるまでは、正直、そんな感じであったなあと記憶をたどっている。

で、政治的関心となると、やはり必ずしも一貫していなかった。つまり「薄い」といえた。北海道に移住してからも、地元選挙区で民主党候補にいれたりしたこともあったし、カミさんの知人(おそらく創価学会の会員なのだろう)に薦められて、カミさんと二人して公明党候補に票を投じたこともある。まあ「なんとなく」であるな。

自民党に一貫して投票するようになったのは、40代も後半になってから、それとももっと後になってからだろうか。職業人生の後半が明瞭に見えてきて、自分の年金生活も時間の地平線の向こうに見えるようになった頃だ。その頃になると、何か新しい風が吹いてほしいというより、積み重ねた実績や資産や生涯設計を安定的にキープしたいと。そう願うようになった。多くの人もそうではないかと思う。まして「リセット」などはとんでもない発想で、恐怖をすら感じさせる用語である。ほんと、小池百合子という人物は言葉のセンスがない御仁だ。

小生一人をとっても政治的姿勢はこんな変遷をたどっていることを思うと、「無党派」集団を年齢、職業などで層別化するなど、より詳しい分析をすると、面白い結果が出てくるような気がする。

◆ ◆ ◆

これ以降、マクロ的にざっくりとした観点から要点をまとめてみたい。

いま日本はシルバー世代に重心が移ってきている。また、日本国民は世界でも有数の資産を形成している。政府はすでに債務超過だなどと指摘されているが、日本国全体でみるとバランスシートは極めて強固であり、だからこそ経済的危機においてはしばしば円高となる。

日本の有権者はマクロでみると「金持ち」なのだ。日本という国は世界の中では「富裕層」に属している。これはデータに基づく事実だ ー 著名なリッチマンが目立って多いという意味ではない。

日本に金融らしい金融産業はないのが実情だが、カネは持っている。だから、持っているカネを海外に運用して、どう儲けようかと。これが近年の日本国民の関心事項である。政府はイノベーションであるとか、国家戦略であるとか、さかんに旗を振っているが、カネを実際に持っている人は「お上」を信用して国内でチマチマ運用するよりも、米株とか英株に投資する方がもっと儲かることを知っている。政治家は邪魔をしないでくれと願っている。だから、「改革」などはホンネでは欲していないのである。

年金制度自体、支給のための主な財源は支払保険料の積立金残高である。その積立金の運用に株式が組み込まれてからもうかなりな年数がたった。いま運用先の4割(今でもそうだと思うが)は外国株式・外国債券になった。日本国は、家計も年金機構もどこもかしこも丸ごと、国内外に資産を運用して儲けては、やり繰りしているのだ。こんな時代であることが政治の大前提になっている。「リセット」されるなどはとんでもないことなのだ。

■ ■ ■

日本が豊かである間は、本気で「改革」や「リセット」を望む有権者はいない。というより、正しくいうと、数が減りつつある。加速度的に減っている。

なので、正直に「改革」を本気で連呼する政治家は嫌われるだけである。まして改革より過激な「リセット」などを言えば、その時点で「あれはいかんね」と。これが現時点の日本社会の現実だと思うがどうだろうか。ついでに言えば、安倍現総理が憲法改正を言い始めて高齢層に受けが悪い理由は上に述べた点と同じである。

高齢層から既得権益(=財産権として保証されている富)を奪って、若年層にシフトさせても、国民の資産が増えるわけではない ー 高齢者の富はいずれ若年者にも継承される、あるいは高齢者が生存中にすでに継承されつつある、であるので高齢者の財産権の消失は、若年層が富を失うことでもあるのだ。そのことを若年の人たちは本能的に察知している。

資産の配分を移し替えるだけではダメなのだ。あちらが燃えているからといって、かける水を此方から彼方に変えるだけではダメである。此方がまた燃えるだけなのだ。かける水量全体を増やさなければ課題は解決できないのだ。

■ ■ ■

高齢者はなるほど恵まれた年金生活を送っている。しかし、年金の過半の部分は既にもっている資産の取り崩しである。自ら形成した資産をそのまま後世代に継承する義務はない。自らの生計にあてるために公的制度によって貯蓄してきたわけだ。当然、資産を取り崩せば、金持ちではなくなる。これは若年層には損失かもしれない。しかし、若年層は高齢層が形成した豊かな社会を生まれながらに享受できている。小生の上の愚息は非正規社員としてカツカツの暮らしであるが、それでも発展途上国の同世代よりはのんびりと豊かな生活をおくっている。この経済状況は比較的最近になって日本に生まれたことによる世代的な利得である。

要するに、先に貧乏を経験して後に豊かさを享受するか。先に豊かさを享受して、後に貧乏になるか。違いはここにある。これが基本ロジックだ。それでも技術の進歩、生産性の向上への努力があれば、団塊の世代が退場した後の時点において、現在の若年層が元の貧困に戻ることはない(はずだ)。そのための「国家戦略」、「人づくり」。だから、やはり、この方向はキープしておくのが理にかなっている。

有権者は政治家が想像するよりずっと頭がよい。政治家ほど言葉が上手でないだけである。

(とりあえず)本日の結論/予想:

  • 「無党派」に若年層が多く含まれているならそれはよく理解できる。イデオロギーというより、何を最優先するべき価値であると認識するかということ。
  • 「無党派」に高齢層が含まれているなら、与党支持/野党支持の意識がない、つまり自分自身の生活基盤がよく理解できていない人たちではないか。不満がある現状を「改革」したいという願望があるなら野党を支持する理屈だ ― それが自らにとって利益につながるかどうかは別の話題。生活基盤の自覚が弱いので、政治的立場が定まらず、故に言葉に騙される確率が高いのではないかと憶測する。

2017年10月13日金曜日

メモ: 東名高速事故

東名高速道路の追い越し車線で起きた夫婦死亡事故。大変傷ましい交通事故、というより事件であり、テレビのワイドショーでは選挙期間中の自粛ということもあるのか、いつもの政治ショーではなく、こちらが主役級の扱いになっている。

捜査当局から得た情報だろう。「危険運転致死傷」ではなく「過失運転致死傷」に問われるとの報道で、これはおかしいというコメントがテレビ画面ではあふれている。

そういえば、法曹出身のコメンテーターが言っていたのは『これは未必の故意による殺人ですよ』。

まあ、一つの事件をどういう角度からみて、いかなる法を適用するかは警察と検察が協議をしながら手続きが進められているはずだ。担当検察官の力量が非常に問われる事件でもあるだろう。現場で捜査をする警察の受け取り方が検察側にどのように反映されるかも興味のある視点である。

ただ専門外の立場からいまの感想をメモしておくなら『窓から植木鉢を落とす行為であっても未必の故意による殺人罪が成立することがある。まして駐停車厳禁である高速道路の追い越し車線に意図的に停車するよう仕向け、現実に被害者が死に至っている点をみれば、未必の故意による殺人が成立するのは当たり前である』、このようにも思うのだな。

「過失」というのは、もっと注意をしていれば回避できていたはずの致死傷行為をさす。今回のケースでは「過失」というのは当たらないであろうとも感じる。

この事件を担当する検察官、そして任命されるはずの弁護側。やりがいのある、「面白い」というと誤解を招きそうだが、公判の審理には非常に興味がそそられるのが事実。

それにしても、この捜査経過情報。警察側から出たのだろうか。検察が過失でいくという線に不満でもあったのか・・・よう分からぬ、いささか奇妙な雲行きである、な。テレビと世論に押されて、というか迎合して、検察側が罪名を途中で変更するというのもカッコ悪い。信頼にも傷がつく。どうするのだろう。この点は「面白くなってきた」と言っても問題はないだろう。

2017年10月12日木曜日

憲法論議七不思議の一つ

選挙期間ということもあって憲法論議が盛んである。

何かと言うと9条ばかりについて議論をしている。

昨日など、投票権が18歳以上に引き下げられていることもあって、ある高校の期日前投票所の風景が放映された。と同時に、憲法改正に関連した講演(講師は誰であったかな・・・)も挿入されていた。聴き手は高校生である。

エエ〜、みんな憲法というものの存在意義はなんだと思う?それはですネエ、憲法は国家権力を縛るもの、国民は自由、国民は憲法で縛られないんです、そうではなく権力を縛る。それが憲法なんですネ。憲法というものはそのためにあるんです・・・

イヤハヤ、マッタク、何だかそんなことをしゃべっていた ー とてもではないが、「話していました」などという礼儀を守った表現を付与する気にはなれませぬ。まあ、「公民」の授業がきちんと行われていれば、こういうアジ演説のような邪説の誤りは高校生もすぐに気づいていたとは思うが。

放送するテレビ局もテレビ局である。やはり『頭脳は新聞社にまかせ、テレビ局は肉体で稼ぐ』、今でもそんな風なのだろうか・・・。

◆ ◆ ◆

憲法30条の規定を引用しておく。
国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う。
いわゆる納税義務の規定である。

憲法は国家が国民に提供する公共サービスのコストのうち、何パーセントを税として負担するべきであるとは定めていない。しかし、日本国憲法施行後、戦後日本ではずっと赤字国債はタブーとされ、昭和40年度までは均衡財政が守られていたことを思い出せば、憲法30条の規定する「納税の義務」とは、基本的には公共サービスの費用は国民が責任をもって税として納付する主旨である、と。そう解釈するのが自然だと思われるのだ。

まして国家財政のうち3分の1が税ではなく、必要な税率引き上げをしぶり、一部の富裕な国民、投資ファンドなど金融機関、外国人、あるいは日本銀行に国債を購入してもらう形で財政資金を調達している現状は、そもそも憲法30条に違反していると。小生はずっとそう考えている。

国民もまた義務を負い、憲法には縛られるのである。疑いの余地なし。納税の義務のほか、憲法はあと二つの義務をも定めている。憲法は権力だけを縛るものではない。

というか、<国民主権>である以上、権力を縛るイコール国民を縛る、こう言っても可であろう。いかに「国民の名において」ではあれ、やってはいけないことを定める。それが憲法である。こう言ってもよい。本当に主権者が国民で、日本国憲法が真に<民定憲法>であれば、こう考えるしか考えようがないであろう。

『憲法は、権力を縛るのであり、国民は縛られない』という意見が、なぜいつまでもテレビ界の「常識?」としてまかり通っているのだろう? これ、七不思議じゃ、ずっとそう思っているのである。不思議じゃ、ほんとに。

◆ ◆ ◆

で、9条の話題に戻る。いかに日本人が国民の名において「許せぬ」と思う場合でも、現行の9条ある場合は絶対に武力の行使は許されない。そう書いてある。自衛権云々は戦後日本で発達した屁理屈だ。国民の名における場合でもできないのだから、政府も理の当然として出来ないのだ。これが本筋のロジックではないか。

「できない」と憲法に書かれていることを「こういう場合ならできる」と政府が言っているのは、国民が本当はそう考えたいからである。結局のところ、政府は国民の写し絵にすぎない。なので、ロジックとしてはおかしいと感じることも、結局は通る。定着して、これで良かった、理にかなっている、と。

本当は縛られるべき国民が、縛られたくないと本当は思っている。だから『国民は縛られないのです』と堂々と語る人が出てくる。『縛られるのは国民ではなく政府です』という理屈を選ぶ。国民はフリーだと結論づける。実は最も危険なチョイスであるのだが、戦後日本社会の本質はこんな風に要約してもそれほど間違っていない。そんな気がしているのだ。

2017年10月11日水曜日

今後の課題メモ: 美人の社会学? 女性の社会進出の一側面

「女性が輝く時代」、「女性の社会進出」というキーワードには小生は心底から賛成だ。亡くなった母は『お母さんは何も仕事ができないのが残念だわ、戦争で諦めたけど本当は帝国女子医専ていう学校があってネ、高等女学校を出たら、そこに進学したかったのよ』と、何度小生に話したかわからない。母は専業主婦であったから、父と結婚して主婦となってからは、いわゆる<仕事>というものを持つことはなく、ひたすら家庭の中で家事を担当して人生を生きた。成長してから調べてみると、母が進学したかったと言う「帝国女子医専」は現在の東邦大学医学部であることがわかった。

それでも母はそんな仕方で社会で重要な役回りを果たして生きたことに違いはない、と。そう思っている。他人では代替できない役回りを担っていたからである。そんな社会システムであったのだ。カネをもらってやる仕事と、カネをもらわずにやる仕事と、どちらが立派な仕事ですかと問われれば、人は答えるのに迷うだろう。

なので、女性の社会進出は母が聞けば当然のこと「いい世の中になったわね」と、そういうに違いない。

◇ ◇ ◇

しかし、どうも疑問に思うときが増えてきたことも事実だ。

世の中、色々な仕事がある。しかも人間の半数は男性である。ずばり『美人の女性はそれだけでエラくなるのに有利になるのではないか』。この問題はキチンと調べる必要があるのではないか。そう思うようになってきたのだな。

日本人は美人好き。いつだったか、いい加減な言葉だが、目にしたことがある。もちろん、「日本だけでそうだ」ということなら王朝時代の中国で「傾国の美女」やら「傾城」などという単語が生まれるはずがない。「クレオパトラの鼻がもう1センチ低かったなら世界の歴史は変わっていたであろう」というパスカルの言葉も同じだ。「美人」が世の中で果たしてきた役回りはどうやら国を問わず普遍的なものであるようだ。

魔女は絵本ではお婆さんの姿をしている。が、これは本当は奇妙だ。老婆は力弱き人間の象徴である。おそらくメッセージとしては「本当の姿は年老いた老婆である」という設定、物語のプロットとしての定石が<魔女=老婆>なのだろう。そして、人の前に現れる時は必ず美人になっている。美人に扮している。人は一般に他人を疑うが、美人には騙されるからだ。振り込め詐欺の例を引くまでもなく、お婆ちゃんは騙される立場におりがちであって、騙す方ではあるまい。人を騙すなら、お婆ちゃんより美人のほうに競争優位性がある。

若い頃からの小生の疑問は、『本当は老婆であるが、人前には美人に化けて現れるという童話がこれほどまで多いのはなぜか?』という問いである。

□ □ □ □ □

これまでに述べたことと、政治家には世間全体の比率に比べて<美人>が相対的に多いような印象があることと、何か関連性はあるのだろうか?世界的大企業の取締役以上の女性経営者にも、やはり<美人>が相対的に多いような気がする。この点もまた調べてみると、何か面白い結果が得られるのではないだろうか。

特に社会の支配的地位につこうとする場合、多くの人の支持を得る必要がある。そんな時、特に女性が進出する場合には、美人であることが相当有利ではないのだろうか?

小生、今後のちょっとした「調査課題」として「美人の社会学」というものがあるのではないかと、そう思い始めているところだ。

『美人には気をつけよ』、古代から言い伝えられてきた言葉であるが、この格言と「女性の社会進出」という大きな目標と、どこか関連づけて考察する必要があるのではないかという問題意識だ。


2017年10月10日火曜日

一言メモ: 政党党首会見をきいて

今回の選挙には争点がないという評判だ。

しかし、ないわけでもないだろう。2019年秋の消費税率引き上げの是非が一つ。もう一つは憲法改正になるか。あとは夢物語に類する事柄で論じても無駄だ。

消費税率引き上げも保守野党を含め主張はバカバカしい。消費税率を引き上げないならどうするか。提案するべきこの点をハッキリと口で言わないのだから、最初から逃げ腰だ。有権者としてはスルーするしかない。

ただ聴いていて、この党首は正直だ、と。そう感じることもあった。まずは共産党。自衛隊と憲法は相容れない。ハッキリとそう言っている。だから憲法の規定どおり自衛隊は時間をかけて解散させると言う。自衛隊の存在自体が違憲であるという意見は小生もまったく同じだ。これを堂々と語るのは正直な証拠だろう。憲法学者は違憲ではないという複雑な論理を組み立ててきたが、複雑な解釈を必要とする憲法は善くない、この一言につきる。

自衛隊を必要とするなら改憲が必要であるという論理は、共産党と自民党と、この2党だけだ。真逆にあるこの2党だけが憲法の基本認識を共有している。面白い事実ではないか。

維新の党も、まあまあ率直である。党風なのだろうか。いつも同じことを話す。つまらない。が、政治家たるもの『昔の名前で出ています』という、この愚直さこそが最高のモラルではないか。話すたびに違ったことを話す人物は信用できない。政治家失格だ。

安倍総理には(やはり)キレの鈍さとデリカシーの欠如を感じる。なので長広舌になりがちで、その割には明晰でない。『意あって知なし』かもしれない。日本人は旗幟をハッキリさせ、白黒を明らかにする明晰な行き方を好む。なので自然と頭のいい人を選びがちだ。ただ、前にも投稿したが、特有の鈍感さはあるが、基本的には内心が表情に出る正直な人じゃないかとやはり感じるのだ。だから政治家として主張に共感できると、そこまで言ってしまうと嘘になるのだが。朝日・毎日が論陣を張っているほど悪い政治家かねえ・・・と、こんな疑問もあるのが事実だ。

あとは口から先に生まれてきたような人で、みな利口で賢い人。そんなイメージであったな。

2017年10月9日月曜日

個人に政見があるなら新聞社にもあって当然だ

選挙の公示日は明日だが、いまだに小池百合子都知事兼希望の党代表が出るのか出ないのか、世間の見方は分かれている。

まったくヤレヤレである。『お父様(=小泉純一郎元首相)とも約束しております。私は出馬はいたしません』とも言っているわけだ。にもかかわらず・・・、やっぱりこれまでの<虚言癖>がなせる情況なのだろう。

バカバカしいこと限りなし。

以下のような書き込みもある。
日本記者クラブでの党首討論後の報道各社の論説委員などからの質問を聞いていたが、一部の質問者はジャーナリストとして大丈夫かと疑問を感じるとともに、ジャーナリズム出身者として恐ろしくなった。
今回は衆院選にあたって、有権者に各党の主張やそれに対する疑問点を聞く場である。それに加え「問題」とされる部分についても聞く。
当然、厳しい質問もある。
しかし、今回の質問者は、自らが所属する新聞や自分の主張に基づき、やりこめてやろうという質問の仕方で、しかも答えている途中で答えをさえぎるという失礼なことをしていた。
質問相手が答えに窮するぐらいの詰将棋を見たかったが、自分の思い通りに進まないと質問をかぶせるなどしており、全くそのレベルに達していなかった。
(出所)BLOGOS、2017年10月8日

著者は和田正宗参議院議員である 。同氏はNHK出身の自民党所属議員であるから、まったく100パーセント中立的な意見であるとは言えない。と同時に、しかし、朝日新聞にせよ、毎日新聞にせよ、<社是>というか、会社の理念が反・安倍政権、反・改憲であるのは歴然としている。

個人個人にはその人の支持政党がある。無党派にも意識されないイデオロギーがある。人は何かの価値観、自分で大切にしているホンネがあるもので、だからこそ人は誰かの奴隷ではなく、自分でいられる。そうじゃあござんせんか。故に、人間集団であるマスコミ各社にも必ず<社是>、その会社の多数派の政見というものが事実としてあるはずなのだ。

朝日新聞社も毎日新聞社も、中立的な<社会の木鐸>とか、(何か客観的な真相についての)<知る権利>など、そういう綺麗事をいうのはもう止めて、自らの立場や政見をはっきりとさせるほうがフェアではないのだろうか。『これから総理には対立的/敵対的な立場から幾つか質問をさせていただく』と、はっきり言えばよいのだ。これもまた権利なのだから。『失礼なことも言うかもしれないが、お許しいただきたい』とまで言うかどうかは大事でないが、言えば礼儀にかない、紳士的であるとリスペクトされるだろう。

実際、産経新聞や東京新聞は自らのポジショニングを明確にしている。だから、社説や政治欄は<偏向>している。偏向しているが、これもまた新聞社の権利なのだから、あやまる必要はない。

政治的な意見は常に特定の価値観や社会観、世界観が大前提になっている。大前提そのものの是非を論争し始めると社会が分断される。故に大前提として持っているイデオロギーや世界観については多様性を認めて争わず、人の内面については権力を行使せず、社会の分断を避けながら、具体的な政治問題について言葉で意見を主張する。実行可能な妥協を探る。これが現実そのものである。そうである以上は、マスメディアもまた自分の立場を明らかにしておくべきだ ー 立場を明らかにすれば販売部数は当然ながら落ちるかもしれないが。

トランプ大統領の敵が"New York Times"であり、"CNN"であるのは明らかだ。味方が"Fox News"であるのも明らかだ。立場、価値観が明らかであれば、書かれている記事の目的も明らかになる。もちろん敵対的立場の人が持っている意見を知ることも意義がある。だから多くの立場から意見が主張されている状態が望ましい。それがマス・メディアだ、いやマス・コミュニケーションというともっと正確になる。

インターネットで高度に情報化された21世紀ではもう<全ての国民のための中立的報道機関>という存在はありえない。無理であるし、偽善である。また、必要でもない。

2017年10月8日日曜日

イシグロのノーベル文学賞受賞に思う

カズオ・イシグロが(小生の方では予想外の)ノーベル文学賞を受賞して、前に買って積んでいた『私を離さないで』を取り出して読み始めている。

イシグロの作品は、小生はどちらかというとマイナーな『浮世の画家』から入った。自分も画作が好きなので、戦前期に一世を風靡し、戦後はどことなく零落した感のある大家の日常と記憶を描いているところに興味を覚えたのだ。そう、確かにイシグロの作品のキーワードの一つに<記憶>があげられる。

多くの人が指摘しているように、イシグロの心理描写はきめ細かくて、ストーリーは緩やかに展開されていく。で、ある時点で光が射す、というか地面が割れるような感覚である事実が明るみに出てくるのだな。

『浮世の画家』を読んだ時には、次は『日の名残り』を読もうと思っていたが、『私を離さないで』を買っておいたのはドラマの原作であったからだ。ドラマは第1回を観たのだが、あまりに重く、放映時間も9時からではなかったか、10時ならまだ良かったのだが、途中で止めてしまった。

あれは確かにとんでもない<悲劇>だ。

村上春樹もこの歳になって読み始めたものだから、両者の比較もいつか書いておこう。ただ今日は、昨日ゴッホ展にいって大混雑に疲れてしまったのか、ちょっと長い文章を書く気になれない。

◇ ◇ ◇

イシグロが活躍している英国文学はまずはシェークスピアにまで遡れるが、その時代から悲劇と喜劇とがあった。この区分は、古代ギリシアの華であった戯曲でも設けられていた。悲劇には人間の死が、喜劇には死が出てこないというわけではない。誰だったか『悲劇を2倍速で再生すると喜劇になる』と、そんな意味のことを言っている。

思い起こせば、昨年の初夏、小池百合子女史が自民党内の圧力に昂然と反旗を翻し都知事選に立候補し、ジャンヌ・ダルクのように颯爽と登場した時にはまるで宝塚の歌劇をみるようであったし、最初は勝てる気がしなかった情勢の下で<悲劇>をみるような感覚を覚えたものである。人気のある某評論家が「私も去年は小池女史に投票してしまいました」と告白しているが、もし住民票を都内に置いていたら、小生だってそうしたに違いない。

史上の人物であるジャンヌダルクもそうであったように小池百合子は神がかった戦術で勝利をおさめた。ところが、勝ったあと既に何百日という時間が過ぎたが、その長い日常的な時間をおくるうちに人間の性というものが次第に露わになる。汚い側面も見えてくる・・・決して、聖女のような清浄無垢の正義の味方ではなかった事実がわかってくる。

小池百合子にとって<時間>は味方ではない。これは冷厳たる事実であり、かつ致命的な事実である。歴史に名を残したいなら時間を味方につけなければならない。これは論理的な真理である。

いま人がそう呼んでいる「小池劇場」はクライマックスに差し掛かっている。颯爽と再登場したジャンヌダルク。しかし、舞台途中でヒロインであるジャンヌダルクがスッテンコロリンと転んでしまって、65歳の老いた令嬢の馬脚が観衆の眼前でモロに見えてしまうと、『これは悲劇ではない・・・ほんとは喜劇であったのか』と、上演時間が1年余の常識外の長大な喜劇であったのかと、東京都内の観衆は最初はビックリ仰天するが、次の瞬間に腹を抱えて大笑いし、ジャンヌダルクの大転倒を拍手喝采し、お尻をさすりさすり舞台の下手に退場するヒロインの上出来に満足する。小生、こんな展開がひょっとするとありうるのではないか。こんな思いで今はいるのだ、な。

ともかくも『事実は小説よりも奇なり』、『芸術は自然を模倣する』だ。たとえイシグロの才能をもってしても、現実の深遠さをすべて描写し尽くすことはできないのだ。


2017年10月7日土曜日

ハロウィン: 魔女の風を一番吹かせたい人は誰か?

来週から始まるビジネス統計解析ではRを使うので、事前課題としてR及びRコマンダーのインストールを課している。R本体のインストールは失敗しようがないほど簡単なものだが、Rコマンダーの方は時にうまくいかないことがある。そんな事態も考慮して貸出用PCにRをインストールするよう依頼したので今日は様子を見に行ったのである。

動作確認すると貸出用4台のPCにRがちゃんと入っていた。

その帰り、多少の画材を大通りにある店で買って、高速バスで帰路に着いた。途中で石屋製菓が運営している「白い恋人パーク」の前をとおる。時節はもうそろそろハロウィンである。どうやら関連行事が開かれているらしい。

宅についてTVをみていると、ちょうど上のハロウィン行事の模様が中継放送されている。黒いコスチュームに身を包んだ美しい女性が「これから魔女の風を吹かせましょう」と話している。

小生: さっきこの前を通ってきたんだよ。面白そうだね。でもさあ、魔女の風を吹かせたい人、一番風を吹かせたい人、都知事の小池さんだろうねえ・・・ 
カミさん: ええっ? 
小生: 小池マジックって言うじゃん? つまり魔女だろ? いま風を吹かせようって必死じゃない? ハロウィンも近いしサ、みごと魔女の風を起こしましょうって言ってネ、呪文かなんか唱えてサ、ホ〜ラア〜、吹いてきたでしょ、風が! オッ、ホッ、ホッ、ホッ・・・これでまたみんなを騙せるウソがつけるってものネ! 見ていて御覧なさい! ホホホホ・・・なんてさ、魔女の高笑い。これ、面白いんじゃないかネエ(笑)。マイクじゃなくってホウキか、リンゴを手に持って、勝負服もサ、緑から黒に変えたらいいんだヨ、勝負の色、黒にかえませんかって誰か助言してあげたらいいのになあ。誰か芸人さん、こんな感じでパロディーやってくれないかなあ、たとえば大池桜子みたいな芸名でサ・・・
 カミさん: ほんとにそんなバカなこと言って、可哀想じゃないの。
小生: サラリーマンわあ~、気楽な稼業と来たもんだあ~、っていう植木等の歌を子供の時に真似したんだけどネ、この伝で行くと ・・・『都の知事なんて~、気楽な稼業ときたもんだあ~』、こんな感じでどう思う? 
 カミさん: 駄目、駄目!! 
まあ、こんな冗談というか、バカな話題を提供してくれる分、今度の選挙は実に面白くなってきた。そんなところが今のところいい要約かもしれない。それにしても仮にも日本国の首都である東京の都知事ともあろう御人がねえ、何と言えばよいのでござろうか。形容のしようもござらぬ。


2017年10月6日金曜日

与党の弱気は与党の罠か?

小池都知事兼希望の党代表が、希望の党の選挙公約を発表しそれを「ユリノミクス」と命名した。

しかし、同人は「今回の衆院選に出馬せず」と断言しつつも、それでも「やはり出るのではないか」と(これまでの行動パターンの記憶もあるのか)周囲から疑われ、発言がまったく信用されていない人物である。ま、このあたり「日本のフーシェ」の面目躍如。

その人物が公約する言葉が信用されないのはロジックというものだ。

◇ ◇ ◇ 

守るつもりのない綺麗なことを現時点で発言しておくというのは、小生の感覚からみれば「ほとんど嘘」に該当する。

憤慨の念を感じたので、メモっておこう。

もしも「やっぱり出ることにいたしました」と言葉を翻して立候補すれば、与党は昨秋のヒラリー・クリントン候補がそれでやられた「(上品な)嘘つき」反復指摘戦術をとり、本気で落としにかかるのではないかと憶測しているところだ ー 現政権にも嘘が混じっているだろうが、「相手も嘘をついているんだから自分も嘘をついてもいいはずです」とはとても言えない。「ほとんど嘘」と「あからさまな嘘」はやはり違う。ということは、小池都知事の出馬に戦々恐々としているというのは、ひょっとすると漢の名将・韓信と同じ手口の罠ではないか、と。そんな気もしている。

◇ ◇ ◇

実際にそうなる可能性は、小池都知事の今時点の発言を信用する限りないのだが、もしも出馬・白兵戦になれば、意外な接戦となる可能性がある。そう予想しているところだ。

接戦にもっていける可能性が(意外にも)かなりある。「素人」の小生が予想しているくらいだ。プロにはとっくに周知のことだろう。接戦必至の方向を出すだけで戦術的には十分だ。それだけで小池都知事を自分の選挙区にはりつけられる。応援どころではなくなる。自分が落ちたら全てを失うからだ。代わりうる人材は党の中にまだいない。代表を狙い撃ちすれば他の新人候補は枕を並べて全滅の憂き目を喫するだろう。

(もしも今から)衆院選に出馬をするとすれば、見通しは暗い。しかし、このくらいは双方とも既知のことであるに違いない。どう出るだろうか。今のままでは希望の党は苦しい。これまた否定できない。小池女史は一度去った勝機を手に戻す妙手を思いつくだろうか。

2017年10月5日木曜日

日本政治史最大のアノマリーが起こるか?

アノマリーとは例外的事象のことである。特異値というのも可だ。

つまりアノマリーとは"anomaly"で"normal"ではないという意味だ。

どの国の政治でも同じだと思うが、政治家は国民に信用されなければならない。その理由は自明だろう。<信用≠期待>である点にも留意しておく必要はある。

希望の党を立ち上げた小池百合子都知事。今回の衆院選には立候補しないと断言している。断言もおろか「100パーセント出ない、それは最初から言っている」とも言っている。

ところが、小池女史の断言をまだなお疑っている人が多い。それでも出るのではないか。出るはずだ。そういうことだ。

これほど語る言葉が信用されていない政治家は初めてではないだろうか。

◇ ◇ ◇

信用されていないのは、「嘘」というと気の毒だろうが、極めて不誠実な行動を現にとっているからである。都知事の任期4年のうちまだ1年余しかたっていない時点で国政選挙にタッチするという行為を始めている。こんな計画は都知事立候補の際には小池女史は何も言っていない。ただ「都民ファースト」を連呼していた。故に、都知事の立場で政党の代表につき国政に関与すること自体、(多くの人が指摘するように)東京都内の有権者に対して極めて不誠実である。はじめから「嘘」をついてきた、嘘をついても平気なのだろうと、そう言われても仕方がない。嘘をつく政治家が信用されないのは当たり前のことである。

確かに政治には、特に選挙では権謀術数が当たり前だ。騙すことも許される。「死んだ振り解散」という事もあった。しかし、すべて<政治家同士の駆け引き>としては嘘も許されるということである。

もしも自身が衆院選に立候補すれば、「ほとんど嘘」ではなく、あからさまに嘘をついたことになる。

国民に対してあからさまな嘘をつき通して、成功する政治家が現れるとすれば、日本政治史の歴史的出来事にリストアップされるだろう。

まして(仮に都知事の任期を就任後1年余で放棄し、かつ前言を翻して衆院選に出馬し、加えて選挙でも多数を制し、最後に首班指名でも勝利して)女性初の総理大臣になるという野望が実現されるとすれば、日本の総理大臣の口から語られる言葉を日本の国民がハナから信用できない、その意味で日本政治史上最大のアノマリーになる。これは今の段階からハッキリと言えることだ。

いや、こう書いているだけで、こんな「非合理」を通り越して「非条理」とも言えることが、これから経済が上向いていこうという時に、なぜ起こらねばならないか?・・・ま、あってはならないことだって時には起こるのだな。つまり<非条理>、したがって"a great anomaly"なのである。

フランス革命期からナポレオン戦争後の王政復古期にかけて、その時その時の主流派を渡り歩きながら権力に寄り添い、仕事の上では警察組織の完成者、秘密警察の創始者として歴史に名を残した政治家ジョゼフ・フーシェ。その存在がフランス政治史においてアノマリーであるのと同じ意味で、小池百合子という女性政治家は日本政治史のアノマリーになる最有力候補である。

◇ ◇ ◇

安倍首相は鈍感であり、強引であり、傲慢である。しかし、基本的には正直なところもある。

<政権選択選挙>という観点からみれば、今度の選挙は乱暴な右翼政治家と嘘をつく右翼政治家との二択になるのかもしれない。

ウ〜〜ム、この二択のパターン。既視感があるなあ・・・。そうであった、昨秋の米国・大統領選挙。あれも確か、乱暴で正直な右翼政治家と上品で嘘つきな女性政治家の勝負であった。

アメリカでは乱暴なトランプ候補が勝った(アメリカ人はとにかく嘘つきを一番嫌うからネエ)。日本で嘘つきの女性政治家が成功するとすれば、この点でも日本の政治は、ある意味、創造的破壊を成し遂げたということになるのかもしれない。

とはいえ、都知事は辞めるのかとか、森友や加計にはフタをするのかとか、井の中のカワズ的でスケールが小さくて、田舎芝居のようでもあるなあ、と。そう思って見ている。

2017年10月4日水曜日

文科省: ひいきの引き倒しってヤツか

いまカミさんとこんな話をした。

カミさん: ノーベル賞、日本人はとれないみたいだね。 
小生: うん、まだ化学賞は残っているけどネ、もし今年はとれても長い目でみると、まったく取れなくなるだろうっていうのは確実。そう言われてるよ。特に国立大学のいまの状態をみるとね。 
カミさん: そうなの? 
小生: いまノーベル賞をとっている人たちは、ほとんどが昔の国立大学で仕事をした人たちなんだよね。その昔の国立大学はダメって言うんで国立大学を改革したんだけどね、それじゃあって改革した後の国立大学をみるとサ、これはノーベル賞なんてとても取れる状態じゃあないぞって。そうなっているわけサ。 で、その状態が放置されている。
カミさん: そうなの? 
小生: だからさ、文科省がやってきたこと、言ってきたことは、すべて嘘っていうと可哀想かな。ま、的外れ・・・歪んでいる、そんなところだよ。 いい仕事をしていた国立大学をダメだといって改革して、これでよくなったと自画自賛した今の大学は実はダメになっている。これが事実だからさ。
カミさん: 何かさあ「司法改革」?それを思い出すなあ・・・でもさあ、文科省の仕事が歪められたって言ってたよ。加計学園で。 
小生: 「ひいきの引き倒し」ってやつだね。マスコミが。たとえば二人が喧嘩をして一方が明らかに悪い。そのとき、いくら正しい方を普段から憎いと思ってても、悪い方の肩をもってサ、正しい方がいかに冷たい奴かってことを非難するとしたらサ、悪い方が正しいってことになって、おかしくなるよねえ。世の中、変なことをやっている側を「ダメだ」って指摘してさ、正しい方へ向けないといかんわけよ。いくら可愛くても間違ってたら間違っているとサ。それを言わないから、文科省のやっていることは正しいってことになって、何にも変わらない。そのうち、『日本人はこれで10年連続でノーベル賞を受賞しておりません』ってことになるよ、そうなってから大学をまた改革して、立ち直るまでに20年。あわせると30年間、受賞できなくなる時代がやってくるだろうねえ・・・
カミさんは学校の事情は知らない。まして大学のことは知らない。ただ、小生が若い時分に小役人をやっていたせいで、公務員というのは深夜まで真面目に残業していることは知っている。だから、国家戦略だ何とかという理屈で文科省の役人を内閣が権力的に押さえ込むと「役所の人たち、かわいそう」だと感じてしまう。

しかし、間違っていることは間違っていると認識することが将来のためには大切である。

2017年10月3日火曜日

筋書きのないドラマにも事後的なストーリーができる

政治は一寸先が闇である。しかし、まったく理解不能な政治は国民には耐えがたい。起こってしまっていることに物語を、ストーリーを付与して、納得したいのが人間の常というもの。マスコミもこの人間の普遍的願望に寄り添う必要がある。

なので、マスコミは現実を後追い的に取材をしては、なぜこうなるかを一生懸命に<解説>するのである。

どうやら小池劇場の開幕と小池百合子=ジャンヌダルクという役回りが再演されるかと思いきや、主役がやりすぎ一人芝居になっている間に、敵役・前原氏の長年の同志、枝野氏が敢然と政治家としての筋を通す行動に出た。世間が枝野氏に同情するのは確実である。おそらく枝野氏を最後に残った<正義の味方>として煽るのではないか。朝日はそうするだろう。衰えたりとはいえ、朝日、毎日の影響力は全国に及んでいる。

安倍首相よりも更に右翼に位置する政治家小池百合子氏の実像は既に浸透しつつある。いま現時点で日本国民が求めているのは右翼から着想される政策ではない。印象としては、中道保守的な発想ではないかと思う。そもそも小池女史が元来持ってきた政治思想はいま日本社会では需要されていない。逆向きである。これは確かな事実だろうと思うのだな。

枝野氏は左翼である。が、政治の振り子が振れる方向に立っているのは枝野氏のほうであろう。

ま、枝野氏はちょっと左過ぎるような気はするが、マスメディアの支持があれば大化けする可能性なしとはしない。

こうなるような気は前からしていたようにも思うが、しかし今回の寸劇もガラガラポンの結果の一つだろう。

2017年10月2日月曜日

「女性が輝く時代」?確かに今年はそうだ

今年は女性が「活躍」している。文字通り『女性が輝く21世紀』というキーフレーズが的中した第1年として歴史に残るだろう。


豊田真由子: 暴言暴行: 東大卒の元キャリアで頭がよい
稲田朋美: 極右・靖国神社・失言と隠蔽: 弁護士で頭がよい
山尾志桜里: 若手女性議員で敏腕: 元検察官で頭がよい
小池百合子: 都知事・外国語に堪能な元キャスター: 臨機応変で頭がよい

上のリストに上西小百合議員を入れても良いかもしれない。この人も一見ありのままのようでいながら、実は非常にクレバーなのだと思う。

いま世間で活躍している、輝いている女性はどの人も頭がよい人だ。

しかし、「頭がよい」という点については、これまでにも何度も投稿している。たとえば、これこれ。 

ずっと昔は頭がよいことを「賢しら(さかしら)」と呼んでいた。今では「賢い(かしこい)」という。「聡明」ともいう。サカシラは100パーセント負の印象を伝える形容詞である。現代のカシコイも「君は賢いねえ」と言われるのは、サカシラほどではないが喜ぶべき言葉ではないだろう。聡明な人と誠実な人と、あなたはどちらの人を信頼しますか?ま、趣旨はこれで伝わると思う。

小生の田舎で使っている「キョロマ」は、『またあの人が賢しら気に動き回っているわ』という言い方よりはよほど長閑な語感である。

頭をつかって、風をみて、一日中動き回ったり、雲隠れしたりしているが、肝心の結果が出てこない。忙しいわりには効率が悪い。キョロキョロしている割には、結果的には迷い道にばかり入りこんでノロマである。だからキョロマ。語源はこんなところだろう。

キョロマ達が時代の風にあおられて走り回っても、目立つことは目立つが、それは輝くとは言わないだろう。不動の定位置にあって光を放つのでなければ、「輝く」という動詞は使えない。

今回の「希望の党」と「民進党」の合流騒動を通して、頭が一番いい人は誰であったか。それは女性ではない。やはり民進党の前原代表が一番頭がいい。小池さんは他人がやるべき汚れ役を代わりに引き受けた分、人がよくて頭がわるい。ただ悪いはマイナス、いいはプラスとならないところが、人間評価の面白いところだ。

ただしかし、時代は変わったなあ、と。そう思いますヨ。ずっと昔の共産党では「日和見主義者」や「オポチュニスト」、「敗北主義者」って言ってネ、同志を異端分子に指名して粛清するときの決まり文句だったものですヨ。理念は立派だケド、現実には非人間的な共産党の体質を表す恐い言葉でありやした。それがネエ・・・、好機をとらえるっていうか、そんな賢しらなやり方が今では立派な「戦略」に昇格しているってンだから、時代も変わったもンだって、そう痛感するってエものでござんすヨ。

2017年9月29日金曜日

「政権選択選挙」よりこう言うのがよい

マスメディア各社は面白いものだから<これで政権選択選挙>になったと力説している(もはや解説ではなく、まして報道ではない)。

見ようによっては確かにそうだが、それよりは今度の選挙は<イメージ*ムード vs ファンダメンタルズ>のどちらがより確実な勝因でありうるのか。こうとらえる方が正確だと思って見ている。

民主党政権の失敗は東日本大震災・福島第一原発事故への対応が拙劣であったことが主因とされているが、副因として株価低迷、雇用悪化、デフレ深化という経済的ファンダメンタルズが足を引っ張っていたことは無視できない。尖閣諸島国有化にともなう日中関係の極端な悪化も大きなマイナスだった。衆議院議員選挙の投票は日本の政治に直結する。包装紙ではなくコンテンツ、ムードよりはファンダメンタルズが重要であるのは当たり前だと。これが常識だった。

現政権のファンダメンタルズは経済面では必ずしも悪くない。格差拡大は確かに改善されていないが、底上げはされているのは事実だ。株価は上がり、足元の景気をみると今後もっと上がっていくだろう。いわゆる「アベノミクス」の評価はまだ微妙だが、民主党政権時代の経済状況を思い出させるだけでも有効な反撃となるのは事実だ。希望の党から立候補する新人の力量はまったく不明。

こう考えると、突然参入した希望の党と化粧直しの後の民進党には勝機はないと考えるのが常識に合う。また合理的でもある。が、マスメディアを味方につけたイメージ先行・ムード醸成戦略は時に見事に奏功する。日本新党ブームもそうであった。が、日本新党ブームの時は、ブーム以前に消費税導入、リクルート事件、バブル崩壊の三連発があって反自民党ムードが蔓延していたという決定的背景がある。そこに日本新党は乗じることが出来た。無手勝流ではない。やはりファンダメンタルズの説明力が高いのだ、な。

森友や加計学園の問題。どうみるか?しかし、あれが経済社会のファンダメンタルだとは到底思われぬ。むしろ「不祥事」であろう ー そうは思わない人たちは不祥事ではなく、「汚職」だと思っているのかもしれないが。

そういう意味では、現在の日本社会におけるテレビ、新聞といった伝統的マスメディアの影響力、つまりはムード形成力、ブーム創出力を評価できるという点からも、今度の選挙は面白くなった。「面白くなった」ことだけは事実である、な。

それにしてもツイッターやフェースブックを駆使した選挙運動の名手が日本にも登場しないのでござんしょうかネエ・・・。これからはネットが主戦場になるってもんだと、そう思われて仕方ないんですがネエ。

ま、マスコミ大手は規制産業であり、電波市場の寡占が認められたり、あるいは価格競争の埒外に守られたりして、今なお政府の保護下にある。平時ならお目こぼしされるような偏向報道も選挙期間中は厳しくモニターされましょう。摘発など荒事にはしないでしょうが、第三者が問題視する発言をして、選挙後に何かの政策対応につながっていくかもしれません。この辺も「面白い」見どころかもしれない。

2017年9月28日木曜日

選挙戦: 政治の一寸先は闇だと思ったが・・・

政治の世界の一寸先は闇だと思ったが、安倍首相による唐突な解散宣言。その次の、民進党の事実上の解党と小池百合子氏が立ち上げた「希望の党」との合流方針―確かにまだ方針の段階ではあろう、代表の独走に終わる可能性もある以上は。いや、やっぱり出てくるものは出てくるネエ。そんな状況になってきた。

またか・・・というデジャブ感がつのる展開ではあるが、なるほど一寸先は闇であったには違いない。首相が奇襲を選ぶと、周囲の敵もまた夜襲で応じた、と。こんな感覚かな?

ただ、希望の党の代表になる方向の小池百合子氏は国会議員でない。なので、憲法の規定から首班指名の対象外となる。政権をねらうなら都知事を辞めて国会議員に戻らないといけない。戻ると決意すれば、都知事時代の実績を問われるのは確実だろう。そうなると、確かに話題は提供したが、『ちゃぶ台返しをしたまま後始末を付けていない』と批判される可能性が高い。特に地盤の東京都内で批判されるだろう。どうするのだろうか・・・?

それから希望の党は「消費税率引き上げ凍結」を公約に掲げるらしい。

保守的な「小さな政府」を志向するなら選択するであろう方向だが、そうなると前原氏、というか民進党の年来の主張である教育無償化は実行不能になるのではないか。

原発ゼロは良い方向かもしれないが、地球温暖化を考えれば再エネに舵を切るということだろう。となると、炭素税など環境課税を強化すると言わなければ電力料金が上がりすぎて、理屈が通るまい。まして電気自動車(EV)の普及など、電力需要は増加が見込まれている。電力料金は国家戦略レベルのキーポイントだ。しかし、このようなイシューを小池氏は今まで問題提起しては来なかったように思う。自分自身の<宿願>とは思っていないのではないか。



具体的に検討していくと、<どこの馬の骨じゃい>と言われかねない印象だが、しかしいかにも<劇場型>にふさわしい脚本である。エンターテインメント性を求めるマスコミは支持するだろうし、浮動層もそれに煽られて支持する可能性は高い。安倍内閣に辟易としている保守支持層は本当は多いはずだ。現在の強気一辺倒の北朝鮮外交にも疑問や批判、不安を感じている人も多かろう。

政治家として、それらしい実績を残してきたとは言えない小池氏ではあるが、あまりに乗り心地が悪く、代わりの船を探していた人たちには格好の選択肢になることは間違いない。投票日が迫っており、乗り換える船の行き先を確認するなど、考える時間があまりないのも幸いしている。

与党は党首による政策討論TV中継を提案してくるのではないだろうか。

お互い、楽な戦にならないのは間違いなくなってきたが、これだけは言えそうだ。小池氏が国会議員に打って出ない限り、風はこれ以上は強くならないだろうし、打って出るなら在職1年で中途で都政を放棄するという批判を免れない。気になるのは、劇場型政治の大家であった小泉純一郎氏は、郵政改革を長年主張した"Single-Issue Politician"であり、この一点に命をかけてもいいというフレーズが似合っている一面があったが、小池氏にはこれという宿願がないように見受けられることだ。

リスクの高さは小泉氏の郵政解散をはるかに上回っているというべきだろう。そのリスクは、選挙における勝敗のリスクを指すものであると同時に、仮に勝利して政権についた後の政権運営にまつわるリスクでもある。

今日の結論:

格言としては『信なくば立たず』というのは今だに有効だと思う。プロモーションはもちろん大事だ。しかし、トレンディーなイメージ戦略が、軍事リスクが現実に存在する今の日本の情勢の中で、それだけで単独に政権に近づくほどの大勝利をもたらすものだろうか?小生は疑問なしとしない。それから有権者との約束を1回でも破った政治家はそれが終生の傷となり大成はしないのではないか?政治は水物だが、一応、これを今後の予測としておく。

2017年9月27日水曜日

内部告発の正当性と森鴎外の見方


先日投稿した『ずっと昔の「文春砲」?』で永井荷風による「森先生の事」を引用した。その中で文学雑誌「新潮」が森鴎外の作品「大塩平八郎」に加えた批判が許せないほどに言葉汚く、卑劣なものであったという回想部分をも挿入した。

改めて『大塩平八郎』を読み返してみた。若いころに読んだ記憶はあるのだが、筋はほぼ完全に忘れているーこの辺りは古いドラマを視るのにも似ていて、考えようによっては節約につながる、というものだ。

そこで改めて確認できたのは古くて新しい問題であった。同じ問題を鴎外がずっと昔にもう考えていたことが分かったことには不思議な気持ちがした。第1回目に読んだ時になぜこの部分が記憶に残らなかったのかと、不思議な気もした。まったく、学校時代では鴎外や漱石がよく課題図書に挙げられているのだが、10代、20代のうちの読書力などはたかが知れている。つくづくとそう感じた次第だ。

以下、引用するのは最後のところだ。
個人 の 告発 は、 現に 諸国 の 法律 で 自由 行為 に なつ て ゐる。 昔 は 一歩 進ん で、 それ を 褒 むべ き 行為 に し て ゐ た。 秩序 を 維持 する 一(ひとつ) の 手段 として 奨励 し た ので ある。 中 にも 非行 の 同類 が 告発 を する のを 「返 忠」(かえり忠) と 称し て、 これ に 忠 と 云 ふ 名 を 許す に 至 つて は、 奨励 の 最 顕著 なる もの で ある。
平八郎 の 陰謀 を 告発 し た 四人 は 皆 其 門人 で、 中 で 単に 手先 に 使 はれ た 少年 二人 を 除け ば、 皆 其 与党 で ある。
(この間、平 山 助 次郎、吉見 九 郎 右衛門、吉見 英 太郎、河合 八十 次郎ら四名の密告の内容を叙述。)
評定 の 結果 として、 平山、 吉見 は 取高 の 儘 小普請 入 を 命ぜ られ、 英太郎、 八十 次郎 の 二 少年 は 賞 銀 を 賜 は つ た。 然るに 平山 は 評定 の 局 を 結ん だ 天保 九 年 閏 四月 八日 と、 それ が 発表 せら れ た 八月 二十 一日 との 中間、 六月 二十日 に 自分 の 預け られ て ゐ た 安房 勝山 の 城主 酒井 大和 守 忠 和 の 邸 で、 人間らしく 自殺 を 遂げ た。

(出所)森鴎外. 森 鴎外全集 決定版 全148作品 (インクナブラPD). innkunabula. Kindle 版.

言うまでもなく、「大塩平八郎」という作品は明治43年(1910年)の「大逆事件」に動機づけられ、江戸時代・天保8年(1837年)に大阪町奉行与力であった大塩平八郎が起こした乱を舞台にして鴎外自らの考えを述べたものである(と見なされている)。

明治43年の「大逆事件」は明治天皇暗殺未遂事件とされているが、現在では国家権力による「でっち上げ」であると見る研究者が多数派のようである。逮捕されたのは数百人にのぼり、うち起訴されたのが26人。松室致検事総長、平沼騏一郎大審院次席検事他の検察当局により事件全貌のフレームアップ(=ストーリー化)が図られ、異例の速さで結審・判決となったのが特徴とされている。起訴された26名の内24名は死刑、2名が有期刑となった。処刑された中には著名なジャーナリスト幸徳秋水も含まれていた。現在では容疑の暗殺計画に少しでも同調、関与していたのは、氏名の特定されている数名のみであり、後はまったく無関係、完全な冤罪であったとされている。1960年代より「大逆事件の真実を明らかにする会」が中心となり再審請求が行われてきたものの、最高裁判所は請求棄却、免訴の判決を下している。

上の大逆事件で検察側の調書・求刑を支えたのは主として一味とされる容疑者の証言であるとされている。森鴎外が考察を加えたのはまさにこの点に関してであり、『大塩平八郎』は鴎外の考えが小説という形をとったものである。小説とはいえ、書かれている内容は考証文学とも言えるほどに綿密で、永井荷風は「科学と芸術」との融合と表現している。

◇ ◇ ◇

公益を目的とした内部告発者は保護されるべきであるという議論は現代の日本でもよく行われる。特にマスメディアにとって内部告発者は報道を支える材料提供者として大変貴重であり、新聞の販売部数拡大のためにも<匿名による密告>は実質的に奨励されるべきであるし、保護もされるべきである、と。当然、そう主張するはずである。

つい今年の春から夏にかけての事件が思い出されるだろう。前川文科省元事務次官が今治市の国家戦略特区と加計学園の内幕を暴露し「行政が歪められた」と非難し、一夜にして「時の人」になって以後、リークした文科省の役人は誰なのかという詮索が行われた。その時、マスメディア大手は一斉に「公益に基づく告発者は法的に保護されなければならない」と主張したものである。

内部告発者(=密告者)をどう観るか?どう処遇するのが正しいか?これは古い問題だが、現にいまだに問題であり続けている問題なのである。

公益に基づく内部告発は、すなわち鴎外の引用する<返り忠>であって、江戸時代の昔より、権力が秩序を維持するための倫理的ツールとして使ってきたものと本質は同じであろう。幕府は封建権力であるが、今では民主主義体制が権力そのものになっている。自分自身の権力を維持するために<公益による密告>を奨励していると考えれば筋が通る。

大逆事件をでっち上げた検察当局と加計問題をフレームアップ(したとすれば、だが)して、反政権闘争に利用したマスメディア各社は、本質的には同じ手を使ったことになるのではないか。どこに進歩があるか?

いずれが正当であるか結論が出るはずもないが、大塩平八郎一党の謀議を事前に密告した面々が事件後に優遇される中、うち一人は<人間らしく>自決を遂げた。そう述べているのは、森鴎外個人の<倫理観>というものであるのは間違いない。イエス・キリストを告発し、銀貨30枚を給されたイスカリオテのユダの自決を誰もが思い出すのではあるまいか。

途中まで関係、協力しながら、最後に密告をする行為をどう考えればよいのか?統治の論理と人間の倫理、美しさと醜さと、損得計算を理性とみるか物欲とみるか、そこには色々な要素が絡み、何が正しい考え方かという結論はそうそうすぐには得られない。敢えて言うなら、誰にせよ他人の不幸や破滅を意図的にもたらすという正にその事によって優遇を受けるとすれば、その行為は醜い。たとえ、公益に叶うとしても<醜い>と感じられるなら、同時に人間の倫理にも反している可能性が高い。とはいえ、こういう言い方もあくまでも一般論で、世知辛い浮世で人と争いながら生き抜くしか術をしらない凡人としては、<醜い>と言われても立場がないだけの話になるだろう。だからこそ、魂を救済する宗教というものが必要であったのだが。

2017年9月25日月曜日

選挙戦: スローガンではなく、具体的作戦がなければ問題外!

最近の不祥事の当事者になった国会議員たちがそれぞれ所属する政党を離党し、それでも無所属での立候補を選択し、支持者に説明会を開いたり、駅前で運動を始めているようだ。

ある候補は『子供が幼いときには手厚い児童手当、働いている間は安心して働ける社会、老いてからは安心のできる年金。これらが揃わなければ安心社会とは言えません!』、こんなアピールをしている。

反対する人間などはいないのはもちろんだ。

誰もがそうであってほしいという主張を繰り返しアピールするのは、「あなたいま幸福ですか?幸せになりたいと思いませんか?」と、誰しも本音としてもっている願望をついてくる宗教団体の布教活動と同じである。

宗教なら信じればそれで救われる。しかし、政治は宗教ではない。票を投じる有権者もバカではない。当たり前のスローガンではなく、どうすれば出来るのか?具体的作戦を語らないと票は増えないだろう。

◇ ◇ ◇ 

子育て支援、医療支援、手厚い年金を保障して安心社会を築くことは増税なしでは絶対に無理である。『増税なしで出来ます』と言う人は必ずいるし、現にいたこともある。しかし高齢化社会・低税率・高福祉を現に実現している国は一つもない。出来ないからである。『消費税率を20%まであげましょう。安心社会は夢であってはダメだ。おカネを出しましょうよ。それを財源に100年安心社会は必ずつくれるのです』、こんな構想を述べるのでなければ、手厚い社会保障は100パーセント嘘になる。ここまで有権者はわかっているのである。消費税を累進所得税率や法人税率引き上げ、環境税強化、資本課税強化に言い換えれば更に一層リベラル色が強くなる。語るべき構想を語らず、実現不可能な夢物語しか語らないので、政治に失望するのである。そういう悪循環がある。

その原因の一つとして、議員に当選することが、特に若年で議員を志す場合には議員であり続けること自体が生活設計の一部になる。こんな事実があるのかもしれない。国会議員の副業は禁止されてはいないものの、現実には兼業が相当困難である点もあるだろう。だから議員が職業になる。落選すると失業する。なので落選を極端におそれる。率直に語るべきことを語る勇気が出ない。そんな仕組みになっているのではないだろうか。

◇ ◇ ◇

そもそも国会議員は(特別)公務員であり、すべての国民に奉仕する公僕であると定義するのも問題が多い。国会では多数派が形成され、多数派の求める政策が実行されるのは当たり前である。<多数派の利益≒国民の利益>とみなして割り切るのが、任期のある国会議員による代議制民主主義の大前提ではないか、そう思うのでござんすが、誤りでありましょうや。

なにも「安心社会の建設」ばかりがスローガンたりうるわけでもない。「あなたには夢はないですか?富裕層に仲間入りしたくはないですか?もし事業の構想をお持ちなら、私たちは支援します。自由を保障します。活力のある社会、未来のある社会をつくりませんか?自由な経済圏を私たちはつくります。職業規制は廃止します。開業規制は廃止します。私たちは事業から得られる利益には課税しないことを約束します」、こんなアピールに魅力を感じる有権者も必ずいるはずである。配当課税は残すがキャピタルゲイン課税は撤廃すると言えばもっと新自由主義的になるだろう。誰もに安心は保証しないが、夢を追う人は応援する。夢を追う人を応援する人も応援する・・・。こんなアピールも十分魅力的であると(小生は)思うのだけどネエ・・・。

ビジネスには必ずターゲットがある。ターゲットを定めないマーケティングはない。自社製品は日本人全てのために提供しているのですなどと語る経営者がいれば、『あなたバカですか』と。必ずダメ出しをされる。政治もそうである。ある人達にとって嫌なことは他の人たちにとっては有難い。ある人達の希望は他の人達は邪魔をしたいものである。

政治団体(=政党)は、自党のターゲットをどう定めるか?ここが最も大事な出発点だ。ターゲットが定まれば、ターゲット外の人たちが忌避するような政策を訴えてもよいのである。ターゲットが支持すれば政党としては成功なのだ。というより、そうしなければ実行可能な政治戦略はつくれないはずだ。もちろん勝敗は数で決まる。決まったものが正しいのだ。なぜ正しいかは学者が考えるべき事柄である。これが民主主義の本質というものではござらぬか。

選挙区で選ばれた議員一人で出来ることは一人分の事である。党をつくり力をもたなければ大きな事は出来ない。「国としてこうする」と目標を決める「政党」は現代社会の政治的駆動力なのである。経済の場における「会社」と同じだ。

すべての人たちに平等公平に奉仕する会社はない。会社は顧客や支持者を喜ばせるために行動するのである。そうでござんしょう。政党だって、つまる所、おんなじでござんせんか。

代議制民主主義とは、つまるところ、私欲・支配欲をどうマネージして、社会制度にとりこみ、公益の向上へとつなげていくか。そのための工夫である。それ以外の見方がありましょうや。
◇ ◇ ◇


ところが、自民党は総合家電メーカーのような大規模政党である。「誰にでも何でもお役に立ちましょう」と言っているようなものである。トップ企業がこう出てくると、他企業は大事な側面で「尖がっている」項目を一つ設けて、あとは大体トレンドに合わせる。それが差別化のための理論的最適解でもある。実際、そうなっている ― もちろん共産党は別である。

本当の意味での対立軸がいつまでたっても与野党から出てこない。「これが国民のためになるのです」と、それしか言わないから、そもそもターゲット(=支持基盤)が真に求めていることを本当にやる気があるのか。そんな問いかけすら、するだけ無駄であるのが現在の小規模野党群である。民主党政権時には、あろうことか自民党の伝統的支持基盤を吸収しようとしているように見えたこともあった。『要するに自民党にとって変わりたいだけか』。小生はそう思ったものでござる。

与党と野党のコア・コンピタンスがぶつかりあう、「外面美人戦略」を放棄して、選択と集中に徹底して、支持基盤の本音を剥き出しにした衝突がいつ始まるのだろう?

現在の日本社会には確かに社会的な断層が形成されつつある。だから、やる気があれば、自民党への真っ向勝負もできるはずだ。自民党支持層は誰にでもわかっているのだから。  ー いや、無理かネエ、大体そもそも、マスメディア企業そのものからして、日本のエスタブリッシュメントだ。組織が固まっている共産党ならいざ知らず、自民党に真っ向から勝負するような(自民党になり変わるだけならば可)真のリベラルなど、巨大メディア大手につぶされるのではないか、と。それでもネット上で・・いや、それもダメか、それでもしかし、公職選挙法の穴がどこかにあるのではないかネエ、と。そんな風に思われるのである。

一体いつになったら日本の政治は面白くなるのだろう?

ま、ともかくも安倍政権の右翼的感覚には頻繁に拒否感情を感じるが、それでも自らのターゲットを喜ばせることを目標とし、と同時にターゲット外の人たちの怒りとの差し引き計算を常に忘れないところは、政治家としてあるべき模範である。そう思っているのは事実だ。

2017年9月23日土曜日

衆議院解散の大義名分はあるのかって?

にわかな解散風で本当に政治というのは一寸先は闇であると思いを新たにする。

日経にこんな解説がされている。

 ただ調査は野党の候補者一本化を前提としない数字だ。野党共闘が奏功すれば自民党の議席はさらに減る。逆に野党がしくじれば自民大勝の芽もないわけではない。「危険な賭けだ」と漏らす首相側近もいる。消費増税の使途見直しや憲法改正、北朝鮮への対応などが争点になる気配だ。

(出所)日本経済新聞、2017年9月23日

ただこれだけ大義名分を並べても反政権派マスメディアは解散の大義名分として説得力にかけるというだろう。

現政権は率直に語ってはどうだろうか。

臨時国会でも野党は再び森友事件、加計学園問題を追求する構えだと伝えられている。しかし、北朝鮮をとりまく国際環境は年末にかけて更に一層緊迫の度を増すという外交当局の予想である。

アメリカの方針、現行憲法の制約の中でどこまで日本が行動できるか等々、困難な政治が予想される。そんな中、予算委員会その他で(小生の目にはどうでもよいとしか思われないが)国会がテレビ中継される中、延々と森友・加計学園問題で首相以下の閣僚が出席を求められる事態は、日本の「国家」というものを考えれば、やはり大きな問題で、大げさにいえば戦後日本式・議会制民主主義の負の側面であると、思ってしまうのだ、な。

行政府の問題は会計検査院や検察庁など非政治的・中立的機関が設けられているのであるから、公的機関による検証を国会も信頼し、議会が本来果たすべき仕事にとりくむべきだろう。

実際、民進党は蓮舫代表が春先からの与党追求、内閣の支持率低下にもかかわらず辞任を余儀なくされ、離党者が相次ぎ党自体が崩壊寸前の危機に陥り、前原新代表への期待も薄いと伝えられている。戦術が成功しているならこうはなっていないはずだ。マスメディアが反政権闘争を展開し、内閣支持率を低下させても、それでもなお新しい政治への期待はさっぱり高まってはいないのだ。野党のとった戦術が広く国民に支持されるどころか、ある面では辟易とした感情を形成してきたという歴然たる事実がここにある。

春先以降のこれら全ての情勢を含め、<内閣の信任を問う>解散と選挙であると率直に語れば、それで十分ではないだろうか。

・・・こう述べると、『結局は、森友事件・加計学園問題の国会審議から逃げるのをよしとするのか』という指摘になってくるだろう。こういう見方は決して否定できないのだな。つまるところ、モリカケ事件を<些事を問題視した次元の低い政争>と見るか、それとも<現政権の腐敗>をそこに見て国会が行政府を問い詰めるべき大問題と解釈するのか。この二択である。こんな結論になるのではないか。

小生は(どちらかといえば)前者に近く、なので現政権の右翼的思想には拒絶感をときに感じるものの、同程度の辟易さは春先以来の民進党にも感じているので、この辺りで内閣の信任投票を国民に提案するやり方もあってよいと思っている。

信任が確認されたという状況になれば、集団的自衛権を認めた現・安保法制の運用にも自信が得られ、マスメディア攻勢や違憲訴訟の殺到にもメゲず堂々と反撃する、そんな覚悟もできる。こんな風な期待も(ひょっとすると)あるのかもしれない。もちろん「とらぬ狸の皮算用」という可能性もあるわけで、自民党の予想外の敗北、首相退陣という信じられない展開も絶対にないわけではない。「一寸先は闇」なのである。

というわけであり、激しく変化する時代、危機の時代には、前例のない解散の仕方があってもそれこそが歴史の進展であると思うわけで、前例が少なく好ましくないと言うそれ自体を問題視して学問的論議を重ねても神学論争に落ちていくだけである。社会を対象にする学問は現実の中から新たな概念を抽き出し理論を発展させ自己革新していくしか進む道はない ー 学界のバックアップがないことは現政権のウィークポイントには違いないが。

2017年9月20日水曜日

祖父のエピソード: これは奇縁だったかも

小生の母方の祖父は名を石丸友二郎という。裁判官をやって人生を送った人である。だが、色々と失敗をした人でもあったようだ。

たとえば祖父が旧制松山中学(小生の親は父方・母方とも四国松山地生えの家に生まれた)を卒業するときのことだ。その頃、成績第一位は熊本の旧制五高に推薦入学できたらしい。ところが祖父は2位であったようだ。2位は五高ではなく、岡山にあった旧制六高への推薦が可能だったと言う。小生なら大人しく六高に進んだと思うのだが、祖父は実力に自信があったのだろう、『試験を受けて五高に行きますから』と言い放ったそうなのだ。ところが受験してみると、祖父の言い分によれば得意の数学で勝負をするつもりだったところ、たまたまその年の問題は多量の計算を要する問題が出題されたらしい。小生も単純で面倒なばかりな計算は嫌いであったが、祖父も計算は苦手だったらしい。多分、計算ミスを途中でやって、キリの良い答えが出なかったのだろうか、時間が気になり焦ってしまい、あえなく不合格になった。さすがに見栄を切った手前恥ずかしく、表にでることもいやになり、鬱症になった祖父をみて、父親(=曽祖父)は海辺にある家の一室を借り、一夏のあいだそこに滞在させたと言う。いまでいう転地療養である。それで元気を取り戻した祖父は秋から受験勉強を再開する気持ちになったのだが、これが運勢というのか翌年の春に旧制松山高校が開設されることに決まった。それで、祖父は熊本にも岡山にも行かず、地元の松山高校にそのまま進むことになった。

そんなことで岡山の旧制六高に学ぶ機会はついになかったのだが、もし六高に進んでいれば有名な新島八重の娘婿である広津友信がまだ英語教師か生徒監として在職していたはずである。広津は六高に明治34年(1901年)から大正9年(1920年)まで勤務していた。もしそうなっていたら、祖父のことだから広津から聴いた新島八重や戊辰戦争前後の色々なエピソードを小生にも話してくれたに違いない。

石丸友二郎。妻は同郷の作道家から嫁した米代である。長女の名は静江。7歳下の弟が元一である。静江、即ち小生の母である。静江は夫・芳男が53歳であるときに死別し、その後11年を経た後61歳で他界した。元一。妻は和子である。二人とも松山市で暮らし健在である。

こんなことを調べる気になったのは、会津若松の特産である「ニシンの山椒漬け」が小生の好物なのだが、中々地元では手に入らず残念であったところ、ふるさと納税で寄付すれば送ってもらえるのではないかと思いつき、ネットを検索してみると、意外や会津若松市ではなく隣の会津坂下町でお礼の品の一品としてニシン山椒漬けがあるのを見つけた。ただ、会津坂下町には行ったことがなく馴染みがないので、調べてみると出身者の中に新島八重がいる。NHKの大河ドラマで八重は有名になったが、生まれた土地は若松ではなく、坂下であったのかと、再び八重のことを調べ直しているうちに、上の娘婿・広津友信に行き着いたのだ。

広津友信。福岡県出身で同志社英学校に学び創立者・新島襄の信頼厚かった人物である。新島の死後に米国・ハーバード大学に留学し帰国後は同志社の校長代理を勤めた。しかし明治34年に或る校内トラブルに巻き込まれ、同志社を辞任し、同年秋岡山の六高に移籍した。妻は新島八重の養女・初である。初は元・米沢藩士である甘粕三郎に育てられたが、実の親は父が元・米沢藩士甘粕鷲郎、母が元・会津藩士手代木勝任の娘・中枝である。両親が早く亡くなったため叔父・甘粕三郎が初を引き取って育てた。初の祖父・手代木勝任は会津戦争で敗勢が濃くなる中、秋月悌次郎とともに米沢まで陰行し降伏の仲介を依頼した。同藩の協力で会津藩は官軍・板垣退助らに降伏を申し入れることになり戊辰戦争は大きな山を越した。

・・・ついでにいうと、上にあげた祖父は東大には順調に進んだが、その後司法試験(当時の高文試験)を受験するときに遅刻するという大失敗をまた犯してしまった。ただ、この時はさすがに鬱症にはならず、小田原の中学校で臨時教員を一年勤めてしのぎ、翌年度に無事合格した。なので、祖父は10代においては駿馬であった(という)のだが、職業人生を始める時点においては既に人に遅れをとっており、裁判官とはいっても地味な支部勤めが多かったような気がするのは、若い頃のこんな失敗が尾を引いたのかもしれない、と。今になってから思ったりしているのだ。

2017年9月18日月曜日

暴言議員・豊田女史のインタビューで思う

暴言暴行で世を騒がせ自民党を離党した豊田真由子議員に民放のニュースキャスターMがインタビューしたというので注目されている。

今回は秘書への暴言暴行とはうって変わり、スッカリと萎たれた反省ぶりで、これが録音された人物かと思われるほど、声調はまったく別人である。

インタビューの内容自体については多くの意見が既にネット上にアップされている。改めて付け加えなくともいい。

ただ思わず考えてしまったことがあった。

◇ ◇ ◇

豊田議員は、繰り返すまでもなくエリートである。有名女子高校から東大法学部に進み、中央官庁の官僚となってから、米国・ハーバード大学に留学するなどを経て、衆議院議員に当選した。極めて聡明で、昔流の表現を使えば「目から鼻に抜ける」ような大秀才、いやいや超才媛であったからこそ可能だったキャリアである。そんな人だからこそ、暴行暴言が世間の一大テーマになったわけでもある。

悪い意味で『命なるかな。斯(こ)の人にして斯の疾あること、斯の人にして斯の疾あること』という孔子の言が当てはまってしまったわけだ。

しかし、よく考えてみると、オリンピックの金メダリストが不祥事を起こすのだから、勉強エリートがトラブルを起こしたくらいで驚くことはないのだ。理屈はそうでござんしょう。

T女史の場合、「頭がいい」というその点こそがどうにも好感を持てない大きな短所として働き始めている。これが厳しい現実として指摘できる。

◇ ◇ ◇

少し敷衍しよう。

下の愚息に何度も言っているのだが、人の長所は即ちその人の欠点であり、欠点は即ち長所である。たとえば<大胆>な人は同時に<鈍感>な人物でもあり、より大胆であればあるほど一層鈍感にもなりうる。鈍感であるという欠点を表面化させないためには繊細である必要があり、そうなるべく努力をすれば本来の長所である大胆さが消えてしまうのだな。理想は「大胆にして細心」だが、言うは易しだ。他の性格もすべて同じである。

聡明な人は変化や違いに敏く、状況変化に即応してとるべき対応が直ちに分かるものである。頭の回転が生まれつき速いのだ。かつそんな人は記憶力が抜群に良い。それが普通の人間集団におけるトラブルの中では最大の欠点となりうる。前にも投稿したことがあるのだが、小生の田舎でいうところの「キョロマ」になることが多いのだ、な。

大成功するための必要条件として大阪では三点が強調されている。誰でも知っているそれは<運・鈍・根>である。頭のよい人物は鈍な人物を演技できないものである。上手に演技しようとする努力そのものが、鈍な人物ではなく賢い人間である事実を浮かび上がらせてしまう。

故に、聡明な人は概して大成功には至らない。これが昔からの経験則のようなのだ ー 小生の亡くなった父もその轍を踏んでいたように(今にして)思ったりする。

江戸幕府の名老中であった松平伊豆守信綱は「知恵伊豆」と呼ばれるほどの秀才であったが、人望薄く、「才あれど、徳なし」と評されていたそうだ。小姓をつとめて以来ずっと仕えた将軍・家光が薨去したときに殉死はせず(4代家綱を託された故であるが)、そのため「伊豆まめは、豆腐にしては、よけれども、役に立たぬは切らずなりけり」と庶民からは揶揄されている。

◇ ◇ ◇

非常に頭のいい人物というのは、使われる人物であってこそ輝くことが多い。尊敬や人望、器の大きさとは無縁になりがちだ。「頭の回転が速い」という素質単独ではせいぜい歯車一枚が担当できる範囲のことしかできない理屈だ。大成功に至るにはもっと必要な才質がある。

知恵伊豆や一休さんのように「頭の回転が速い」、「頭がいい」ということが真に求められる仕事とは一体なんだろうか、よく考えると分からないのだな。小生の身近には研究者が多数いるが、研究者としての成功は「頭より性格」、これが経験則だ。やはり、どう考えても人の手足になって指示された仕事を正確かつ速やかに進めるときではないか。それとも当意即妙が求められる芸能人だろうか・・・。頭の回転が速いことは、足が速いのと似ていて、あくまで個人の能力なのである。走るのは一人で走る競技もあるが、仕事は一人では中々できない。頭の良し悪しはその人個人の才能なのだ。そういえば東大生の芸能人化現象がさいきん顕著に進んでおるなあ・・・。ま、これは別の話題。

今日はどうも結論らしい結論はありそうもない。が、上で「考えてしまった」と書いたので一応全部書きとめておく。

一生懸命に受験勉強をすれば普通の人でも解答可能であるような特定のパターンの問題を<制限時間内>で解くような筆記試験は、頭の回転の速さを測定しているわけであり、まったく人材選別に無益とまでは言わないが、問題解決能力を問うものではなく、選別手段として高い精度をもっているとは言えない。

筆記試験では<真に解答困難>な問題を出題し、体力の限界を問うほどの長時間を与えて解答させる方式の方が選抜手段としては有効だと思う。評価は主観的にならざるを得ない。だからこそ、評価を担当する側にこそ一流の人間を配置するべきだ。中国伝統の科挙はその方式であった ー それでも出題パターンは無限にはないので受験勉強の巧拙で合否が決まるところがあったと何かで読んだことがある。

厳しい勝負の世界で生きているプロスポーツでは、練習を重ねいま身につけているスキルより、「基礎」と「伸びしろ」をみて選手を選び育てているはず。これはどの世界にも当てはまることだ。

こんなことを改めて考えてしまった。ま、月並みなことである、な。

2017年9月16日土曜日

ずっと昔の「文春砲」?

夏に読み返すなら永井荷風の『濹東綺譚』が最良だと思っている。この夏もまた読んだのだが、面白い下りがあったのでメモしておく。

主人公の大江(≒荷風自身)が遊興の巷・玉の井をなぜ歩き回るようになったのかを語る場面である。

此に於てわたくしの憂慮するところは、この町の附近、若しくは東武電車の中などで、文学者と新聞記者とに出会わぬようにする事だけである。・・・十余年前銀座の表通に頻りにカフェーが出来始めた頃、此に酔を買った事から、新聞と云う新聞は挙ってわたくしを筆誅した。昭和四年の四月「文藝春秋」という雑誌は、「世に生存させて置いてはならない」人間としてわたくしを攻撃した。

と、こんな下りがあるのに改めて気がついた(岩波書店『荷風全集』第9巻(昭和39年初版)、134頁)。

『濹東綺譚』が書かれたのは昭和11年(1936年)のことである。「う~む、81年も前から文藝春秋という会社はこんな「筆誅」なるものをやっていたんだネエ」と、改めてというか、つくづくと、会社の根性なるものに感嘆した次第。

とはいうものの、永井荷風はことさらに『文藝春秋』のみに辟易していたわけではない。

たとえばこんな下りもある。

文学雑誌『新潮』は森先生の小説に対していつも卑陋なる言辞を弄して悪罵するを常としていた。殊に先生が『大塩平八郎』の一編を中央公論に寄稿せられた時『新潮』記者のなしたる暴言の如きは全く許すべからざるものであった(岩波書店『荷風全集』第15巻(昭和38年初版)、232頁)。
荷風がいう「先生」というのは森鴎外のことである。上は大正11年(1922年)8月発行『明星』に掲載された『森先生の事」がオリジナルである。書かれたのは実に95年も前のことだ。

現在、「週刊文春」と「週刊新潮」が何かと言っては人の秘密を暴露しては人を非難し、販売部数を伸ばす競争をやっているが、「この性向、昔から何も変わっていなかったんだネエ」とつくづくと感嘆した。

同じ路線を100年近くも走り続けるのは、会社であるとしても、ある意味で偉大なことであろう。



2017年9月14日木曜日

北朝鮮問題: 間の抜けた記事、間の抜けた予測

新聞記事を書いている記者がどの程度まで書いている事柄について勉強しているかというと、疑問に感じられることが多いと。こんな指摘は以前からある。次の下りはどうなのだろうか。

 (前略) また、日米の運用が一体化すればするほど、自衛隊が米軍と同じ集団とみなされる恐れがある。もし北朝鮮が米軍に軍事行動をとる場合、給油などをする自衛隊にも矛先が向きかねない。政府がどこまで情報を開示し、正確な実態を伝えるかも議論が必要になる。


北朝鮮が仮に日本海で米艦を攻撃すれば、直ちに安保法制上の「存立危機事態」及び「武力攻撃予測事態」が宣言され、集団的自衛権が発動されることは確実である。

その集団的自衛権について違憲訴訟が殺到することも予想される。

しかし、現に北朝鮮が米艦を軍事攻撃しつつある事態になれば、詳細を述べるまでもなく、集団的自衛権に基づき自衛を進める内閣を支持する世論は高まるであろう。違憲訴訟の結論がでる以前に、憲法改正が発議され、国民投票に付されることもまず確実ではないかと思う。国民投票では賛成多数となるであろう。

なので『北朝鮮が米軍に軍事行動をとる場合、・・・自衛隊にも矛先が向きかねず』というのはかなり間の抜けた話しで、そんな<有事>においては自衛隊というより日本の国土が当然の理屈として北朝鮮の攻撃対象になる。これはもう当たり前のロジックだと思うのだが、「そうならないように出来ないか」と願うなら、上のような暢気な予測を述べるより、戦争を避ける戦略的外交の余地について特集記事を企画したり、世論を形成する努力を(もっと)するべきではないだろうか。

森友騒動や加計学園騒動ではそれができたのである。

2017年9月13日水曜日

主観におぼれては良い分析も、良い提案も、良いレポートも無理である

商売柄、レポートを添削したり、評価することは多い。

明確に言えることだが、優秀なレポートは読んでいて楽しい。書いている本人の知的な活動がイキイキと伝わってくるものだ。

よく起承転結を大事にせよとか、序論・本論・結論をハッキリ意識せよとか、良いレポートを書く鉄則について話したりするのだが、最も大事なことはロジックを通せという点に尽きる。なぜなら、感性や価値観、理念、主張は人さまざま、文字通り「人は色々」だからだ。感性や価値観はバラバラでも、論理は万人共通である。だから明確な論理で整理されたレポートを読むと、思わず『この人はホント頭がいいねえ』と感心するのだなーもちろん、どんな論理にも前提はあるので、結論に常に同意するとは限らない。これまた当たり前。

◇ ◇ ◇

さて、と。ある報道記事(というよりブログ記事)に次のような下りがあった。
今、野党は何を目指すべきか。 
「自民党にとってかわる」のが野党の大目標であるのだから、すでに「失敗した」と見られている「民進党」という器にこだわらず、国政の転換のための野党勢力の大きな結集を実現し、一対一の構図を作り出すべき、というのは、前回の論考で書いた。 
で、こういう書き方をすると、「理念なき数合せでは駄目」みたいな評論が必ず出てくる。それはその通りだが、しかし私が見ている限り、バラバラで遠心力ばかりが働いているように見える野党勢力だけれども、当面の政権政策となりうる政策の一致は、本当のところ、十分に可能であるように思える。
(出所)BLOGOS、2017年9月13日

ご本人はレッキとした政治家だ。だから自派の立場を伝えようとする意欲はわかるのだが、わかるのは残念ながら『何か、強い思いがあるんだネエ』というところまでだ。

小生、最後まで読むことが出来なかった ー 教師としての立場上、こんなことをしてはいけないものの、最初の数行を読んだ段階で関心が萎えてしまうレポートもある。そんなタイプのレポート文と同じであった。

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「自民党にとってかわる」のが野党の大目標であるのだから・・・というところでもうダメであった。

学生のレポートであれば「違うでしょ」と言うだろう。

政治というのは「お山の大将」になる陣取りゲームではない。現代は戦国時代ではないのだ。当人たちは勝負の意識が強いのだろうが、それは「当事者の主観」でしかない。国民とは共有されていない。

民間企業ならシェア第1位になりトップ企業として君臨するのが、経営目標といえば目標だ。しかし、ただトップ企業を倒すことを第一目標にしてはいけない。

トップ企業は、多くの顧客から評価されているからこそ、現時点のトップでありえている。この事実は大変厳粛である。それはトップ企業が有している価値であると同時に、そのトップ企業は顧客を含む社会全体にとってのリソースでもあるのだ。ただ「トップを倒したい」なら、虚実とりまぜた「ネガティブ・キャンペーン」を徹底してやればよいのである。トップ企業はボディブローのようなダメージを被るだろう。しかし、それは商慣習としてタブーになっている。その意味合いは政治家や政党にとっても非常に重要ではないだろうか。

「トヨタにとって変わることはトヨタ以外の国内自動車メーカー共通の大目標だと思うんですよね」という御仁が、たとえばゴーン社長の後継者になるとすれば(ありえないことだが)、『こいつバカか』と思うだろう。「よい自動車」を提案して新たな時代を切り開けば、結果としてトップになれるのだ。

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違った政党は、異なった提案をしている(はずである)。提案が異なるのは基本理念が異なり、目標が異なるからだ。そもそも「政党」っていうのはそういうモノでござんしょう。民進党と日本共産党は基本理念が異なる(のは明らかだ、民進党の理念は少しアイマイだが)。理念が異なり、目標が異なるなら、協力できるロジックはない。

であるのに、「大目標」とはよく言ったものである。薩摩と長州は「幕府を倒す」という目標で一致したわけではない。攘夷が困難であることにいち早く気づき、幕藩体制という現状が国の独立を危うくしているという認識を共有し、「倒幕」が必要であると認識し、「強い日本を建設する」という目標で一致したから、薩長反目の経緯を乗り越えて協力できたのだ。倒幕は「大目標」ではなく通過点であった。何より「行き先」が大事なのだ。幕府を倒すという大目標で協力したわけではない。それでも具体的政策レベルで違いが表面化したから西南戦争が起こってしまった。目的が違うなら、やっている先から内紛が起きるだけである。

小生の若い頃に「革命はまだ起こらねえのか!」と叫ぶ御仁がいたが、ただただリニューアルしたいだけで壁紙を剥がし、家具を撤去したら、漂流するだけでしょう。

夢をまず語るべきである。夢があったから志があり、「志士」と呼ばれたのだ。であるのにネエ、上のブログ記事はトテモじゃないが読めたもんじゃございませんでした。

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レポートの序論では、問題を提起し、その問題について全ての人が認めるに違いない合意事項や大前提を示す。そこで本論に入り、ロジカルに問題の解決策を浮かび上がらせていく。これがレポートの王道である。

奇をてらったレポートは「本心はどこにあるのか」とアラヌ腹を探られるだけである。政治家も奇をてらわず、王道でいくべきだ。勝つこと自体を目的とする詭道(鬼道?)は日本の政治の場において共有されている社会資源を損壊するだけである。

2017年9月10日日曜日

メモ: 「文春砲」についてどう思うか

「文春砲」という単語は小生が東京で小役人をやっていた時分にはなかった。ごくごく最近年になってから使われ始めた言葉だ。

とはいえ、こういう「社会的制裁」、いやいや憲法で「私刑」は禁止されている、そうではなくて「報道サービス」は自分たちが暮らしている社会の自浄機能を維持する上で必要である。これまた事実であるのだな。

人間ドックでこんな会話をしたことがある。
コレステロールが上がっていますね。チョコレートはお好き?そう、それは止めたほうがいいと思います。チーズは?
お節介な話だが、本当に悪い所があったときに、「悪い所がある」と正確に指摘してくれるためには厳しい判定基準が必要なのである。統計学では「第1種の誤り」と「第2種の誤り」のバランスをどうとるかという問題になる。前者はヌレギヌ。つまり「悪くはないのに悪い」と判定してしまう、後者は見逃シ。即ち「悪いのにそれに気がつかず放置してしまうことから問題が拡大する失敗」をさす。人間ドックに限らず、すべての検査、すべての判断行為には判断ミスの可能性がまじるものだ。

甘い捜査をすればヌレギヌをきせる回数は減るが、真犯人を見逃す誤りが増える。厳しい操作をすれば、容疑者は落とせるだろうが、冤罪をうむ可能性が高まる。一定の情報で判定するなら、二つの誤りはトレードオフである。

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「文春砲」のターゲットになった人物は、記事の内容がすべて事実なのか、一部分は事実なのか、まったくの虚偽なのか、その度合いや真相とはかかわりなく職業上の地位を(たとえ一時的にもせよ)失うという憂き目にあうのが現実だ。

社会にとって有用な人材が週刊文春編集部の私的な判定で葬られてしまうのは確かに社会的損失である。が、本当に悪辣で警察による捜査では立証し難い人物であっても「黒い噂」が週刊文春に掲載されれば、その時点で当該人物は大打撃を被るだろう。

理想はピンポイント砲撃であるが、そこには狙うターゲットはいないかもしれず、砲撃すればやはり無辜の市民も巻き添えをくう、無実の御仁もドカ〜ン1発で哀れなり、社会的生命は花と散る・・・犠牲をゼロにするのは実に難しいものである。同じ理屈じゃな。

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確かに「文春砲」のような存在は社会にとって必要なのである。が、犠牲者はやはりゼロではない。これまた払うべきコストということだ。悲しいけどねえ・・・。

今回の騒動は山尾議員の身の不運かもしれない。仮にそうだとすれば、それは日本社会が自浄機能を維持するために必要な犠牲ということになる。
お上が何もかもやるわけにゃあいけませんからネエ、火消しもそうなんですけどネ、この辺はもう町方の考えでやってもらってるんでござんすヨ。こりゃあいけねえヤって皆が思うなら消えていくでしょうし、何かのお役に立つってんなら使う人も出てきましょう。まあ、見ててごらんなせえ、落ち着くところに自然にネ、落ち着くってことじゃあござんせんか?
そういうことか。大火から江戸を救うには、燃えてない家を壊しても「致シ方ナシ」。不純異性交遊の蔓延をくい止め、世間の規律を保つには犠牲も時には「ヤムヲ得ヌ」。かなり危ないことを二人がやっていたことは確かだし、そうかもネエ・・・。

2017年9月9日土曜日

メモ: 憲法改正に関連するベーシックな論理

数日前、すっかり秋めいた北海道の晴れた昼下がり、部屋でゴロゴロしていると、不図こんなロジックもあるなあ、と気が付いた。

明治憲法の改正手続きに則して日本国憲法は公布・施行された。これが(一応手続き的にも)公式の見解になっている。が、そんなことは可能かという問題が学会にはあると耳にしている。

ここで一つの問題:
日本国憲法の改正手続きに則して明治憲法に戻すことは論理的に可能か。

結論:
論理的には、可能だ。

◆ ◆ ◆

なぜそうなるかを以下にメモしておく。

一見すると、国民主権を原理とする日本国憲法から天皇主権を基礎とする明治憲法が導かれるはずがないと思われる。


簡単のため次のように記号を定める。「明治憲法を是とする」を命題A、「日本国憲法を是とする」を命題Bとする。現在の公式解釈は(論理としては)「AならばB」である。

仮に日本国憲法から明治憲法は導かれえないのだすれば、その命題は「BならばAでない」になる。ところが、この対偶をとれば「AであればBでない」となる。これを言葉になおすと「明治憲法を是とすれば日本国憲法は是にならない」となる。しかし、現に明治憲法から日本国憲法が導かれたと公式には解釈されている。故に、上の命題は真ではない。ということは、その対偶もまた真ではないことになる。即ち、元の「日本国憲法から明治憲法は導かれえない」という命題は偽である。故に、「日本国憲法から明治憲法は導かれうる」。

要するに、明治憲法の改正手続きから日本国憲法が制定されたのだと考えれば、日本国憲法を改正して明治憲法に戻すことができる。もちろん、国民投票でどうなるか、それは分からない。しかし、そんな改正が行われたとしても、決して不合理ではないわけだ。

◆ ◆ ◆


上の議論は東大法学部の正統とされる「八月革命説」とは異なる。この学説に立てば、明治憲法から日本国憲法は得られない。昭和20年8月に(概念上の)革命が起きたと考える。もしそう考えるなら、日本国憲法から明治憲法は出てこない。実態としてはこちらが正しいのだろう。しかし、仮にそう考えるならば、今度は明治憲法を廃止して新たに日本国憲法を制定したのは誰か、という問題に解答する必要が出てくる。

この問題は、歴史的事実をどう認識するかという問題レベルを超えるものらしく、憲法学界でも一致した答えが未だにないようだ。このこと自体、一種、驚きでもある。が、まあ、それはそうかもしれない。まさか「アメリカ人が制定した」とは法理からして言えまい。なぜならアメリカ人には日本の憲法を制定する権利がないからだ。それとも連合軍が表明した意志として憲法改正が含まれていた。占領中であれば可能であった。実態はこれに近かったのかもしれない。が、そうであれば、日本国憲法は「民定憲法」とは言えないであろう。国民が制定したわけではないなら「国民主権」であるとも言えないかもしれない。これよりは明治憲法の改正手続きに則して日本国民が日本国憲法を定めたと解釈する方が収まりがよいかもしれない。どうもこれまたハッキリした統一見解がないようだ。

「戦後日本」の古くて、最も重要な出発点が、現・統治構造の下で今なお不明確である。ここは認めざるを得ないのではないだろうか。だから憲法の正当性に疑いをはさむ集団が存在する。ここから様々な問題が対処されないまま問題としてそこに現存するわけだ。


2017年9月8日金曜日

スーパー受難の時代: 「欠品1回」のこわさ

最近のヘルシーブームに乗っかって我が家も東洋ライス製「金芽ロウカット玄米(無洗米)」の優良顧客になった。

この商品、玄米の表層をのみカットしているので通常の玄米と栄養素は変わらないまま、炊き方は白米と同じである。かつ、食味も白米とほとんど同じで、特に茶漬け、チャーハンなどにすると白米よりも美味い(と小生宅では話している)。言うまでもなく、玄米は万能食と言われており、玄米では摂取できない栄養素をあげたほうがよいくらいだ。

最初、この食品を知ったのはCOOPのトドックである。ところがトドックは便利なものの配達は週一回で毎日食べている食品がなくなったときは不便。先日、いきつけのイオンで探してみるとあるではないか。『いま評判だからサ、置いているのは当然だよ』とカミさんと話したものだ。

本日は、隣町S市にあるイオンモールに買い物に出かけた。ついでに残り少なくなったロウカット玄米を買って帰ろうと思った。が、ないのだな。『扱ってないみたいだよ』、『でも近くのイオンにはあったんだから・・』、『売り切れかなあ?』、『もし売り切れなら、札があってそこが空になっているはずだしネエ』、『それもそうだなあ、ある期間だけ置いたりしているのか?』。

結局、今日は断念して帰宅したが、戻ってからアマゾンを検索すると、2Kg2袋が2480円で販売中だ。プライム会員なら通常配送料無料。『これは買いだヨネ!』、『そうだね』となる。

購入チャネルはこうして古い購入先から新しい購入先へとシフトする。新しい購入習慣が形成され、やがて定着する・・・。

◇ ◇ ◇

注文してから思った。これは確かに小売業界は危機だわ、と。

アメリカは、いまいかにしてAmazonとつきあっていくかが生き残るための大問題になっているようだ。ウォルマートは徹底的に戦うらしいが、その帰趨は予断を許さない。Amazon Echoの日本語版が発売されれば、日本国内の小売業界も一気に激変するに違いない ー まだ日本語対応品発売の予定はないそうだが。

スーパー、というか大規模小売店は売れ筋を大量販売・大量調達することで価格支配力を維持し、それによって利益を出してきた。しかし、品揃えを売れ筋に集中すれば、マージナルな商品を外すことがある。もともと消費者は、色々な多種多様なものを本来欲しているものである。そんな心理でいながらスーパーに並ぶ標準品をみると「これでイイか」と思って買ってきた。消費者がスーパーに合わせてきたのだ。

ところがAmazonを検索するとズバリ欲しいものがいつでも買える。住んでいる場所は問わない。「欠品1回」が「わざわざ行っても置いてないかもしれない」という憶測につながる。「じゃあ、いまAmazonに注文するか」となる。

今後も既存の大規模小売店は顧客の流出、販売チャンスの喪失に悩むことだろう。有効な対抗策はあまりない。売り方・買い方が激変しつつあるのだ。今後、日本人の買い物の基本スタイルは一変するだろう。その変化はスーパーなる業態が誕生した時を超える激しい変化になるに違いない。手にとって買いたいものは確かにある。が、それを買うスペースが既存のスーパーである可能性は低い。

面白い時代、と言うより怖い時代になった。そう思った今日一日である。

2017年9月7日木曜日

仕事のモラル、男女のモラルとも前近代的ですぜ

民進党の山尾議員が同党・幹事長につく見込みであると報道されたところ、結局は別の人になり、新代表早々の座礁とかアレコレ言われ、これいかにと思っているとやはり出てきました・・・W不倫。今度はにわかに離党か、議員辞職か、そんな話になってきた。このパターン、最近年になって非常に多いのだな。

フランスでは前のオ大統領が事実婚だったかどうか忘れたが「現夫人」と離婚して、「新夫人」を迎え入れたことがある。イタリアのベ首相は、不倫も汚職(疑惑?)もくぐりぬけてきた猛者だが、イタリアの首相該当職である閣僚評議会議長を合計9年間も勤めてきたときく。

私は彼女を愛している。彼女も私を愛している。妻には申し訳ないが、愛のない結婚生活をこれからも続けることが社会人の責任だと君たちは言うのか?妻も私との結婚生活にピリオドを打つことを受け入れてくれた。もちろん、生涯を通して妻への感謝の気持ちは変わらない。生活の保障もするつもりだ。愛は移ろい行くが、感謝の気持ちに変わりはない。

こんなキザなことを言ったかどうかは分からないが、公人・政治家とはつまり職業人、男女の愛とは私生活。この区別をどの程度の厳しさで社会が設け、一人一人が意識するかは、その国ごとの文明の度合い、というか価値観によるのだろう。

ただし、日本の場合、これ以前の問題があるかも。

小生が中学生だった頃に使われていた「不純異性交遊」という非日常的単語。最初は言葉の意味が分からなかった。男子と女子は言葉を交わしてはいけないのかとさえ思ったものだ。そうではないのだが。議会は上意下達で仕事をする場所ではなく、議員一人一人を大事にしてくれるという意味では、学校社会に似ているところがあるのかも。

まあ、今となっては<お笑い用語>だと思っていたのが、最近マスコミのゴシップを聞くにつけ、よく思い出してしまうのが「不純異性交遊」という言葉だ。「不倫」というのは渡辺淳一的な一途の愛を言うのじゃないの?ちょっと事実認識において、ピンと来ないことが多いのだな。仕事仲間なら二人で食事をすることもあるし、ホテルでおしゃべりをしたくなることもあるだろう。男同士、女同士、男女二人であっても、だ。それが疑わしいってんなら、女性が輝く社会などと大層なことを話すんじゃない。そう言いたくなりますぜ。

◇ ◇ ◇

それにしても、仕事の場に自然に醸し出されてくる男女の間の信頼感と、この信頼感がそのまま私生活を侵略しているのではないかと疑う周囲の視線。

疑うのはモラルに立脚して疑うわけだが、社会の実態が変わればモラルも進化した方がよい。そう思うのは小生だけだろうか。

その昔、ナポレオン戦争の頃、制海権を有していた英国は敵国オランダの国旗が日本の出島にまだ翻っていることを知った。そこで英海軍のフリゲート艦・フェートン号が長崎港に侵入しオランダ商館員を拉致した。幕府・長崎奉行所は大騒ぎになり、フェートン号を焼き討ちしようとの計画を進めたのだが、同艦は商館員を解放し、そのまま姿を消した。長崎奉行・松平康英は『世を騒がせしこと、誠に申し訳ござらぬ』と遺書をしたため、腹を切った。

文化5年8月15日(1808年10月4日)のことである。

フェートン号事件は、長崎奉行とはまったく関係のないことで、責任はゼロである。被害もない。にも関わらず、切腹をして幕府に(世間に)詫びる決意をした。それがまた悲劇と受け取られる風でもなく、その後の日本の異国船打払令へと日本の歴史は進んでいった。その意味では幕末の攘夷運動の契機をなした事件である。

まあ、いいんだけどね、という奴でもある。

この歴史、小生はよく「なんと言うことか」と感じていて、<世間と自己>をどう考えるかと言う日本的モラルの象徴のようにも思われてきたのだ。世間が個人に押し付けるこのモラルが、実は陰に陽に日本人を不幸にしている。その第一の原因である。そう思うことが多いのだ、な。

「モラル」とは世間が決めるものではない。もし世間が正邪善悪を決めるなら、『己信じて直ければ敵百万人ありとても我行かん(日蓮)』という名文句が出てくるはずがない。

「モラル」、いや「世間」と呼ぼう、ここにも進化が必要だと感じることは多い。仕事にも、家族にも、男女にも、だ。

2017年9月4日月曜日

多国間の現状固定・相互不可侵の裏付け

北朝鮮は既に核保有国である。そう認識しなければ何も進まないだろう。

覇権闘争はゲーム論の枠組みを当てはめればタカ・ハトゲームである。通常、タカ・ハトゲームでは、一方がタカ(=リーダー)になり、他方がハト(=フォロワー)になる状態がナッシュ均衡である。タカ対タカ、つまり全面戦争を覚悟した強硬路線を双方がとると、双方とも利益がゼロないしマイナスになる。なので戦争は常に限定的であり、どちらがリーダーになりうるかを知るための(必ずしも必要でない)プロセスとなる。双方が融和的なハト・ハト状況は、ナッシュ均衡ではない。というのは、片方がタカ戦略(=アグレッシブな外交方針)をとって利益を拡大しようという誘因があるからだ。ナッシュ均衡ではないにも関わらず、合計利益が最大となるハト・ハト状態を実現するには、国際的共同体など何らかのメカニズム、利益配分システム、違反者に対する懲罰システムが必要である。

これが標準的な授業内容だ。

が、一方が核保有国となり、他方が非核保有国である場合、双方が激突するタカ・タカ状態は、片方のみにとってマイナス利益となる。なので、タカ・タカ状況はありうるが、非核保有国は核保有国に従属する方が利益にかなうと最初から明らかであるので、戦わない。つまり非核保有国は核保有国の恫喝に屈する。であるので、核保有国と非核保有国の間に限定戦争が生じることはない。非核保有国が必ずフォロワーに、核保有国がリーダーになる。これが安定的なゲームの解となる。これまた教科書的なゲーム論のロジックから得られる結論である。

故に、朝鮮戦争がいまだ休戦状態で、かつ敵対する北朝鮮、韓国(更にアメリカも含め)の双方とも朝鮮半島全体の領有権を主張している状態を前提とすれば、北朝鮮が核保有国となった以上、韓国も必ず核保有国を目指すはずである。アメリカが支援国として核再配備をしなければ、自国で核開発を志向する。

もし韓国が核武装を進めれば、日本も必ず核武装を志向する。これが日本の利益にかなうロジックになる。なので、今後、(高い可能性として)核武装ドミノが進展すると予想しておくべきである。

■ ■ ■

もし韓国が自力で核開発するのではなく、アメリカが韓国で核再配備を行うとすれば・・・、韓国への攻撃をアメリカへの攻撃だとアメリカ本土のアメリカ人が考えるかどうか。この度合いによる。つまりアメリカがどんなコミットメントをするかによる。核配備は即ち「張子の虎」かもしれないのだ。実際に攻撃を受けた場合、報復を控えることがアメリカの利益にかなう可能性もあるのだ。その不確実性がある分だけ、配備されているとはいえ自衛力は割り引かれて評価される。まあ、いずれにせよ、日本、韓国の意志がそこで別々に働く限り、日本にも核が配備されるはずである。日本だけには核が配備されない状態は(日米韓の軍事資源が統一的・一体的に運用されでもしない限り)日本にとってヴァルネラブル(vulnerable)である。

ここまでは簡単なロジックで予想可能である。しかし、アメリカが日韓両国に核配備を進めパワーバランスを維持するというこの状態も決して安定的ではない。というのは、中国、ロシアはアメリカの影響下にある日本、韓国が核武装する事態を歓迎するはずがないからだ。相手に従属することの損失が受け入れ不能なほど大きい場合、タカ・ハトゲームにおいては常にタカを志向する。なので、アメリカが核配備をしてパワーバランスを維持しようとすれば、戦略的劣位に立つことを怖れる中国、ロシアは新たな対応をするはずである。また北朝鮮も更に核技術を磨いてより優位に立とうとするだけである。

この無限ループは、本来は不安定なハト・ハト状態(=平和共存戦略)から得られる利益について理解が共有されない限り、必然的に継続される。

タカ・ハトゲームにおいては、いずれかが服従するまでは強硬なコミットメントを相互に繰り出すが、これは理論的に予想される事態だ。経済制裁とは限定戦争の一手段なのである。制裁強化は、限定戦争の強化であり、管理に失敗すれば全面戦争へと至るリスクがある。これが現在最も懸念されている可能性だ。

■ ■ ■

戦略的ゲーム構造を変えない限り、関係国の選択を変えることはできない。

タカ・ハトゲームにおけるハト・ハト状態、つまり平和共存による利益配分がタカ戦略を単独で選ぶよりもはるかに大きいという確証を示す必要がある。

ゲームの構造をタカ・ハトゲームから同調ゲームへと転換することが望ましい。そうすれば、協調的核削減も将来いずれかの時点で可能になろう。

その方向に向けて、ありうる状態それぞれに関する利得を関係国が共有し、ゲームの完備性を確保することが大事だ。そうすれば、各国の理性的検討を通じて、合理的な解に到達する道筋が見えてくる。

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こう考えると、北朝鮮が既に核保有国となったいま、東北アジア内の核バランスをめぐって複雑な進展が予想される。これだけは確実になった。

標題の「多国間の現状固定・相互不可侵の裏付け」は、核バランスという主旨なのだが、一定の均衡状態に至るまでの道筋はかなりリスクに満ちたものになるに違いない。変化する情勢の中で自らがフォロワーの役回りを選択し、後手に回るのは愚かであり、得られる利益も薄い。かといって「自存自衛」などと叫んで暴走すれば味方が誰もいなくなる可能性が高い。これは元来た道である。

外務省である、な。今後の要所は。

それから憲法改正も非常に重要になってきた。憲法は統治の原則を示すものだ。感性が異なる外国人もロジックを語れば理解する。いくら現状が厳しいからといって、憲法どころではないなどと平気で言う人間集団がいるとすれば、信頼はされんわネ。あの国は怖いヨネと思われるわな。これまた誰でも分かる理屈だ。

2017年9月3日日曜日

「政治的な期待」に何かの意味があるのだろうか?

民進党の新代表に前原氏が(事前の下馬評通りに)当選したあと、代表代行職にライバルの枝野氏が、党運営の実務を担当する幹事長には山尾氏が任命される模様となり、にわかに民進党の新体制に対して「華がある」とか、「変貌をとげたようだ」とか、「そこはかとない期待感」があるとか、案外評判はいいようだ。

ここで一言疑問:

この「期待」というのは「予測」とはどの程度違うのだろうか?

たとえば通過したばかりの台風15号。日本列島へ接近する途上では太平洋岸にかなり近い進路をたどるという予報もあった。しかし、実際には予報よりかなり東寄りの進路をとり、小生が暮らす道央では風がちょっと強いかなという程度で終わった。何よりのことだ。近く予定しているリュニューアルを依頼しているリフォーム業者は『前から予定している地鎮祭が今日はあって、ホント、台風がそれてホッとしてるんですよ』と話していた。

台風の進路予測では中位予測の周りに可能性のある範囲が地図上に示されている。予測と言っても、点予測ではなく区間予測を行うのが予測実務では鉄則である。

できるだけ東側にそれてほしいというのは「期待」というより「希望」であって、客観的な計算結果とは別のことである。通常、希望が現実になってくれる確率は、事前の計算段階では極めて低いことも多いのだ。

それで、話は戻るのだが、民進党の新体制に「期待」がもてるというのは、かなり高い確率でイイ線をいくだろうと言おうとしているのか、相当イイ線にまで行く確率もゼロではないと思うんですよね、と。そう言いたいのか。政治評論というのは情緒的に過ぎて、小生にはサッパリ分かりません。

戦時中の大本営陸海軍部は、戦況が悪化してあからさまな嘘をつき始める前段階において、期待ばかりを高めるような情報伝達を繰り返していたことがよく知られている ー 国民の期待形成を重要視した点では、何やら近年の日銀が展開している"Forward-Looking"な金融政策にも似ていて、大本営と金融当局と両者の相似性には目を見張るくらいだ。そのキーワードである「期待」は上のように政治的な議論でもよく使われている。が、使い方が難しいのも「期待」という用語である。

「期待」を伝えたところで情報価値はほとんどゼロである。高い確率で予想される帰趨を伝えるのが、専門家、というか「情報通」としての存在価値であろう。

2017年9月1日金曜日

「学校教育」それ自体の効果は多分ゼロである

10年ほど前に所属先が経済学科からビジネススクールに変わった。移籍当初はテンションが上がったが、最近の口癖は『私が説明しているのは、決して勝利の方程式ではありませんから。知っているだけ、勉強しただけ。ゼロですからネ、自信があるだけマイナスかもしれません』である。



暴言・暴行で有名になった豊田真由子衆議院議員は東大法学部を卒業後に厚生労働省に入省しハーバード大学に留学した。

アイスノン、ホッカイロ、パラゾールで有名な白元は、創業者の孫が社長を継承した。その社長は慶大経済学部を卒業後、大手メガ銀行に入り、ハーバード大学ビジネススクールに留学した。しかし、白元はこのたび経営破綻した。

いずれも一流の学校でエリート教育を受けた。にも関わらずというべきか、失敗の酷さかげんが半端でない。

戦前期・日本の学校エリートも酷い終わり方をした。

■ ■ ■

職業人生の成否と受けた学校教育とは関係はないものだ ー 全く関係がなく無相関かと言えば、相関はありそうだという印象はあるが、学校教育が成功を導いた主因であるという見方はウソであることにまず間違いはない。特に、学校時代の「成績」と仕事の「手腕」はまったく関係がない。これならば社会の合意が得られるだろう。

よく話すことだが『社会こそ最高の学校である』。ゲーテが「ウィルヘルム・マイスターの修行時代・遍歴時代」を書いた時代から全く同じだ。小生自身も振り返ると同感である。これからも変わらないだろう。

そもそも「学校教育」を重要視し過ぎれば「学閥」が形成される。閉鎖的な集団の中では低能力の人物が出世する機会を得て大きな間違いをおかす。また、学校時代の成績はあくまで個人の能力であり、社会で革新的事業を組織する能力とはほとんど無関係だ。この点は上に述べたとおり。この二つだけを挙げても、「学校」という機関に過大な期待を持つべきではないと分かる。本当に大事なのは「出会い」や「交流」。人との「出会い」や「交流」をうながす場を「学校」としてデザインする必然性はない。技術や知識の性質によっては学校は非効率であるとすら言える。ましてや国家が口を出すなどは、もともと出来る理屈もなく、失敗のもとである。

■ ■ ■

それにしても安倍首相が提言してにわかに注目されている「大学の教育無償化」。大学の現状を見ないアホらしい構想だ。事情を知っている人ならば、人生の糧となる活動に対して広く経済的支援をする方向で考え直すべきだ、と。そう言うはずである。そもそも現在の日本の大学の半分以上は「大学」という呼称にはそぐわない。

文科省の大学行政は1990年代の金融行政と同じである。

つまり、大学無償化構想は公的資金による私立大学救済構想である。バブル崩壊後に最初に紛糾した問題である「住専への公的資金注入」と何も変わらない。後者は美しい言葉で飾ってはいなかったのでまだマシである。前者は「人づくり」であると。マスメディアはなぜ欺瞞であると批判しないのだろう・・・。ここが最も不可解である。

2017年8月31日木曜日

一言メモ: 対北朝鮮外交に戦略的余地はあるのか?

北朝鮮を国家として承認していない国は世界でも少数である(Wikipedia)。日本は米・韓とともにその数少ない未承認国の一つである。つまり、朝鮮半島全体は韓国の領土であるという立場を日本はとっている。そう解釈せざるをえない ー 現に韓国はその立場にあることを憲法で明確にしている(と聞いている)。

朝鮮戦争はいまだに「休戦状態」にある。米・韓は北朝鮮の敵国である状態はまだ続いている。

故に、北朝鮮が現にとっている行動を「国際平和を破壊する行動」と直ちに断定するのはあまりに此方側の見方に偏っており一面的に過ぎる。こんな観点もあると言えばあるだろう ー だからこそ中露は北朝鮮を陰に陽に支援し続けている。「より有効な経済制裁に向けて中露の協力を日米は要請する」といっても、中露の国益にかなうわけでもないので、おそらく機能するまい。

ともかく現状は持続可能でない。しかし、現状を根本的に変更する試みも不可能に近かろう。

◇ ◇ ◇

日本が北朝鮮を承認することのプラスは何か?検討してもよい時機ではないのか(というか、もう検討はしていると思うが)。

東アジアのありうべき状態は「現状固定の相互承認」のみである(と思われる)。朝鮮半島の現状を固定し、平和共存を目指す方向は、日本にとっては確かにプラスである(どのようなプラスであるのかは多面的だが概ね自明である)。

朝鮮戦争開始と休戦までの期間、ずっと日本はアメリカの占領下にあった。朝鮮戦争の結果である半島分裂は日本の責任ではない。が、明治以来の外交史を振り返ると半島の現状に日本は相当の責任を負っている。日本は日本で選択すべき朝鮮半島外交があるだろう。

イギリスもドイツもカナダもオーストラリアも北朝鮮を国家として承認している。北朝鮮の存続を認めている。国家としての承認は平和を築く交渉の第一歩である。もちろん日本による北朝鮮承認となると、東アジアにおける波及効果は(特に韓国に対しては)かなり大きいに違いない。が、日本はまだ使っていない外交上のリソースを有していると考えるべきだ。

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外交を尽くしていないにもかかわらず、軍事行動を検討するのは、現行憲法の理念を真っ向から否定するものだ。統治のロジックが破綻している、と。そう言われても仕方がない。