2016年12月3日土曜日

荷風全集が届いた晩に思う

荷風全集が昨晩届いた。夕刻まで待っても届かないので、何かの事情で遅れたのだろうと、カミさんと話していた。

ところが、夜の9時半も過ぎてから電話があり『これから届けにうかがってもいいでしょうか』と。『まだ仕事をしているんだねえ』、『ブラック企業なんじゃないの』とカミさんも驚く。全集は四六判だが29冊揃うとなると結構ずっしりと重い。ダンボールを肩にかついだ担当者が玄関から入ってくる時は流石に気の毒に感じ、『重かったでしょ?』、『そうですね、結構・・・』、『本当に有難うございました』。やはりブラック企業なのかねえ・・・。

『あれだけ頑張って仕事をしていくらもらっているのかしらねえ』とカミさんは細かいことを云うが、ひょっとすると、もはや大した仕事をしていない小生よりも、案外水揚げは少ないのかもしれないと、そんな風に予想したりもする。

「格差拡大」がそれ自体として悪いというロジックは存在しない。悪いと云う人、構わないという人、すべてその人の価値観からそう言っている。そんな議論は本ブログでもとっくの昔にすませている。しかし、現在の賃金のあり方は確かにおかしい、と。直感的にそう感じるのも事実なのだな。

どうもロジックと感覚とが離れてきている。

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「競争」を良いこととして大前提をおくと、より多くの結果(=収入・成果)を少ない努力(=コスト)で得てこそ、その人(会社)は高く評価されるのである。

故に、頭脳と知恵 − それに天賦の才能があればなおさらいいが − で楽をして、利益を要領よくあげる人は豊かになる。逆に、大した利益にならない事に時間と労力を用いるのは愚かである。競争社会ではそんな風に考えることになってしまう。

この考え方からビジネススクールの顧客志向。プロダクトアウトよりはマーケットインという方向性はすぐに出てくる。
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しかし・・・。小生はへそ曲がりだ。どうも割り切れない。

カミさんと一緒に遅い朝食をとりながら朝ドラを視るのが、ここ数年の習慣になっているが、本日放映された「べっぴんさん」はこんな話だった。大手デパートに納品できるチャンスが舞い込んできたのだが、相手と相談するとシャツの襟裏の自社ブランド名を使えなくなるという。それは嫌だ。やっている意味がない。「この話はなかったことにしてほしい」と。これは自分たちがやりたいと思っている「仕事」ではないと。

我儘である。世間をなめている。ドラマはこんな展開だ。

が、「仕事」とは結局は何なのだろうか。自分にとって、である。でないと意味が伝わらなくなる。どうやらこれがドラマの基本テーマらしいのだな。

ビジネススクールでは『自分たちがいいと思っても、客がいいと思ってくれなければ、いいとは言えないんですよ』。そんな説明を常にやっているのだが、本当にそうだろうか?

◆ ◆ ◆

客に買ってもらえるのを有難いと考える所から話を始めてもよい。なるほどオーソドックスだ。一方、良いモノを作ってくれるのは有難いと考える所から話しをしてもいいだろう。

「いい仕事」をしたい。仕事をするときに思うことは、誰でも同じだろう。とすれば、どうすれば売れるかではなく、どうすればいい仕事が出来るのか。毎日を意味のあるものにできるのか。この問いかけに関心を持たない人はいまい。

いいモノを作ったからと言って、それで儲かるとは言えない。それは確かだ。しかし、いい仕事をしてきた人は、結局、チャンスが向こうからやってくる。社会はよい仕事師を放ってはおかないものである。これも少ない経験からだがわかっている。もちろん逆は逆である。ダメな仕事をしても結果はよいことがあるが、それは単なる運である。持続可能性がない。

よい仕事の本質を考える。こちらのほうが、今の日本には実はより必要な問いかけかもしれない。

人間集団である会社がよいビジネスをするより、少なくとも自分は良い仕事をしようと努力する。こちらのほうが、問題としては正解がありそうではないか。

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とはいえ、聖人君子でない限り『人知らずして憤らず、亦た君子ならずや』という境地にはならないものだ。むしろ『恒産無くして恒心無し』。金欠病は人の心を荒ませるものだ。

一国だけで「福祉国家」をきどっても、他国が競争原理主義をとれば、国全体が金欠病になる。

とても難しい問題だ。政治で解決するわけにもいかないし、ね・・・

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