2016年11月27日日曜日

雑談: 「明治政権」とは結局何であったのか?

昨日は卒業年次生による中間発表会があったのでその採点員を勤めた。昼食時、久しぶりにあった同僚とランチをした。その同僚の専門はベンチャービジネス論であり、小生の専門は統計分析であるのだが、話は世界やアジア、日本のヒストリー関係になることが多い。

昨日も話は戦前期日本の歩みの話になったが、小生はこんな話をした。

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いわゆる「明治維新」とは、本質的には宮廷内クーデターですよね。主導者は薩摩系・長州系の勢力で、旧幕勢力は「賊軍」に指名されました。敵の名前を公然と指名するというのは、古代の共和制ローマにもあった最終兵器です。ま、敵を攻撃する大義名分です。(小生、歴史の専門家ではないが)色々と読み漁った結果、いまではこう認識するのが、事実に近かったのではないかと思っているのです。

その薩長勢力というのは、1853年の黒船来航から67年の大政奉還までの短い期間において、「薩英戦争」、「下関砲撃」など、欧米勢力に対する軍事的挑戦を組織的に、藩を挙げて実行したたった二つの地方勢力でした。。過激な攘夷戦争を藩を挙げて現実に実行したのはこの薩長二藩だけです。これに対して、幕府側の基本方針は戦争回避です。

軍事的攘夷戦略を現実に選択した地方勢力が、戦争回避を是としていた中央政権を駆逐して、明治政府を発足させた。そうでしょう。何でもそうですが、「創業の理念」はその後の戦略を方向づける基本的要素になるものです。

薩長両藩が選んだ戦争の結果、鹿児島と下関は丸焼けになりました。そして、長い時間をへてから、今度は国家として対外戦争を繰り返し、最終的には日本全土が焼土と化してしまいました。

これは歴史的な偶然ではないと思います。「明治政権」は、そもそもそのような行動を良しとする理念から始まった政権でした。

その結果、日本の国境、日本という国の広がりは江戸時代に逆戻りではなく、江戸時代未満になりました。

琉球は幕府時代から薩摩藩に事実上は服属していましたーま、明治12年の琉球処分がなければ、いまもって中国と紛争が継続していたでしょうが。北のほうは、これは安政元年(1855年)に幕府とロシアが日露和親条約を結んで、択捉島以南は日本の領土になっています。樺太は国境なしで混住地になりました。

アジア近隣諸国との外交関係は言わずもがなでしょう。

明治維新の最終的な結果は、領土だけをみると、逆戻りではなく、後退ですね。民主主義の発展や、身分なき平等な社会は、「明治政権」ではなくて、「戦後日本」の成果ですよ。

明治維新の評価は、これから20年、30年の間に下がることはあっても、上がることは決してないと、私は思ってますよ。

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昨日は、こんな話しをした。

万延元年(1860年)、日米修好通商条約批准書交換のために遣米使節一行が渡米した。随行した咸臨丸には勝海舟や福沢諭吉も乗船していたが、日の丸を掲げたその情景は記念切手にもなっている。その図柄は、発展に向けての第一歩にふさわしく、姿としても、登場人物としても、小生はこちらの話の方が好きである。その時の経緯は福沢の『福翁自伝』で詳細に記されている。

徳川昭武を代表に幕府が参加した慶応3年(1867年)のパリ万国博覧会。出展は幕府だけではなく、薩摩藩、佐賀藩もブースを設けていた。この時点では既に幕府による資金調達、これを阻止する倒閣戦略が水面下で進んでいた。幕臣・渋沢栄一がこのとき欧州を見聞し、その成果を後に還元したのは、予定外の副産物といえる。

大政奉還と明治維新は陰謀の果てにたどり着いた一つの結末である。凛々しいと見るか、「醜悪至極なり」と見るか、立場によって違っていただろう。

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