2016年3月23日水曜日

ヘソ曲がりの賭博論

何度も書いているが、小生はどこからどこまでもヘソ曲がりである。なので、普通の会社勤めや役所務めでは芽が出ない。そんなことは「生まれた時から」分かってたってものヨ。
  監督経験を持つある球界関係者が「(金銭を)励みにする部分もあって判断基準が難しい」と話すこの問題。だが、“仕事場”を巡り非公式に金 銭が行き交っていた感覚が批判を浴び、セ・パ両リーグがそれぞれ急きょ臨時理事会を開催する事態に。ソフトバンクの長谷川選手会長は「僕らの中では当たり 前に思っていたことが世間では異常なことが分かった」と語った。
 こうした金銭授受について、熊崎コミッショナーは1月29日に一切禁止する旨の通達を発出していたが、公表が後手に回った印象は否めない。  
 NPBは昨秋、元3投手の野球賭博問題を調べる過程で、調査委が円陣を巡る金銭授受の事実も把握していた。だが、報告書に簡単に記載された だけで、詳細は明らかにされなかった。巨人での発覚を受けて聞き取りをするまで事態が判明しなかった球団もあり、熊崎氏のいう「賭博の温床」は放置されて いた可能性もあった。
(出所)日本経済新聞、2016年3月23日

世間では異常なことが業界の中では当たり前で通っている・・・これは既視感があるねえ、デジャブだ。

何年か前は相撲が槍玉に挙げられた。芸術の総本山である日展でも入選したら謝礼を審査員に払うという慣例が露見して世間を騒がしたことがあった(と記憶している)ー 確か書道でバレたのだが油彩画部門でもあるというので、日展の「自己浄化力」が試されるとか、人の口には戸はたてられぬ。そんな状況になってしまったが、寡聞にしてその後何かが変わったのか耳にはしていない。ま、報道とはそんなものだとはいうものの、無責任なことは言えないが、あの当時は芸術大学の教官たちも冷や汗ものであったにちがいない。

まあ、芸術もプロスポーツも非日常性を演出するものである。あるものを在るがままにただ写すだけでは、人の心を打つ、というより人の関心をひくような風にならない。

要するに、当たり前のことを常識的にやっていてはダメなのだ。そこがビジネスとは違う。いや、ビジネスもかつては野心あふれる剛の者の成功物語の舞台たりえたが、いまではコンプライアンス(遵法精神)が重視され、世間の感覚とかけ離れた金銭授受ー社長や取締役の報酬も含めてーには反発が強くなってしまった。

いま小生はシュンペーターの『資本主義・社会主義・民主主義』を20数年振りに再読しているのだが、やはり面白い。資本主義は経済システムとして成功をおさめ、豊かな社会を実現し、であるが故に民主主義が浸透し、その果てに人の考え方が変化し、常識と世間知が支配者を抑制し、制度は(自然に)社会主義化していくのである。

非日常を演出する芸術とプロスポーツは、現代社会においてただ一つ残された『夢と冒険の世界』であったにちがいないが、そこにも遂に常識化・世間化の波が押し寄せるのか・・・。

もし国際法が遵守され、リーガルマインドが何より重んじられていれば、英国を興隆に導いたキャプテン・ドレークもジョン・ホーキンズも登場できなかったはずだ。試しに、両者を検索してみたまえ。職業は、私掠船船長にして海賊、海賊にして海軍提督だ。

日本の歴史に類例を探せば、平安期・藤原摂関政治もピークを越した11世紀に日本の東北で突然勃発した内戦、前九年の役・後三年の役で英雄となった八幡太郎義家を挙げられよう。合戦に血をたぎらせ、無限の栄光を夢見て命をかけた強者(ツワモノ)たちも、京の都の既存政権からみれば、義家本人が政権内アウトローであり、その取り巻きはすべて法を尊重せず欲深で非常識な連中であったのだ、な。

ま、「武家政権」というのはアウトローがオーソドクシー(正統派)をひっくり返してできた軍事政権だ ー というのが、 大義名分論に基づく正統派歴史観である。

話題がそれた。

一から勉強をする時間はもうないが、『コンプライアンスを重視するイノベーション』というのは、論理的にあり得るのか?若ければ、こんな問題を分析してみたいものだ。

イノベーションが、文字通り、時間的には独立しているが、毎時点のショックの大きさに一定の確率分布が当てはまるなら、十分な時間の経過のあと、想定外の変動が起きる可能性などは確率的には十分無視できるようになる。ということは、世を変えるほどの創造的破壊は、人を驚かせ、恐れさせるようなものであるはずで、故に時の政府の立場からみれば社会の安定を損なうものとして扱われる。そんな感じがするのだが、きちんと議論すると案外奥行きがあるかもしれない。

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