2016年5月3日火曜日

富の偏在をどう思う?

世界の中の1%の人間が世界の富の99%を保有していると聞けば、確かにこの世は公平ではないと感じる。

もし、世界の人がすべて平等に等しい富をもてるようなシステムがあれば、理屈としては誰も貧困に陥ることはなくなる。そのほうが善い世界であると思う人は多いだろう。

ただ、そんな世の中が本当に住みやすくて善い世の中になるかといえば、それはそれで別の住み難さが出てくるに違いない。この辺のことについては本ブログでもこれまで何度も投稿している。


特に覚書きの必要がない時には、Evernoteに保存した記録を見ることにしている。

そうしたら『「世界の大富豪」格差拡大と「IT長者」台頭の地殻変動』というタイトルの報道(?)があるのに気がついた。これは『「世界の大富豪」成功の法則』(城島明彦著・プレジデント社)に対する書評にもなっている。

このままでは忘れてしまうので、ブログにメモしておく。一部分を抜粋・引用したい。最後のところだ。
いま話題の企業では、シャープ買収に動いた台湾のIT企業ホンハイ(鴻海精密工業)の創業者郭台銘(テリー・ゴウ)は、昨年より5億ドル減の56億ドルで台湾2位、世界228位である。一方、韓国では、“液晶テレビのシャープ”を追い詰めたサムスングループの李健熙(リ・ゴンヒ)会長が韓国一の大富豪で、資産額は2015年より15億ドル減の96億ドル、世界順位は10位下げて112位となっている。
東芝の粉飾決算騒動やシャープの身売り話は、世界をリードしてきた日本のエレクトロニクス業界の落日を象徴している。そんな日本を尻目に、「IT立国路線」をひた走っているのがインドだ。インドの大富豪トップは、3大財閥の「リライアンスインダストリー」の2代目ムシュケ・アンバニ(58)で、前年より17億ドル減の193億ドルで36位。すぐ上の35位に、PC直販の「DELL」の創業者マイケル・デルがおり、実力のほどがわかるのではなかろうか。デルは、わずか1000ドルの資金で創業した。
デルを彷彿させるような日本人起業者が出現して、「フォーブスのビリオネアランキング」の上位に彗星のごとく躍り出る日は、いつになるのか。
(出所)上記リンク先

デルを彷彿させるような日本人起業者が出現して「フォーブスのビリオネアランキング」の上位に彗星のごとく躍りでる日はいつになるのか・・・?

本当にまったく、いつになるのでしょう、と。
ここで暗澹とする人物と安心する人物に二大別される気がする。


日本社会がもっと不平等になるのを受け入れれば、ビリオネアは出現できるのだろうか。

不平等を気にしなければ、日本においても世界ランキングに登場するようなビリオネアが出現可能だと小生は思っている。

とはいうものの「平等が善い」という公理から議論をスタートさせれば、生まれてくる不平等はすべて許せないはずだ。これは理の当然である。平等がよいと言いつつ、同時に近年の日本経済に問題はないというのは矛盾している。

「大富豪」が登場してくること自体、格差拡大の象徴でもある。平等を是とする人物の目には、成功した大富豪が「成功例」とは映らず、「社会の失敗」と映るはずである。

これが当然のロジックだが、ここまで言われると「そうなるのか」と感じる向きもあるだろう。

上に引用した文章は、世界的ビリオネアが日本にも登場してほしいという願いが込められているようだ。ということは、不平等はそれ自体としては悪くはないという大前提に立っている。この発想は平等をそれ自体として善しとはしない立場である。


成功した創業者が得る巨万の富はなるほど人を羨ませるに足る。羨ましいと同時に納得できるか否かという点もカギだ。その富は、人々が待ち望んだ新たな商品を創造し、世界に提供したことへの報酬だといえば、それでそれで論理は通り、倫理にも反していない。

そう思えば、大富豪即ち社会の失敗とはならず、自分もそうなりたいドリームでありうる。確かにこういう考え方もあるわけで、これが(今のところ)現代経済学の主流になっている。

それでもなお、生産過程に貢献してきた度合いが個人間でそれほど大きな違いになっているのだろうか?こんな疑問もあってよい。1%の大富豪が手にした富のその何割かは、本来はその人のために手足となって働いてくれた従業員がもらうべき部分ではなかったのか?いや、経営者と従業員のみが、その企業の生産過程に参加したのかといえば、その企業を支えている資源や基盤の大半は現代社会の全体そのものであるとも極言できるだろう。

こんな問題意識に囚われれば、正にこれはマルクスの言う「搾取」になる。こんな経済理論は、経済理論が進化する中で完膚なきまでに論破されたはずであるが、数学の証明と同じくいくら現代経済理論を勉強しても「これで搾取や剰余価値の存在が論破されたことになるのか」と感じる人はなお多いに違いない。


何故こんな経済的現実になっているのか?
そのメカニズムを合理的に解明することが経済理論の役割だ。

しかし、これだけでは全ての現実はロジックに沿ったもので、合理的であり、(善いか悪いかは別として)そう成るべくして成ったものとなる。

論理は通るが、数学の証明を読んで納得できない思いをもつ人は多かろう。それと同じだ。

現実を説明するのであれば、もっと他にも説明のしようはあろうじゃないか。これでは何をすればいいのか分からない。そう言いたくなる気持ちは畑違いの人は誰でも一度はもつようである。

人は、問題が何であれ「論理的に」説明されてしまえば、「そうなのか」と言いたくなるものだ。これではありのままの事実を認めるしか選択肢はない。ありのままの事実から別の状態へ変えたいなら、変えることが理にかなっているという論理構造にしなければ、人は動機付けられない。

社会の進化はイノベーションによる・・・、同じことを100年も言い続けるのは芸のない話だ。

★ ★

それにしても、今日が憲法記念日ということなのだろうが、某TVニュース番組では「憲法9条の発案者は誰か?」というテーマで「専門家」が意見を開陳する予定だそうだ。

わからぬ・・・。

発案者が誰であるか。新しい事実が発見されたのだろうか。発見されたにしても、それは学問上の事柄ではないのか。日本人であるか、外国人であるか、日本政府であるか、当時のGHQであるか?戦後71年が経った現在の日本人が、発案者が誰だったかという真相に束縛されることがあるのか?法制史専門家や歴史家には興味があるだろうが、その経緯を知って、というより正しい答えが見つかるとして、これからの行動計画を変えたりする理由になるのか?

わからぬ・・・。なぜ憲法制定前後に関する意見が「報道番組」に登場する話題になるのだろう。






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