2016年8月27日土曜日

最高の社風・・・?まだそんなことを言うの

今週は某企業グループの特訓ゼミで担当しているビジネスエコノミクスのレクチャーがあった。この週末をはさんで来週はいよいよチームに分かれて新規事業のプランニングに入り、最後は役員プレゼンを行って終了する。

そのレクチャーでこんな素材をとりあげた。ベサンコ他『戦略の経済学』に出てくるケースなのでマネージャークラスであれば知っていても不思議ではない話だ。

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1983年、フィリップス社は巨額の研究開発投資の成果である新メディア"CD"のプレス工場をアメリカに建設するかどうかで迷っていた。なぜならCDというメディアを市場が本当に評価するかどうかが不確定だったからである。

アメリカに進出する場合、建設投資額は1億ドルである。それに対し、売り上げ収入の現在価値は、うまくいった場合で3億ドル。市場が評価してくれなかった場合は0.5億ドルと予測しなければならなかったーちなみに、この見通しはある程度大方の専門家が合意していたものだ(と前提する)。

要するに、アメリカに新規進出する場合、大きなリスクがあった。確率50%でプラス2の利益(=3-1)が見込めるものの、確率50%でマイナス0.5(=0.5-1)の損失がありえた。単純に期待値をとれば、利益を$X$として$E[X] = 0.5 \times 2 + 0.5 \times (-0.5) = 0.75$のようにプラス値であった。が、損失を被る可能性はリスクとして意識せざるを得なかった。

検討の結果、1983年の時点でフィリップス社はアメリカ進出を1年間延期するという選択をした。なぜなら、1年間待つことによって市場がCDを評価しないことが明確になれば建設計画を放棄するという選択肢を留保できるからだ。すなわち、いま直面しているプラス2か、マイナス0.5という二択ではなく、1年待てばプラス2(=進出)か、0(=中止)という二択になるのである。その期待値を83年という時点で求めれば$E[X] = 0.5 \times 2 + 0.5 \times 0 = 1$となる。

「待つ」という選択は十分意味があったのだ。

ところがフィリップス社が待っている間にSONYが1984年にインディアナ州テレポートに新規工場を建設してしまった。フィリップス社からみれば、SONYもまた同じ合理的判断をするはずだと読んだのだろう。名人の手から水が漏れたわけだ(という見方も可能だ)。

フィリップス社のアメリカ進出は大幅に遅れ、SONYの米工場がフル稼働になるのを待たなければならなかった。

特訓ゼミの履修者に課した論題は、フィリップス社が1983年に下した「1年待つ」という判断に合理的根拠はあったかどうかというものだった。さらに、待っている間にSONYが進出するかもしれないという脅威があったにもかかわらず、なぜ待ったのか。それも検討課題にあげたのだ。

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履修者には結構面白かったようである。もちろん彼らには、当初、期待値の計算は伏せておいたし、待つことによる期待利益、というか選択肢の変化は彼ら自身で考えさせた。

面白いのは、フィリップス社の判断が合理的なものであり、役員会議に十分耐えられる根拠を有していたという結論には到達した反面、SONYが1983年の時点で、まだ大きなリスクが残っていたにもかかわらず、よくアメリカ進出を決断できたというその点については、合理的な説明を思いつくチームがなかったことである。



あれから30年・・・である。その後、SONYは往年のバイタリティをなくしてしまった。最近こそ、復活の気配があるが、30年前のSONYと今のSONYはズバリ言えば別の会社であろう。人も違っている。作るものも違っている。フィリップス社は相変わらず「合理的な会社」である。常に「正論」に沿った選択を続けてきた。

『フィリップス社の特徴は、とにかく戦略的な撤退の名人である点です。撤退を、それ自体としてみれば単なる敗北ですよね、しかし撤退することによって、本来の自分の目的をより確実に達成する見通しができてくるなら、これは立派な戦略になります。フィリップス社はここが上手い』。

結局は社風というものだろう。

フィリップス社の行動パターンが好きか、(往年の)SONYの行動パターンが好きか。これは日本の戦国大名の誰が好きかという、そんな問いかけに似ている。

誰が天下をとったか。それには「能力」もあるだろうが、それ以上に時代の巡りあわせがそうさせた。こう見るしかないのが現実だと思う。「時代」がその人、というかその人達を選んだのである。



日経からメールが届いた。

『マッキンゼー流 最高の社風のつくり方』
 http://mx4.nikkei.com/?4_--_53670_--_20395_--_1


最高の社風のつくりかた・・・いやあ、まだそんなことを言っているのか。そう思いました。

なぜ優劣をつけたがるのでしょう。「最高の」社風などつくれませんよ。読むに値しないので読んではいません。

変わる時代のその環境に(タマタマ)最も適合した会社が選ばれていくのだ。適者生存とはそういうものである。そこで生きている人間の目には、その結果は必然だと思われるだろうが、あとから考えれば、その人が、その会社がタマタマそこにあったから、選ばれたに過ぎない。

変わる世界に自らを合わせて変わっていくことが大事だ・・・?

何を言っているのだか ― まあ、言いたいことはわかるが。そんなブレる会社をどの投資家が信頼するか。何をするかわからない会社は、うまく行くかもしれないが、消えてなくなるかもしれないのだ。

この会社は、こういう会社だ。それが社風である。だから受け入れられ、信頼されるのではないのか。そんな会社は(No.1にはなれなくとも)残るものだ。

いつの時代でも生き残る会社はある。あってほしいと思うような会社はある。しかし、どの会社が時代に適合し、ナンバーワンになるか。それは誰にもコントロールできるものではない。

「最高の社風」を意図的につくろうと思うその段階で、その会社は負けである。時は過ぎゆく(Tempus Fugit)。「最高の社風」だと思うその瞬間に、その会社は脆弱になり、衰退への道を歩き始める。「我が社の社風は問題ですヨ」と、そう語る人で構成される会社は何かを考えているのである。

そう思うのだ、な。

人間も会社も、「己の道を行く」。それしかないし、それでいいのではあるまいか。『人生意気に感ず、功名誰かまた論ぜん』というのは、こういう意味であろう。

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