2016年2月16日火曜日

愛 vs 不倫 vs 幸福

世は不倫騒動の真っ只中にある。もちろん某国会議員の不倫騒動が原因だ。いまみているTVのワイドショーでも『不倫って悪いことですか』、『もちろんそうですよ!』というやりとりがあった。


何度も断っていることだが、小生は骨の髄からへそ曲がりである。

ではあるが、何も渡辺淳一的世界を支持しているわけでもないし、太宰的人生をおくろうと思っているわけでもない。

ただ、思うのですけど、不倫を非難する立場もあるかもしれないが、男女の愛はそれ自体としては、この世の中で最も肯定されるべきことだ、と。そうも思うわけだ。


 不倫といえば、(まさか日本人の1ブロガーが引き合いに出すとはご本人は想像もしていないだろうが)クリントン元大統領夫妻。小生も具体的な知識はないし、風聞だけでこんなことを書けばそのうち本稿は削除される可能性もある。ではあるが、ここに記しておくと、世に名高いご夫君の多くの行為は、世間でいう所謂「不倫」とは違うのじゃないかと語る人も多いそうなのだな。ご夫君の元大統領は、育った過酷な環境がそうしたともいえるのだろうが、「異常」なほど弱い立場にある人への「愛情」が強かったそうである。ある日、選挙運動中に窓の外をみると足の不自由な老婆が歩いていた。それをみた元大統領は車を降りて、老婆に駆け寄り、歩行の困難なその人の支えになってあげ、ベンチまでたどり着くと座らせてあげ、老婆の手をとって接吻をしたそうな。単なるパフォーマンスかもしれないが、それにしても「ここまでやるか?」というヒトは多いだろう。これが常識論だろう。また、人を抱擁するというのは日本国外では普通の習慣だが、それにしても(これは元大統領とは関係のない話だが)若い女性を5分間も抱擁するとなれば、しかも同じ女性に対して「異常」なほど親しい態度をとれば、女性も誤解をするし、世間はそれを「不倫」と非難する可能性が高かろう。

要するに、「人はいろいろ」。そういうことである。


人間はなぜ生きているかといえば、幸福になるためであって、社会の一部品になるために生きているわけではない。

社会それ自体に価値があるのではなく、そこで生きている人間が幸福であるかかどうかで、その社会の存在の意味は決まる。

社会というシステムが機能するには、法もあるし、倫理もある。しかし、法を守る、倫理を守るという、そのこと自体に究極的価値があるわけではない。

幸福を実現するにはどう対処すればいいのか。最も大事であるのは、常にこの一点にある。これだけは永遠に真理である。というか、唯一の真理である。

そう思っているのだ、な。

故に、鬼の首をとったように「これは不倫ですよネ」と語っている画面を見ると、「あなた、そんな風に人を非難して給料をもらっているんだろうけど、いい加減にしなよ」と言いたくもなるのである。

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