2017年9月20日水曜日

祖父のエピソード: これは奇縁だったかも

小生の母方の祖父は名を石丸友二郎という。裁判官をやって人生を送った人である。だが、色々と失敗をした人でもあったようだ。

たとえば祖父が旧制松山中学(小生の親は父方・母方とも四国松山地生えの家に生まれた)を卒業するときのことだ。その頃、成績第一位は熊本の旧制五高に推薦入学できたらしい。ところが祖父は2位であったようだ。2位は五高ではなく、岡山にあった旧制六高への推薦が可能だったと言う。小生なら大人しく六高に進んだと思うのだが、祖父は実力に自信があったのだろう、『試験を受けて五高に行きますから』と言い放ったそうなのだ。ところが受験してみると、祖父の言い分によれば得意の数学で勝負をするつもりだったところ、たまたまその年の問題は多量の計算を要する問題が出題されたらしい。小生も単純で面倒なばかりな計算は嫌いであったが、祖父も計算は苦手だったらしい。多分、計算ミスを途中でやって、キリの良い答えが出なかったのだろうか、時間が気になり焦ってしまい、あえなく不合格になった。さすがに見栄を切った手前恥ずかしく、表にでることもいやになり、鬱症になった祖父をみて、父親(=曽祖父)は海辺にある家の一室を借り、一夏のあいだそこに滞在させたと言う。いまでいう転地療養である。それで元気を取り戻した祖父は秋から受験勉強を再開する気持ちになったのだが、これが運勢というのか翌年の春に旧制松山高校が開設されることに決まった。それで、祖父は熊本にも岡山にも行かず、地元の松山高校にそのまま進むことになった。

そんなことで岡山の旧制六高に学ぶ機会はついになかったのだが、もし六高に進んでいれば有名な新島八重の娘婿である広津友信がまだ英語教師か生徒監として在職していたはずである。広津は六高に明治34年(1901年)から大正9年(1920年)まで勤務していた。もしそうなっていたら、祖父のことだから広津から聴いた新島八重や戊辰戦争前後の色々なエピソードを小生にも話してくれたに違いない。

石丸友二郎。妻は同郷の作道家から嫁した米代である。長女の名は静江。7歳下の弟が元一である。静江、即ち小生の母である。静江は夫・芳男が53歳であるときに死別し、その後11年を経た後61歳で他界した。元一。妻は和子である。二人とも松山市で暮らし健在である。

こんなことを調べる気になったのは、会津若松の特産である「ニシンの山椒漬け」が小生の好物なのだが、中々地元では手に入らず残念であったところ、ふるさと納税で寄付すれば送ってもらえるのではないかと思いつき、ネットを検索してみると、意外や会津若松市ではなく隣の会津坂下町でお礼の品の一品としてニシン山椒漬けがあるのを見つけた。ただ、会津坂下町には行ったことがなく馴染みがないので、調べてみると出身者の中に新島八重がいる。NHKの大河ドラマで八重は有名になったが、生まれた土地は若松ではなく、坂下であったのかと、再び八重のことを調べ直しているうちに、上の娘婿・広津友信に行き着いたのだ。

広津友信。福岡県出身で同志社英学校に学び創立者・新島襄の信頼厚かった人物である。新島の死後に米国・ハーバード大学に留学し帰国後は同志社の校長代理を勤めた。しかし明治34年に或る校内トラブルに巻き込まれ、同志社を辞任し、同年秋岡山の六高に移籍した。妻は新島八重の養女・初である。初は元・米沢藩士である甘粕三郎に育てられたが、実の親は父が元・米沢藩士甘粕鷲郎、母が元・会津藩士手代木勝任の娘・中枝である。両親が早く亡くなったため叔父・甘粕三郎が初を引き取って育てた。初の祖父・手代木勝任は会津戦争で敗勢が濃くなる中、秋月悌次郎とともに米沢まで陰行し降伏の仲介を依頼した。同藩の協力で会津藩は官軍・板垣退助らに降伏を申し入れることになり戊辰戦争は大きな山を越した。

・・・ついでにいうと、上にあげた祖父は東大には順調に進んだが、その後司法試験(当時の高文試験)を受験するときに遅刻するという大失敗をまた犯してしまった。ただ、この時はさすがに鬱症にはならず、小田原の中学校で臨時教員を一年勤めてしのぎ、翌年度に無事合格した。なので、祖父は10代においては駿馬であった(という)のだが、職業人生を始める時点においては既に人に遅れをとっており、裁判官とはいっても地味な支部勤めが多かったような気がするのは、若い頃のこんな失敗が尾を引いたのかもしれない、と。今になってから思ったりしているのだ。

2017年9月18日月曜日

暴言議員・豊田女史のインタビューで思う

暴言暴行で世を騒がせ自民党を離党した豊田真由子議員に民放のニュースキャスターMがインタビューしたというので注目されている。

今回は秘書への暴言暴行とはうって変わり、スッカリと萎たれた反省ぶりで、これが録音された人物かと思われるほど、声調はまったく別人である。

インタビューの内容自体については多くの意見が既にネット上にアップされている。改めて付け加えなくともいい。

ただ思わず考えてしまったことがあった。

◇ ◇ ◇

豊田議員は、繰り返すまでもなくエリートである。有名女子高校から東大法学部に進み、中央官庁の官僚となってから、米国・ハーバード大学に留学するなどを経て、衆議院議員に当選した。極めて聡明で、昔流の表現を使えば「目から鼻に抜ける」ような大秀才、いやいや超才媛であったからこそ可能だったキャリアである。そんな人だからこそ、暴行暴言が世間の一大テーマになったわけでもある。

悪い意味で『命なるかな。斯(こ)の人にして斯の疾あること、斯の人にして斯の疾あること』という孔子の言が当てはまってしまったわけだ。

しかし、よく考えてみると、オリンピックの金メダリストが不祥事を起こすのだから、勉強エリートがトラブルを起こしたくらいで驚くことはないのだ。理屈はそうでござんしょう。

T女史の場合、「頭がいい」というその点こそがどうにも好感を持てない大きな短所として働き始めている。これが厳しい現実として指摘できる。

◇ ◇ ◇

少し敷衍しよう。

下の愚息に何度も言っているのだが、人の長所は即ちその人の欠点であり、欠点は即ち長所である。たとえば<大胆>な人は同時に<鈍感>な人物でもあり、より大胆であればあるほど一層鈍感にもなりうる。鈍感であるという欠点を表面化させないためには繊細である必要があり、そうなるべく努力をすれば本来の長所である大胆さが消えてしまうのだな。理想は「大胆にして細心」だが、言うは易しだ。他の性格もすべて同じである。

聡明な人は変化や違いに敏く、状況変化に即応してとるべき対応が直ちに分かるものである。頭の回転が生まれつき速いのだ。かつそんな人は記憶力が抜群に良い。それが普通の人間集団におけるトラブルの中では最大の欠点となりうる。前にも投稿したことがあるのだが、小生の田舎でいうところの「キョロマ」になることが多いのだ、な。

大成功するための必要条件として大阪では三点が強調されている。誰でも知っているそれは<運・鈍・根>である。頭のよい人物は鈍な人物を演技できないものである。上手に演技しようとする努力そのものが、鈍な人物ではなく賢い人間である事実を浮かび上がらせてしまう。

故に、聡明な人は概して大成功には至らない。これが昔からの経験則のようなのだ ー 小生の亡くなった父もその轍を踏んでいたように(今にして)思ったりする。

江戸幕府の名老中であった松平伊豆守信綱は「知恵伊豆」と呼ばれるほどの秀才であったが、人望薄く、「才あれど、徳なし」と評されていたそうだ。小姓をつとめて以来ずっと仕えた将軍・家光が薨去したときに殉死はせず(4代家綱を託された故であるが)、そのため「伊豆まめは、豆腐にしては、よけれども、役に立たぬは切らずなりけり」と庶民からは揶揄されている。

◇ ◇ ◇

非常に頭のいい人物というのは、使われる人物であってこそ輝くことが多い。尊敬や人望、器の大きさとは無縁になりがちだ。「頭の回転が速い」という素質単独ではせいぜい歯車一枚が担当できる範囲のことしかできない理屈だ。大成功に至るにはもっと必要な才質がある。

知恵伊豆や一休さんのように「頭の回転が速い」、「頭がいい」ということが真に求められる仕事とは一体なんだろうか、よく考えると分からないのだな。小生の身近には研究者が多数いるが、研究者としての成功は「頭より性格」、これが経験則だ。やはり、どう考えても人の手足になって指示された仕事を正確かつ速やかに進めるときではないか。それとも当意即妙が求められる芸能人だろうか・・・。頭の回転が速いことは、足が速いのと似ていて、あくまで個人の能力なのである。走るのは一人で走る競技もあるが、仕事は一人では中々できない。頭の良し悪しはその人個人の才能なのだ。そういえば東大生の芸能人化現象がさいきん顕著に進んでおるなあ・・・。ま、これは別の話題。

今日はどうも結論らしい結論はありそうもない。が、上で「考えてしまった」と書いたので一応全部書きとめておく。

一生懸命に受験勉強をすれば普通の人でも解答可能であるような特定のパターンの問題を<制限時間内>で解くような筆記試験は、頭の回転の速さを測定しているわけであり、まったく人材選別に無益とまでは言わないが、問題解決能力を問うものではなく、選別手段として高い精度をもっているとは言えない。

筆記試験では<真に解答困難>な問題を出題し、体力の限界を問うほどの長時間を与えて解答させる方式の方が選抜手段としては有効だと思う。評価は主観的にならざるを得ない。だからこそ、評価を担当する側にこそ一流の人間を配置するべきだ。中国伝統の科挙はその方式であった ー それでも出題パターンは無限にはないので受験勉強の巧拙で合否が決まるところがあったと何かで読んだことがある。

厳しい勝負の世界で生きているプロスポーツでは、練習を重ねいま身につけているスキルより、「基礎」と「伸びしろ」をみて選手を選び育てているはず。これはどの世界にも当てはまることだ。

こんなことを改めて考えてしまった。ま、月並みなことである、な。

2017年9月16日土曜日

ずっと昔の「文春砲」?

夏に読み返すなら永井荷風の『濹東綺譚』が最良だと思っている。この夏もまた読んだのだが、面白い下りがあったのでメモしておく。

主人公の大江(≒荷風自身)が遊興の巷・玉の井をなぜ歩き回るようになったのかを語る場面である。

此に於てわたくしの憂慮するところは、この町の附近、若しくは東武電車の中などで、文学者と新聞記者とに出会わぬようにする事だけである。・・・十余年前銀座の表通に頻りにカフェーが出来始めた頃、此に酔を買った事から、新聞と云う新聞は挙ってわたくしを筆誅した。昭和四年の四月「文藝春秋」という雑誌は、「世に生存させて置いてはならない」人間としてわたくしを攻撃した。

と、こんな下りがあるのに改めて気がついた(岩波書店『荷風全集』第9巻(昭和39年初版)、134頁)。

『濹東綺譚』が書かれたのは昭和11年(1936年)のことである。「う~む、81年も前から文藝春秋という会社はこんな「筆誅」なるものをやっていたんだネエ」と、改めてというか、つくづくと、会社の根性なるものに感嘆した次第。

とはいうものの、永井荷風はことさらに『文藝春秋』のみに辟易していたわけではない。

たとえばこんな下りもある。

文学雑誌『新潮』は森先生の小説に対していつも卑陋なる言辞を弄して悪罵するを常としていた。殊に先生が『大塩平八郎』の一編を中央公論に寄稿せられた時『新潮』記者のなしたる暴言の如きは全く許すべからざるものであった(岩波書店『荷風全集』第15巻(昭和38年初版)、232頁)。
荷風がいう「先生」というのは森鴎外のことである。上は大正11年(1922年)8月発行『明星』に掲載された『森先生の事」がオリジナルである。書かれたのは実に95年も前のことだ。

現在、「週刊文春」と「週刊新潮」が何かと言っては人の秘密を暴露しては人を非難し、販売部数を伸ばす競争をやっているが、「この性向、昔から何も変わっていなかったんだネエ」とつくづくと感嘆した。

同じ路線を100年近くも走り続けるのは、会社であるとしても、ある意味で偉大なことであろう。



2017年9月14日木曜日

北朝鮮問題: 間の抜けた記事、間の抜けた予測

新聞記事を書いている記者がどの程度まで書いている事柄について勉強しているかというと、疑問に感じられることが多いと。こんな指摘は以前からある。次の下りはどうなのだろうか。

 (前略) また、日米の運用が一体化すればするほど、自衛隊が米軍と同じ集団とみなされる恐れがある。もし北朝鮮が米軍に軍事行動をとる場合、給油などをする自衛隊にも矛先が向きかねない。政府がどこまで情報を開示し、正確な実態を伝えるかも議論が必要になる。


北朝鮮が仮に日本海で米艦を攻撃すれば、直ちに安保法制上の「存立危機事態」及び「武力攻撃予測事態」が宣言され、集団的自衛権が発動されることは確実である。

その集団的自衛権について違憲訴訟が殺到することも予想される。

しかし、現に北朝鮮が米艦を軍事攻撃しつつある事態になれば、詳細を述べるまでもなく、集団的自衛権に基づき自衛を進める内閣を支持する世論は高まるであろう。違憲訴訟の結論がでる以前に、憲法改正が発議され、国民投票に付されることもまず確実ではないかと思う。国民投票では賛成多数となるであろう。

なので『北朝鮮が米軍に軍事行動をとる場合、・・・自衛隊にも矛先が向きかねず』というのはかなり間の抜けた話しで、そんな<有事>においては自衛隊というより日本の国土が当然の理屈として北朝鮮の攻撃対象になる。これはもう当たり前のロジックだと思うのだが、「そうならないように出来ないか」と願うなら、上のような暢気な予測を述べるより、戦争を避ける戦略的外交の余地について特集記事を企画したり、世論を形成する努力を(もっと)するべきではないだろうか。

森友騒動や加計学園騒動ではそれができたのである。

2017年9月13日水曜日

主観におぼれては良い分析も、良い提案も、良いレポートも無理である

商売柄、レポートを添削したり、評価することは多い。

明確に言えることだが、優秀なレポートは読んでいて楽しい。書いている本人の知的な活動がイキイキと伝わってくるものだ。

よく起承転結を大事にせよとか、序論・本論・結論をハッキリ意識せよとか、良いレポートを書く鉄則について話したりするのだが、最も大事なことはロジックを通せという点に尽きる。なぜなら、感性や価値観、理念、主張は人さまざま、文字通り「人は色々」だからだ。感性や価値観はバラバラでも、論理は万人共通である。だから明確な論理で整理されたレポートを読むと、思わず『この人はホント頭がいいねえ』と感心するのだなーもちろん、どんな論理にも前提はあるので、結論に常に同意するとは限らない。これまた当たり前。

◇ ◇ ◇

さて、と。ある報道記事(というよりブログ記事)に次のような下りがあった。
今、野党は何を目指すべきか。 
「自民党にとってかわる」のが野党の大目標であるのだから、すでに「失敗した」と見られている「民進党」という器にこだわらず、国政の転換のための野党勢力の大きな結集を実現し、一対一の構図を作り出すべき、というのは、前回の論考で書いた。 
で、こういう書き方をすると、「理念なき数合せでは駄目」みたいな評論が必ず出てくる。それはその通りだが、しかし私が見ている限り、バラバラで遠心力ばかりが働いているように見える野党勢力だけれども、当面の政権政策となりうる政策の一致は、本当のところ、十分に可能であるように思える。
(出所)BLOGOS、2017年9月13日

ご本人はレッキとした政治家だ。だから自派の立場を伝えようとする意欲はわかるのだが、わかるのは残念ながら『何か、強い思いがあるんだネエ』というところまでだ。

小生、最後まで読むことが出来なかった ー 教師としての立場上、こんなことをしてはいけないものの、最初の数行を読んだ段階で関心が萎えてしまうレポートもある。そんなタイプのレポート文と同じであった。

◇ ◇ ◇

「自民党にとってかわる」のが野党の大目標であるのだから・・・というところでもうダメであった。

学生のレポートであれば「違うでしょ」と言うだろう。

政治というのは「お山の大将」になる陣取りゲームではない。現代は戦国時代ではないのだ。当人たちは勝負の意識が強いのだろうが、それは「当事者の主観」でしかない。国民とは共有されていない。

民間企業ならシェア第1位になりトップ企業として君臨するのが、経営目標といえば目標だ。しかし、ただトップ企業を倒すことを第一目標にしてはいけない。

トップ企業は、多くの顧客から評価されているからこそ、現時点のトップでありえている。この事実は大変厳粛である。それはトップ企業が有している価値であると同時に、そのトップ企業は顧客を含む社会全体にとってのリソースでもあるのだ。ただ「トップを倒したい」なら、虚実とりまぜた「ネガティブ・キャンペーン」を徹底してやればよいのである。トップ企業はボディブローのようなダメージを被るだろう。しかし、それは商慣習としてタブーになっている。その意味合いは政治家や政党にとっても非常に重要ではないだろうか。

「トヨタにとって変わることはトヨタ以外の国内自動車メーカー共通の大目標だと思うんですよね」という御仁が、たとえばゴーン社長の後継者になるとすれば(ありえないことだが)、『こいつバカか』と思うだろう。「よい自動車」を提案して新たな時代を切り開けば、結果としてトップになれるのだ。

◇ ◇ ◇

違った政党は、異なった提案をしている(はずである)。提案が異なるのは基本理念が異なり、目標が異なるからだ。そもそも「政党」っていうのはそういうモノでござんしょう。民進党と日本共産党は基本理念が異なる(のは明らかだ、民進党の理念は少しアイマイだが)。理念が異なり、目標が異なるなら、協力できるロジックはない。

であるのに、「大目標」とはよく言ったものである。薩摩と長州は「幕府を倒す」という目標で一致したわけではない。攘夷が困難であることにいち早く気づき、幕藩体制という現状が国の独立を危うくしているという認識を共有し、「倒幕」が必要であると認識し、「強い日本を建設する」という目標で一致したから、薩長反目の経緯を乗り越えて協力できたのだ。倒幕は「大目標」ではなく通過点であった。何より「行き先」が大事なのだ。幕府を倒すという大目標で協力したわけではない。それでも具体的政策レベルで違いが表面化したから西南戦争が起こってしまった。目的が違うなら、やっている先から内紛が起きるだけである。

小生の若い頃に「革命はまだ起こらねえのか!」と叫ぶ御仁がいたが、ただただリニューアルしたいだけで壁紙を剥がし、家具を撤去したら、漂流するだけでしょう。

夢をまず語るべきである。夢があったから志があり、「志士」と呼ばれたのだ。であるのにネエ、上のブログ記事はトテモじゃないが読めたもんじゃございませんでした。

◇ ◇ ◇

レポートの序論では、問題を提起し、その問題について全ての人が認めるに違いない合意事項や大前提を示す。そこで本論に入り、ロジカルに問題の解決策を浮かび上がらせていく。これがレポートの王道である。

奇をてらったレポートは「本心はどこにあるのか」とアラヌ腹を探られるだけである。政治家も奇をてらわず、王道でいくべきだ。勝つこと自体を目的とする詭道(鬼道?)は日本の政治の場において共有されている社会資源を損壊するだけである。

2017年9月10日日曜日

メモ: 「文春砲」についてどう思うか

「文春砲」という単語は小生が東京で小役人をやっていた時分にはなかった。ごくごく最近年になってから使われ始めた言葉だ。

とはいえ、こういう「社会的制裁」、いやいや憲法で「私刑」は禁止されている、そうではなくて「報道サービス」は自分たちが暮らしている社会の自浄機能を維持する上で必要である。これまた事実であるのだな。

人間ドックでこんな会話をしたことがある。
コレステロールが上がっていますね。チョコレートはお好き?そう、それは止めたほうがいいと思います。チーズは?
お節介な話だが、本当に悪い所があったときに、「悪い所がある」と正確に指摘してくれるためには厳しい判定基準が必要なのである。統計学では「第1種の誤り」と「第2種の誤り」のバランスをどうとるかという問題になる。前者はヌレギヌ。つまり「悪くはないのに悪い」と判定してしまう、後者は見逃シ。即ち「悪いのにそれに気がつかず放置してしまうことから問題が拡大する失敗」をさす。人間ドックに限らず、すべての検査、すべての判断行為には判断ミスの可能性がまじるものだ。

甘い捜査をすればヌレギヌをきせる回数は減るが、真犯人を見逃す誤りが増える。厳しい操作をすれば、容疑者は落とせるだろうが、冤罪をうむ可能性が高まる。一定の情報で判定するなら、二つの誤りはトレードオフである。

◇ ◇ ◇

「文春砲」のターゲットになった人物は、記事の内容がすべて事実なのか、一部分は事実なのか、まったくの虚偽なのか、その度合いや真相とはかかわりなく職業上の地位を(たとえ一時的にもせよ)失うという憂き目にあうのが現実だ。

社会にとって有用な人材が週刊文春編集部の私的な判定で葬られてしまうのは確かに社会的損失である。が、本当に悪辣で警察による捜査では立証し難い人物であっても「黒い噂」が週刊文春に掲載されれば、その時点で当該人物は大打撃を被るだろう。

理想はピンポイント砲撃であるが、そこには狙うターゲットはいないかもしれず、砲撃すればやはり無辜の市民も巻き添えをくう、無実の御仁もドカ〜ン1発で哀れなり、社会的生命は花と散る・・・犠牲をゼロにするのは実に難しいものである。同じ理屈じゃな。

◇ ◇ ◇

確かに「文春砲」のような存在は社会にとって必要なのである。が、犠牲者はやはりゼロではない。これまた払うべきコストということだ。悲しいけどねえ・・・。

今回の騒動は山尾議員の身の不運かもしれない。仮にそうだとすれば、それは日本社会が自浄機能を維持するために必要な犠牲ということになる。
お上が何もかもやるわけにゃあいけませんからネエ、火消しもそうなんですけどネ、この辺はもう町方の考えでやってもらってるんでござんすヨ。こりゃあいけねえヤって皆が思うなら消えていくでしょうし、何かのお役に立つってんなら使う人も出てきましょう。まあ、見ててごらんなせえ、落ち着くところに自然にネ、落ち着くってことじゃあござんせんか?
そういうことか。大火から江戸を救うには、燃えてない家を壊しても「致シ方ナシ」。不純異性交遊の蔓延をくい止め、世間の規律を保つには犠牲も時には「ヤムヲ得ヌ」。かなり危ないことを二人がやっていたことは確かだし、そうかもネエ・・・。

2017年9月9日土曜日

メモ: 憲法改正に関連するベーシックな論理

数日前、すっかり秋めいた北海道の晴れた昼下がり、部屋でゴロゴロしていると、不図こんなロジックもあるなあ、と気が付いた。

明治憲法の改正手続きに則して日本国憲法は公布・施行された。これが(一応手続き的にも)公式の見解になっている。が、そんなことは可能かという問題が学会にはあると耳にしている。

ここで一つの問題:
日本国憲法の改正手続きに則して明治憲法に戻すことは論理的に可能か。

結論:
論理的には、可能だ。

◆ ◆ ◆

なぜそうなるかを以下にメモしておく。

一見すると、国民主権を原理とする日本国憲法から天皇主権を基礎とする明治憲法が導かれるはずがないと思われる。


簡単のため次のように記号を定める。「明治憲法を是とする」を命題A、「日本国憲法を是とする」を命題Bとする。現在の公式解釈は(論理としては)「AならばB」である。

仮に日本国憲法から明治憲法は導かれえないのだすれば、その命題は「BならばAでない」になる。ところが、この対偶をとれば「AであればBでない」となる。これを言葉になおすと「明治憲法を是とすれば日本国憲法は是にならない」となる。しかし、現に明治憲法から日本国憲法が導かれたと公式には解釈されている。故に、上の命題は真ではない。ということは、その対偶もまた真ではないことになる。即ち、元の「日本国憲法から明治憲法は導かれえない」という命題は偽である。故に、「日本国憲法から明治憲法は導かれうる」。

要するに、明治憲法の改正手続きから日本国憲法が制定されたのだと考えれば、日本国憲法を改正して明治憲法に戻すことができる。もちろん、国民投票でどうなるか、それは分からない。しかし、そんな改正が行われたとしても、決して不合理ではないわけだ。

◆ ◆ ◆


上の議論は東大法学部の正統とされる「八月革命説」とは異なる。この学説に立てば、明治憲法から日本国憲法は得られない。昭和20年8月に(概念上の)革命が起きたと考える。もしそう考えるなら、日本国憲法から明治憲法は出てこない。実態としてはこちらが正しいのだろう。しかし、仮にそう考えるならば、今度は明治憲法を廃止して新たに日本国憲法を制定したのは誰か、という問題に解答する必要が出てくる。

この問題は、歴史的事実をどう認識するかという問題レベルを超えるものらしく、憲法学界でも一致した答えが未だにないようだ。このこと自体、一種、驚きでもある。が、まあ、それはそうかもしれない。まさか「アメリカ人が制定した」とは法理からして言えまい。なぜならアメリカ人には日本の憲法を制定する権利がないからだ。それとも連合軍が表明した意志として憲法改正が含まれていた。占領中であれば可能であった。実態はこれに近かったのかもしれない。が、そうであれば、日本国憲法は「民定憲法」とは言えないであろう。国民が制定したわけではないなら「国民主権」であるとも言えないかもしれない。これよりは明治憲法の改正手続きに則して日本国民が日本国憲法を定めたと解釈する方が収まりがよいかもしれない。どうもこれまたハッキリした統一見解がないようだ。

「戦後日本」の古くて、最も重要な出発点が、現・統治構造の下で今なお不明確である。ここは認めざるを得ないのではないだろうか。だから憲法の正当性に疑いをはさむ集団が存在する。ここから様々な問題が対処されないまま問題としてそこに現存するわけだ。


2017年9月8日金曜日

スーパー受難の時代: 「欠品1回」のこわさ

最近のヘルシーブームに乗っかって我が家も東洋ライス製「金芽ロウカット玄米(無洗米)」の優良顧客になった。

この商品、玄米の表層をのみカットしているので通常の玄米と栄養素は変わらないまま、炊き方は白米と同じである。かつ、食味も白米とほとんど同じで、特に茶漬け、チャーハンなどにすると白米よりも美味い(と小生宅では話している)。言うまでもなく、玄米は万能食と言われており、玄米では摂取できない栄養素をあげたほうがよいくらいだ。

最初、この食品を知ったのはCOOPのトドックである。ところがトドックは便利なものの配達は週一回で毎日食べている食品がなくなったときは不便。先日、いきつけのイオンで探してみるとあるではないか。『いま評判だからサ、置いているのは当然だよ』とカミさんと話したものだ。

本日は、隣町S市にあるイオンモールに買い物に出かけた。ついでに残り少なくなったロウカット玄米を買って帰ろうと思った。が、ないのだな。『扱ってないみたいだよ』、『でも近くのイオンにはあったんだから・・』、『売り切れかなあ?』、『もし売り切れなら、札があってそこが空になっているはずだしネエ』、『それもそうだなあ、ある期間だけ置いたりしているのか?』。

結局、今日は断念して帰宅したが、戻ってからアマゾンを検索すると、2Kg2袋が2480円で販売中だ。プライム会員なら通常配送料無料。『これは買いだヨネ!』、『そうだね』となる。

購入チャネルはこうして古い購入先から新しい購入先へとシフトする。新しい購入習慣が形成され、やがて定着する・・・。

◇ ◇ ◇

注文してから思った。これは確かに小売業界は危機だわ、と。

アメリカは、いまいかにしてAmazonとつきあっていくかが生き残るための大問題になっているようだ。ウォルマートは徹底的に戦うらしいが、その帰趨は予断を許さない。Amazon Echoの日本語版が発売されれば、日本国内の小売業界も一気に激変するに違いない ー まだ日本語対応品発売の予定はないそうだが。

スーパー、というか大規模小売店は売れ筋を大量販売・大量調達することで価格支配力を維持し、それによって利益を出してきた。しかし、品揃えを売れ筋に集中すれば、マージナルな商品を外すことがある。もともと消費者は、色々な多種多様なものを本来欲しているものである。そんな心理でいながらスーパーに並ぶ標準品をみると「これでイイか」と思って買ってきた。消費者がスーパーに合わせてきたのだ。

ところがAmazonを検索するとズバリ欲しいものがいつでも買える。住んでいる場所は問わない。「欠品1回」が「わざわざ行っても置いてないかもしれない」という憶測につながる。「じゃあ、いまAmazonに注文するか」となる。

今後も既存の大規模小売店は顧客の流出、販売チャンスの喪失に悩むことだろう。有効な対抗策はあまりない。売り方・買い方が激変しつつあるのだ。今後、日本人の買い物の基本スタイルは一変するだろう。その変化はスーパーなる業態が誕生した時を超える激しい変化になるに違いない。手にとって買いたいものは確かにある。が、それを買うスペースが既存のスーパーである可能性は低い。

面白い時代、と言うより怖い時代になった。そう思った今日一日である。

2017年9月7日木曜日

仕事のモラル、男女のモラルとも前近代的ですぜ

民進党の山尾議員が同党・幹事長につく見込みであると報道されたところ、結局は別の人になり、新代表早々の座礁とかアレコレ言われ、これいかにと思っているとやはり出てきました・・・W不倫。今度はにわかに離党か、議員辞職か、そんな話になってきた。このパターン、最近年になって非常に多いのだな。

フランスでは前のオ大統領が事実婚だったかどうか忘れたが「現夫人」と離婚して、「新夫人」を迎え入れたことがある。イタリアのベ首相は、不倫も汚職(疑惑?)もくぐりぬけてきた猛者だが、イタリアの首相該当職である閣僚評議会議長を合計9年間も勤めてきたときく。

私は彼女を愛している。彼女も私を愛している。妻には申し訳ないが、愛のない結婚生活をこれからも続けることが社会人の責任だと君たちは言うのか?妻も私との結婚生活にピリオドを打つことを受け入れてくれた。もちろん、生涯を通して妻への感謝の気持ちは変わらない。生活の保障もするつもりだ。愛は移ろい行くが、感謝の気持ちに変わりはない。

こんなキザなことを言ったかどうかは分からないが、公人・政治家とはつまり職業人、男女の愛とは私生活。この区別をどの程度の厳しさで社会が設け、一人一人が意識するかは、その国ごとの文明の度合い、というか価値観によるのだろう。

ただし、日本の場合、これ以前の問題があるかも。

小生が中学生だった頃に使われていた「不純異性交遊」という非日常的単語。最初は言葉の意味が分からなかった。男子と女子は言葉を交わしてはいけないのかとさえ思ったものだ。そうではないのだが。議会は上意下達で仕事をする場所ではなく、議員一人一人を大事にしてくれるという意味では、学校社会に似ているところがあるのかも。

まあ、今となっては<お笑い用語>だと思っていたのが、最近マスコミのゴシップを聞くにつけ、よく思い出してしまうのが「不純異性交遊」という言葉だ。「不倫」というのは渡辺淳一的な一途の愛を言うのじゃないの?ちょっと事実認識において、ピンと来ないことが多いのだな。仕事仲間なら二人で食事をすることもあるし、ホテルでおしゃべりをしたくなることもあるだろう。男同士、女同士、男女二人であっても、だ。それが疑わしいってんなら、女性が輝く社会などと大層なことを話すんじゃない。そう言いたくなりますぜ。

◇ ◇ ◇

それにしても、仕事の場に自然に醸し出されてくる男女の間の信頼感と、この信頼感がそのまま私生活を侵略しているのではないかと疑う周囲の視線。

疑うのはモラルに立脚して疑うわけだが、社会の実態が変わればモラルも進化した方がよい。そう思うのは小生だけだろうか。

その昔、ナポレオン戦争の頃、制海権を有していた英国は敵国オランダの国旗が日本の出島にまだ翻っていることを知った。そこで英海軍のフリゲート艦・フェートン号が長崎港に侵入しオランダ商館員を拉致した。幕府・長崎奉行所は大騒ぎになり、フェートン号を焼き討ちしようとの計画を進めたのだが、同艦は商館員を解放し、そのまま姿を消した。長崎奉行・松平康英は『世を騒がせしこと、誠に申し訳ござらぬ』と遺書をしたため、腹を切った。

文化5年8月15日(1808年10月4日)のことである。

フェートン号事件は、長崎奉行とはまったく関係のないことで、責任はゼロである。被害もない。にも関わらず、切腹をして幕府に(世間に)詫びる決意をした。それがまた悲劇と受け取られる風でもなく、その後の日本の異国船打払令へと日本の歴史は進んでいった。その意味では幕末の攘夷運動の契機をなした事件である。

まあ、いいんだけどね、という奴でもある。

この歴史、小生はよく「なんと言うことか」と感じていて、<世間と自己>をどう考えるかと言う日本的モラルの象徴のようにも思われてきたのだ。世間が個人に押し付けるこのモラルが、実は陰に陽に日本人を不幸にしている。その第一の原因である。そう思うことが多いのだ、な。

「モラル」とは世間が決めるものではない。もし世間が正邪善悪を決めるなら、『己信じて直ければ敵百万人ありとても我行かん(日蓮)』という名文句が出てくるはずがない。

「モラル」、いや「世間」と呼ぼう、ここにも進化が必要だと感じることは多い。仕事にも、家族にも、男女にも、だ。

2017年9月4日月曜日

多国間の現状固定・相互不可侵の裏付け

北朝鮮は既に核保有国である。そう認識しなければ何も進まないだろう。

覇権闘争はゲーム論の枠組みを当てはめればタカ・ハトゲームである。通常、タカ・ハトゲームでは、一方がタカ(=リーダー)になり、他方がハト(=フォロワー)になる状態がナッシュ均衡である。タカ対タカ、つまり全面戦争を覚悟した強硬路線を双方がとると、双方とも利益がゼロないしマイナスになる。なので戦争は常に限定的であり、どちらがリーダーになりうるかを知るための(必ずしも必要でない)プロセスとなる。双方が融和的なハト・ハト状況は、ナッシュ均衡ではない。というのは、片方がタカ戦略(=アグレッシブな外交方針)をとって利益を拡大しようという誘因があるからだ。ナッシュ均衡ではないにも関わらず、合計利益が最大となるハト・ハト状態を実現するには、国際的共同体など何らかのメカニズム、利益配分システム、違反者に対する懲罰システムが必要である。

これが標準的な授業内容だ。

が、一方が核保有国となり、他方が非核保有国である場合、双方が激突するタカ・タカ状態は、片方のみにとってマイナス利益となる。なので、タカ・タカ状況はありうるが、非核保有国は核保有国に従属する方が利益にかなうと最初から明らかであるので、戦わない。つまり非核保有国は核保有国の恫喝に屈する。であるので、核保有国と非核保有国の間に限定戦争が生じることはない。非核保有国が必ずフォロワーに、核保有国がリーダーになる。これが安定的なゲームの解となる。これまた教科書的なゲーム論のロジックから得られる結論である。

故に、朝鮮戦争がいまだ休戦状態で、かつ敵対する北朝鮮、韓国(更にアメリカも含め)の双方とも朝鮮半島全体の領有権を主張している状態を前提とすれば、北朝鮮が核保有国となった以上、韓国も必ず核保有国を目指すはずである。アメリカが支援国として核再配備をしなければ、自国で核開発を志向する。

もし韓国が核武装を進めれば、日本も必ず核武装を志向する。これが日本の利益にかなうロジックになる。なので、今後、(高い可能性として)核武装ドミノが進展すると予想しておくべきである。

■ ■ ■

もし韓国が自力で核開発するのではなく、アメリカが韓国で核再配備を行うとすれば・・・、韓国への攻撃をアメリカへの攻撃だとアメリカ本土のアメリカ人が考えるかどうか。この度合いによる。つまりアメリカがどんなコミットメントをするかによる。核配備は即ち「張子の虎」かもしれないのだ。実際に攻撃を受けた場合、報復を控えることがアメリカの利益にかなう可能性もあるのだ。その不確実性がある分だけ、配備されているとはいえ自衛力は割り引かれて評価される。まあ、いずれにせよ、日本、韓国の意志がそこで別々に働く限り、日本にも核が配備されるはずである。日本だけには核が配備されない状態は(日米韓の軍事資源が統一的・一体的に運用されでもしない限り)日本にとってヴァルネラブル(vulnerable)である。

ここまでは簡単なロジックで予想可能である。しかし、アメリカが日韓両国に核配備を進めパワーバランスを維持するというこの状態も決して安定的ではない。というのは、中国、ロシアはアメリカの影響下にある日本、韓国が核武装する事態を歓迎するはずがないからだ。相手に従属することの損失が受け入れ不能なほど大きい場合、タカ・ハトゲームにおいては常にタカを志向する。なので、アメリカが核配備をしてパワーバランスを維持しようとすれば、戦略的劣位に立つことを怖れる中国、ロシアは新たな対応をするはずである。また北朝鮮も更に核技術を磨いてより優位に立とうとするだけである。

この無限ループは、本来は不安定なハト・ハト状態(=平和共存戦略)から得られる利益について理解が共有されない限り、必然的に継続される。

タカ・ハトゲームにおいては、いずれかが服従するまでは強硬なコミットメントを相互に繰り出すが、これは理論的に予想される事態だ。経済制裁とは限定戦争の一手段なのである。制裁強化は、限定戦争の強化であり、管理に失敗すれば全面戦争へと至るリスクがある。これが現在最も懸念されている可能性だ。

■ ■ ■

戦略的ゲーム構造を変えない限り、関係国の選択を変えることはできない。

タカ・ハトゲームにおけるハト・ハト状態、つまり平和共存による利益配分がタカ戦略を単独で選ぶよりもはるかに大きいという確証を示す必要がある。

ゲームの構造をタカ・ハトゲームから同調ゲームへと転換することが望ましい。そうすれば、協調的核削減も将来いずれかの時点で可能になろう。

その方向に向けて、ありうる状態それぞれに関する利得を関係国が共有し、ゲームの完備性を確保することが大事だ。そうすれば、各国の理性的検討を通じて、合理的な解に到達する道筋が見えてくる。

■ ■ ■

こう考えると、北朝鮮が既に核保有国となったいま、東北アジア内の核バランスをめぐって複雑な進展が予想される。これだけは確実になった。

標題の「多国間の現状固定・相互不可侵の裏付け」は、核バランスという主旨なのだが、一定の均衡状態に至るまでの道筋はかなりリスクに満ちたものになるに違いない。変化する情勢の中で自らがフォロワーの役回りを選択し、後手に回るのは愚かであり、得られる利益も薄い。かといって「自存自衛」などと叫んで暴走すれば味方が誰もいなくなる可能性が高い。これは元来た道である。

外務省である、な。今後の要所は。

それから憲法改正も非常に重要になってきた。憲法は統治の原則を示すものだ。感性が異なる外国人もロジックを語れば理解する。いくら現状が厳しいからといって、憲法どころではないなどと平気で言う人間集団がいるとすれば、信頼はされんわネ。あの国は怖いヨネと思われるわな。これまた誰でも分かる理屈だ。

2017年9月3日日曜日

「政治的な期待」に何かの意味があるのだろうか?

民進党の新代表に前原氏が(事前の下馬評通りに)当選したあと、代表代行職にライバルの枝野氏が、党運営の実務を担当する幹事長には山尾氏が任命される模様となり、にわかに民進党の新体制に対して「華がある」とか、「変貌をとげたようだ」とか、「そこはかとない期待感」があるとか、案外評判はいいようだ。

ここで一言疑問:

この「期待」というのは「予測」とはどの程度違うのだろうか?

たとえば通過したばかりの台風15号。日本列島へ接近する途上では太平洋岸にかなり近い進路をたどるという予報もあった。しかし、実際には予報よりかなり東寄りの進路をとり、小生が暮らす道央では風がちょっと強いかなという程度で終わった。何よりのことだ。近く予定しているリュニューアルを依頼しているリフォーム業者は『前から予定している地鎮祭が今日はあって、ホント、台風がそれてホッとしてるんですよ』と話していた。

台風の進路予測では中位予測の周りに可能性のある範囲が地図上に示されている。予測と言っても、点予測ではなく区間予測を行うのが予測実務では鉄則である。

できるだけ東側にそれてほしいというのは「期待」というより「希望」であって、客観的な計算結果とは別のことである。通常、希望が現実になってくれる確率は、事前の計算段階では極めて低いことも多いのだ。

それで、話は戻るのだが、民進党の新体制に「期待」がもてるというのは、かなり高い確率でイイ線をいくだろうと言おうとしているのか、相当イイ線にまで行く確率もゼロではないと思うんですよね、と。そう言いたいのか。政治評論というのは情緒的に過ぎて、小生にはサッパリ分かりません。

戦時中の大本営陸海軍部は、戦況が悪化してあからさまな嘘をつき始める前段階において、期待ばかりを高めるような情報伝達を繰り返していたことがよく知られている ー 国民の期待形成を重要視した点では、何やら近年の日銀が展開している"Forward-Looking"な金融政策にも似ていて、大本営と金融当局と両者の相似性には目を見張るくらいだ。そのキーワードである「期待」は上のように政治的な議論でもよく使われている。が、使い方が難しいのも「期待」という用語である。

「期待」を伝えたところで情報価値はほとんどゼロである。高い確率で予想される帰趨を伝えるのが、専門家、というか「情報通」としての存在価値であろう。

2017年9月1日金曜日

「学校教育」それ自体の効果は多分ゼロである

10年ほど前に所属先が経済学科からビジネススクールに変わった。移籍当初はテンションが上がったが、最近の口癖は『私が説明しているのは、決して勝利の方程式ではありませんから。知っているだけ、勉強しただけ。ゼロですからネ、自信があるだけマイナスかもしれません』である。



暴言・暴行で有名になった豊田真由子衆議院議員は東大法学部を卒業後に厚生労働省に入省しハーバード大学に留学した。

アイスノン、ホッカイロ、パラゾールで有名な白元は、創業者の孫が社長を継承した。その社長は慶大経済学部を卒業後、大手メガ銀行に入り、ハーバード大学ビジネススクールに留学した。しかし、白元はこのたび経営破綻した。

いずれも一流の学校でエリート教育を受けた。にも関わらずというべきか、失敗の酷さかげんが半端でない。

戦前期・日本の学校エリートも酷い終わり方をした。

■ ■ ■

職業人生の成否と受けた学校教育とは関係はないものだ ー 全く関係がなく無相関かと言えば、相関はありそうだという印象はあるが、学校教育が成功を導いた主因であるという見方はウソであることにまず間違いはない。特に、学校時代の「成績」と仕事の「手腕」はまったく関係がない。これならば社会の合意が得られるだろう。

よく話すことだが『社会こそ最高の学校である』。ゲーテが「ウィルヘルム・マイスターの修行時代・遍歴時代」を書いた時代から全く同じだ。小生自身も振り返ると同感である。これからも変わらないだろう。

そもそも「学校教育」を重要視し過ぎれば「学閥」が形成される。閉鎖的な集団の中では低能力の人物が出世する機会を得て大きな間違いをおかす。また、学校時代の成績はあくまで個人の能力であり、社会で革新的事業を組織する能力とはほとんど無関係だ。この点は上に述べたとおり。この二つだけを挙げても、「学校」という機関に過大な期待を持つべきではないと分かる。本当に大事なのは「出会い」や「交流」。人との「出会い」や「交流」をうながす場を「学校」としてデザインする必然性はない。技術や知識の性質によっては学校は非効率であるとすら言える。ましてや国家が口を出すなどは、もともと出来る理屈もなく、失敗のもとである。

■ ■ ■

それにしても安倍首相が提言してにわかに注目されている「大学の教育無償化」。大学の現状を見ないアホらしい構想だ。事情を知っている人ならば、人生の糧となる活動に対して広く経済的支援をする方向で考え直すべきだ、と。そう言うはずである。そもそも現在の日本の大学の半分以上は「大学」という呼称にはそぐわない。

文科省の大学行政は1990年代の金融行政と同じである。

つまり、大学無償化構想は公的資金による私立大学救済構想である。バブル崩壊後に最初に紛糾した問題である「住専への公的資金注入」と何も変わらない。後者は美しい言葉で飾ってはいなかったのでまだマシである。前者は「人づくり」であると。マスメディアはなぜ欺瞞であると批判しないのだろう・・・。ここが最も不可解である。

2017年8月31日木曜日

一言メモ: 対北朝鮮外交に戦略的余地はあるのか?

北朝鮮を国家として承認していない国は世界でも少数である(Wikipedia)。日本は米・韓とともにその数少ない未承認国の一つである。つまり、朝鮮半島全体は韓国の領土であるという立場を日本はとっている。そう解釈せざるをえない ー 現に韓国はその立場にあることを憲法で明確にしている(と聞いている)。

朝鮮戦争はいまだに「休戦状態」にある。米・韓は北朝鮮の敵国である状態はまだ続いている。

故に、北朝鮮が現にとっている行動を「国際平和を破壊する行動」と直ちに断定するのはあまりに此方側の見方に偏っており一面的に過ぎる。こんな観点もあると言えばあるだろう ー だからこそ中露は北朝鮮を陰に陽に支援し続けている。「より有効な経済制裁に向けて中露の協力を日米は要請する」といっても、中露の国益にかなうわけでもないので、おそらく機能するまい。

ともかく現状は持続可能でない。しかし、現状を根本的に変更する試みも不可能に近かろう。

◇ ◇ ◇

日本が北朝鮮を承認することのプラスは何か?検討してもよい時機ではないのか(というか、もう検討はしていると思うが)。

東アジアのありうべき状態は「現状固定の相互承認」のみである(と思われる)。朝鮮半島の現状を固定し、平和共存を目指す方向は、日本にとっては確かにプラスである(どのようなプラスであるのかは多面的だが概ね自明である)。

朝鮮戦争開始と休戦までの期間、ずっと日本はアメリカの占領下にあった。朝鮮戦争の結果である半島分裂は日本の責任ではない。が、明治以来の外交史を振り返ると半島の現状に日本は相当の責任を負っている。日本は日本で選択すべき朝鮮半島外交があるだろう。

イギリスもドイツもカナダもオーストラリアも北朝鮮を国家として承認している。北朝鮮の存続を認めている。国家としての承認は平和を築く交渉の第一歩である。もちろん日本による北朝鮮承認となると、東アジアにおける波及効果は(特に韓国に対しては)かなり大きいに違いない。が、日本はまだ使っていない外交上のリソースを有していると考えるべきだ。

◇ ◇ ◇

外交を尽くしていないにもかかわらず、軍事行動を検討するのは、現行憲法の理念を真っ向から否定するものだ。統治のロジックが破綻している、と。そう言われても仕方がない。

2017年8月28日月曜日

この報道用語は「情緒主義」から生まれたのではないだろうか

知る権利と忘れられる権利との選択(?)という。これまた、いかにもマスコミ各紙の好みそうな表題だ。

教え子の小学生への強制わいせつ容疑で、愛知県警に逮捕された臨時講師の男の公判が名古屋地裁岡崎支部で進んでいる。男は4年前にも別の小学校で性犯罪を起こし、停職処分を受けていた。男が名前を変えたこともあり、情報が共有されなかったという。
(出所)朝日新聞 DIGITAL、2017年8月26日配信

そもそも「権利」というのは「憲法」や「法律」の明文があってはじめて担保されるものだ。法的根拠がなければ、それは「慣習」として定着している常識(=Common Sense)であるはずだ。これにも該当しないとすれば、これ大事ダヨネ、ソウソウというレベルの「日常用語」である。どうも小生、勉強不足で「知る権利」や「忘れられる権利」がどこで規定されているのか知識がない。そんな権利は、小生の少年期から青壮年期にかけて言葉もなかった。なので定着した慣習であるはずはなく、故にそんな権利が存在しているのだとすれば、いつの時点でか国会で規定されたか、でなければ誰かが使い始めて広まったファションに近いものだ、と。 どうしてもそう感じてしまうのだ。

要するに、「知る権利」にしても「忘れられる権利」にしても読者の情緒に訴える報道用語じゃあないのかと、そうも思われるのだ、な。

ただ、上の問題提起は意外となかなか深い。これも事実。結構入り組んでいる問題である。

***

ロジックとしては『公的機関が正式に決定した判断は、立法はもちろんのこと、行政にせよ、司法にせよ、すべて国民に公開されなければならない』という原則に従うべきだ。「だって公共機関の決定なのですから」というわけだ。ロジックはまずこうなると思う。

故に、いわゆる「前科」は公的情報の一部をなし、原理としては共有されるべき対象である。求められれば(よほどの理由がない限り)隠蔽するべきではない。その処分の結果そのものだけではなく、決定の際の責任者、経緯等々を確認できる文書も同様である。

中央官庁で日常的に作成されているメモや事務連絡でさえも「公文書」であると、隠蔽するのは怪しからんといって内閣支持率が急落するほど大きな騒動があったのだ。公的な処分は当然のこと、誰もがアクセスできるよう公開されなければ筋がとおらない。

こう考える以外に議論のしようはあるだろうか?・・・あることはあるのだな。

***

それでは、公的機関が関係しない私的処分はどうか。たとえば、ある人が何らかのトラブルで勤務している●●社人事担当部局から減給や停職処分を受けたとする。その人が、会社を退社し、別の会社に就職しようとしている時に、その別の会社が元の会社に当該人物について何らかの処分歴があるかどうかを照会することは可か?

さすがにこれは、小生、素人だ。法律では照会をうけた会社に何らの(伝えることも、秘匿することも)義務も課していないように(感覚的には)思う。処分は会社による行為であり、社内では周知のことであるから既に個人限りの情報ではなく、当該人物の「個人情報」には当たらないとは感じる。が、要確認だ。

それでもある程度は検討は可能だ。

もしも不祥事を起こされた元の会社が、その事実が広く共有されるよう積極的に情報を提供するとすれば、これまさに江戸時代以来の「奉公構」になってしまう。近代以前、「奉公構」は単なる追放(=懲戒免職)ではなく、類似の就職機会をも奪う重い刑罰として機能した。元の所属先から「回状」を出された人物は社会の最底辺に身を落として生きるしか道がなかった。これは個別の主家による刑罰である。これと同じことをいまやってしまうと、憲法で禁止されている「私刑」になる。免職でなく、停職であっても、その情報を広く提供すれば結果は同じだろう。同じ結果であるから、求めに応じて処分歴を提供しても、やはり民間関係者による「私刑」となる(そう思われる)。

上の問題がなかなか深いのは、公的機関による処分であっても、要求に応じて個人の処分歴を公開してしまうと、実質的に禁止しているはずの「私刑」(法律によらない刑罰を課す行為)を公共機関が行ってしまうからである。それとも公共機関なら許されるのか。

行政情報公開の原則と、私刑禁止の法理と。どちらを優先するかである、な。だから、意外と深い問題だ。

★ ★ ★

【29日午後加筆】

それにしても今朝の北朝鮮によるミサイル発射に対して政府やマスコミ各社がどう反応しているかをみると、実に面白い(と思う)。

安倍政権は(当然のこと)『わが国を飛び越えるミサイル発射という暴挙はこれまでにない深刻かつ重大な脅威だ』と非難の声明を出している。それで、トランプ大統領と電話会談をして『圧力強化で(日米は)一致』したと、そう報道されている。

実に、淡々とマスメディアはそれを伝えている。政権を支持するのか、日米一致一本道でいいのか、もっと強硬に対応せよと言いたいのか、どうやら意見らしい意見はマスメディアは持っていないようだ。

森友事件や加計騒動ではあれほど食い下がって反政権闘争を展開したのにネエ・・・。
怒ってみたってショウがねえべヤ。あっちは安倍さんじゃあなくってサ、国なんだわ。こっちが怒ったって、向こうは打つんだからサ、怒ったって何がどうなるってもんじゃないっショ!落っこってくるわけじゃあねえからサ、何発かうたれているうちにサ、だんだん 慣れていくっショ(笑。
メディアの人たち、実際こんな感覚なんですかねえ・・・恐ろしいといえば恐ろしゅうござんす。

状況としては、マスメディアはもっと怒らないといけない。強硬路線を支持するなら日本独自でもっと強化せよと主張するべきであるし、対話路線なら制裁オンリーの現政権の外交路線を非難しなければならない。融和路線を主張しなければならない。政権をもっと批判しないといけない。何が違法か判然としない加計問題では、それができたのだから、政権批判ができないはずがない。そうじゃあござんせんか?

どう見たって、この春先以来の報道姿勢といまのスタンスはつじつまがあっていない。

地方の一大学の一獣医学部、大阪の(どうでもよい)一小学校の設置問題には腹がたっても、隣々国によるミサイル実験にはあまり腹が立たない、と。やはり、論理というより、いまの「情緒」を大事にしているようでもあり、これまた情緒主義報道の和風ヴァージョンなのかもしれない。韓国のことを云々はできないねえ。まあ、日本では身の回りの細々としたことを書き綴る日記が日記文学として世に迎えられ、自分の感想を縷々とつづる私小説が高く評価されてきた。そんな感性にあった事実報道が覚えず情緒主義になるのは、ある意味、自然のことかもしれない。


2017年8月26日土曜日

「当選=有権者の代表」とリスペクトされない時代もやがて来る

1990年半ばから2010年代にかけて<官民の民>がずっと優勢である。もちろんその背景としてバブル発生とバブル崩壊に対処しようとした旧来の官僚主導体制の堕落と破綻があったのは言うまでもない。

その頃、官の言い分があるとしても選挙で当選した政治家が一喝すれば、有権者はそれに拍手喝采したものである。民主党政権における菅直人・元首相が『異論があったら君達も選挙で当選してから言いなさい』と(官僚幹部に対して)言い切ったのは、(本当かどうかは知らないが)時代を象徴する一例だろう。

そんな時代がもう25年近く、一世代ともいえるほど長い期間、ずっと続いて来た。思想の寿命としてはもう大分長くなったと言える。

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ところが・・・

少し以前になるがTVのワイドショーで飯塚市の市長・副市長が勤務時間内に庁舎を抜け出し、別の建物で賭け麻雀に興じていたという話をした。聞けば経営者出身の地方政治家だそうである。選挙で当選して3期目ということだった。

う〜ん、確かに(声高には言えぬが)「賭け麻雀」なるものは小生がその昔に勤務していた役所でも行われていたし、「賭けゴルフ」なることもやっていた。やっぱこれって「犯罪」だよネ。ダメだよね。

こんな風に「犯罪だよネ」と発言している人は多いのだが、普段から相当多くの人は実際に賭けをやっている。これは厳然たる事実だ(と思う)。事実であるとずっと前から知っておきながら、いざとなると「これは犯罪です」と指摘して追い落としへの口実に使うのは、簡単にいえば「罠」である。法律には合致しているが卑怯であろう。

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とはいうものの、地方議会議員の不祥事、東京オリンピックにまつわるゴタゴタ等々、色々とあがってくるスキャンダルや混乱を聞いていると、「選挙で当選した」ということそれ自体にどれほどの価値があるのだろうか、と。(安定しているかもしれないが)安い給料で黙々と勤務している公務員という集団は、時として「異分子」が混じるかもしれないが、全体としてはより高く信頼できるのではないか?機能的ではないか。少数の政治家に任せるのは危ないのではないか・・・

大体、宝くじの当選ではあるまいし、選挙の当選を振りかざすエリート意識も鼻持ちならない・・・。嘘が必ず混じっている選挙運動よりは、公務員試験の受験勉強のほうがずっと誠実な努力ではないだろうか、そこに嘘は混じっていない、と。

……もしこんな感覚が芽生えてくるとすれば、その時点から以降、選挙制度に基盤をもついわゆる「政党政治」は間違いなく機能不全をおこすだろう。そう思いながら「また出てきたか」とTVを視ている。

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ずっと昔の官僚集団は、同年齢層のわずか1パーセントを占めるにすぎない帝国大学卒業生しか高等文官試験を受験することはまずなかった時代の人々であり、その中でも東京帝大、京都帝大という少数の大学卒業生しか実際に採用されることはなかったと聞いている。そして最後に出世を遂げるのは、同じ東京帝大卒でも旧制一高を卒業した人物にまずは限られていた。そんな伝説もあったくらいだ。しかしながら、点数第一ということは、血縁・人脈・縁故はゼロの裏返しでもあったのだ、な。

試験の受験資格は全国民に(建前上は)あり、国公立学校の授業料は極めて低廉であった。戦後になってしまうが、小生のカミさんの兄は某国立大学の医学部を出たが、その当時の授業料は3万円だったという。貨幣価値を考慮するとしても安い。少年マガジン1冊が40円か60円くらいの時代であったから、今の価値に直せばざっと15万円である。月当たりで1万2千5百円/月。これなら親の仕送りがなくとも奨学金とバイトで自活できる。戦前はもっと授業料が安かったと亡くなった父親は語っていたーというか、教師になる師範学校、軍人になる陸軍士官学校、海軍兵学校は無料だった。

こう考えると、意欲(と頭脳・力量)さえあれば開かれた学業機会を活用して誰でもが高等教育をうけ「公職」につく道があった。そんな道を(努力して)歩んだ官僚集団は、それ自体が開かれた民主主義社会の成果であった。そうとも言えるのではないか。

少なくとも人脈や地盤、そして何よりも先祖に著名な人物を持っていると言う血統的優位が価値をもつ政治家集団よりは、世襲の困難な官僚集団のほうが、小生よっぽど民主主義に合致しているように思えますぜ。

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満ツレバ欠ケル。栄枯盛衰。ピークを迎えれば、あとは下り坂になる理屈だ。

規制緩和、民間主導。この理念にも自ずから賞味期限がある。経済理論としては、決して間違ってはいない。しかし、正論が通らない時代は反復的に交代的に現れるものだ。正論が常にとおるなら、大体、敗戦などあるものではない。

全ての時代を通じて一貫して合意され、支持されて来た社会科学的仮説は一つも存在しないのが現実だ。時代状況が変われば、正しいとされる政策も変わる。社会科学は正当化のためのツールとして利用されて来たのが現実だ。学問分野にも栄枯盛衰はある。

社会は正常状態に収束しつつあるのではなく、非エルゴード過程として収束点なき漂流を続けている。これが社会経済発展の実証的真相である。

近代日本において、最初は薩長藩閥、明治から大正にかけ発展を遂げてからは政党政治、その後政党が官界を侵食し、官界が政治の場と一体化し、そして政党が財閥と癒着してきた段階で政党不信が高まる。1929年の世界大恐慌で金融政策をしくじるに至り、それまで逆境にあった軍人集団への期待が高まる。軍部と相応じた異端派革新官僚が下克上のように台頭し、国家総動員体制の確立と軍国主義へと走る。その後は知ってのとおり、崩壊と占領、独立、戦後日本の再出発となる。

こう列挙すると、トレンド要素とともに循環要素が確かにあるようだ。単純な「振り子理論」では素朴すぎて話にならないが、(一つの切り口として)官と民との間の潮の満ち引きを振り返ると、次第に逆転しようとしている。そんな予感を覚えるのだ、な。

これら一連の事柄が、現行憲法そのものの賞味期限まで意味するものであるのかどうか。そこまで分かるはずはない。

2017年8月21日月曜日

覚え書: 政治参加機会は平等であるべきか、平等になっているか?

民主主義の下では、誰にでも選挙権が与えられる普通選挙が欠かせない。と同時に、誰もが公職(特に議員や知事、市長など)に立候補できる被選挙権をもつことも大事である、これは歴史や政治学、高校以下の授業「公民」でも強調されているので周知のことだろう。

ただ「公職」とはいっても、国公立大学長や中央官庁の事務次官や局長、あるいは地裁所長や地検・検事正、警察署長や税務署長などに誰もが自由に立候補できるわけではない。学位などが求められることがあるし、組織内現役であることが求められることも多い ― とはいえ、国立大学では原則的に公募が行われ出来る限り参加機会の平等が図られていることも付け加えてよいかもしれない。

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誰もが参政権をもち、誰もが公職に就く権利を有するとはいえ、まさか「非常識なバカ者」が当選するという事態はこれ自体歓迎されてはおるまい。まあ考え方によっては、権力者に「とんでもない愚か者」が当選してしまう事態もまた、民主主義のコストであって、民主主義を維持するためには耐えるべき不幸な事態であると、こんな見方もあるかもしれないが、おそらく少数派であろう。

合法的に選出されたヒトラーやマッカーシーなどのレベルに至らないまでも、ダメな国会議員、好戦的な大統領、常軌を逸した知事などは十分出現可能である。とはいえ、こんな種類の人物にも他と平等に当選する可能性を与えるべきであると本気で考えている有権者が多数いるとは(小生には)とうてい思われない。もし平等に当選する可能性を与えよというならクジを引くのが一番だが、とんでもない人物が紛れ込んでいるのにクジを引かせようとは誰も考えまい。つまりそんな「問題のある人物」には当選させたくないのである。

こう考えると、普通選挙と言い、民主主義とは言っても、誰もが平等に同じだけの政治参加機会を有するべきだと考えているわけではない。特に被選挙権についていうときは、「誰でも」と考えているわけではなく、「適任者」を選抜しようと考えているのであるから、問題は民主主義というより、「選挙」は最適な人材選抜方式であるのかどうかということになる。「選抜」という以上、言葉の定義上、望ましい人物と望ましくない人物を区別(≒差別)する意思がそこには含まれている。

投票する立場からは平等に参加できているように見えるが、実際に選ばれるのは誰かという側からみれば、平等では決してなく、選ばれやすい立候補者と選ばれにくい立候補者に分かたれる。「能力主義」なのだと言えば一見合理的だが、能力を測るのであれば選挙という方式を用いる必然性はない。能力評価を客観的に行う方がよいのだ。なので、立候補する立場に立とうとするとき、参政権の平等という言葉は(現在の日本社会は)多分に欺瞞であると思う。

もし選挙される側に存在する実質的な不平等を理にかなったことと認めるのであれば、選挙する(=投票する)側における望ましい区別(≒差別)を認めるまで、あと一歩しかない。有権者を限定したり投票権の数や内容に区別を設ける制限選挙である。目的が「選抜」であるなら、選抜精度・民主性・コストの側面から最も社会的合理性をもつ方式を採用するべきである、ということになる。実際、世の中は大きく変わってきた。激しく変わってきた。今後、どう変わっていくか誰にも分かるまい。

・・・このような考察が民主主義社会を根本的に変質させる危険な考え方であることは言うまでもない。政治参加機会の平等に努力することは民主主義社会であり続けるための必要条件である。

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もし最高裁が考えているように、住んでいる都道府県によって選挙における一票の重みが違うことが憲法上の平等規定に反すると考えるのであれば、被選挙権、いや被選挙権という言葉に含まれているはずの実質的な参政権が社会のあらゆる階層に現実として平等に与えられているかどうかにも目を向けるべきではないだろうか。これも合理的な問題だと思うのだ。

社会の行方を決めるのは、実際には立候補し、当選し、公職につく人物たちに限られるのだから。投票権はいくら平等でも、公職につく可能性が実質的に不平等であれば、政治参加の機会が平等に提供されているとは言えないのではないか。

とすれば、現に国会議員の少なからぬ割合が親から地盤を世襲した二世、三世議員である現状をみれば、裁判員決定方式と同じにして、たとえば市会議員、都道府県議会、国会議員の議席の何割かは、全住民に平等な参加機会を与えるため抽選で決め、議員歳費を支給し、議会開催時の出席は有給休暇消化に参入しない。論理からいえば、こんな措置も必要になるのではないか。

・・・もしこんな議席決定方式が国会の円滑な機能を阻害すると、「それは無理です」と反論するなら、選挙区ごとの定数配分もまた国会の円滑な機能のためには必要なのだ、と。それは国内政治が必要とすることなのだと。そんなロジックになるのではないか。

都道府県ごとの、というより選挙区ごとの一票の重みの違い云々は、参政権平等を考える問題群の中のたった一つの(恐らくあまり重要ではないが、数字で「見える化」されている)問題でしかない。そう思っているのだ、な。

多くの論点の中のたった一つに注意を集中することは、正しい判断を得るには有害であると思う。

2017年8月18日金曜日

一言メモ: 韓国の対日個人請求権を論理的に考えると

本日の報道によれば
文氏は日本の朝鮮半島統治時代の徴用工に絡む請求権について、「個人の権利は残っている」との韓国の司法判断を踏襲する考えを明言した。
(出所)産経ニュース、2017年8月18日配信

この状況は、1965年の日韓請求権協定にかかわらず元・従軍慰安婦の対日個人請求権は消滅していないという司法判断が2011年8月以降に韓国で下されるようになり、その後の紛争激化に至っていることから、当然予想されていたはずだ。

同協定に関するネット上の解説をそのまま引用すると次のような説明があり、小生の多くない予備知識ともだいたいは合致している。
この協定は、日本が韓国に対して無償3億ドル、有償2億ドルを供与することなどで、両国及びその国民の間の請求権に関する問題が「完全かつ最終的に解決された」と確認する内容である。したがって、戦時中などに生じた事由に基づく請求権は、いかなる主張もすることができない。また、この協定に関する紛争があれば外交経路で解決するものとし、解決できない時は第三国を交えた仲裁委員会に付託することになる。
(出所)コトバンク

もちろんこの解説は日本語で書かれている日本人向けの説明である(に違いない)。

慰安婦問題をはじめ韓国の対日請求権問題は、これまでの経緯をざっと調べれば調べるほど、細密な論点が絡み合い、一刀両断にはいかないことがわかる。

そもそも「戦時中に生じた事由に基づく請求権はいかなる主張もすることができない」という明文があるなら、それと同時に「この協定に関する紛争があれば外交経路で解決する」ものと記述している趣旨をどう解するのか。戦時請求権が完全消滅しているなら戦時請求権に関する「紛争」は起こりうるはずがない。矛盾である。まあ、この辺りに日韓外交の積み重なりが象徴されているのだろう。

「すべての対日戦時請求権は消滅した」と日本が主張し、韓国政府(というより司法府)が個人請求権は消滅していないと、つまり個人の権利の有無がそこで判定されているなら、かつ請求権を有する元・従軍慰安婦は未だ戦時被害を弁済されていない事実が現にあるのなら、まず韓国政府が請求者に代理弁済し、請求権者の不便を解消するのが順番として本筋ではないか。そうすれば、少なくとも韓国内において問題はまず解決される(という理屈だ)。対日請求権が残っていると行政府が考えるなら、支払金額の払戻しを外交ルートで求めるのが協定に沿った最もロジカルな手順ではないか。残るのは純粋な外交問題だけとなる。しかし、そんな措置は勉強不足のためか聞いたことがない。実効ある問題解決をせず少女の彫刻作品を多数展示して記念碑群とするのはどうにも合点がいかない。ロジックが通らない。被害者本人たちより「関係者」がどこか宣伝じみていて美しくない。問題に取り組む韓国・行政府の姿勢全体が杜撰である。国家的名誉も毀損されるのではないだろうか。が、これまた外野席からみたときの美的感性の一例にすぎない。

ま、要するにゴールは最初から動く余地があった。そう考えるしかない。

2017年8月17日木曜日

「明治維新によって文明開化がもたらされた」という見方は科学的ではない

終戦記念日に靖国神社を訪れると、荘厳であるべき境内周辺は政治団体の勧誘(?)で騒然としており、そうかと思うと戦前どおりの帝国陸軍軍装を来た一団が闊歩していたりして、とてもじゃないが心をこめて参拝をするような雰囲気ではないそうだ。

それにしても戦前を懐かしむ人は案外に多い。増えているのかもしれない ― ひょっとすると、安倍総理その人もそうかもしれないと思わせるところが恐いといえば恐いのだが。

***

戦前期・日本は明治維新(王政復古)でスタートして1945年8月15日で終焉を迎えた。これに反対する人はまずおるまい。確かに明治憲法が施行されたのは、維新から20年以上もたった1890年であったが、フランス流に名前をつけるとすれば戦前期・日本は全体として「第一帝政」という名前に落ち着くのだろう。まあ、維新から明治憲法施行までが第一帝政、憲法施行から敗戦までを第二帝政と呼ぶ人もいるだろうが、本質に大した違いはない。この伝でいえば、戦後日本は国民主権となり「帝政」とはいえないので「第一共和制」ということになるのだろうか。いや「共和制」ではないなあ・・・「象徴天皇制」ではあるのだから。ま、この点は今日は置いておこう。

日本人で明治維新を非常に高く評価する人は多いはずである。義務教育でもそう教えられている。廃藩置県や文明開化はそのプラス評価の柱だ。が、そんな一時期の功績に注意を限定してプラスに評価してよいならば、戦後の日本についても昭和20年代の財閥解体、農地解放、そのあと昭和30年から45年に訪れた「高度成長」時代だけをとりあげて、非常に高い水準でプラスに評価してもよい理屈になる。これが片手落ちであるのは当然だ。

政治体制、というか一つの時代を形成した特定の社会システムの評価は、発足から終焉までの総決算によって評価するべきだ。つまり、戦前期・日本を評価するなら、大政奉還を天皇が勅許した1867年11月10日時点の日本と1945年8月15日時点の日本の国土と社会を比較して、双方のプラスとマイナスを評価するべきなのだ。総決算とはそういうことだ。

そして戦後日本の中間評価をいまするならば、1945年8月16日と2017年8月16日(今日の時点)を比較して評価する。そうでなければ全体を評価することにはならない。

確かに戦前期・日本の下で科学技術は向上し、資本蓄積は進み、人的資源もレベルアップした。それは事実だ。とはいえ、そもそも(客観的数値化などは不可能だが)旧幕時代最後の一日における国民の平均的幸福度と玉音放送があった一日の国民の平均的幸福度とどちらが高かったのだろうか?総決算とはそういうことである。1945年8月15日の日本が戦前期・日本の帰結である。これはもう自明のことである。

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一般に、ある政策の効果を評価する場合は次のようにする。

  1. 政策を示す外生変数を定義する。
  2. 実際に実施された政策をデータに含めモデルを推定する。
  3. 政策の実施がなければどうなっていたかをシミュレートする。
  4. シミュレートされた計算値と実績値との差が政策の効果である。
  5. また、ほかに実施されえた政策を複数のケースに分けてシミュレートする。その中で最善の結果をとって、実績と比較する。実績がシミュレートされた最善値を下回れば政策による不利益があったと考える。
実際には、上のような経済実験はデータ的にも概念的にも実行が困難である。しかし、上のような考え方に沿えば、「もっとうまく出来たのに」という歴史上の「イフ(If)」はいつでも当然あるわけで、<明治維新のおかげで文明開化が出来たのだ>という歴史評価は決して科学的議論ではないことに思いが至る。

AのあとBがもたらされた時、Bという結果の原因がAであるとは限らない。AダッシュやAツーダッシュからもBはもたらされうる。因果関係の検証は慎重さを要するのだ。しかし、歴史評価ではAがあったからこそBがあったという議論をよくする。『先にあったことが後にあったことの原因である(post hoc ergo propter hoc)』(英訳:"after this, therefore because of this")と考えるのは昔からよく知られている誤謬"post hoc fallacy"である。「明治維新のあと文明開化があった」のは事実だが、明治維新なかりせば文明開化は決してなかったのだと、そうは推論できないだろう、と。そう考えるのはロジックに反するし、また実験で検証されているわけでもない。科学ならそのように議論する(はずだ)。

旧幕時代から維新後にかけて社会は大いに進歩したのだという福沢諭吉的観点に立つとしても、それは観察された事実がそうだったということだ。大政奉還がなかったと想定して、1867年11月10日以降をシミュレートすればその長期的な発展経路は、案外、実際の歴史経路よりもパフォーマンスが良かったかもしれない。少なくともその仮説的可能性を先に否定することは非科学的である。同じ意味で、もし明治維新後に実際に実行された政策は最善とはいえず(これが事実だと小生は考えているが)、ほかにもっと豊かで平和な日本を築くことが可能であった政策も存在した、と。そんな可能性についての議論が構築できるなら、そういう議論も決して無意味な議論ではない。

まあ、歴史学界ではどのような議論の仕方が普通であるのかは小生よくは知らない。

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であるので、靖国神社境内を帝国陸軍軍装で闊歩する一団をみると、重大な交通事故を起こした運転者(ないしその家族)があとで何度もその事故地点を訪れ、訪れるたびに「間違ったところはなかった」と、「誠心誠意、注意をして運転をしていたのだ」と、「ほかに何ができただろう」と、そんな反・自虐的追憶に心を任せる人物(悪い人では決してないのだろう)を想像してしまうのだ、な。道を変えれば事故はなかった可能性があり、そもそも運転をしなければ事故は起こりえなかったのだ。



2017年8月16日水曜日

一筆メモ: これも国民性の違い?

カミさんと話していたとき、こんな話をした:

カミさん: 日本人の若い人がまた海外でボランティアをやるみたいヨ。
小生: ずっと昔、宴会か何かでこんな話をしたことがあったっけ。ええっとネ、アメリカ人は『みんなで協力して大儲けしようじゃないか、金持ちになろうぜ』って言う。日本人なら『みんなで力を合わせて我慢しよう。困った人がいれば助け合おう』って言う。で、中国では『お上の言うことをきけば金を儲けてもよい』ことになっている。
いま思い出しても、結構よくできたアネクドートであったわい、と。

ただまあ、何事にも表と裏がある。アメリカ人なら『山分けで一番たくさんもらうのは、やっぱり案をだした奴だな』というわけで分配面の問題が残る。不平等が進むことが多い。日本人はみんなが平等になるが、下手をするとみんな貧乏になる。一人儲けると心やましくなる、やっカミをこうむることが多い。中国では、言うことを聞いていれば国が助けてくれるが、聞かなければ蓄財疑惑で家財没収になることが多い。

小生:一長一短だなあ、やっぱり。
カミさん: 暮らしやすくても貧乏はいやだなあ・・・。
小生: 才あるものは徳が薄く、徳あるものは才に乏しい。両方兼ね備えた者は誠に得がたいものである。同じだよ、これと(笑)。

2017年8月15日火曜日

北朝鮮は誰の番犬なのか?

先日の投稿では、こう書いた。
中国がつないでいた北朝鮮という名前の狂犬が、トランプと名乗るならず者と仲良くし始めた主人に疑いをもって、暴れまわったあげくに綱を噛みちぎり、みんなが困り果てていたところ、ロシアの狩人プーチンが力づくで犬を抑え付けて、ロシアの番犬にした。
核開発技術はロシア経由かと憶測しているのだが、こんな見方もあるようだ。
 習国家主席は、北京より平壌と親しい「瀋陽軍区」によるクーデターを極度に恐れている。「瀋陽軍区」高官の一族らは、鴨緑江をはさみ隣接する北朝鮮に埋蔵されるレアメタルの採掘権を相当数保有する。「瀋陽軍区」が密輸支援する武器+エネルギー+食糧+生活必需品や脱北者摘発の見返りだ。北朝鮮の軍事パレードで登場するミサイルや戦車の一部も「瀋陽軍区」が貸している、と分析する関係者の話も聞いた。
(出所)産経ニュース「野口裕之の軍事情勢」、2017年8月15日

ロシアではなく、中国の地方軍閥の番犬が北朝鮮だという見方もあるわけか。やはり大企業マスメディアの取材力だねえと見るべきか、それとも単にこんな噂もあるという目で見るべきか。この両方が正しいということなのか。

いずれにせよ、こんな地下で根が繋がっているような複雑怪奇なパワーゲームに参入した戦前期・日本は、ウブな感覚のままで状況変化に振り回され、狡猾に立ち回るべきところを武断主義などと称してガラパゴス的な行動を選び、結局は米・ソ・英・中(←中国に対して戦術的には優勢であったものの戦略的敗北に追い込まれたと見る点では合意が得られているようだ)の力に踏み潰されてしまう、力を使えばもっと大きな力に敗けるという大失敗を演じたが、これまさに理の当然でもあったわな。と、そう思う今日・終戦記念日である。

思えば日清戦争ではやくも明治天皇は『これは朕が戦にあらず、臣下の戦争なり』(だったかな?)と語ったよし。戦前期の天皇制の意思決定の本質、そして何が可能であったか、不可能であったか、その問題の本質等々、まだまだ研究課題は多いに違いない。

もう一度、仕事のスタートラインにたつならビッグデータや人工知能も面白いが、近現代史もまだまだ未開拓の余地があって面白いだろうなあと思う。"Noch einmal"(もう一度!)ができない点が人生で残念なところだ。

2017年8月12日土曜日

気温予報の説明方式には改善の余地あり

「西日本の気温は本日も例年より3度高くなるものと予想されます」・・・天気予報ではよく耳にする伝え方である。

しかし、長期的な温暖化が本当に進行しているなら、「例年」より今年の気温が高めになるのは当たり前である。

たとえば『最近10年間の平均気温よりは3度ほど高い暑さになるでしょう』という説明であれば意味がより明確になる。更に『温暖化が続くなか、データから予想される気温よりもさらに1度高い暑さが予想されています』、こんな予報であれば最近の気温上昇トレンドを加味してももっと暑い、つまり非常に暑い、こんな説明方式も可能なはずだ。

最近の気温の動きを加味した予測値計算は、扱いの難しい時系列データであっても、多々、統計的な計算方法があるので選択に困ることはない。

古典的なボックス・ジェンキンズ法を勉強するときに何度も強調されるように、高め或いは低めの同一方向に予測ミスを一週間も続けるなら、予測方法自体がおかしい。温暖化は気温にトレンドが生じていることだから平年値に予測上の何かの意味をこめているなら既に適切ではないし、従来の目安として使っているだけなら単純に意味がない。

温暖化を後追いしながら「例年より高め」だと説明する言い方には意味がない。

***

ただまあ化石燃料利用による「温暖化」は本当かという点も、正直なところ、マユツバであるとは思っている。足元では確かに上昇トレンドにあるのだろうけれど、これを「温暖化」というなら、これまでにも温暖化現象があらわれた期間はあった。「寒暖700年周期説」を唱えた学者もいたくらいだ。

厳密な意味で正確かどうかは検証していないが、まず正当だと思われる記述があるので引用しておく。
白亜紀には、年平均気温で、現在より10~15℃も高かったので、北極や南極近くにあった氷床はとけて、海水が増えました。そのために、海岸線が上がってきました。これを海進(かいしん)といいます。また、海進との関係はまだよくわかりませんが、白亜紀には3度にわたる海洋での酸欠の事件(1億1500万年前ころ、9300万年前ころ、8800万年前ころ)がおこりました。
 中生代には、あたたかく浅い海が広がっていたため、海の生物が増え、有機物が地層中にたくさんたまっていきました。これが、石油となりました。
(出所)http://www1.tecnet.or.jp/lecture/chapter4/4_13.html

「白亜紀」とは中生代白亜紀のことで今から1億年前後さかのぼった時代である。恐竜が生きて地球上を闊歩していた。初期哺乳類はもう誕生していたはずだ。もちろん前後というのはプラスマイナス4千万年程度で広くみなければいけないー人類の古代文明が誕生してからまだ5千年程度であることを思うと、「文明」といっても自然史の中ではほとんど瞬間的な出来事である。中生代にはもちろん自動車も火力発電所もなかったわけだ。

2017年8月11日金曜日

メモ: 対北朝鮮=軍事マターと決めているのはメディアではないか

実質が確かにスキャンダルであった森友騒動はともかく、「加計学園問題」に本当に問題である実質があったのか、未だによくわからない ー というより、加計学園騒動は反政権闘争であったとみれば理解できる。

またまた不審な状況になっている。それは現時点の北朝鮮ミサイル発射観測に関するメディア各社の報道姿勢である。

どのメディアも防衛省の対応方針、たとえば「北朝鮮がグアム周辺水域に着弾させるとして、それは日本の存立危機事態に該当するのか」とか「同時に4発発射するとして、その一部が日本に落下する場合、打ち落とせるか」とか、あれもこれも北朝鮮問題を軍事マターとしてとらえている。

そして政府もまた、言うまでもないが、同じ姿勢で、つまり北朝鮮の軍事挑発には軍事的対応で対処しようとしている(ように側からは見える)。

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軍事の前に、外交マターではないのかねえ?この分野の専門家でもないが。おかしな状況だ。

防衛大臣に意見を聴く前に、まずは外務大臣に対応の基本方針を確認するべきである。メディアは取材対象の選択を完全に間違えている。

防衛大臣の所掌マターに外交当局が口出しできない「雰囲気」があるなら、戦前期・日本と何も変わっていない。TV局は、有効な意見など出てくるはずがない軍事評論家にワイドショー出席を依頼するよりは、まずは本筋通りに外交評論家の意見を聴くべきだ。

そもそも日本国憲法は、原理的に読めば国際紛争を解決する手段として武力行使を明文で<放棄>しているのであって、何であれ外交によって解決することを明確に要請しているのだ。日本の政府は日本の憲法が要請している国務を誠実に履行する使命を負っている。安保法制は成立したが、憲法が改正されたわけではないのだ(=政府が閣議決定を変更したというだけで司法判断で正当性が確定したわけではない)。

北朝鮮のミサイルに対して「迎撃ミサイルで・・・」なんて言ってね、話しがありますが、あくまでも解釈で「自衛のために最小限なら持ってよし」とされているだけでござんしょう?憲法には『陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない』ってハッキリ書かれているんでござんすヨ。まあ、「絶対使わねえから」って誓うんなら、「これは戦力じゃあねえよ」って詭弁もあるんでしょうけど、迎撃ミサイルで撃ち落とすってんなら、こりゃあもうどうみたって「戦力」に決まってらあ。武力は使っちゃいけねえってサ、小学校でね憲法でそう決まってるって先生言ってましたぜ。そうじゃあないんですかい?土台おかしなことをやってるヨ。「こんなこと、本当に憲法でできるんですかい?」ってね、政府のお歴々は頭はいいはずだし、メディアのお方も学問をしていると思うんですけどね、なあぜ「専門家」に聞いてみねえのか、頭の悪いアッシにゃサッパリ分かりやせん。ミサイルはねえだろうってサ、おれっちには落とすなヨってね、外交に一生懸命になるってえのが義務ってやつじゃないんですかい?

違憲の疑いがある(というより、法学界では明らかな違憲であると判断する学者が多数派である)安保法制によって軍事的対応をとる場合、違憲訴訟が続出することになりますぜ。マスメディアもいまは憲法より軍事だと言わんばかりに片棒をかついでいる。支離滅裂である。このバイアスは意図的なのか?それとも編集部、デスクのメンタルは大丈夫か?

2017年8月10日木曜日

メモ: 社会的役割と微罪の関連性

「微罪」というのは、例えばスピード違反やシートベルト装着義務違反、あるいは最近の時代であれば組織内部における(自覚のない程度の)パワハラ、セクハラ、アカハラ等の加害者経験も該当するだろうが、要するに規則上罰則対象になっている細かな違反行為を総称するものである(と本稿ではしておこう)。これが万引きや痴漢にまで至ると、「微罪」という範疇には含まれず、言葉のイメージ通りの「犯罪」ということになるだろうが、罰則の軽重から順序づければやはり「重罪」ではなく「微罪」ということになるのかもしれない。

「微罪」とはいえ、責任ある地位にある人にとっては、致命的なウィークポイントでもあるのが、現代の先進国の特徴である。なぜなら爛熟したマスメディアによって「微罪歴」を公表され、社会的な物議になることによって、その当事者は社会的地位を失い、将来責任ある地位につく可能性も喪失する可能性が高い、というのが特に近年目につくようになった現象であるからだ。一部の人は、成功した人物に対して「ある境遇の」人たちが共有する嫉妬であると、言い切るのも特に最近になって増えているようだ。

やはり「格差拡大社会」の負の側面が顕在化しつつある、ということなのか。

政治家(の事務所)であれば(過失による、もしくは監査の不十分性による?)政治献金未記載、株式会社取締役であれば泥酔暴行やアダルトビデオ購入歴などは上で言うところの「微罪」の典型例だろう。少なくともこれらが「重罪」であるとはどうしても(小生には)思われない。

***

これも以前の投稿でつかった記憶があるのだが、江戸幕府6代将軍である徳川家宣が家臣・新井白石から勘定奉行・萩原近江守重秀罷免の願いを数度にわたってきくもののその都度とりあげることはなかった。『才ある者は徳が薄く、徳ある者は才に乏しい。両方兼ね備えた者は誠に得がたいものである』と。確かに荻原重秀は世評が極めて悪く、その何割かは事実だったのであろうが、財政運営における重秀の技量は実績の示すところであり余人をもって代えがたい。ゆえに、もう少し待て、というのが将軍・家宣の判断だったという。

現代日本なら、瓦版が重秀汚職の非難を繰り広げ奉行辞任を強要していたであろう。

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内閣にせよ、官庁、民間企業、はたまた一般の個人商店、家庭に至るまで、非常に長い期間にわたって問題なく運営するには相当の技量、覚悟と修練の裏付けが必要だ。

組織の重要ポストにふさわしい力量は、その職務から決まってくるものであり、円満な家庭をつくり子弟を育て上げるにはまた独立した才徳が要る。

何十年の「実績」の積み重ねは、それ自体としては事実であり、あった事実をなかったとすることはできない。

何が新たに評価材料として付け加わるとしても、プラスとマイナスをあらいざらい汲み取って人をみる(将軍はいないわけだから)国民の度量をメディア企業は損なってはならない。バイアスを意図的に混入させてはならない。反対尋問にたえる準備はせねばならないし、また必要に応じて尋問の機会を設けるべきだ(「日本報道検証機構」はあるがこの機構のパフォーマンスを評価できるほどの知見はもっていない)。小生はそう思うネエ・・・。やはりジャスティスやフェアネスが社会には大事である。

まあ、特に日本を話題にすれば、この二、三年の「安倍政権」の傲慢も酷かったけれど、ネ。

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微罪を攻めて社会的地位を失わせる行為は、現代先進国で開発されたソフト・テロリズムの兵器と言っても言い過ぎではないような気がしている。

もしも政治的党派感情から特定の会社・結社が敵対者を筆を用いて攻撃するとすれば、まさにソフト・テロという言葉が当てはまるだろう。

創造的かつ生産的な社会の維持にとってこのような人的資源の浪費はマイナスであるとしか思えない。

しかしながら、「表現の自由」を考慮すれば、このような攻撃的報道も違法ではない。これまた社会の健全性の証でもある。しかし、あらゆる意見に対して公平な機会が提供されていなければならない。これも重要な命題だ。

大企業によるメディア市場の寡占、寡占企業による結託、アウトサイダー排除等々の弊害を防止する必要があるのは言うまでもない。

要するに、特定の大規模メディア企業の影響力は、その報道姿勢によらず、一定レベルを越えるべきではないということだ。これも経済学上の一般的要請の一例であり、行政上の課題になりうる。

今日の投稿で述べたことと、インターネットが普及した状況の下ではどのメディア企業も<党派的>にならざるを得ないと議論した先日の投稿と、どう関連づけるか、それはまた別の機会に。


2017年8月8日火曜日

メモ:公職の選抜方式について

先日の投稿でも政治家や官僚などの所謂「公職」に就く人物の選抜方式をとりあげている。政治家は選挙で選ばれ、官僚は筆記試験を受けて選抜されるのだが、選挙と試験という方式の違い自体には何の倫理的価値も含まれていない。選ぶ人材と選抜の効率性に基づいた方式の選択でしかない。そんなことを述べた。

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朝の連続テレビ小説『ひよっこ』の視聴率がこのところ上がっているそうだ。拙宅でもカミさんと二人で毎朝視ているのだが、ちょうど失踪した父親が記憶喪失の状態で見つかり、今後の進行が期待される段階にきている。

見つかった父親は、ちょうど小生の亡くなった父とも同世代と思われ、思わず見入ってしまうのだが、ともすると『あれだねえ、あの世代は少年から青年にかけては軍事教練、勤労奉仕、あげくに軍隊に召集されて最前線で生死の境をくぐり、戦争が終わると今度は仕事の最前線で無際限に働けと・・・忙しいまま年をとり、年をとったら介護が大変、介護費用がもったいない。若い者が気の毒だ。いつまで生きるんだと言われているかのようで、ホント、報われないねえ・・・あわれだよ』。そんなつぶやきも口から出てきたりする。

***

終わってチャンネルを切り替える ー 小生、まだ仕事は続けているが、「隠居」待遇なので業務上の義務からはかなり解放されている。だからこんな毎日を続けられている。

すると山梨市長が職員の不正採用の疑惑で逮捕されたとの報道だ。

『役所の原稿を読むことに徹します』といった風の抱負をのべた安倍・再々改造内閣の某新大臣のほうがまだましであった。

それにしても所謂「政治家」のレベルダウンが甚だしい。

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そもそもある一日に有権者が投票をして、より多く票を集めたほうの立候補者を議員なり、知事なり、市長に採用するという現行の方式。実質的に適切な人材を選抜する方式でありうるのだろうか、というより現にそうなっているのだろうか。単なる人気投票ではなくそれが適切であることは論理的に証明できるのだろうか。証明できるなら、どんな証明になるのだろうか・・・?もちろんこれらは反語的疑問文である。外ヅラがいいとか、内面がいいとかがあるが、人柄もよく知らずに投票をして、その票数で決めるなど、クジで決めるのとどこが違うのだろう、と。小生ずっと若い頃からこんな反民主的な思いをもってきた。が、最近はこの思いに自信も加わってきたのだ、な。

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大学でよくやるように、政治課題に関するレポートを書かせ(もちろんゴーストライターがいるかもしれないが、それは想定上のことだ)、レポートの採点をするのと併せ、そのレポートを踏まえたプレゼンを公開の場でコンペティション方式で開催し、専門家と一般有権者から構成される審査委員による評価に基づいて第1位候補者、第2位候補者を提示する。その候補者に対して有権者が最終的に投票するーこの最終段階の投票は省いてもよい。小生なら、市長や知事はこうするねえ。ま、いま職にある多くの首長はこんな風な方式であったとしてもやはり第1位候補者に選出されると思う。

普通選挙よりは筆記試験の方が知識・教養のある人材は選抜できる理屈である。頭脳とコミュニケーション力を求めるなら、選挙より公開プレゼンが最良である。プレゼン終了後は審査員が質問する。フロアで観ている一般有権者の質問も幾つかは応答する。実際にやってみればすぐ分かる。驚くほどよく力量を判別できる。もしリーダーシップや協働への適性を見るなら特定課題に関するグループ討論をさせてみるのが一番だ。これらを視聴する一般有権者は誰がもっとも「公職」にふさわしいか容易に判断できるはずだ。

***

普通選挙は民主的だが、民主的であるがゆえに縁故や地縁・人縁に影響される。人材選抜の精度と民主性、更には経済性(=低コスト)を同時に満たすには、選抜方式を選抜目的と整合させなければならない。これは学問的知見が活用できる領域である。

専門家は、こんな時に活用するべきだ。

いずれにせよ、封建的・身分制的社会から現代社会に至るまでの理想であった「普通選挙」は、もう一度、その役割と位置付けの再検証が必要になってきたのが21世紀という時代だと思われる。

2017年8月6日日曜日

科学・芸術と政治の埋められないギャップ

最近は多様な分野で仕事をしている人がマスメディアに登場し、自らの信条や哲学、政見を語ることが増えている。

政治評論家ばかりではなく、社会の出来事について科学者や芸術家のものの見方を視聴することは、確かに清涼感をもたらすもので、それが悪いというつもりは全然ない。

しかし、話題が政治になると学者や芸術家の発想の仕方と話題の性質とがまったく異質で、かみあっていないと感じることが非常に多い。なにも政治には素人だからというのではなく、切る刀と切られる肉がまったく合っていない、そんな感覚なのだな。

***

学者にとって非常に重要なことは、細部における違いに注意することであって、そんな細かな違いを徹底的に考えることが新しい考え方や理解の仕方、新たな概念につながることが普通にある。細かな違いを発見すること自体が一本の論文になることも多い。大局に当てはまっている基本的な大枠は、大体は共通の理解として得られていて ー もちろん、そんな大枠がひっくり返ることも何百年に一度はあり、パラダイム転換と呼ばれている ー そんな基本的な観点を検証しても、まずは面白い結果は出てこないのだ。というか、巨大なパライダイム転換の始まりもまた、やはり理論と事実との細かく、小さな不一致が動機になることが多いのは、ケプラーによる楕円軌道の着想やアインシュタインによる特殊相対性理論の例を引くまでもなく、科学者であれば誰でも知っていることだと思う。だからこそ、多くの科学者は細部に執着する。それが第一歩であり、日常的な習慣になっているはずだ。

芸術家もそうではないのかな、と想像している。ささやかな、細やかな、ともすれば見逃しやすい事象に愛情を注いで見つめる姿勢から美の発見に至るものではないだろうか。大きなもの、普通にあるもの、頻繁にあるものは、これまでに何度も作品化され、テーマとしては陳腐で月並みなものになってしまっていると思う。

作家や哲学者、更には伝統芸能や医師、職人さんたちを含め、一般に高度に文化的知性的な活動に従事する人たちは、社会の出来事を語る際にも一人一人の人間の思いに目を向けることが多いのは、自分の仕事と取り組むときの精神がそこに現れているからだと思う。

***

しかし、「政治」を語るとき、そういう細部、つまり少数例であったり、可能性であったり、ディーテイルであるような側面に執着する発想はまったく噛み合わないのではないかと。そう思ったりもするのだ。

そもそも「民主主義」を支える土台ともいえる「選挙」は、これ自体が100パーセント統計的な方式であり、一人一人に着目するというよりは社会全体の傾向を大雑把にとらえるのが目的だ。というより、民主主義という概念には最初から(国民を一個の政治的意思決定主体とみなせば)「国民」の大勢を統計的に把握しようとする意識が核心として含まれている。

まあ、上のような視点に立てば、「待機児童問題」や「いじめ問題」がいつまで経っても解決できないでいるのは、行政が民主的に進められていない証拠とも言える。が、解決できずにいるのは、予算制約など供給側の事情にもよる。

事情はいろいろある。が、ともかく正解があるのなら「政治」は要らない。行政機関が専門家に依頼すれば正解をみつけてくれる理屈だ。正解を探していては解決できず、解決に長い時間をかけていては、多数の人が困る、そんな場合に「政治」が必要になる。そうではないか。一口にいえば「政治」は全く科学的ではない。問題が政治的であるとは、(科学が利用される場がまったくないというわけではないにせよ)科学によっては結論は出ない問題であると言うこととほぼ同意義である。そうではないか。

しかし科学的でないというなら、史上初めての"Data-Driven-Management-System"の成功例といえるQC(=品質質理)のコアである「PDCAサイクル」と「重点指向」。まずは重点課題を選択し、ターゲットを定めて、解決への第1歩を実行せよというQC哲学も決して科学的とは言えないだろう。脚気患者が多くて困るなら、海軍がやったように「イギリス海軍では脚気患者がいないので、同じものを食することにしよう」というのが、正解ではないまでも有効な対応であったわけで、これを森鴎外のように『脚気の原因が不明であるのに食事で解決しようというのは科学的でない』と言っていては、解決には近づけなかったのだ。「政治」をマネジメントとみれば、「それは科学ではない」というのはそういう意味だ。

***

小生が予測する未来の政治とはこんなものだ。「理想」ではなく、「夢」でもなく、こちらの方が選ばれる可能性が高いのではないかという単なる「予想」だ。

社会問題を政治的に解決するときは、関連するビッグデータをAI(=人工知能)に検証させて、ベスト・レコメンデーションを提案させる、その提案について人間が議論し、追加的条件を入力し、AIを学習させてレベルアップする、こんな方式が未来の政治システムになっていくのだと思っていて、そうなっていけば「政治の統計化」は目に見える形で進んでいくに違いない。これまた現れるべき技術革新ではないかと思う。

現代という時代に「面壁十年」や「即身成仏」を敢行する宗教家はもう滅多におるまい。巫女が託宣を下して政治を行なっている国はもう聞くことがない。時代が進歩したからだと言うのが正しいものの見方だ。あと百年もすれば、国会議員などのプロの政治家は職業としては二流・三流になっているかもしれず(今でもそうかもしれないが、これはまた別途)、もしそうなれば人類社会がそれだけ進歩したという証である。

が、今はまだそこまでは行っていない。なので、いずれにせよと言ってもいいが、政治的な解決が求められている時に「一人一人の気持ちに寄り添って・・・」という視線は結局は問題の性質と噛み合わないのであって、「普通の人は・・・」という冷淡な視線で問題を考えるのが実は本筋だろうと。どうしてもそう思うのだ、な。

「赤ひげ」のような人間的情愛も大事だ。しかし、高度医療を可能にする医療設備とそれを広く利用可能とする社会制度の設計が現実にはもっと大事である。どこかで何かを早く決めなければならないとすれば、QCのようにデータ・ドリブンで決めるしかないだろう、というのが本日の要点である。


***

むしろ政治問題の解決を考える際にもっとも注意しなくてはならないのは、与えられた問題に対して<正解>を追求することではなく(正解などそもそもないのが通常である)、中でも正解だと思われるその解決策が生み出していく間接的影響(=戦略的効果)をあらかじめ、予測できる限り予測しておくことである。これは、何も対ソ戦略としてはベストの戦略と思われた満州事変が、結局のところ日中戦争への端緒となり、対米戦争を選択させ、国家崩壊につながっていったという、この歴史的事実を思い出すまでもないことだ。が、この面でも<政治的人工知能>のレベルアップによって人類の知的状況はずいぶん改善されるだろう。


2017年8月2日水曜日

国の問題・学校設置の問題: マスメディアによる「社会の消費」

思いつくことは幾つかあるが、どれも細かく、下らない。わざわざメモするまでもない。
と思っていると、世間の話はいつの間にか明日の内閣改造だ。

それにしてもあれだねえ。

いま最も客観的な意味で心配なのは、北朝鮮のミサイル開発の進捗度のはずだ。

アメリカは決して北朝鮮の敵ではないと言い始め、ひょっとすると制裁一点張りでは効果がないとみて、協議の場につく意思があるのかもしれないが、協議すればすればで今度は制裁とは真逆の「経済支援」を求めるのがまず確実だろう。そうなれば日本もどんなに嫌だろうとつきあわざるを得ないだろう。いやならまたミサイル開発・核開発を再開すればいい・・・失うことを恐れる、現にそのリスクがある先進国に対してこれほど効果的な戦術はない。

どうなっていくのだろう・・・日本の公益を考えれば、国際環境と安全保障がいまほど難しく問題化している時代はない。放置しておくと、いずれ経済面にも影響は出るだろう。いや、将来への投資という面ではもう出ている可能性はあるが。

リスクは一定限界を超えてはじめて社会レベルで共有されるものだ。が、一般の人が意識しないといっても、ないということではない。

★ ★ ★

ところが・・・

先日、北朝鮮が発射したミサイルの仰角が大きく、そのため奥尻島付近に落下したという報道を(例によって)ワイドショーがやっているのを視ていると、某メインキャスターが『なるほどねえ・・・そのように計算したんだ、距離が出ないようにネ』と、まるで野球の解説でも聴いているかのように感心することしきりの様子だった。

悲しかった。唖然を通り越して、絶句の念を禁じえずでありました。

「許せません!これほどの暴挙を何度見過ごせばいいのでしょうか!」くらいのことは言えないものだろうかネエ。それとも、北朝鮮はああいう国なんですから、と。そういうことだろうか。

森友学園と加計学園騒動には、確固たる証拠がないにもかかわらず、あれほどまで食い下がり、敢然として、政府という公権力を批判することができたのだ。疑惑という一点であそこまで批判を繰りかえし、もはや倒閣運動であるとも言える報道をしておきながら、それと同時に単なる疑惑ではなく、日本の公益を現に脅かしている「暴挙」を目前に見て、それでも「外務省は抗議をしました」と。前者に比べて、実に冷戦沈着、泰然自若としているのだな。

しかし、マスメディアがこれじゃあ、冷静を通り越して、足元を見られますぜ。北朝鮮が怖いんじゃないのか、と。冷静なら、徹頭徹尾、国内の区々たる不祥事にも冷静でいるべきだ。

★ ★ ★

エールフランス機がミサイル着水直前の時刻に同地点を通過していたという報道は、「いま考えると結構危なかったよな」と、まあこんな話しで終わるわけだが、マスメディアがこうなっちゃったらダメなんじゃないの?たかが学校一つ、学部一つの不祥事であれだけ怒れるなら、もっと怒れよ、話はミサイルだぜ、日本漁船にだって危険は及ぶんだヨ、生命に関わる話なんだゾ、と。小生の友人には幸いマスコミ勤務の人はいないが、もしいればこんな嫌味を言うと思う。

野球の解説はあったほうがいい。エラーや誤審を指摘してほしい。ゲームが面白くなるからだ。しかし、日本社会の現実はゲームではない。面白く伝える必要はないのだ。

まして、ある社はリベラル派を、ある他の社は右翼の応援団になってほしいと、そんな党派的報道を誰も頼んでないだろう。それぞれ会社の都合で自らの役回りを自らに振っているだけではないか。

面白くするために、誰かを、何かを、どこかを原材料としてダシに使っているなら「社会」そのものを消費していることになる。食料を消費すれば食料はなくなる。サービスを消費すれば、サービス生産で利用した資源はなくなる。社会を消費すれば、社会で共有される資源がなくなるのだ。なくなるその共有資源には、社会の相互信頼やマナーや落ち着き、物事の軽重、健全な常識といった日本人の文化全体が含まれるのだ。

井戸端会議も役に立つときと、地域社会の害になる時がある。それと同じだ。関東大震災時の朝鮮人虐殺事件にまで拡大した「疑惑のデマ」の怖さを忘れるべきではない。表現の自由よりは生命の尊厳を優先するべきであるし、表現の自由が大切であれば、それが真理であるか、社会規範に適っているか、備えるべき表現上の品位を有しているかといった価値判断も同じく大事にするべきだ。いくつかの私企業の経営が安泰であるかどうかは、これらの社会的価値に比べればどうでもよいことである。




2017年7月25日火曜日

新聞: 社会の公器たりえず、元の私企業として存続をはかるのが自然か

極右から右派までをカバーする産経新聞、極左(→赤旗の購読者層だろう)とまでは言えないが左翼の代表的な拠点である朝日新聞と。その中間に読売、毎日、日経と、最近は目立って新聞各社の政治的ポジションが明瞭に表面化するようになっている。

それに伴って、新聞各社と安倍政権との親密度にも違いがハッキリと伝わってくるようになり、その周辺に集合する同志(?)集団がネット上で互いにぶつけあうネガティブ・キャンペーンももはや罵詈雑言としか言えない様相を呈してきた、というのが2017年の日本の政情、社会状況の特徴である。

端的に言えば、敵対的党派感情の高まりと社会的分断の進行。

このように激しい党派的感情は、2009年9月16日に発足した鳩山内閣から2012年12月16日の衆議院選大敗で終焉を迎えた民主党政権の時代においても、見られなかったように記憶している。

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そもそもインターネットの台頭の中で新聞社(及び放送局)の情報独占は崩壊し、新聞社が大衆啓蒙的・中立的情報メディアであろうとするビジネスモデルはもはや持続不可能になっている。この点は十数年も前から多くの人に指摘されているところで、いよいよ日本でもそんなリアルな潮流の変化が目に見えるようになったか、と。そうみるのが自然だろうと思う。それが善いか悪いかという、そんな価値判断の対象ではなく、そうなるのは何故かという分析対象であるということである。

亡くなった父は、朝日新聞の記事を毎朝読んではこきおろすのを趣味としていたが、「もうこれはダメだ」と言って購読を止めることは一度もしなかった。その頃、情報取得で頼りになるのはTVがあるとはいえ何と言っても毎日朝夕の新聞であったし、新聞を読むことが真っ当な社会人であるライフスタイルでもあったのだ。通勤電車の中で日本経済新聞を広げて読んでいる人がいれば、その人は背広にネクタイをしており、その多くは日本橋や銀座、霞が関辺りで降りて行ったものである。

とはいえ、新聞社はもともと私企業である以上は、利益を上げる必要があり、読者は顧客である。である以上、顧客満足度を高めることが求められるが(でなければ、代金を払ってまで買ってもらえない)、情報はインターネットからいくらでも入手できる状況の下では、新聞から得られる顧客満足は単なる情報提供によって形成されるのではなく、顧客の志向に合致した味付けが新聞社の提供できる付加価値となる。その味付けとは一定の観点に基づいた見方なり解釈であり、原理的には野球の解説や天気予報の解説とあまり変わるところはない。新聞社が述べる論調に対して志向を同じくするファンが集い共感し合うのであり、その様子は好きな評論家が語る多事争論をきいて溜飲をさげスッキリした気持ちになるのと本質は同じである。こんな「納得感」こそいま新聞社が読者に提供できる付加価値の中身になっていると思うのだ、な。

新聞の紙面が党派的になるのは時代の流れであり、ニュートラルなジャーナリズムというのは存在できないのが21世紀という時代であると言ってもよいだろう。新聞の個性をわける党派性は、今後ますますハッキリとしてくるであろう。というより、ハッキリさせるほうが読者が喜ぶので、そうせざるを得ない社会状況に新聞社は置かれてしまっている。

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こんな時代の潮流を悪いとか、情けないと評価するのは適切ではない。理解するしかないのだ。そう、理解するしかなく、また分かってくると思うのだが、ただ一つ、新聞はもはや「社会の公器」ではなく、<社会主義者の|リベラル派の|中道左派の|中道右派の|極右集団の>主張。その意味では、「メディア」と呼ぶよりは「パンフレット」と言うべき出版物になってきているのが21世紀の新聞である。元々創立当初から各社は社風として個性をもっていたのだが、こうやって原点の理念に戻り、新聞社は21世紀にも私企業として存続するであろう。批判ではない。予想なのである。

ずっと昔、1934年10月に戦前期の陸軍省は『国防の本義と其の強化の提唱』というパンフレットを発表した。会社も組織もどこも「主張」というものをもっており、俗に「陸パン」と呼ばれるこの印刷物が、その後10年余の軍国主義日本の魁(サキガケ)となったことは忘れるべきではない。パンフレットは、意見の表明であるから、もちろんその自由は保証されなければならない。しかしながら、データや事実の断片を素材に編集された内容全体は、あたかも客観的解説であるかのような外観を呈している。未来への方向を知らせているような文面になっている。この点は、「陸パン」も現代の新聞も同様だろうと。そう思うようになってきた。

とすれば、その点を弁えて読めばよいわけであり、新聞社の購読者獲得競争の消長がそのまま社会全体の世論の在りどころを伝えると言う意味では、普通の雑誌市場に近い競争市場にいよいよなってきた。それはそれで進化していると見ているのだ。これもインターネットの登場と普及と高速化がもたらした社会の変化の一端である。

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進化それ自体は良いに決まっている。心配なのは次の点だ。

公器、というより特定の政治的立場にたった組織として自社の主張を展開し、新聞社が互いに競争をするのは、必ずプラスの価値をもたらすと思う。しかし、競争が過当競争になり情報の品質向上(高コスト・ハイレベル知的側面)より、むしろ面白さ追求(低コスト・エンターテインメント的側面)に力が注がれてしまえば、社会進歩の動力にはなりえない根拠なき敵対的党派感情(負の熱狂=Negative Fanaticism)を日本社会の中にばらまくだけの結果になるやもしれず、その場合のマイナス効果は計り知れない。

さて、こうなってくるとダ・・・・・こんな時代状況においては、新聞の販売システムもいずれ再構築せざるを得なくなるだろう。1社の新聞のみをずっと購読しようとする強固な顧客は数が限られてくると思うからだ ー 実際、日本社会で最多数であるのは「無党派」集団であるし、無党派集団に対して党派的記事を掲載するのはマズイ戦略であろう。かといって、無党派集団を販売ターゲットにしようとすれば、政治色は脱色して身の回り中心の小新聞にリニューアルしなければなるまい。これはこれで、競争の激しい市場である。小生宅も仕事から引退して日経記事を教材に使うことがなくなれば、そろそろいいかな、と思っている。また、新聞社の収益源も改革を余儀なくされるだろう。党派性とCM媒体としての適性は両立し難いからだ。どうやら今後2、30年のうちにはどの新聞社も大規模な経営改革を迫られると思われるのだが、このテーマはまた別の機会にとっておきたい。


2017年7月22日土曜日

上西議員的間違いの本質は?

上西小百合・衆議院議員がツイッターで炎上している件は、騒がしい今年の世間にまた一つ話題を提供した形になっているのだが、中でも(大げさに言えば)哲学的関心をも集めているのが、熱狂的サッカーファンにあてた次のメッセージだ。

サッカーの応援しているだけのくせに、なんかやった気になってるのムカつく。他人に自分の人生乗っけてんじゃねえよ。

このツイートに対してサッカー選手の立場から次のコメントがつけられたのは、上の言葉が予想以上のインパクトをもったからだろう。

J1・FC東京の石川直宏選手も自身のTwitterで、「自分の想いだけでなく、人生乗っけてくれる皆の想いを胸にピッチで戦える事がこの上なく幸せだと感じる選手がいる」と、サポーターや選手の心情に対する理解を求めた。その上で、「そんな雰囲気も是非味スタで感じて欲しいな」と実際の試合を観戦に来るよう願った。

× × × 

少し話は変わるが、昨晩、同僚のT准教授と寿司を食べ、その後近くにあるおでん屋にいって、4時間ほどを過ごして帰った。

話は、村上春樹から葉室麟が道新に連載している新作『影ぞ恋しき』へ進み、そして雨宮蔵人シリーズの第1作『いのちなりけり』の話となり、そうなると舞台は肥前佐賀藩になる以上、当然のことながら山本常朝の『葉隠』になったのは自然な流れである。

その『葉隠』は小生の非常な愛読書で、好きになったきっかけは(これも月並みだが)三島由紀夫の『葉隠入門』をずっと昔に読んだことだった。

記憶している下りは幾つかあるのだが、上西議員の考え方が根本的に「おかしい」、というか「非日本的」だと感じたのは、次の一節も手伝っているのかもしれない。ちょっと引用しておこう。
エロース(愛)とアガペー(神の愛)を峻別しないところの恋愛観念は、幕末には「恋闕(レンケツ)の情」という名で呼ばれて、天皇崇拝の感情的基盤をなした。いまや、戦前的天皇制は崩壊したが、日本人の精神構造の中にある恋愛観念は、かならずしも崩壊しているとはいえない。それは、もっとも官能的な誠実さから発したものが、自分の命を捨ててもつくすべき理想に一直線につながるという確信である。(出所:新潮文庫『葉隠入門』、37頁)
サッカーと天皇制を横並びで比べるのは無茶ともいえるが、極端なこの二つのケースにも共通項が存在していることには、多くの人が賛同するのではないかと思うのだ、な。その共通している要素は歌舞伎『勧進帳』における九郎義経と武蔵坊弁慶の主従からも伝わってくるわけで、これは男女の愛ともどこか違っているかもしれず、女性には理解しがたい心情なのかもしれない。

要するに、好きな人、好きなチーム、好きな会社にとことん捧げるという非合理な心理であり、これを三島由紀夫は「恋愛感情」と言っているのだが、現代日本語で使われる「恋愛」とは実質的意味が違うかもしれない。つまり、外観としては『好きなチームをただ応援している』ように見えるのだろうが、つまりは好きで、好きで仕方がない。そこを実感として理解できないと、日本人というのが理解できんのじゃあないか。そう思うのだ、な。

葉隠はまた『人間一生誠にわずかの事なり。好いた事をして暮らすべきなり』と語り、また『一生忍んで思い死にする事こそ恋の本意なれ』と言っている。 忠義やら「信なくば立たず」とか、理屈っぽいことは書いていない。

上西議員の言うことは、個々人は主体的に最も意義(=私益でも公益でも文化的価値でもよい)のある生き方を計画し、それを実行するべきであるという個人主義的最適行動原理の観点から発したものかもしれず、もしそうならそれはそれでこの30年間非常に増えてきた考え方でもあるのだが、結局、非常に深いところにある日本人的心理に共感できてはいない。理解できていない。女性だからなのか、若いからなのか、分からない人だからなのか、それは分からない。が、少なくとも日本社会で政治家という仕事をやっていくには大事なことが欠けている。これだけは言えると感じた次第。

× × ×

実は、『葉隠入門』で太く赤線を引いている箇所がもう一つある。これも覚え書きとして引用しておこう。

「我人、生くる方が好きなり。多分すきな方に理が付くべし」、生きている人間にいつも理屈がつくのである。そして生きている人間は、自分が生きているということのために、何らかの理論を発明しなければならないのである。(95頁)

要するに、死ぬか生きるかになれば、ほとんどの人は生きたいと願う以上、生き延びる方策のほうが正しく、死に急ぐほうは間違いだということになる。だから生き延びたほうが正しかったという理論がつくられ、事後的に死んだ方は間違っていたということになってしまうのだ。それは仕方がないことだが、真の意味でいずれが正しいかということは別にある。

反・学問的言説としてこれ以上に鋭い哲学はない。また、ストレートにズシンとくる思想もない。

注:
小一時間ほどして読み返すと本稿には公人とはいえ「個人名」が登場している、それに「女性は何トカ」の表現も混じっているネエ・・・変えようもないが。何年か前に通知なく投稿を削除されたことがあった。本稿のドラフトは別に保存しておこう。いざという時に無くさずにすむ。






2017年7月20日木曜日

一言メモ: 議院内閣制の下の国会議員と官僚(=部下?)

またまた稲田防衛大臣の失態がメディアを賑わせている。「戦闘」という二文字が記載された日報を隠蔽するという決定を大臣が了承していたか、了承はしていなかったか、という点でまたまた報道と否定の水掛け論になっている。

ホント、今年はこういう「水かけ論」があまりにも多い。

「水掛け論」にならざるを得ない段階で一般読者・視聴者に報道してしまうメディア各社にも大いに責任があると思われるのだが、これは別として、いまは以下の一言メモ。

本ブログで最近まで立ってきた観点とは別の方向からみたときの「見え方」である。これまた「水掛け論」になるかも。

***

行政府を構成する中央官庁のトップの多くは国会議員である。特に、その人事を司る総理大臣は国会が指名する。つまり、日本の統治形態は議院内閣制であるわけで、これは小学校から勉強する基本である。

立法府が行政府をしきるという議院内閣制で国会議員が行政府に入ってくるのは、当然の人的配置であるわけだが、議員はあくまでも国民が選出し立法府に雇用された公務員である。他方、行政府に雇用され、実働部隊となっているのは官僚であるー自衛官も定義上は官僚である。官僚とは行政府を構成する人的資源である。

戦前期には行政府が立法府、司法府に優越し(だからこそ軍部が独走できた)、戦後は立法府が「国権の最高機関」となっているが、戦前も戦後も原理としては三権分立制をとってきた。

つまり行政府に雇用されている人材は、立法府に雇用されている議員(及び職員等)の部下ではない。民間企業にはオーナーがいるが、国会議員も官僚もオーナーではない。どちらも国の使用人である。

官僚は試験に合格し、議員は選挙で当選して採用される。選抜方式が違うが、この違いは主として必要とされる能力や職務への適性の違いを反映するものだ。上級官僚を選挙で選んでも良いし、一部の国会議員を試験や推薦で選んでも良い。実際、戦前期には勅選議員がいた。採用区分の違いは選抜コスト最小化・公益最大化の論理によるもので、それぞれの方式自体に尊重するべき価値はない − ある日の選挙でより多くの票を獲得するということと、ある日の筆記試験でより多くの得点を獲得することと、どちらがより多くの努力を必要とし、どちらがより尊重されるべきかという問題に正解はおそらくないだろうと思うのだ、な。

事務次官以下の官僚集団が閣僚の部下である形になっているのは、(主に)国会議員が中央官庁に「出向して」上司の椅子に座るからである。民間出身者が同じ椅子に座るのと本質は変わるところはない。

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仮にだが、大臣に「政治家としての傷」をつけないために、事務当局のトップが責任をとって辞めるという形がとられるとすれば、議院内閣制、というか維新以来の三権分立の原則に反するだろう。

国民の多数派を代表する国会が内閣を構成し、内閣が行政府を指導するのが原理ではあるが、「非合理な行為」(≒国民に説明できない理由による行為)によって議員が行政府の資源を毀損するとすれば、憲法が国会に与えている権利を超えていると言うべきだ。

問題は、行政府を指導するべき「内閣の失敗」をどの機関がいかにして認定するかだ。社会システムの失敗には、「市場の失敗」、「官僚の失敗(=行政府の失敗)」、「国会の失敗(=選出制度の失敗?)」などが挙げられ、それぞれ日本は経験済みであり、曲がりにも失敗の可能性が認知され、対応策がとられてきた。しかし「内閣の失敗」はまだ議論されたことがないのではないか。

専門分野ではないが、このような問題については法学者の議論の積み重ねが既にあるのだろう。あとで勉強することにして、いまはここにメモを書いておく次第。

2017年7月16日日曜日

断想: 変わらない要素が歴史の一貫性をつくる

どうやら北朝鮮を相手に軍事行動を展開するのは危険すぎて不可能であるようだ・・・、当たり前のこの事実をアメリカ・トランプ政権も理解して来たようである。だから「戦略的忍耐」があったのにネエと、今更気がついても遅いワイ! と言っても仕方がないか。

中国がつないでいた北朝鮮という名前の狂犬が、トランプと名乗るならず者と仲良くし始めた主人に疑いをもって、暴れまわったあげくに綱を噛みちぎり、みんなが困り果てていたところ、ロシアの狩人プーチンが力づくで犬を抑え付けて、ロシアの番犬にした。
 ま、こんなところではないかと。

思うのだが、一人の人間であっても若い頃の夢はなんども思い出すものだ。そういえば『初恋はまひるの月のようなものだ、見えなくてもそこにはあって、暗くなるとまた姿を現す』、何かこんな文句を聞いたことがある。夢も初恋も似ているところがあるのだろう。

一人の人間でもそうだから、民族や国となれば、一度もった夢は100年も、200年も見続けるだろう。

アメリカの夢は周知のように20世紀初頭以来、中国という巨大マーケットでビジネスを展開して大儲けすることだ。日本はその前に障壁を築こうとしたのでアメリカの敵になった。いまは、当の中国政府から自由思想が警戒され、いまだ見果てぬ夢のままである。

ロシアの夢は満州と朝鮮の獲得である。日露戦争は、それを心配する日本が早手回しに行った予防戦争であった。ロシアは日露戦争で夢が一度は途絶え、その後のロシア革命によりロマノフ王朝は倒れ、ソ連が引き継いだが、そのソ連もすでに消え去った。が、ロシアとして同じ夢をまだ持っていてもおかしくはないし、夢は夢であってこそ夢であるというなら、同じ夢を確実にいまももっているだろう。

第2次世界大戦で、国際情勢はまったく様相を変えたようにみえるが、結局同じところに戻りつつあるのかもしれない。

中国が分裂するとすれば、南と北に別れると思っていたが、まずは満州(=東北3省)とモンゴルを包む辺りで不穏な空気が醸成されてくる。こんな進展もあるかもしれないと思い始めた。

GDPなどという数字は余り使える指標ではないのだな、こういう場合は。核兵器を持っていても機能しないだろう、こういう場合は。

東北部が中国であるのは清王朝の遺産で、その清王朝がなくなったいま、元々中国であったことはないのが満州という土地だ。

歴史は繰り返すと言われるが、そのままの形で繰り返されることはない。人間は歴史に学ぶことができるので、予想できる結果を避けようとするからだ。しかし、ずっと同じ夢をもち、同じ動機を持ち続けるのも人間の常だ。同じような出来事がなんども反復されるのはそのためだ。そして、最後に決定的(=final, absorptive)な結果がもたらされて、歴史は大きな曲がり角を迎える。そう思っている。

2017年7月14日金曜日

消費税率10%引き上げのリスクは?

内閣府の景気動向指数研究会が最近の景気変動状況について審議結果を公表している。
議論いただいた結果、2014 年の状況は景気の山を設定する要件を満たさず、研究会 としては、第 15 循環の景気の谷以降、景気の山はつかなかったとの結論について全委員の意見が一致した。これを踏まえて、経済社会総合研究所長が、第 15 循環の景気の谷以降、景気の山は設定されない旨、発言した。 また、研究会の意見を踏まえ、内閣府として、景気動向指数の採用指標についても、 一致指数の採用指標の拡充等、引き続き検討していくこととした。

小生は、以前にも投稿した通り世界景気は、2014年後半以降2015年にかけて景気後退局面に入り、2016年第一四半期に底入れしたと見ている。これは2007年末にピークをつけ2008年にはリーマン危機を招いた大きな景気の山から7年を経た後の設備投資循環のピークだったと認識していることでもある。世界景気としては、だ。日本は世界景気と100パーセント共時的にシンクロして変動しているわけではない。が、それでも日本の景気は世界経済の動向に敏感に感応しやすい特性を持っているので、世界経済とは関係なくずっと長期的に景気拡大局面が続いているという判断は非現実的だと思う。


さて、安倍首相が消費税率10%引き上げ再延期を表明したのは2016年6月1日のことだ。そもそも消費税率は、まず2014年4月に5%から8%へ、2015年10月に8%から10%へ引き上げると『社会保障と税一体改革』(2012年2月17日閣議決定)の中で決められていた。2014年4月の引き上げは実施したが、2015年10年の第2段階引き上げ実施を延期していたわけである。予定では、2017年4月つまり本年4月から消費税率は8%から10%に引き上げられることになっていた。それを2019年10月まで引き上げ時期を再び2年半延期したのだった。

しかし、内閣府の景気判断は先月の景気動向指数研究会でも議論があったように、日本経済は延期を表明した2016年6月には景気拡大局面にあった。そう認識していたはずだ。にもかかわらず、必要な財政需要を措置するための税源を放棄する決定をしたのはロジックが通らない。

なるほど、昨年6月時点の日本経済は、景気判断が微妙だったとは思う。しかしながら、昨年の5月14日という時点で予測計算を投稿しているように、その時点に入手できる簡単な景気動向指数系列を用いるだけで、間もなく景気は底入れするという可能性が明瞭に見通せていたはずだ。 既に、2016年初から原油をのぞいた国際商品市況は回復への動きを示していたことも考慮すれば、2016年6月という時点で景気の先行きを心配して、2017年4月に予定されていた税率引き上げを延期するという結論を下すのはロジックが通らない。

昨年5月頃に景気分析をしていたはずの内閣府はどこをどう見ていたのか?よくわからないのだ、な。

確かに熊本地震の発生という天災要因はあったが、これはこれで対応可能であり、復興需要もまたあったわけだ。

もし本年4月に消費税率を8%から10%に引き上げていれば、引き上げ延期で実施が見送られた年金機能強化、子育て支援、介護支援も実施できたはずであり、先日の都議選でも大いにアピールできたはずだ。

もちろん、2パーセントの税率引き上げでも3月中の駆け込み需要、4月以降の反動減があったとは思う。

このトラウマが自民党にはあったのだろうが、1997年4月に実施された3%から5%への消費税率引き上げは、同年夏の「アジア危機」と重なってしまった不運があった。というより、1996年が相当の蓋然性をもって景気の山であったにもかかわらず、97年4月から税率引き上げを強行した経済財政当局に判断の無理があった。

今回の引き上げと97年の引き上げを同一に見るべきではない。

また2014年4月の5%から8%への引き上げは、景気がピークアウトする直前で実施されている(この点、政府の公式の景気判断とは違う)。1997年4月ほどではないが、時期の選択が完全に正解というわけではなかった ー というより、消費税率引き上げという戦略的な構造改革を景気循環という足元の状況に関連づけて議論するのは政治の堕落ではないかと小生は思っている。どうしても契約最終年にあたる今シーズンに優勝したくてエースに連投を強いたり猫の目打線で奇道をとる監督の場当たり戦術と相通じている。ま、とにかくも

羹に懲りて膾を吹く

消費税率引き上げにまつわるトラウマが自民党にはあるのだろう。


さて、消費税率10%引き上げだが、このまま行くと、2019年10月だそうである。しかし、小生は予測しているのだが、2014年第2四半期あたりに直近の景気の山があったとすると、次の中期循環の山は2021年前後にやってくることになる。

小生は東京五輪まで景気が続いてくれることを期待しているが、五輪後の景気崩壊をもひそかに恐れている。五輪がある2020年までは株価の変動に一喜一憂せずにもっておこうと思うのだが、2019年の後半にはそろそろ売っておいたほうがいいか。早手回しにそう思ったりもしている。株式市場は実体経済よりも先に変動するものだ。

なので、2019年10月から消費税率を引き上げたとして、引き上げ後それほどの時間がたたない内に株価が急落し、その後実体経済も落ちて行く。そんな経過をたどる可能性はかなりあるのではないか、と。それこそ1997年4月の引き上げ劇の再現になるのではないかと予想したりしている。

次の設備投資循環の後退局面は、中国経済も成熟化を深めているので、これは厳しいですぜ。深い谷になりますぜ。日本で経済政策を失敗したりすると、またまた政権交代があるかも。そんな風に考えたりもする。

ま、昨年6月の時点では「中国景気はいまだ着実とは言えないので、アジア危機再来の可能性を考えれば、消費税率引き上げ延期もやむをえない」と、そんなことを書いてはいたのだが。

長期計画は着実に実行しておくべきだった。安倍首相自らが約束したことでもなく、理にかなった戦略でもあったのだから、引き上げ後に多少の経済的波乱があっても直接の責任にはならなかった(はずだ)。今後、こんな風な後悔の念が高まるとすれば、ちょうど太平洋戦争開戦直前を思い起こすのと似て、再び『あの時、こうしていれば』の歴史的好例になるかもしれない。

2017年7月10日月曜日

メモ: 憲法改正まで何歩進んでいるのか?

以前の投稿ではこんなことを書いている。安保関連法案が成立した直後の頃だ。

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どちらにしても、戦後体制は大きな曲がり角をユックリと曲がろうとしている所だ。これからの進展についていま予測していることをリストアップしておく。

  1. 反対デモが報道されたが、通常、デモは反対のためにするもので、賛成デモはあまりしないものだ。放映された反対デモの背後には、相当数の賛成派、というより「理解」派、「同感」派、「いいんじゃない」派等々の国民が多数いると推察される。大体、全国の主要大学のどこで学生集会が開かれ、どこの大学で「安保法案反対全学スト」が議決されたのか。小生の大学では、立て看板はおろか、ビラもポスターも全く、一枚も目にしない。食堂で学生達が安保関係の話しで議論している様子もない。マスメディアもまたコア層がどこにあるかに気がつき、報道の姿勢を変えていくだろう。それも「急速に」である。
  2. 政権批判は来春あたりまで続くと思うが、それと同時に戦後の憲法学界の潮流について様々な企画がなされ、憲法学界だけではなく各分野から色々な意見・指摘が掲載される。そんな中で、誰か、いずれかの憲法学者が自己批判的な文章を発表するのではないかと思われる。それをきっかけにして、憲法学界の中の旧世代と新世代の間で論争が始まる。そして新世代の中から台頭する「新立憲主義」が世間の喝采をあびる。概ね4、5年位の間には新しい潮の流れが目に見えてくる。
  3. そんな新しい立憲主義の展開、浸透から第9条だけではなく、複数の条文を対象に憲法改正案が(名誉回復、というかリベンジの意味からも)学界から提案され、次に与野党が合意する臨時憲法調査会が設置され、その答申を元にして改憲が発議される。今から8年ないし10年くらいはかかるのではないか。残念ながら安倍現総理が憲法改正にまで至るのは無理だろう。無理をすれば必ず制度的欠陥が混じる。
  4. この改憲発議までの8年乃至10年の間には、必ず今回の安保法制について違憲訴訟があり、最高裁はいずれかの時点で違憲判決を出す。それによる混乱と新立憲主義の浸透から憲法改正への動きが多くの国民から支持される。

大体、こんな風な予測をたてているところだ。

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2015年9月19日投稿だから、投稿時点から2年程が経過したことになる。

昨日、近くの書店に寄ったので、このところ評価の高い篠田英朗『集団的自衛権の思想史−憲法九条と日米安保』を購入しようとしたところ、やはり地元の町の書店ではダメだ。売れる見込みがないのだろうか、置いてないのだな。今年度の吉野作造賞を受賞しているはずなのだが。

仕方がないので、上の本を大衆向けにしたと言われる『ほんとうの憲法:戦後日本憲法学批判』を買った。ちくま新書だから、すぐ読める。

上の投稿で書いた2年前の予想図では、現時点はどの段階に相当するのだろう。

日本の閉鎖的な(=ガラパゴス化した)憲法学界に対して学問的見地から適切な批判がされ始めたことはそうなのだろうというか、そうあるべきだと思うが、ただ憲法学界内部から溢れ出て来た自己批判というわけではない。ではあるが、思うに上の段階2の前半部分までは来たということなのか。

前の投稿では改憲発議まで8年乃至10年かかるだろうと予想している。2015年から数えているので、2023年乃至2025年になる。国民投票、(賛成多数の場合に)公布、施行までを考えれば遅くて2027年までに施行というところか。発議までを早めて5年程度に出来ないだろうか、と。そんなことも前稿では書いている。となると発議が2020年。施行が2022年頃。どうしても施行は東京五輪の後になる。そんな改憲予想図を描いていたわけである。

安倍現政権が願望しているのは(確か)2020年新憲法施行であるそうだ。

今はやっとせいぜいが段階2の前半の最初である。まだまだ前途遼遠だ。ほとんど不可能だろうと予想する。

おそらく北朝鮮問題が深刻化でもしない限り、発議まで8年乃至10年はかかるという最初の予想通りだと思う。そもそも発議にすら至らないかもしれない(それもまた客観情勢を考えれば非現実的だとは思っているが)。

2017年7月5日水曜日

自民惨敗が今後に投げかける本当の意味合いとは

ワイドショーなど町の噂では、都議選の自民惨敗によって安倍政権の終わりが始まるとか、政界再編成が進むとか、誰が都民ファーストの会に合流するかとか、色々な話になっている。これはこれで面白いのは事実だが、一つ大事な着眼点があるとすれば2012年12月から始まった第2次安倍内閣のレガシーは何であったか、いや「現状から推測するに何がレガシーになりそうか」という問いかけの方だろう。


とにかくこの20年以上、何かと言えば「改革」という単語が口にされており、「改革」を目指さない政党は政党にあらず、あるのは「リベラルな改革」と「保守改革」、この二つのみである情けない状況が続いている。

が、真の意味で国の形を変える改革をこの20年間に求めるとすれば、元首相・橋本龍太郎が基礎付けた行革のみである(と小生は思っている)。いわゆる「小泉改革」は、橋本行革で実現した中央省庁再編成と内閣主導の体制が可能にしたもので、いうなれば「橋本行革の残り香」のようなものである(と小生は思っている)― 安倍官邸の力はその残り香を更に煎じ詰めて、人事で苦くしたようなものじゃなかろうか。

いま小泉改革は「橋本行革の残り香」であるとたとえたが、それでも郵政改革は元首相・小泉純一郎が真に有していた問題意識を解決しようとしたものであった(のだろう)し、前代から引き継いだ課題であるにせよ「司法改革」もそうである。また、経財相・竹中平蔵が主導したものであったにせよ1990年代から引きずってきた「不良債権問題」を根本的に解消したことも政治的成果として今後ますます評価されると思う(と小生は思っている)。

本当の意味で「改革」を目指した内閣であれば政治的遺産が残るものなのだ。


先日の都議選における自民党惨敗をきっかけにして、今後始まるであろうことは第2次安倍政権のレガシーは何であるだろうか。この問いかけであろう。つまり、「安倍政権はなにを成し遂げた政権であったのか?」という総括を多くの専門家や素人が話すようになる。そして常識化する。通念が形成される。

そうなると、候補としては三つの成果があげられることは確実である。

  1. 特定秘密の保護に関する法律(2014年12月10日施行)
  2. 集団的自衛権容認の閣議決定と平和安全法制整備法等の安保関連法(2016年3月29日施行)
  3. テロ等準備罪の新設(2017年6月成立)

主たる成果はこの位ではないか。そして、この三つとも安倍政権が本来目指していた志であるようにみえ、確かに極右を基盤とする政権の個性がよく表れていると言える。

一方、経済政策のほうは、規制緩和や自由化が強調されているが、実は具体的な成果はほとんどないのが現実だ。電力自由化などはあるけれど・・・、医療や雇用、教育でのコア領域では目玉になるような、「これが自由化だ、創造的破壊だ」と言えるほどの成果はまだない(はずだ)。日銀が担当する金融政策は黒田総裁が就任直後からそれまでの白川前総裁の路線とは正反対の方向がとられ、いわゆる「アベノミクス」がスタートしたが、その後具体的に緩和・撤廃された規制は細々としたものであったのが現実ではないかと見ている。掛け声の大きさほどには、日本経済に新たなイノベーションは進んではおらず、むしろ日本の美点や匠の技を自画自賛するような風潮が高まっている(と小生は感じている)。つまり保守化している。

確かに、マクロ経済的にみて日本の雇用状況は劇的に改善され、株価も上昇したが、2012年12月以降の株価上昇は世界で進行した国際マクロ的な現象であり、現在の人手不足も多分に団塊の世代の退職、若年者人口の減少からもたらされている部分が大きい。この数年を振り返る時、改めて気がつくのはかつて続々と登場した「楽天」や「ソフトバンク」、「アスクル」、「ライブドア」等々といった荒々しくともエネルギーにみちた日本新興企業群の後続がさっぱりとだえている現状のほうだ。

あえて言えば、米国でヒラリー・クリントンが当選し、TPPが発効していれば大きなレガシーになっていただろうし、この点はアンラッキーというしかない。欧州(そして英国)と現在交渉中のEPAも最終合意に至れば(まだ未確定ながら)高く評価できる。更にまた、消費税率引き上げの三党合意(2012年6月)を覆して、約束を破ったことをどう評価するかがある。が、この点はなお微妙なところだろう。

要約すると、アベノミクスの旗印の下で既存の枠組みと対決しようとして、現実には決定的対立を避けて来た面が(今までのところ)目立つ。「岩盤規制」とはいうが、実は「規制は岩盤のようなのです」という言い訳として(これまでは)使ってきた。どうもそんな現実がそろそろわかってきた。そういう段階に来ている。もともとアベノミクスは三本目の矢が欠けていると言われて来たが、考えていたのはTPPの一本槍だったのか。「外圧」の他にはヤル気がなかったのではないか。そんな疑いが生じて来たのがいまの段階だ(と小生は思う)。

つまり、安全保障・軍事・治安領域においては過激なほどの政策方針変更を断行しているのに対して、経済・国民生活領域においては変更することに甚だしく臆病で冒険を避けている。それが現政権4年半の特徴だと言える ー その典型が理論的には必要で、確実に望ましいといえる消費税率10%引き上げ、世界的には微小とさえ言えるたった2パーセントの引き上げ(軽減税率対象の拡大も含め、それでもなお)の延期であった。

もちろん、これら全てが政治戦略であり、最も実現したかったことを先ず実現したと言えばそのとおりなのだろう。確かに安全保障は経済と暮らしより前に担保されるべきものではある。が、とはいえ、とってきた選択が本当に必要で、真に国民が望んでいたものと一致していたのかどうか、まだ理解は不十分だというのが(小生の)印象だ。


誰もが支持するような、国民のニーズに合致するような政策が現に展開されているのであれば、少々の不祥事は乗り越えられるものである。

要するに、大学における授業評価に似たような政権評価が、安倍政権に対して、これから多くの専門家によって語られるようになるだろう。あるべき状況に戻る、ということか。

その意味で、安倍政権というより「安倍一強」は確実に終わる。これから増えてくるこうした評価の眼差しに耐えるほどの政治的遺産を現政権は残しつつあるのだろうか?

恐いとすれば、この問いかけが一番恐いかもしれない。

政権の本当の敵がいるとすれば、前川前次官でもないし、都民ファーストの会でもない。まして消滅寸前の民進党ではない。本当に恐いのはこのような総括的な評価の視線だろう。



2017年7月4日火曜日

この先1年間は政治のノイズが拡大しそうだ

予想通り都議選では自民党が惨敗、公明党、共産党は良好、民進党は(予想を超えたとはいえ)消滅寸前という結果になった。

安倍首相の総裁選三選にも黄信号が灯る、かと思うと北朝鮮はまたミサイルを発射する。この先、来年にかけては政治的変動の季節になりそうである。

これは自然現象だが、北海道と熊本では地震があった。

ま、実に面白くなってきそうである。経済的には、ランダムな凹凸はあるにせよ上り基調でそれほど心配ではない。キーポイントは2019年10月まで延期された消費税率の10%引き上げだが、その前に総裁選がやってくる。今後1年間程度は純粋な意味での政治の季節になりそうである ー もちろん中国の不動産バブルの制御に当局が失敗するなどの異変がなければだが。

決定的なファクターは、「都民ファーストの会」が登場した点で、これによって何も極右勢力を基盤とする安倍内閣でなくとも、保守層は自分の意識にあった政権を選べるようになってきた、そんな変化がまだ兆しの段階ではあるが、民主党政権の崩壊以来初めて出てきたことだろう。

(参考)

長期的にはよい方向に向かっている気がするが、それにしても騒がしい。経済的には、緩慢上昇が通常のパターンである上昇局面が2016年前半から続いていて、その認識に変わりはない中(注:小生としては。公式の景気判断とは別)、政治的には想定外のノイズが次々に発生して、もう<ノイズ慣れ>してきたくらいだ。あまり使わない言葉だが<政治的ボラティリティ>を考えたいところだ。

何を予想するにせよ、ノイズは予想形成に織り込んではならない。政治の将来は、政治的なファンダメンタルズで決まる。つまりマスコミや失言ではなく、国民のニーズや政策で最終的には決まってくる。

しばらくは騒々しい政治鳥の鳴き声に平穏を破られそうな酉年である。

2017年7月2日日曜日

いざというとき、念のための覚え書き

ストレスの多い仕事はどこにでもある。やり切れないが、やり切れなければやりきれないほど、社会には必要とされていて、誰かがしなくてはならない。そんな仕事も結構ある。まして自分が志願してやり始めたからには、音を上げることもできない。逃げることができない。悪循環だ。

将来必要があれば、下の愚息に言ってあげたい言葉がある。メモしておけるうちにメモしておこう。

にっちもさっちも行かなくなったら、三つのことからやれ。
まず自分の手をみろ。見続けろ。それから目をつぶって拳を胸にあてて自分の鼓動に耳をすませろ。そして目をあけて鏡か窓か水があれば自分の顔をじっと見ろ。これが三つだ。何をやればいいか分かるさ。分かるまでは三つのことだけをやればいいよ。
正直、こんなことしか言ってあげられない自分を再発見するような日は来てほしくない。念のための覚え書きである。

そういえば、亡くなった父は『雲を見ろ』と言っていた。最初に聞いたのは何歳の時だったかもう忘れた。いずれにせよ幼年の頃だ。これもいい。確かに役立った。好きな雲が出来たのはそのお蔭だ。

2017年6月30日金曜日

『好機即ち危機、勝利即ち敗北の契機也』を地でいく政治家たち

よく下の愚息を相手に口にする好きな言葉は、『長所即ち短所なり、好機即ち危機なり、勝利即ち敗北の始まり也』、『強みを生かして弱みを直すのは不可能な理屈だ、強み即ち弱みゆえ』、大体この二つである。

首相の足元・細田派に属する稲田朋美議員。防衛大臣は要職だ。政調会長から防衛大臣というのは自民党のエリートコースだ。しかしながら、抜擢即ち転落の契機となるー思い起こせば、亡くなった小生の父もそんなエンジニア人生を送った、いやこれは関係のない話だ。

首相が宣言したような「細田派四天王」の一角どころか、いまや豊田真由子議員、下村博文議員とともに「細田派ダーティスト三人衆」というブラックホールに向けて落下中のように見受けられる。

世の中分からないものだ、というより"Such is Life"というべきだろう。

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もちろん政治の世界にのみこんな格言が当てはまるわけではない。

Appleが初代iPhoneを発表して丁度10年。あれから世界は変わり、当然Appleという会社も変わった。そして、変わったことが今日のアップルの実質的停滞につながっている(と見ている)。同じことはMicrosoftについても言える。が、Microsoftはクラウドに乗り遅れAppleより以前に既に停滞の兆候を示してきた。それが逆に良かった。GoogleのAndroidに侵食されてきたことが、従来のゲームを見限る動機になってきた。

次に勝つためには、まず負けなければならない。勝ち続けている間は、次にやってくる停滞の時期に備えなければならない。停滞がやってきて初めて次の新しい発展に向けて全力で準備することができる。進む道が一本道となり迷いが消え覚悟ができる。

もちろん一度の敗北でノックアウトされる人、ダメになる会社もある。この辺の自然淘汰で世の中進歩すると考えれば、小生も結構、予定調和説の支持者なのかもしれない。

2017年6月29日木曜日

一言メモ: 来年秋までの予想(その1)

来年秋までの将来予想:

まず①だけを先行的に。
安倍首相は自民党総裁選挙で三選されない。
ブログでそんなことは書けないが、賭けてもよい位の自信がある。敢えて今日の時点でメモにしておけば、これからが面白くなる。今後1年余は、第1次安倍内閣と概ね同じような推移を辿ると予想する。もっと前に政変があるかも・・・17年前の「加藤の乱」と似たような騒動があるかも。


これで 今月は投稿回数が半分の15日を超えた。それだけ世間が騒然として、書きたいことが多かったのだろう、と。まとめにはならないが。

2017年6月28日水曜日

メモ: 行政における政治家の役割(?)と内閣人事局

またまた稲田防衛省の失言が世を騒がせている・・・これで何度目なのかねえ?靖国神社には皆勤賞ものだそうだし。選挙ではお力をいただきたく自衛隊からもお願いします(この通りの言葉ではなかったかも、念のため)とは、まさかね。

まこと現政権の首相は女難の相があるのだろうか、ますます剣呑になってきている。一度お祓いでもしてもらった方がいいのじゃないか。他人事なら心配になる今日この頃であります。

***

政治主導とは何なのだろう?

教科書通りに考えてみようか。

簡単に言えば、法律を制定し、国の予算を決める国会が、行政府に優越するという単純な原則だ。まさに憲法で規定されている通りだ。もちろんこの理念は、陸海軍の意向に国全体が引き摺り回された反省にたっている。

武力をもった自衛隊を含め、どの官庁も行政府がそれ自体の意志をもって活動しようとしても、国会は立法府としていつでもその省庁設置法を撤廃して廃止することすらできる。行政府は国会の決めた法律に従わねばならず、国会は行政の要請を(不適切だと判断すれば)きく必要はない。

その国会は、すべて普通選挙によって選ばれる議員から構成される。それだけではなく、国会議員から首相が選出され、その首相が内閣を編成する。ここまでやれば、選挙とは無縁の官僚が暴走したくても、絶対にできない。そんな制度になっている。

戦前の帝国議会は、陸海軍の軍事予算を認める権限はあったが、大臣は現役の軍人であり、その活動は(元帥は天皇であるにせよ)ほぼ自ら決めることができた。戦前の制度と戦後日本の制度がここまで異なる以上、問題が発生するとすれば、違う問題になることは当たり前だ。同じ轍をふむ可能性は、法制上、ないと言うべきだろう。


法律(及び法律に基づくその他政令・省令・告示など)は、全ての国民に対して均しく適用される。しかし、国会は一部の集団から利益を奪い、別の集団に利益を配分することも可能だ。そんな制度を国会で定めればできるわけであり、こんなことまでできるのは、議員が普通選挙で選ばれるからだ。故に、たとえ公平でないと思われる改革が行われるとしても、国会がそれを決めるのであれば、そのような不公平は受け入れる。これが民主主義社会が自己変革するときの基本ロジックだ。政治とはこういうものを指す言葉である。

行政府は、国会の立法意志を実行するための実働部隊である。事後的な結果としては、行政府の公務員は常に与党の側の意志を実行する。だから社会の多数派の利益の側に立って行動する。個々の公務員は政治的意志を持ってはならない。国会議員を中心とする内閣の命令によって行動しなければならない。内閣に従っている限り、国会の意志を実行していることを意味し、個々の官僚はニュートラルであり、不偏不党であり、行政機関が政治的に活動することにはならない。

これは統治の論理として確かにトリッキーなところだ。

とはいえ、こう考えると政治家が政治家であるのは国会議員としてであり、内閣の一員として大臣の椅子に座っている時ではない。

まあ、教科書的にいえば、日本の国の形はこうなっている。

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文科省前次官が何度もいう『行政がゆがめられた』という非難の言葉は、多分、上のような筋道からだろう。

政治は国会の場において行われるべきものであって、内閣や一部官庁において政治的なことがらが行われていくべきではない。行政は無私であるべきなのだ・・・

ウ〜ム、昔はこういうことを語る先輩がいたような気がする。

もちろん、いまやっていることは極めて政治的なのであるが、もう役人は辞めたしね、というわけなのだろう。

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本当は、政治的色彩を持たざるを得ない案件は、行政府の裁量に委ねるのではなく、国会が最終判断に一枚噛んでおくことが必要なのだろう。政治的案件については、国会の承認が必要だと決めておけば、なんの問題もないわけだ。そもそも多数派が与党になっているのだから。与党の中の少数派のみが利益を誘導しようとしても、国会はそれを承認するはずはないのだから。

政治と行政は明確に線を引くべきだ、と。こういうことかもしれない。内閣は政治の執行部で、政治は国会という場で行う。これが戦後日本の国の形なのだろう。

上級官僚の人事は、内閣官房に人事局が設けられ、内閣が決定できることになった。それは縦割り官庁の弊害を避け、政治のスムーズな実行に必要だとされたからだ。しかし、官庁が政治の意図通りに行動しないのであれば、行動するように規則を密に定めればよい。進捗を報告させればよいだけの話だ。国会にはそれができる。

もしもマイナス面が大きいなら、内閣が人事統制を行う先験的ロジックはない。何しろ国会は内閣総理大臣も指名しているのだ。上級官僚の人事を了承したって奇妙でないだろう。行政府が人事原案を提出する必要はあるだろうが、国会が人事原案を検証し、承認する権利をもつほうが、ひょっとすると文字通りの「政治主導」になるとともに、むしろこの方が官僚の士気は上がるのかもしれない ― 両院で承認するのか、衆参のどちらか適当な院で承認するかの判断は別にあるだろうが。

こうしておけば、誰の利益にも奉仕しない無私であるべき官僚の活動は、すべて国権の最高機関である国会が制御、いや担保できることになる。これは、総理や大臣に頭を下げる官僚たちにも有難い仕組みだろうし、本来の筋でもあると感じるのだが。

ひょっとすると現在の内閣人事局は、完成途上で中途半端な仕組みであるのかもしれない。



2017年6月26日月曜日

実にみみっちいトラブルだったのが真相? 加計学園問題

文科省の前次官がインタビューに応じる機会が増えてきて、段々と(文科省からみて)何が問題のコアだったのか、その辺が不勉強の小生にも「理解」できてきた。ということは、これまでは問題の核心がサッパリ分からなかったというのが正直な所でもある。

要するに

  1. 文科省は規制緩和に反対している抵抗勢力ではないのだ。大学新設についてもそうだ。
  2. 獣医学部の新設は門前払いしてきた。それは獣医の需要見通しがないからだった。
  3. この現状で新設を認めるなら認めるのもいいが、なぜ1校なのか。京都産業大学も新設を希望していた。
  4. 1校だけと条件をつけるにしても、なぜその1校は総理と親しい人が経営している方なのか?不透明である。
  5. 規制緩和の名を借りて、官邸と親しい人が得をしているとみられても仕方がない。
筋が通っているではないか。これなら誰でもわかる理屈だ。そう思った。それならそうと、なぜそれを在職中に言わなかったか。大学新設の従来の理念を所管官庁としてなぜ正面から堂々と語らなかったのか。どうせ事務次官は長くて1年。すぐ辞めるのだから言えるでしょう、と。そんな疑問が残るにしても、だ。

***

獣医学部については、文部省告示により全ての新設を門前払いしてきた。その告示を撤廃させて、新設を自由化するのが、獣医学部の規制緩和としては本筋だった。そういう攻め方をしなかったのは内閣府の側のようであり、内閣府の方から『1校だけ認める』という結論にしたのだった。

前次官の話し、内閣府の説明を聴いていると、これまでは1校に限定した理由として日本獣医師会がうるさくて文科省が抵抗していたからという点が挙げられていたが、当の獣医師会は公式にそのような要望を出したことはないと言っているところを考慮すると(追記 6/27 そうそう、要望書は確かに出ていて、1校に限ると公的に明記せよと記されているのだが)、どうも内閣府の方から「政治的配慮を加えて」1校にした、と。どうやらそういうことであったようでもある。だとすると、内閣府は余計な「忖度」をしたというのが真相かもしれないのだなあ。

獣医学部新設は、従来の方針をくつがえして自由化します、と。そうすれば透明であったのだが、その路線は内閣府はとらず、1校だけの限定許可とした。だとすれば、獣医師会と関係の深い菅官房長官や麻生財務相に遠慮したのだろうか。そんな憶測もありうるのだな。

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まあ、とにかく2校新設にすればいいのを1校だけ認めますか。話はそんな実にみみっちい話であって、文字通り「お話にならない」。これが加計学園にまつわる大騒動の真相であったかもしれない。バカバカしいこと、限りなし。

何が岩盤規制に穴をあけるじゃ!!

***

考えてみれば、文科省はあれほど多数のロースクール新設を敢然と認めて、『今後は事前審査ではなく事後評価で高等教育行政を進めていきます』と大見えをきったのだ。あの時も弁護士需要の数字はあったが、大体、そんな見通しなど当たらないことは誰でも知っている。結論ありきで数字は作られるのが経験的事実だ。

実際、弁護士は過剰となり、ロースクールは当初の半数にまで減った。それでも自由化した文科省は社会からそれほど酷く非難されているわけではない。責任を追及されているわけではない。設置自由化は理念として正しい。多数の人はそう考えている証拠だ。

その文科省が獣医学部の1校や2校の新設で本気で抵抗するか??

まあ、告示を撤廃しないまま新設を認めるのは、確かに規制に穴をあけることでもあり、内閣府のお手柄ということになる。

分からないのは、需要見通しがないのに新設は認められないという文科省の言い分だ。確かに、ロースクールの時は「見通しなど当てにならない」と熟知してはいたが、数字はあった。今度はその見通しがなかった。

しかしながら、だ。需要見通しが本当になく、大学経営の見通しも立たないなら、なぜ私立大学を新設しようという人がいるのか?

変である。

仮に、獣医師需要増加の見通しがないとしても、大学新設には意味がある。新設を認めれば新たに参入した大学が、顧客(=入学希望者)を既存の大学から奪取せざるを得ない。その中で、競争メカニズムが働くはずだ。理屈でいえば、最も劣悪な教育をしている獣医学部が退出を余儀なくされ、優れた大学は残る。

どの産業分野でもそうだが、潜在的参入企業があることが、技術進歩と品質向上をもたらすことは経済理論だけではなく、経験から確認されてきた事実だ。

このように考えると、獣医学部新設に関する文科省の姿勢は、既存の獣医学部の利益を保護するだけで、獣医師教育の進歩を重視してこなかった。このような批判から免れることはできない。

***

この件で展開された内閣府と文科省との論争(=議事録に詳細に記録されているとのことだ、小生はそこまで調べたことはないが)でも主たる論点となった「規制が必要である挙証責任」は、やはり規制をしている当の官庁である文科省にあった。そう考えるのが筋であり、内閣府があえて告示撤廃を迫らなかったのか、内閣府が求めても文科省が規制にこだわったのか、そこは明らかではないが、新設容認の線で事実上決着した後も、なんら手を打たなかった文科省はやはり行政機関として支離滅裂であった、と。このくらいは言えそうである。

どちらにしても、まあ、たとえば「司法改革」のような「改革」にはまったく当たらず、話の内容は実に細かい、どうでもいいような話し。それが「加計学園騒動」の実態であった。文科省前次官の話を聞いていて感じたことだ。

もし(万が一)この実態に民進党など野党は本当は気が付いていて、それでも政権を攻撃できるイイ材料があったと、あれ程までに加計学園問題に審議時間を消費したのだとすれば、かなり(という形容詞では不十分なほど)無責任である。やはり誰か黒幕に「使われていたか」と、そんな疑念が高まるのだな・・・。



ま、それよりは、いま世間の話題をさらっている二人の女性。小林麻央と豊田真由子(実名を出してもまったく問題はないでしょう)。片や100点満点、片や0点。二人とも人にいつも見られているいわば「公人」といえ、片や歌舞伎役者の妻である町の人、片や官僚から国会議員になった東大法学部卒の(というのは余計だが)超エリート。片や人を感動させており、片や人を唖然とさせている。片や将来のレジェンド、片や将来の「しくじり先生」の最有力出演候補。一方の女性はもう話を聞くことができず、一方は聞きたくなくとも聞かされそうだ。あらゆる意味で誠に対照的な二人の女性であり、こちらの方が、色々な事を考えさせられる。が、この話題はまた後日にしよう。




2017年6月24日土曜日

補佐クラスのメモを行政文書とすれば政府は「困っちゃう」のでは

ずっと昔のことに遡るが霞が関界隈の一人の住民として、そこで雑用に明け暮れていたことがある。雑然とした室内、電話の音、ゼロックスの稼働音などなど、タバコと灰皿の臭い、書類の臭いなどとともに当時の記憶がよみがえってくる。

さてと・・・文科省の一課長補佐が作成した文書が(おそらく上司の許可なくだろうが)マスコミの手に渡ったというので世を騒がせている。そのこと自体の適否はさておくとして、これは「単なるメモである」という説明に対し、「何をいうか!書いてあることは真実だろう」というので改めて「行政文書」は何かという神学論争が始まりかかっている・・・。ホント、日本の「ジャーナリスト」は神学論争が好きなのだ。

”Ah...What... ah..what is an official document?"
「行政文書とは何か?」を英語の質問に訳するとなると、どう言えばいいのだろう。返ってくるのは"What?"の一語だろうと思うのだが。


***


複数の官庁間で文書を確定する時は、いわゆる文案について「合議」(アイギと読む)をとる。それは公式の会議でもそうである(はずだし)、大事な打ち合わせでもそうである(はずだ)。

まず普通には、課長補佐クラスがメモをとり、それを課長にあげる。課長は自分のメモや記憶と照らし合わせて、多少の修文(シュウブンと読む)をほどこす。それを二人で局長室に持ち込み、改めて局の方針を決める。そこで一部の内容について「ここまで書く必要があるかどうか」、「あれも書いておくべきではないか」等々の話もする。必要に応じて、局レベルの文書に直し(ここで日付と担当局名が入る)、それを次官にあげる。もしそれを大臣にも報告するとなると、他の関係省庁が作成している(はずの)議事録と食い違いがないかどうか連絡をして「合議」をとることもあるーつまり相手の作成した議事録を「こちらに寄越せ」と電話をする。電話を受けた側は、昔は担当者が実物を持っていくこともあったし、ファックスで送ることもあった。今ではメールに添付しているのだろうか。

まあ、要するに「空中戦」の前に「白兵戦」をやっておくわけだ。そのプロセスの中で、補佐より下の係長や担当者まで下りれば多くのバージョンのメモがある。これらは全てどこかで参照される(口頭で聴くだけだ、コピーとしてはまず配布しない)。もちろん内容は(当たり前だが)微妙に違っているが、公式には課でまとめた文案が残り、局長室で決まった文案が局としては残る。

大体、このようにして行政プロセスは(今でも)進んでいっていると思う。もし「合議」をとらないと、省庁間で異なった現状認識、問題意識が残ることになり、たとえば次官会議や(最悪)閣議の場、更には国会の委員会審議の際に食い違いが露見することになり、その場合は「閣内不統一」の批判をあびることになる。

つまり、「政府」とは一つのみ存在する(→閣議は全閣僚の一致が原則)のであって、官庁は「政府」の手足に過ぎない。官僚主導とは手足が自分の意志をもつ。政治主導とは内閣という頭が指示を出す。雑駁に言えばそんな違いである(と小生は理解している)。ま、どちらが主導するにしても意志の所在・最終責任の所在は唯一つでないと混乱する。その意志の所在が内閣ならハッキリしているし、あらゆる案件について主管省庁(=最終的に責任をもつ官庁)は一つだから担当省庁の意志で決めてもよい。それはそれでよいのだ。どちらにしても行政府の意志は一つしか存在しない理屈になる。要は、政府として意志統一ができている。これが大事で、それを事後的に跡付けられる文書が「行政文書」でなければ「困っちゃう」でしょう。試験でいえば、計算用紙は答案ではない。これと同じである。

***

故に、(特に)所管省庁が複数に渡る場合は(単独省庁の場合でも所管する部局が複数に渡る場合は似たケースになるが)、公式の公開文書か、少なくとも「合議済み」文書のみを「行政文書」としておかないと、政府部内がカオス状態に陥ることはほぼ確実だ。

【追記 6月26日】 たとえば原発事故以前に東京電力社内には15メートルを超える津波を予測範囲に含めておくべきだという意見があったと報道されている。小生も、多分そういう意見は社内にあったのだろうと思う。実際、会社(役所も同じだが)には色々な人がいて、様々な意見があるのが普通の状態なのだからー奥さんたちが井戸端会議をしても同じ話題に対して色々な意見が出てくるだろう。しかし、そんな意見があったということと、社内組織で認知され、意思決定プロセスのラインに乗せられ、採用されるにせよされないにせよ、一つの見解として会社で共有するようなポジションを占めていたかどうかは、それこそ公式の社内文書を読んで見ないと何も言えない。『ああアレ?あれ、重要だったの?』、人間集団の意思決定は時間がかかり、面倒で、難しいのが現実だ。実際、小生だって新人の小役人であった時、生意気に参考資料を書き、部内会議で発表もしていたのだ。小生のそんな参考資料があったことを根拠に、事後的に何かが暗転したとして、「中にはこのような意見もあったではないか」と、そんな批判を外部から述べる人がいれば「それは違います、現実にはそれはそんな意見もあったということです」と。過去がまだ現在であった時の状況を分析するのに、未来の人の観点を持ち込んでは何だって言える。要するに、役所の中のメモ書きは、組織の意見でもなく、書いた本人ですら責任を持てない、一つの情報として提供する、そんな物であることもあるのだ(というより、そんな物が多い)。しかも、本当に重要なやりとりは、メモではなく、お茶の時間の雑談から得られることもあったりして、そんな時はメモは紙くずとなり、最終案は最初から書くことになる。いずれにせよ、課の最終版には日付と担当課名が入り、局の最終版にも日付と担当局名が入る(はずだ)。だから、メモを行政文書として残せ、あとで検証するからと言われると、現場はビビるだろうし、小生などは「大丈夫かねえ」と感じたりもするのだ。

アメリカや欧州の官庁でどのような事務の進め方をしているか詳細は知らない。日本の官庁の事務手続きも段々と変わってきているのは確かだ(昔はインターネットもワープロもレーザープリンターもなかった)。それでも中枢部の方針を末端まで意思統一するまでの手順は大きくは変わっていないはずだ。日本人の美意識や和の精神がガラッと変わらない限り、根幹の部分はこれからも変わることはまずないだろう。

文書管理規則まで上から網をかけられると、現場は困るだろうねえ。多分、マクロ経済のUnderground Economy(=闇経済)と類似の対応物である「裏帳簿・裏文書」が内部に蓄積されていくだろう。

企業も政府もすべて「組織」は結果がすべてだ。企業は利益をあげてナンボ、政府は多くの国民を豊かにしてナンボ、であるー政府は国民に幸福を与えるべきであるという問題は既に投稿済みだ。全て「組織」には目的があるのだ、な。途中の文書管理は、なすべき業務を最も効率的に、やりやすい仕組みで設計しておくのがベストだ。それには「慣行」を尊重するべし。アカウンタビリティやモラリティを組織戦略に持ち込むのは、小生の感性にはまったく合致しない。この点では、小生は極右なのかもしれないのだ。

2017年6月22日木曜日

徒然なるままの趣味の復活

漱石の『坊ちゃん』と同じく、ずっと昔、小生は部内の同僚達をそのキャラクターに相応しい動物に例えるのを趣味としていた(当人たちには直接伝えたことはない、もちろん。あくまでコッソリとやるわけである)。

最近の出来事からイメージして:

文科省前事務次官=セミクジラ
文科省副大臣=ロバ
文科大臣=白インコ
内閣府F某審議官=メガネザル
H某官房副長官=ヒキガエル
内閣官房長官=アライグマ
総理大臣=ヤギ

さらには
財務大臣=ヤマネコ
辞めたTPP担当大臣=ラッコ

フ〜〜ム、やはりというべきか、内閣側の人は概してドウモウであり、文科省側の人は水面下に消えたりして得体がしれず、その他の関係者も草食系のイメージでとらえていることがわかる。

アッと、野党の民進党代表を忘れていた・・・、何だろうなあ。まあ、またにしよう。

マスメディア各社のイメージはどうだろう。

サンケイ=スズメバチ
読売=たぬき
朝日=ニワトリ
毎日=キリギリス
日経=きつね
東京新聞=カラス
北海道新聞=樺太犬

まあ、こんなところかなあ・・・出来れば虎やライオン、ないしヒグマでもよいのだが、重量感があってぶれず、焦って誤報を流すこともなく、スクープがないからといって販売部数には影響せず、「木鶏」、いやいや真の「木鐸」であるような、そんな秘めた力を思わせるイメージをもつ報道機関がせめて一つは欲しい気がするが、現代日本においては(明治以来昔もそうだったろうが)夢のようなことだろう。

補足(6月23日):
テレビは各局にそれほどの個性の違いはない。風向きのままに一斉に放送している面がある。だからキャラクターを決めるのは難しい。合唱が好きなので田んぼのカエル。か、アブラゼミ。わが町ではエゾハルゼミの声がだいぶん遠くなってきた。6月上旬から中頃までの林の中はチイ、チイという蝉にしては儚げな鳴き声でいっぱいだった。

2017年6月21日水曜日

『敵は味方のフリをする』を地でいっているのか? 加計学園問題

加計学園問題について文科省から文書流出が止まらない。

大体、新設最終決定の以前に様々な事前調査・直接面談が行われるのは珍しいことではない。特に、有力候補についてはそうだ。

この辺は、ネット上にある複数の意見・指摘でも記されているが、公表されている議事録を確認すればすむことで、何も課長補佐あるいは担当者(?)クラスのメモを重要文書扱いにするような必然性はまったくない。

結論的に言えば、変である。もやはそう言わざるを得ず、関係者もとっくにそう感じ始めているに違いない。これはミスハンドリングから発生した失敗ではない。

***

前に投稿したが、こんなことを書いている。
今回の「騒動」は安倍首相が憲法記念日にビデオで公表した具体的改憲提案をきっかけに、それまでのゴシップ的スキャンダルから行政現場に生まれている思想的対立劇までもが垣間見えるようなドラマへ移行し、いつのまにか筋書きのない劇の幕が上がっている。そんな風な見方もひょっとするとありうるのか?そう感じる今日この頃なのだ、な。
実はこれらの背後には、自民党を構成する歴史的古層。つまり旧・自由党と旧・民主党の間にある活断層、さらに旧・自由党の中にもある保守本流と保守傍流の間にある活断層がいまもある、与党の深層にはマグマが流れこみ熱圧が高まりつつある、そういう政治的エネルギーの作用がひょっとしたらあるのかもしれない。そんな印象も何となくある・・・。
一層面白くなってきた。そうみている所だ。
現政権は攻撃されている ー 単なる野党のいやがらせではない、野党は「使われている」だけである(と、北海道から見ていても感じる)。

もちろん「使われている」のは、野党だけではない。マスメディアがまずは利用頻度の高い「通常兵器」である。あ、そうか・・・あと使われているのは官庁(=内閣の手足)であるはずの文科省もそうである。

***

マスコミを利用した攻撃手法は、最近のヒット作『小さな巨人』で主人公・香坂真一郎が駆使したやり方と瓜二つではないか。であるとすると、やり口が何だかマンガチックである。「闇将軍」といった権力そのものを感じさせる巨大さがない。

ま、どちらにせよ権力は政権側が握っている。支持率が低下してもまだダメージ・コントロールは可能だ(憲法改正は困難になってくるに違いないが)。総裁任期は来年9月迄だ。一方、攻撃する側はどこを攻撃してもよい。時を選択できる、攻撃対象を選択できる。隙のない敵はない。

かつて見られた自民党内部の権力闘争が久しぶりに展開されるのかもしれない。以前にも書いたが、実に望ましいことだ。

そもそも民進党の支持基盤は瘦せおとろえ、既に政権を担える独立変数から政権に反対するだけの従属変数というポジションに没落しきっている。自民党で昔風の<路線闘争>を展開できる社会条件が(小選挙区であるにもせよ奇跡的にか、ごく自然にか)できているのだ。

そうそう、前の投稿を修正する必要がある。『日本の新聞社は社会における中立的な言論機関という役割を失いつつある』と書いたが、そもそも最初から日本の新聞社は社会における中立的な言論機関などではなかったのだ。

2017年6月19日月曜日

「支持率」の信頼性と意味

最近の時代の流れもあって小生の勤務先でも毎学期の全授業について授業評価アンケート調査が実施されている。

実施時期は、コース終了後であるから、毎回の授業が良かったか、悪かったかではなく、授業全体を通して個別項目ごとに数値で評価してもらう(もちろん数値といっても順序尺度である)。自由記述欄も設けてある。

それでも回答全体の平均値をとると、なぜこのような評価になるのかが理解しがたいようなことは、意外と多いというのが雑駁な印象であるーもちろん、だから役に立たないというわけではない。数も言葉も使いようということだ。


ところで、安倍現内閣の支持率が急落したとメディア各社が報道している。どこでもサンプル数は千何百人というところだ。回答率は50%程度のところが多いようだ。回答率はまあまあだと思う。さて、もし全サンプルから直ちに回答が得られているとすると、標準誤差は1.4%程度、最大誤差を真値の両側2シグマ区間まで見込むとサンプルの結果が得られる区間の幅は大体5.6%となる。

故に、ほぼ同時点に実施された支持率調査の結果がメディア各社で10パーセント以上も違うという結果には(まず絶対に)なりえない。

しかし、たとえば毎日新聞の調査結果は36%であり、読売新聞が49%、日本経済新聞が49%、朝日新聞が41%という結果になっている。

同じ母集団を対象にしたアンケート調査が、これほど大きな食い違いを示すことは統計上の数理では説明できないことである。


メディア各社と調査結果との組み合わせをみると、現政権に批判的な新聞社が実施した支持率推定値は低く、現政権に近い側の会社の結果は高くなっている。

おそらく「数字をなめている(=捏造している)」ということはないのだろう(と小生は推測している)。

ランダムに抽出した電話調査(=購読者限定ではないと思うが)だと説明されているが、多分、その新聞社に対して好感を持っていない人は回答を拒否する傾向があるのではないだろうか。だとすれば、その新聞社と立場の近い人の意見がより多く反映されるのは当たり前である。

日本の新聞社は社会における中立的な言論機関という役割を失いつつあることの証左であるわけで、この話題もそのうちとりあげたいと思うのだが、それは後に回すとして、どうやら「世論調査」とはいえ、マスメディア各社が実施している調査結果は客観性を持っていないと考えるべきだ。この点はいま確認してもよい。


ただどの調査でも共通しているのは、現政権の支持率が足元で急落しているという事実だ。たとえば日経調査で示された不支持の理由は「政府や党の運営の仕方が悪い」がトップで、この選択肢を選ぶ人が前回3月時点より8%も増えているそうだ。

何だか毎回の授業で『今日の授業は良かったですか?』というアンケートをしているようで身につまされる。

でもまあ、この2ヶ月余り、政府の運営、国会の運営は何を審議しているかという中身以前の問題として、実に「最低」であった。

だから、この2ヶ月の現政権は「良かったですか?悪かったですか?」と聞かれれば、小生も「非常に悪かった」と回答するだろう。とすれば、「不支持」になるのですかね?ま、いいでしょう。「不支持」だ。

とはいえ、だから現政権は総辞職するべきであって、民進党内閣に政治を委ねるべきだとは、小生、考えてはいない。

「世論調査」とは何を調べたいのでござんしょう。聞いてみたいものでござんす。

2017年6月18日日曜日

メモ: △△主義という言葉の中身?

最近の社会では「言葉狩り」が盛んである。報道各社も自粛するような表現が増えている。

ここで小生もまた同じような「言葉狩り」をしても、社会的なスケールはなく、無視しうるほどの個人的行為であるはずだ。

今朝の道新にコラム記事があってタイトルが『植民地主義 問い直す』となっている。北海道という地で「植民地主義」といえば、大体書かれていることは大まかに見当はつくのだが、この「△△主義」、若い時分からよく使ってきたが「主義」って何なのか?そもそも「植民地主義」という主義はありうるのか?(まあ、現実にあったことは知っているが)

そのための覚書きである。

***

もしここにプロ野球の監督が二人いて、一人は「エース中心主義」といい、もう一人が「打撃主義」と言っているとすれば、それは意味を持つ、というかありうる。しかし、一人の監督が「私は勝利主義ですから」というと奇妙だ。だってプロ野球の監督をしている以上、勝利を求めるのは究極的には当たり前のことであり、チームの勝利はすべての監督にとって最終的目的に他ならず、当たり前のことを言っているだけだからだ。

つまり、主義というのは文字通り「主たる義」の意味を持つ造語である。義という漢字は「道」とか「筋」というニュアンスに近いので、主義とはわかりやすく言えば「自分が行くべき道」というか、そんな風にも言い換えられる。

要するに、主義とは行くべき道であって、最終的目標を示すものではない。資本主義とは資本、つまり私有財産に重きをおく社会。社会主義とは社会全体に重きを置く法制システムを表す。主義であるとしても、資本なり、社会なりが人間にとっての最終的価値を示すわけではない ー 人間にとっての最終的価値は「幸福」であることは西洋の哲学では大前提として置かれている。

***

「植民地主義」という言葉に奇異な感覚を覚えたのは、19世紀グローバルな標準で「植民地主義」という主義は日本にあったのかなという疑問を感じたからだ。

確かに19世紀には欧米列強による植民地獲得競争が激化した。それは資本主義が発展する中で選ばれた「政策・戦術」であって、未開拓の地域(ではあれ、それは他国であり自国ではなかったのだが)を最終的には軍事的に侵略し、植民地として領土に編入し、そこに社会資本を建設し、自国と同じような経済制度を導入し、市場として囲い込み、課税対象にも組み入れる。そんな行き方(=主義)が高い経済的利益をあげ、自国民が豊かになるための早道であった。こういう事実に支えられた行動だった。要するに、資本主義があり、植民地主義が選ばれたというロジックがあった。

そこで日本の植民地主義である。それは西洋で発生した植民地主義と同一の戦略であったのか?日本の植民地は、実はカネばかりかかり、その割には儲からなかったという指摘がずっとある。

今朝の道新で「そうだったのだなあ」という具合にわかった(気がした)のだが、幕末から維新後の日本の(国としての)目標が「独立維持」であったとすれば、つまり日本国民が独立した国民として"survive"することが幸福実現への本来の道とされていたなら、その時代の日本は「国防第一主義」をとっていた。そういうことになる。とすれば、日本の「植民地主義」は、国防第一主義から選択された基本戦略だった。

もちろん国防を最優先(=主義)としても領土は広ければ広いほうがよいと決まっているわけではない。しかし、自国の周辺には自国の衛星国が並んでいる方が良いに決まっている。もし、そんな期待が持てなければ植民地に編入する方が良いに決まっている。これが基本的なロジックだ。

ロシアで起きたボルシェビキ革命がマルクスが理論的に考えたプロレタリアート革命とは似て非なるものであったと同じ意味で、日本の植民地主義もまたいわゆる「植民地主義」とは異なったものだった。そう言えるのではないか。

つまり国が(人が)同じ行動をしたとしても同じ動機に基づくわけではない。しかし、「主義」とは動機に着目して分類するべき言葉だ。

いやはや「言葉狩り」にしても細かいなあ・・・

2017年6月17日土曜日

結末? 加計学園騒動

本日の日本経済新聞:
安倍晋三首相は16日の参院予算委員会で、学校法人「加計学園」の獣医学部新設計画に関し、自ら個別の指示をしたことはないと強調した。学部新設条件の修正を指示したと指摘された萩生田光一官房副長官も関与を否定。文部科学省に内閣府が「総理のご意向」などと早期開学を促したとされる一連の文書内容との食い違いは大きく、疑念は晴れないままだ。
(中略)
福山氏は「疑問が全く払拭されていない」などと指摘。共産党の小池晃書記局長も「国民の大多数は納得できないと言っている」と訴えた。国会最終日の審議は食い違いが解消されないまま時間切れとなった。
(出所)http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS16H58_W7A610C1EA2000/

 この件は何度も書き記したことだが、たとえばネットで<加計学園>をググって見ると、報道各社の記事はもちろんのこと、出版社が運営しているサイトにアップされている記事、個人で公開しているブログ記事等々、あらゆる情報が即座にアクセス可能となる。中には、大手新聞やTVがまったく触れていない資料をとりあげながら、全体としてどのような経緯があったと推測できるか、詳細に述べている解説もある。このような優れた見解はアクセス頻度も高いので、Google検索では自動的に上位に表示されてくる。それらの記事を、小生、Evernoteに(一時的に)まとめて、ラベルを付けている。

今回の騒動は「ゲスの勘ぐり」、「馬鹿馬鹿しい」とも形容されているし、「疑問が全く払拭されていない」、「納得できない」という人もいる。が、敵対勢力はいつまでもずっと敵対するものだ。

もうこの話題はいいかな、という感じ。誰でも時間を少しだけ割けば、<疑念>はほとんど解消できるはずだ。一般の人もこの位は結構容易にやっている。特定のTV、特定の新聞に依存するのが一番ダメである。もはや情報インフラとしての役割は放棄しているようだ。ブログやSNSを補完する一つの情報としてのポジションに地盤沈下してしまった。

加計学園騒動とは、「騒動」の中身を起こした側も、その中身を「騒動」にした側も含めて、大体、どんなことであったのか。それほど大きな<疑念>は小生にはもう残っていない。自ら調査したわけではない。ネットでアクセス可能な情報を全体的にみれば誰でもわかる。そういう時代になったということだ。

<疑念>が晴れないのは大手新聞社に勤務している記者くらいのものだろう。それは自分の仮説が立証されなかった落胆を表しているのかもしれない。一面的な取材しかしていないので本当の意味でワケが分からなくなっている可能性もある(ネットにアップされている文章を盗作するわけにもいかない)。あるいは「こう書いておけ」とデスクから指示されているだけかもしれない。

新聞・TVといった大手マスメディアがなぜ情報インフラとしての適性を失いつつあるか?アウトラインは出来ているが、その考察はまた別の機会に。

2017年6月15日木曜日

メモ: 文科省の組織的危機?

小生のカミさんの祖父は戦前期に地元の高等女学校の校長をやっていたが、それ以前は内務省勤務の役人であったので、文部省が管轄する高女の校長は官界では筋違いのポストであり、文部省から見ればポストを内務省に一つ奪われたのだと思っている。

こんな人事が可能であったのは、内務省(及び文部省)が主導する国民精神総動員体制が昭和12年にスタートしたことも大いに与っていたのかもしれない。(義理の)祖父は、校長在職中に薙刀を正規科目に導入するなど国民精神の発揚に幾つか貢献したと聞いている。が、その分、引退した戦後の日々は辛いものがあったに違いない。いずれにしても、ずっと昔のことで、小生、カミさんの祖父とは直接話したことはない。

その内務省は、軍国主義日本と一心同体であったという科で、戦後になりGHQにより完全に解体された。陸軍省・海軍省の消滅は当たり前にせよ、非軍事部門で完全に解体された巨大官庁は内務省のみである(はずだ)。まあ。消滅という意味では司法省と法務省とを比べるべくもなく、こちらの方がより厳格であったかもしれないが。

いま進行中の「加計学園騒動」は、最初は森友風のスキャンダルに見えたが、いまや内閣府対文科省の官庁間対立、規制緩和を推進する政権派とそれに反発する官僚派の対立、更には地元の愛媛県の前知事で文科省の大物OBでもある人物と今回の騒動の首謀者である前次官、この二人が率いる文科省内の派閥対立の様相も呈してきており、ここにきて非常な盛り上がりを見せ始めた。

ここまで「燎原の火」のように騒動が広がってくると、なるほど国会は一度閉じて態勢を立て直したい。安倍現政権がそう願うのはごく自然だ。まあ「第一次でも特有の鈍感さがあったしねえ、危機管理の失敗だよなあ」と言うのはたやすい。どちらにしても、これから夏にかけて霞が関人事の季節となる。予想するに、今年度は大荒れ必至だろう。いずれ世間の関心は別の話題に移るだろうし、どの官庁のどの局長がどんな考え方の持ち主で誰の派閥に属するかなど、誰にもわかるはずがないし、関心も持たれないだろう。

ある無責任な報道では「文科省内奇兵隊(=喜平隊)」の蠢動を予測したりしているようだが、残念ながら時代は幕末ではなく、現実には高杉晋作というより「ミスター通産省」と称された佐橋・元通産事務次官と佐橋派(国際派に対する国内派)が辿った軌跡を文科省・喜平隊は辿っていくのだろう、と。そう憶測している・・・すまじきものは宮仕え、である。組織内主流派として我が世の春を謳歌した人間集団が、豈図らんや「一夜」にして没落し、落魄した晩年をおくる定めになるのだから。この種の悲哀は、たまたま1990年代に銀行経営幹部に出世したエリートも同じであったし、たまたま2011年3月の福島原発事故発生時に経営幹部に登りつめていた東電幹部も同様であった。まったく宮仕えなど出来ればするべきではない。

これは予測であるが、現政権が長く続くようであれば、文科省本省の局長級、更には課長級ポストの幾つかが「官庁間交流の拡大」という名の下で経済産業省、総務省あたりにあけ渡されていくのではないだろうか。ひょっとすると、国立大学の事務局長、都道府県の教育長、市町村の教育委員会の相当数も10年程度が経つうちに総務省・自治官僚に徐々に侵略されてしまうのではないか、と。この程度の弱肉強食の競争原理はいまも現実に霞が関界隈では働いている。

これらの進展は官庁人事欄を見るくらいしか確かめようがなく、せいぜい『文藝春秋−霞が関コンフィデンシャル』で一般の人は知るくらいだ(文科省の人事はほとんど書いてもくれないが)。いやはや「前事務次官」ともあろうお人がねえ・・・意地は通るのかもしれないが、長い目で見れば「大暴発」であるのは必定だ。自分を慕ってくれる若手が哀れではないのだろうか。

「組織防衛」には「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」ことがもっとも重要なのである。たとえ都落ちをしても、やがて「天施り日転じて」時節がやってくるのが世の習いだから。まさに"Die Alte Kameraden"でも歌われるように
Hast Du Sorgen schick' sie fort, 
denn noch immer gilt das Wort, 
schwarz und dunkel ist die Nacht, 
immer kurz bevor der Tag erwacht. 

Leid und Kummer das vergeht, 
weil die Welt sich weiter dreht, 
darum hebt das Glas voll Wein 
und laßt uns alte Kameraden sein.
明けない夜はない。世は必ず変わる。生き延びて旧い戦友たちと祝杯をあげることが一番ではないか。

追記:
それにしても、「メディア」、「報道」と総称されているとはいえ、媒体によってこれほど大きな質的差異があるのかというのが正直な感想だ。既に、加計学園騒動についてはネット上に数多くの意見・情報がアップされている。検索すれば誰でも容易にそれらの記事内容を読むことができる。すぐにだ。紙のゴミも出ないし、余計なCMもなく静かだ。そして、すべてフリーである。同じフリーのTV報道(ワイドショーも含めるとして)の情報精度の低さ、質的劣悪さは現時点の豊富なネット上の記事と比べても明白だ。大手新聞メディアは最新記事を有料購読にしているところが多い。ところが「最新記事」がまったく信頼できないことが、ここに来て明白になりつつある。総じて見ると、情報を提供するという役割を果たす上で、既存のメディア企業が優位にあるのは「スピード」だけである ー そのスピードも一部のトピックについてはYouTubeやFacebookに負けつつあるが。そして「内容」の劣悪さは余りにも明白だ。「早く知りたい」という需要を充すためにサービス料を支払うという理屈は確かにある。しかし、これほどアンバランスで一面的な情報にどれほどの利用価値があるのだろう。21世紀の情報インフラとして考えるとき、少なくとも現在の日本国内の大手マスメディア企業(特に、社員(?)の手になる内製サービス)は<差別化劣位>に置かれつつある。大手マスメディア企業は情報産業における百貨店であると言っても今後そう大きくは間違わないだろう。

このトレンドをそのまま延長して予測すると、いま大手マスメディアが行なっているいわゆる「世論調査」も、近いうちに<インターネット世論調査>が本格的に社会全体に定着し、リアルタイムで「ソーシャル・センチメント」が誰でもすぐに把握できるようになるはずだ。そうなれば回答者数は現在の千何百人ではなく、数万人オーダーになるだろう。標本誤差は無視できるほどになり、どの機関がやってもほとんど同じ結果になる。故に、メディア各社が世論調査にカネを使う動機はなくなり、おそらく新興企業が最先端の広告アルゴリズムを活用して運営するだろう。特定の会社や経営幹部の利益・思想から影響されにくいという点では、これこそ「マスメディア」の真の形になるはずだ。追記としては長くなったが、今日は(6月16日)これだけを書いておこう。

2017年6月13日火曜日

メモ: 「表現の自由」という語に混じるにおい

「表現の自由」は憲法で保障されている基本的な人権の一つである。

確かに、信教の自由や思想の自由が奪われることの惨めさは、それこそ「表現」に尽くしがたいものがある。その惨めさは、おそらくは少女時代のマリア・スクロドフスカ(後のキュリー夫人)が自国の国家元首の名を教室できかれ、どうしても自国を占領したロシア皇帝の名を答えることができなかったという、そんな幼少期に感じる理不尽な力の意識に相通じるところもあるだろう。

しかし、最近はとても鼻につくというか、鼻を刺激する腐った臭い、大変高邁な理想である「表現の自由」とは全く似つかわしくない卑しい動機が入り混じっているような感覚に襲われることがある。

そんな感覚を覚える人が、万が一、増えているとすれば(大げさにいえば)民主主義の危機だと思う。ま、いまのところ小生の言語的アレルギーの発症くらいですんでいるのだと思うが。

***

それは、人間 ー 職業的には作家であっても、研究者でも教員でも、あるいはビジネスマンをやっていても構わないのだが ー 個人としての立場ではなく、マスメディアという会社に所属する記者(=社員)としての立場にある人、会社から出演を依頼された人、あるいは経営幹部が自社が出版・放送するメディアを利用して、「表現の自由」を主張している時に特に強く感じるものだ。

その時の「表現の自由」とは、「報道の自由」と結びついていて民主主義社会の不可欠な構成要件をなすものであるという主張と一心同体の関係にあるのが普通だが、実は「表現」ではなく「営業」の自由を指しているのではないかと感じることが多く、言い換えると「販売部数拡大の自由」、「視聴率引き上げの自由」、「利益追及の自由」が各社の本質的動機になっている・・・というか、『なっているのではないか』という疑念の存在自体が、それを聞いている小生の心理を苛立たせる。そんな状態であるのだな。

憲法でいう人権は法人企業の営業の自由とは全く次元が異なる。20年間努めてきた会社が倒産して職業を奪われたからといって、国はその人の人権を保障する義務はなく、失業状態が法の下の平等に反するわけでもない。保障するとすれば、失業保険を通じて生活基盤を保障する。そういう話になる。すべては経済の議論なのだ。

経済の議論(=カネのやりとり、毎日の暮らし)をしているときに、表現の自由やら、内心の自由やらを話題にすれば、議論が混迷するのは当たり前だ。何を作って売るにしても、それは自己表現の自由だなどと議論する愚か者は(多分)いないはずだ。そんなことを認めれば、市場経済システムが破壊されるかもしれない。

経済的自由の原則とは、自由である正にそのことにより結果に対して責任を有するというものだ。製造物責任はその観点に基づくし、汚染者負担の原則もそうだ。

マスメディアが唱える表現の自由とは、実は営業としての報道(というか、情報めいたものを提供すること)の自由なのであるから、企業行動の結果には責任をおう。これが出発点になる、というのがロジックだ。しかし、メディア企業は憲法上の不可侵な権利である「表現の自由」、さらにはどこで規定されているか小生はよく知らないのだが「知る権利」などに置き換えて議論することが多い。

民間企業であるマスメディア企業が「表現の自由」を口にする時、どことなく下卑た感覚に襲われて、とても不愉快になることが多いのは、それが「営業現場の戦術」になっている、というか「まさかそうではないよね」という疑いがあること自体が既に問題だ。この心理状態はとても解決困難なのだ。

2017年6月9日金曜日

これはお薦め: モリ・カケ騒動に関連して

今年の新春から初夏にかけては、文字通り『モリとカケ』でドタバタ、ドタバタという感じで時間だけが過ぎていった。その間には、トランプ政権による北朝鮮軍事行動の現実味が高まり、この時ばかりは「それどころではない」というのだろうか、どのマスメディアも米海軍の空母派遣と北朝鮮の徹底抗戦ばかりを報道していた。夏にかけて、モリが終わって、カケの話ばかりが話されるようになったのは、トランプ政権のロシア疑惑や大統領自身の司法妨害疑惑が高まり、アメリカの方がそれどころではなくなった、それとともに北朝鮮危機がピークアウトし、これに合わせる形で「平和が戻ってきたので、また例の話をしましょうか」と。まあそんなノリなのであろう。つまり、世界情勢をみながら、『いまはこの話をしてもいいよね』という感覚が最初から露見しているので、甚だ迫力がなく、視聴率や販売部数を目当てにしたメディア企業の営業である側面が容易に見て取れるところが卑しいといえば大変卑しいのだが、残念ながらフォローするのも大変面白いのが事実だ。

とにかく多くの立場から、当事者である文科省、愛媛県側も含めて、意見や見解が既に多く報道されてきている。あとは、一人一人がどう思うかで、今後の方向性が決まってくるのだろうが、これは知性的で賢明な見方だという記事を見つけたので、メモしておく:

「忖度」、そして「政治主導」

著者は元テレビキャスターで今は教育界で仕事をしている畑恵氏だ(出所:HUFFPOST、2017年6月6日)― ハフィントンポスト自体が朝日新聞と親密な関係にあるようなので、どちらかといえば上の記事内容も反政権側に寄っている傾向が窺われるのだが、ロジックの通った良質の見解だと思う。

ただ、畑恵氏の意見の最大の骨子は「政策決定の透明性」という点にあるのだと思う。確かに政策決定は透明であり、決定までのプロセスは全て公開されることが望ましい。これが基本であると小生も同感だが、では『全ての政策決定は公開するべきである』と問われれば、それはその政策が追及している「戦略的目的」による。こう言わざるを得ない。

すべて政策は、足元の状況を改善するためのものか、長い時間尺度の下で効果を期待する戦略的なものなのかという区別がある。政策を公開するべきかという点についても、公開するべきだという民主主義的要請がある一方で、いやしくも政策であればそれを成功させる必要があり、そのためにはコミットメントを公表するか、その時点では秘匿するべきか。こうした戦略面からの要請もあると考えるのがロジックである―この点に関連して以前に投稿したことがある。

内部情報の詳細は知らないが、規制緩和・市場自由化に対する反対勢力が強固なことは、福島原発事故で東電という大企業が弱体化したことで、初めて電力自由化が経済産業省によって加速されてきた事実からもうかがい知ることができる。電力以外にも医療や教育、さらには各種専門的サービス業などには多くの規制がある。規制はすべて「正しくて意義のあるルール」であったはずだ。これらの規制を緩和しようというのが、ここ20年、というより30年を超えて一貫して努力されてきた戦略である。ある意味では、規制緩和とは規制死守を求める勢力と緩和しようとする勢力との政治的戦争である。このような現実の中で、「〇〇の方向で決定しようと提案いたしますが、皆さん、いかがでしょうか?」といった伝統的意思決定方式が機能するかどうか。このような方式ではダメであるという認識から「政治主導」、「官邸のリーダーシップ」が強調された、というのが日本の近過去である。小生はそう記憶しているのだが、そうではなかったか。

今回の「騒動」は安倍首相が憲法記念日にビデオで公表した具体的改憲提案をきっかけに、それまでのゴシップ的スキャンダルから行政現場に生まれている思想的対立劇までもが垣間見えるようなドラマへ移行し、いつのまにか筋書きのない劇の幕が上がっている。そんな風な見方もひょっとするとありうるのか?そう感じる今日この頃なのだ、な。

実はこれらの背後には、自民党を構成する歴史的古層。つまり旧・自由党と旧・民主党の間にある活断層、さらに旧・自由党の中にもある保守本流と保守傍流の間にある活断層がいまもある、与党の深層にはマグマが流れこみ熱圧が高まりつつある、そういう政治的エネルギーの作用がひょっとしたらあるのかもしれない。そんな印象も何となくある・・・。

一層面白くなってきた。そうみている所だ。