2015年9月28日月曜日

ブルックスとコストコ

昨日は入試業務があったが、午後だけ2時間程であったから、さして疲労はない。今日は朝から雨模様であったが、どこかに走りたくなった。

で、久しぶりに隣町S市にあるコストコ(Costco)まで肉を買いにいき、ついでに足を伸ばして三井アウトレットモールで掘り出し物を探してきた。

北の大地では冬が早く来るので、そろそろ冬用の靴でも買い入れるかと、そう思ってまずティンバーランドの店内を見てみたのだが、どうも気が乗らない。で、カミさんが行きたいというZwilingでヘンケルなどを見ていると向かいにブルックスブラザーズがある。のぞいてみると、いいのがないので困っていたジャンパーがつるしてあった。犬も歩けば棒にあたる、である。

靴を買おうと出かけていって、服を買って帰った。

残念なのは、コストコにあるはずの「ごぼうチップス」がなかったこと。在庫が切れているなら事前に知りたいものだ。行って、ないのは、ガッカリする。

それにしてもコストコは、トイレまでアメリカ的に作られていて、無機的で衛生は保たれ、石けんも水もタップリ出るのだが、居心地はよくない。

ま、それは許容範囲だが、これだけWEBが利用されている時代だ。提案したい。

品目名で検索すれば、本日時点でそれが陳列されていれば<販売中>、在庫がなければ<売り切れ>と、行って買えるのかどうかが事前に分かる、そんなサービスサイトをつくってほしいものだ。

店に行くタイミングを決めるのが目的だから、客数が減ることにはならない。それどころか、サービスの充実によって新規顧客を誘う効果があるだろう。

帰途、高速を走行中、海の方をみると雨上がりの晴れ空に美しくて大きな虹がかかっていた。こちらのほうが「犬も歩けば棒に当たる」だった。

2015年9月24日木曜日

BMW: お前もか?

ドイツ本国ではVWショックで騒然となっているようだ。

BMWでもディーゼルエンジンの規制逃れは行われていたという憶測が自動車情報サイト"Auto Bild"で掲載されたため、フランクフルト市場のBMW株価は随分下がったという。
Frankfurt   Die BMW-Aktien – im Dax schwerer als die von VW gewichtet – sind am Donnerstag nach einem Vorabbericht der „Auto-Bild“ über angeblich ebenfalls überhöhte Abgas-Werte bei Diesel-Fahrzeugen massiv unter Druck geraten. Die Aktien brachen ein und verloren zur Mittagszeit rund neun Prozent auf 72 Euro. ・・・„Der Bericht über möglicherweise überhöhte Abgaswerte auch bei BMW hat viele Anleger beunruhigt“, sagte ein Händler. „Es wäre komisch, bei geschönten Werten nur an VW zu denken. Da werden sicher nicht alle anderen als Heilige in den Himmel kommen“, erklärte Robert Halver von der Baader Bank.
Source: Handelsblatt, 2015- 09-24

VWだけがやっていたのか?

そりゃあおかしいよ、と。

が、今回の不正発覚のきっかけになった米大学の実験では、BMWの実験結果に異常はなかったと言う(WSJ報道)。

が、万が一ということもある。ならば、ドイツメーカーだけの不祥事であるのか??

今後、思いもよらないほどの大スキャンダルになるないことを願う。


2015年9月23日水曜日

Another Black Swan: VWスキャンダル

何とクリーンディーゼルで一世を風靡してきた独社・フォルクスワーゲンが、そのディーゼルエンジンで消費者を欺く(というか、当局の排ガス検査を欺く)不正を続けてきたというので、2兆円を超えるかもしれない巨額の制裁金を課される見通しとなった。既に8千億円程度をトラブル対応に計上したということで、大体2兆円前後のVWの利益は飛んでしまうのではないかと心配されている。

独紙Frankfurter Allgemeineは、ディーゼル・スキャンダルに見舞われたVW本社は1セントを惜しむようにもなるだろうという形容をしている。

……  Und in den kommenden Jahren wird angesichts von Belastungen rund um den Dieselskandal, deren endgültige Höhe noch gar nicht absehbar ist, in Wolfsburg plötzlich jeder Cent gebraucht werden.
Source: F.A.Z, 2015-09-23

フランクフルト市場におけるフォルクスワーゲンの株価は、中国市場の失速から年初の178€から9月18日時点で既に161€まで約10%低下していたが、その後のフリーフォール的な暴落で110€にまで落ちてしまった。下落率は何と32パーセント。1億円のVW株を持っていたとすれば、週が明けたら突然3千万円以上が消えていたわけだ。

不正が発覚したタイプのディーゼルエンジンを搭載した同社製品は、世界全体で1000万台に達するという。ほぼ確実に無配となるだろう。これから1か月の間にVWの株価は高値の半分になると見る ― 半分で落ち着いたらまだラッキーだ。

日本勢のハイブリッド、電気自動車路線とは差別化されたクリーンディーゼルこそがドイツ自動車メーカーの強みだった。そのディーゼルエンジンの信頼性に傷がついたのであるから、エネルギー価格のボラティリティに対する独社の戦略的な脆弱性は覆い隠しようがなくなったと言わざるを得ない。今後の競争優位をどうやって再構築するのだろう。「顧客評価、一たび去って復た返らず」となるかもしれない。

ただ、VWがこけたメリットを韓国のHyndai社が享受しようという韓国紙の見通しは、米国市場ではVWのシェアはそれほど高くなく、欧州市場ではポジションの重複したライバル他社がひしめきあっているので、これには一寸首をひねる。

2015年にはVWがトヨタを抜いて年間生産台数のナンバーワンになるだろうと言われていた。『チャンスの後にはピンチあり』である。・・・そしてまた、『失敗は成功のもと』であると同時に、『成功は失敗の始まり』でもある。

VWは米国市場で中々シェアがとれず販売には苦戦していた。その裏側には日本メーカーのシェア上昇があった。その日本メーカーは中国市場では苦戦してきたのであるが、その裏側にはドイツ車、特にVWのシェアの上昇があった。成長率では確かに中国市場は魅力であるが、中国市場への依存性が高まることは、予測しがたい経済的クラッシュに対してヴァルネラブルでもある。そもそも中国市場を制するには利幅を薄くして、数量志向の戦略を推し進めるのが本筋になろう。それには能力拡大投資を先行的に進めなければならないわけであり、ここからもリスクの高まりが成功の背後で進行することになる。アメリカ市場でのシェア向上はVWにとってはマスト(Must)であったろう。今回のVWの失敗の遠因には北米市場における日独間競争での劣勢があった。そう言うと的外れだろうか。そしてその劣勢の背後にはHV、EVなど化石燃料後の新技術を育てる戦略で出遅れていた点がある。これまた言い過ぎだろうか。

どうやら、経営トップの誤った戦略が無理なオペレーションを現場に強いたという普遍的なパターンである、と。そう思う。ヴィンターコーン氏の責任が取りざたされているようだが、免れんネ、とみる。

マ、いずれにしても一から出直しやで。

2015年9月19日土曜日

安保法案成立 → 今後の進展の予測

昨日、東京で墓参をして帰ってきた。シルバーウィークの始まりというので、乗った便は満席だった。何の理由かは知らないが、使用機の到着が遅れたというので帰りの飛行機が約2時間も遅れ、後続の札幌便にも抜かれてしまい、千円の払い戻しがあった-新幹線なら2時間の遅れで特急券が払い戻しになるので概ね5割の戻りとなる。千円とは文字通り「雀の涙」であるなあ・・・それにしても一人の怒号もなく、搭乗口周辺は誠に整然としていた。

それはさておき・・・

本日の新聞のヘッドラインは安保法案成立の一色だ。とはいえ、一面ぶち抜きで(例は物騒だが「▲▲大統領暗殺さる」のようなレベルとは全く違って)、控えめな扱いであるとみた。

複数の新聞の社説を比較する気にもならないので、日経(9月19日付け朝刊社説)の論調を覚え書きとして引用しておく。要点だけの抜き書きになるが
日本は何もせずに平和がもたらす繁栄を享受しているのではないか。そんな世界の声に応えようと、1992年のカンボジアを手始めに国連平和維持活動(PKO)に自衛隊を派遣し始めた。
こんな認識がまずあって、
ただ、中身は道路補修など非軍事分野に限定してきた。今回の法整備によって、派遣部隊の近くで民間人がテロリストに襲撃された場合の駆けつけ警備などができるようになる。
 こうした安全確保活動は、テロの標的になることの多い米ロのような超大国には不向きである。これまではスウェーデンなどのPKO先進国が主に担ってきた。日本もいつまでも「危ないことに関わりたくない」とばかり言ってはいられない。
こう続けている。

小生の回りにもこんな風な事実認識をもっている人は極めて多数いる。特に「日本経済の最前線」で働いているJapanese Businessmen達には、常識的な指摘ではないだろうか。
冷戦が終結して四半世紀がたつが、東アジアの安全保障環境は残念ながら改善したとは言い難い。朝鮮半島は引き続き不安定だし、中国の海洋進出は日本を含む周辺国と摩擦を引き起こしている。
 戦後日本は日米安保体制によって、外からの攻撃などの不測の事態に備えてきた。同盟を一段と強化するという方向性を否定する有権者はさほど多くないはずだ。
「集団的自衛権」を行使するという選択自体に反対をする人は多くないはずだという、この指摘も同感だ。極めて常識的。

とはいえ、現行の日本国憲法をそのままにしておいて、「できない」と言ってきたことを「できるようにしたから」という進め方には、さすがに無理を感じる。ま、そんなところが最大公約数だと思われる。

締めくくりは
この人ならば国のかじ取りを任せられる。そんな安心感のあるリーダーの下でなければ、集団的自衛権を実際に行使するのは難しかろう。安倍首相に期待することは多い。有事に備える一方で、周辺国との摩擦の解消へ外交努力を進めることが一例だ。対立をあおるような言動はその反対である。

 法整備だけで世の中が一変するわけではない。どんな仕組みも機能するかどうかは動かし方次第である。のちのち失敗だったと言われないためにはどうすればよいのか。重要なのはこれからの取り組みだ。
 安保法制を生かすも殺すも、使い手にかかっている。
生かすも殺すも使い手にかかっている。確かにそうである。この結論も常識的だ。

ではあるが、「制度的な不備」は、問題解決しておかないと将来必ず悪用する権力が出てくる。戦前期の軍国主義はもともと政党政治が堕落する中で野党が言い出した「統帥権独立」に軍部が着目したことに始まる。

使い手の意図が極めて大事だが、最終的に帰結する結果は総理や防衛相という政治家個人の資質ではなく、制度設計の論理から生じてくるものである。

★ ★ ★

どちらにしても、戦後体制は大きな曲がり角をユックリと曲がろうとしている所だ。これからの進展についていま予測していることをリストアップしておく。


  1. 反対デモが報道されたが、通常、デモは反対のためにするもので、賛成デモはあまりしないものだ。放映された反対デモの背後には、相当数の賛成派、というより「理解」派、「同感」派、「いいんじゃない」派等々の国民が多数いると推察される。大体、全国の主要大学のどこで学生集会が開かれ、どこの大学で「安保法案反対全学スト」が議決されたのか。小生の大学では、立て看板はおろか、ビラもポスターも全く、一枚も目にしない。食堂で学生達が安保関係の話しで議論している様子もない。マスメディアもまたコア層がどこにあるかに気がつき、報道の姿勢を変えていくだろう。それも「急速に」である。
  2. 政権批判は来春あたりまで続くと思うが、それと同時に戦後の憲法学界の潮流について様々な企画がなされ、憲法学界だけではなく各分野から色々な意見・指摘が掲載される。そんな中で、誰か、いずれかの憲法学者が自己批判的な文章を発表するのではないかと思われる。それをきっかけにして、憲法学界の中の旧世代と新世代の間で論争が始まる。そして新世代の中から台頭する「新立憲主義」が世間の喝采をあびる。概ね4、5年位の間には新しい潮の流れが目に見えてくる。
  3. そんな新しい立憲主義の展開、浸透から第9条だけではなく、複数の条文を対象に憲法改正案が(名誉回復、というかリベンジの意味からも)学界から提案され、次に与野党が合意する臨時憲法調査会が設置され、その答申を元にして改憲が発議される。今から8年ないし10年くらいはかかるのではないか。残念ながら安倍現総理が憲法改正にまで至るのは無理だろう。無理をすれば必ず制度的欠陥が混じる。
  4. この改憲発議までの8年乃至10年の間には、必ず今回の安保法制について違憲訴訟があり、最高裁はいずれかの時点で違憲判決を出す。それによる混乱と新立憲主義の浸透から憲法改正への動きが多くの国民から支持される。
大体、こんな風な予測をたてているところだ。

が、できれば8年乃至10年の時間を5年前後にできないものか。

小生は専門分野も違うし、もうしんどい。現役を引退したあとは田舎に陰宅を構えて晴耕雨読+ガーデニングの毎日を楽しみたい ― 多分にカネ次第のところもあるのだが。政界と学界には頑張ってほしいものだ。もはや<壮>ではない世代の楽しみは、自分が幸いにして無事に<老>になったあと、年若の<壮>が戦う様子を見ることなのだ。だんだん、これがピンと来るようになった。

2015年9月15日火曜日

時代から先走りすぎた財務省の税還付案

マイナンバー制度を活用した財務省の消費税還付案はもはや風前の灯であるらしい。
 消費税率10%引き上げに伴い、財務省が提案した飲食料品の2%分を払い戻す「還付制度」の与党合意が困難な情勢になってきた。自民、公明両党議員からの批判が噴出していることに加え、世論の支持も得られていないためだ。両党は15日に与党税制協議会を開くが、白紙撤回のシナリオが現実味を帯びている。
(中略)
公明党は地方の党員の声や世論を踏まえ、与党協議を通じて還付制度への反対を強く訴えていく構えだ。来年夏に参院選を控えていることもあり、還付制度の導入の是非をめぐる議論が長引けば政権運営に影響しかねず、安倍晋三首相が早期の判断を迫られる場面が出そうだ。
(出所)Yahoo! ニュース、産経新聞、2015年9月15日

確かに、納めすぎた税の還付を申請するのは面倒くさい。不評であるのは当たり前だ。それも、まだ始まっていないマイナンバー制を前提にしているのだから、誰でも「???」となるのは仕方がない。

とはいえ、欧州型付加価値税(VAT)もそうだが、同型の間接税である日本の消費税であっても、支払いすぎた税を後で還付してもらう制度は極めて一般的に採用されているものだ。

そもそもVATも消費税もそうだが、仕入れ時に自社が支払っている税額と売り上げ時に顧客から徴収する税額の二つがある。当局に納める税額は後者から前者を差し引いた金額である。それを根拠づける証票がインボイスである。もしも受け取った税より支払った税が大きい場合、マイナスの税額となるので、これは当局に申請して還付してもらうのである。税に関する資料はどれも細かい。中でもこれが便利かもしれない。

付加価値税の還付は域外消費者が税込みで購入した時にも行われる。還付申請をしなければ、納めなくともよい税を納めたままになる。これも財務省の還付案に近いところがある。

財務省案は、消費者としての国民個々人がマイナンバー制の下で、事業所と同じように税を支払ったり還付してもらったりする、そんな社会への道筋にある。還付自体はいまでも確定申告や年末調整でもやっているわけだが、ここが効率的になるのは基本的にいって「便利」である。こう考えると、未来は多分こんな風になっていくのだろうと思わせる所があって、極めて先進的であると小生は感じていたりする。

が、しかし、物事は徐々にしか進まないものだ。今度ばかりは、時代をはるかに超えている。理論的には正しい方向だと思うが、5年は待たないといかんだろう、と。

少なくとも、個別商品の間で軽減税率対象品目と非対象品目とを仕分けなければならない文字どおりの「軽減税率」。これは理屈に合わぬ箇所が多々発生して来るのは必至であり、本当はこちらの方が非合理的だ。これよりは、財務省案のほうが(実は)スッキリして合理的であると、思うのだがねえ・・・。

ま、世間ではいわゆる「正論」というのは通らないものでござんすな。

2015年9月13日日曜日

日本の地政学的ポジションで硬性憲法は危なかったのではないか?

いうまでもなく日本国憲法は改正が非常に困難な硬性憲法である。それ故に制定後に一度も改正されていない。

戦後に限っても、憲法改正の回数はアメリカが6回、フランスが27回(というより、フランスは1958年にクーデター事件をはさんで第4共和制から第5共和制に移行した)、カナダが18回、日本と同じく戦争を放棄しているイタリアが15回、そしてドイツが58回となっている(出所:The Huffington Post, 2013-6-19)。

憲法を軽視しては立憲主義は成り立たない。がしかし、変化する国際情勢の中で次第に明らかになり堅固になってくる理念もあれば、新たに必要となる理念もある。だんだんと陳腐化してくる、もしくは重要性を失ってくる義務や合意もあるはずだ。故に、憲法は社会の基盤ではあるが、だからこそ常に条文の現実的妥当性には注意を払って、より良い憲法に進化させる努力が欠かせないと思うのだ。そして、この努力をするべき立場にあるのは誰かといえば、発議をする国会議員は当然としても、研究活動を通して理論的な基礎を整える所謂「憲法学者」の役割が極めて重要だ。最高裁に委ねる事柄ではないのだ、な。

そもそも自衛隊の存在自体が、9条の条文『・・・陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない』となぜ矛盾しないのか?外国では全て自衛隊は軍隊だとみている。それも強力な・・・。

これには長い議論の歴史があり、一冊の本にしても素人には理解が難しい。

そもそも1991年に海上自衛隊が機雷掃海を目的にペルシア湾に派遣されたことが、なぜ違憲ではなかったのか?

この辺りの専門的議論も微に入り細を穿つものであり、素人には神学論争にしか感ぜられない。

一般的に言って、議論が実証性を失い、神学性を帯びるのは、専門家が自己満足を求める時である。

漫談ではないが、戦後初めての海外派遣であるペルシア湾から数えても、『あれから24年…』である。どんな議論にも結論が得られているはずの時間だ。その後、自衛隊はインド洋にもイラクにも海外派遣されてきた。

憲法学界は、これらを全て現行憲法の枠内と解釈してきた(違憲だという人もいたと言っても意味のないことだ。戦後ずっと憲法は守られてはいないと主張するならまだ論理的一貫性がある。しかしこの見方は学界主流の見解とは言えないだろう)。率直に言って、ベトナム戦争が終結し東アジアに曲りなりの平和が訪れた1975年以降、89年から90年にかけての米ソ冷戦の終結を経て今日に至るまでの40年間にわたる憲法学の進展ぶりを振り返ると、小生はどことなく知的停滞、知的倦怠、知的怠慢を感じてしまう。

<護憲>とともに、社会の発展において憲法を良いものにしていく<超憲>の問題意識を専門家なら持っておくべきだった、と。こうした知的サボりのツケが、今後何年もの期間を通して、一挙にやってくるのではないかと予想しているのだな。

安倍政権の進め方も確かに独善的なところがある。と同時に、憲法学界・専門家の側で何らの自己批判もなされる様子がないのは、既に知的怠慢を通り越して、知的退廃の惨状をなしている。遺憾にして図らずも落涙を禁じえず、なのだな。

☓ ☓ ☓

経済学のケインズ革命では、その当時、30台の若手経済学者のみが急速な「パラダイム転換」についていくことが可能だった。戦後の経済政策では、新しい経済理論を消化した専門家のみが現実と向かい合うことができた。

法律には小生は門外漢だが、10年後の法学界において、理論的なリーダーになっているのは現時点において40歳未満の法学者であろう。いま現在、学問的権威とされている専門家はすべて「学説史」に名を残すのみとなり、現実の場ではまったく忘れ去られている。残念ながら、小生はそう予想している。

上の予想がもしも外れるなら、それはそれで結構良いことだ。

2015年9月12日土曜日

高齢化社会に多数の祝日は要るのか?

音大に通っている姪の発表会があるので、来週半ばから東京へ行く予定である。ところが、こちらに戻る日がシルバーウィークにさしかかる金曜日なのだ。

東京まで往復するときは、大体は新千歳空港の近くにある「いつもパーキング」に車をあずけておくことにしている。空港に隣接した駐車場に3日間預けると3600円かかる料金が大体半分で済むからだ。ところが、さっきインターネットで予約しようとすると18日以降はずっと満車だという。

カミさんは『シルバーウィークが始まるからねえ・・・油断したよね』と言うのだが、確かに油断ではあった。というより、実際の連休は翌週からであるのに18日からもう動き始めるのか、その辺の勘が鈍くなってきているらしい。小生も昔は祝祭日を待って旅行に動いていたのだが、今の仕事になってからは授業のある日は仕事に動く、そんな行動パターンになってしまっている。『人がいくなら、ウチにいるかな』と、そんな感覚だから、チケットはともかく、先手をうって駐車場を押さえておくところまで気が付かなかったということだ。

☓ ☓ ☓

しかしね・・・

自分が旅行にいくなら、他の人もいくはずだ、故にチケット、レンタカー等々、旅行に必要な資源は先手をうって押さえておこうと。そんな思考パターンをとっていたのは、ずっと昔のことである。その頃は、団塊の世代の方たちも現役でいらっしゃった。だから、なのだ。

今は、高齢化が進んでいて時間の自由がある人が多くなっているのではないか?そんな人は、わざわざシルバーウィークに旅行をするなどしないはずである。高齢者が連休をさけるなら、連休に動こうとする現役世代のプラスと相殺されて、シルバーウィークといっても客足のトータルはそうは変わらないはずである。しかし、現実には『連休だから混んでるのよ』。そんな状況だ。

どこかでおかしなことになっている……。小生としてはそう思われるのですね。

高齢者も週末や連休をまって動いているのか?平日は仕事をしているからか?そうなのだろうか?小生の周囲にも相当のお年寄りがいるが、「平日は仕事をしている」というパターンからはもう卒業しているご様子だ。

なぜいつまでたっても、連休は混む。こんな昔ながらのパターンが続いているのだろうか?

☓ ☓ ☓

そもそも連休をつくるための祝祭日が多すぎるのではないか?会社ごと、部署ごとにバラバラで休暇を交替でとればよい。それだけのことではないか。お上が連休をつくるから、会社側は平日の稼働率を一斉に100%にしているのではないか。だから連休中の稼働率をさげ、故に一斉に人が旅行に動くのではないか。だから混雑現象が発生するのではないか。

非正規社員が40%に達している現在、一斉に休暇をとる誘因は、社員の方にも、会社側の方にも、本来はもうあまりないのではないか。

だとすると、連休中の混雑はお上による自作自演の混雑ではないのだろうか。

ま、色々と疑問はつきないが、「国民の祝日」なるやり方も曲がり角にきていることは間違いないと思われる。

2015年9月10日木曜日

予測の面白さと不可能さ

昨日は久しぶりに会議があり、終わってから研究棟裏庭の階段を降りた所にあるパスタハウスにて同僚と昼食をとった。

いつもそうだが談論は多岐に渡ったが、そのうちジョージ・フリードマンの『100年予測』(早川書房)の話になった。「大胆予測」を超える、まあ、「空想」とも言えるような内容だが、案外、説得力があったりするので、読みながらも用心がいる。


21世紀の超大国というと誰でもが中国を思い浮かべる。

それは違うというところから始まる。

現在の中国が推し進めている海軍力増強は、ハードウェアの数量だけに目を向けた議論であり、実際には多分に「張り子の虎」である。それよりも中国の将来を決めている本質的要因は、中国国内の格差拡大である(この見方は実に本筋だ)。本来は沿岸部から内陸部に経済的富を移転する必要があるが、中央政府は末端の官僚のサボタージュに直面し、政治的に問題解決できない。中国沿岸地域と日本は経済的利害が一致するので、日本は移民ではなく中国との経済協力で日本国内の人口減少問題を解決しようとする。そして日本は2030年にかけて拡大する。拡大する中で、中国国内の不安定に介入する必要性を感じるようになる。かくして、日本の経済的拡大のあとには軍事的拡大のステージがやってくる。シーパワーとしての日本の存在感は高まっていく。というより、高めざるを得ない状況になる。

ロシアもまた中国と似た進路をたどる。

米国は、対ロシア外交の戦略的パートナーとして、ロシアの隣国であるポーランドと黒海から地中海への出口であるボスポラス海峡を押さえるトルコを支持する。これら二国も大国への道を歩む。

東アジアで拡大する日本が強大な海上勢力として米国の制御可能範囲を超えていくにともなって、米国は再び中国、韓国と結び、米中韓対日同盟をつくって対抗する。

日本は外交的な孤立に陥るが、インド洋の彼方で成長したトルコと枢軸同盟を結成する。トルコは北の大国となったポーランドとは相容れないため、ドイツを引き入れる。その頃、独仏を柱とする西欧とポーランドが対決するがポーランドの勝利となり、欧州の主軸は西から東に移動している。

日本・トルコ枢軸連合は、アメリカがその頃までには配置している宇宙軍事拠点を先制攻撃して無力化するが、結局、極超音速ミサイルが日本の海上勢力をピンポイントで宇宙から撃破して、日本は再び敗北する。


ま、そんな予測 - というよりストーリーであるのだが、文句なしの面白さとは別に、「こりゃあ、ないですよ」という箇所は確かに山のようにある。

たとえば、中国への経済的進出だが、今度は「門戸開放」、というか国際的コンソーシアム方式の中で進めるはずである。つまりは米企業であり、「寄ラバ大樹ノ陰」というずるい戦略である。パッとはしないが、戦前期よりはマシだ。明治の日露戦争で得た勝利の果実を、アメリカとの共同方式で発展させようとした伊藤博文の戦略は、彼自身の暗殺による死をきっかけに後退し、大正から昭和にかけて主流となったのは満蒙権益を日本の生命線とみる発想だった。伊藤博文の突然の退場は、確かに戦前期・日本の歴史に濃い影を投げかけたのだが、これと同じパターンの誤りが21世紀でも単純に繰り返されるとは思われない。

同僚は、しかし、こんな雑談を大変に好んでおり、上の話しとも重なる孫崎亭『日米開戦の正体』の話にもなった ― ただし、こちらは校正不備が目立つなど仕上がりには疑問が残る。

伊藤博文は誰でも知っている政治家だが、実際にどんな政略をもっていた人物か、案外よくは知らない人が多いのではないだろうか?

そんなことを言えば、戦後の吉田茂は実際の所、自衛隊をどうしたいと思っていたのか。ほとんどの人は何も知らないはずだ。こんな所が、無教養というか、歴史オンチなのだといえば確かにそうかもしれず、いま学校教育で一番抜け落ちている部分だろう。

いずれにしても、人間は予測できる敗北を避けようとするものだ。予測するが故に、予測できるが故に、その予測は(そのままの形では)実現しないのである。であるので、一寸先はやはり闇であり、100年先は五里霧中であるというのが最も正しい言い方だ。

2015年9月7日月曜日

とても危険でミステリアスな日本政界ドラマ

若い頃はミステリーの本格派が好きだった。どちらかといえば、クイーンやクロフツといった論理一筋の作風より、ヴァン・ダイン流の心理分析が大いに気に入っていた。心理といえばシェークスピアが最も高級で、ファイロ・ヴァンスの持って回った説明は品格のある味わいではとてもなかったが、どれも一気に読んでしまったものだ。

その心理ドラマだが、これから1、2年の間に予想される日本の政界を先読みすることほど面白いテーマはないかもしれない。

まあ、国の行く末がかかっている時に「面白い」というのも気が引けるのだが、不安の中で一生懸命に計算をする多数の関係者が繰り広げる人間ドラマは、これは文句なしに面白いのだ、な。


今月20日に自民党次期総裁が選出される予定だ。ところが、主だった派閥がすべて現総裁支持となり、どうやら無投票で現・安倍総裁が選ばれると思いきや、野田聖子議員が出馬に意欲を示していると報じられている―出馬要件である20名の推薦人を集めるのに苦労しているとのことだが。

・・・詳しいことは分からないが、分かるはずもないが、現時点で(本気で)次期総裁になろうと思う愚かな自民党議員はいないはずである。

安保法案が可決されれば、具体的にどのような措置に関してであれ、違憲訴訟が相次ぐだろうとは今から予測できるところだ。そして、どうも最高裁は違憲判決を出す可能性が高いのではないだろうか・・・。


実際に違憲判決が出るとする。

司法批判に打って出るマスメディアは皆無だろう。さすがに産経であっても、判決に疑問を呈する辺りが限界と見る。

さて、そこで・・・

政府が一部修正の方針を言明する。その場合、日本の国際的信頼性は失墜し、迷走状態になる。そもそも、この時点で現・安保法案を提出した安部総理以下、幹部はすべて総退陣せざるをえない ― ま、最高裁判決まで時間がかかるかもしれないので、その時の内閣がどうなっているかはわからぬが、訴訟が果たして出てきた時点で打撃は大きいとみる。

「修正の要なし」と言えば、違憲状態にある法律で国防政策を運営することになる。とても持たない。そもそも予算要求ができるかどうかさえ不確実だろう。行政府の徴税権にもクウェスチョン・マークがついてくれば正に「国家の危機」である。というより、直ちに内閣不信任案が提出されるはずだ。

さて、そこで・・・

司法無視の批判を浴びながら「解散!」となれば、結果は大敗だろう。大敗しなければ、司法の権威に傷がつき、日本社会の安定の基盤が損なわれる。

あるいは・・・

不信任案を否決すれば、理屈として司法批判を言わざるを得ず、国民感情を考えればこの路線ももって2ヶ月だろう。そして、いずれかの選挙で大敗して終りとなる。

「この先、行き止まり」なのだ、な。

憲法改正という王道を歩まずに奇道をとった報いか・・・、単なる政府機関である国鉄を改革するのさえ、土光会長を引っ張りだしてから「官から民へ」の理念を旗印に臨調を設け、ゆっくりと舵をきっていった。

内閣による憲法解釈については、再解釈する権利もあると考えるのが理屈だ。そして集団的自衛権は、本来、日本ももっていると考えなければ奇妙である。にもかかわらず、これらのことは全て国民が受け入れることが大前提だ。そして国民の優に過半数は、安保法案を今国会で成立させることに反対しているという結果が、世論調査で続いている。

昭和16年の対米開戦時点で、既に帝国陸軍から退役させられていた「天才的参謀」石原莞爾は、『この戦争は負けますな』と語っていたそうである。

そろそろ出口戦略を考えなければならない時機であるとみる。当事者は大変だろうが、横から見ているギャラリーにはこれほど面白い政治ドラマはない。ま、こう言っちゃあ身も蓋もないってもんでござんすが。


このような推移がかなりの確率で実現してしまう可能性がある。故に、誰であっても自民党次期総裁には立候補しないはずである。

2015年9月6日日曜日

安保法案の違憲性: 司法からのシグナルかも

参議院で審議中の安保法案はいよいよ採決日程が検討されている。ここまで来たら、一度は採決して正面突破しなければ、政権はもたないだろう。

そんな中で、山口・元最高裁長官が発言している。
元最高裁長官の山口繁氏(82)が3日、共同通信の取材に応じ、安全保障関連法案について「集団的自衛権の行使を認める立法は憲法違反と言わざるを得ない」と述べた。政府・与党が1959年の砂川事件最高裁判決や72年の政府見解を法案の合憲性の根拠と説明していることに「論理的な矛盾があり、ナンセンスだ」と厳しく批判した。
(出所)毎日新聞、2015年9月4日

憲法学者が今になって反対の論陣を張っているのは確かに知的怠慢である。とはいえ、成立後の安保法制に対して違憲訴訟が相次ぐのは必至の情況である。そして最高裁の考え方に法学界全体で支持されている学説は大きな影響力をもつ。


この辺の事情は、なぜ東京電力は福島第一原発で予想される自然災害について甘めの予想しか持てなかったのか。この点とも相通じていると思うのだな。現場のマネジメントは、結局、その時の学界主流派の知見から無縁ではいられないのだ。

要するに、専門的学界に広く共有されている意見なり、見解が、最終的には官庁や企業の行う大事な判断となって現れてくる。トップが何でもすべて知っているわけではない以上、これがロジックの基本である。

だとすると、上に引用した記事は、司法からのメッセージと見ることも可能であり、いよいよ日本の安全保障政策はこれから深刻な迷走へと入っていく。こんな予想は先日の投稿でも書いた。少し昔の「加藤の乱」、稚拙な民主党政権あたりとは比べ物にならないほどの深刻な混迷に入ってくる前兆とも思われる。

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戦後70年。時間的な位相を戦前期に求めれば、維新後70年は1937年。日中戦争が始まった盧溝橋事件の年である。崩壊への確実な一歩はこの年だった。

そろそろ戦後日本の体制がもたなくなってきている。その兆しということでもござんしょう。

話しは変わるが、いまの安倍政権。小生が好きな歴史小説に当てはめると、何だか幕末に井伊直弼が幕閣を率いた安政時代を連想するのだな。その前よりは強力であり、方向は正しかったのだが、結局、原理原則との矛盾を克服できずに体制瓦解への道を開いた。デジャブ、既視感というか、似ているね。そんな感覚である。

2015年9月4日金曜日

「天才的名参謀」というカテゴリーはない

天才的参謀と言うと、中国・三国時代に蜀帝劉備に仕えた丞相・諸葛亮孔明が引き合いに出されることが多い。

特に日本の講談ではそうだ。

しかし、もし孔明が天才なら、天才を使いこなした上司の劉備は何になるか?凡人には、孔明が天才であることすら洞察できなかったはずだ。かといって劉備は秀才ではなかったそうである。その劉備が孔明を求めるに三顧の礼をもってしたことは余りに有名だ。

臣、亮、言(もう)す。
先帝 創業未(いま)だ半(なか)ばならずして、中道に崩ソ(ほうそ)せり。
今、天下三分して益州疲弊す。
此れ誠に危急存亡の秋(とき)なり。
然れども待衛(じえい)の臣、内に懈(おこた)らず、
忠志の士、外に身を忘るるは、
蓋(けだ)し先帝の殊遇(しゅぐう)を追(おも)い、
これを陛下に報いたてまつらんと欲すればなり。
誠に宜しく聖聴(せいちょう)を開張し、
以(もっ)て先帝の遺徳を光(かがや)かし、
志士の気を恢弘したもうべし。
宜しく妄(みだ)りに自ら菲薄(ひはく)し、
喩(たと)えを引きて義を失い、
もって忠諌(ちゅうかん)の路(みち)を塞ぎたもうべからず。
宮中府中、倶(とも)に一体と為(な)り、
臧否(ぞうひ)を陟罰(ちょくばつ)するに、
宜しく異同あらしめたもうべからず。
若(も)し姦(かん)を作(な)して科(とが)を犯し、
及び忠善を為す者有らば、
宜しく有司(ゆうし)に付して、
其の刑賞(けいしょう)を論じ、
以て陛下の平明の治を昭(あき)らかにしたもうべし。
宜しく偏(かたよ)り私(わたくし)して、
内外をして法を異にせしめたもうべからず。
侍中・侍郎(じちゅう・じろう)
郭攸之(かくゆうし)、費?(ひき)、董允(とういん)等は、
此れ皆良実にして志慮(しりょ)忠純なり。
是(これ)を以て、
先帝簡抜(かんばつ)して以て陛下に遺(のこ)したまいけり。
愚(ぐ)、以為(おも)えらく
宮中の事は、事の大小と無く、
悉(ことごと)く以てこれに諮(はか)り、
然(しか)る後に施行せば、
必ずや能(よ)く闕漏(けつろう)を裨補(ひほ)し、
広く益する所有らんと。
将軍向寵(しょうちょう)は、性行淑均(しゅくきん)、
軍事に曉暢(ぎょうちょう)せり。
昔日に試用せられ、先帝これを称して能と曰(のたま)えり。
是れを以て衆議、寵(ちょう)を挙げて督(とく)と為す。
愚、以為(おも)えらく
営中の事は、事の大小と無く、
悉く以てこれに諮らば、
必ずや能く行陣(こうじん)をして和穆(わぼく)し、
優劣をして所を得しめんと。
賢臣に親しみ、小人を遠ざけしは、
此れ先漢の興隆せし所以(ゆえん)なり。
小人に親しみ、賢臣を遠ざけしは、
これ後漢の傾頽(おとろ)えし所以なり。
先帝在(ましま)せし時、
毎(つね)に臣と此の事を論じ、
未だ嘗(かつ)て桓・霊二帝に嘆息痛恨せずんばあらざりけり。
侍中・尚書・長史・参軍は、
此れ悉く貞亮(ていりょう)節に死するの臣なり。
願わくは陛下これに親しみこれを信じたまわば、
則(すなわ)ち漢室の隆んなること、
日を計えて待つ可(べ)し。
臣は本(もと)布衣(ほい)、躬(みずか)ら南陽に耕し
苟(いや)しくも乱世に性命を全うせんとし、
聞達(ぶんたつ)を諸侯に求めざりき。
先帝、臣が卑鄙(いや)しきを以てしたまわず、
猥(みだ)りに自ら枉屈(おうくつ)して、
三たび臣を草盧の中(うち)に顧いたまい、臣に諮(はか)るに当世の事を以てしたまえり。
是に由(よ)りて感激して、
遂に先帝のために駆馳(くち)せんことを許(うべな)えり。
後、傾覆(けいふく)に値(お)うて、
任を敗軍の際に受け、命(めい)を危難の間(かん)に奉ぜり。
爾来(じらい)二十有一年なり。
(後略)
(出所)漢詩の朗読­‐「出師の表」諸葛亮孔明

やはり「為しうることを為そうとした」、己が任に忠実であらんとした、孔明はその意味では「秀才」といわれる人物であったに違いなく、天才的な人材選択と人心収攬を実行できた劉備の方が実は「天才」であったのだろう。

ま、そもそも創業をなす人は世に現れること稀な、その意味ではいずれも「天才的人物」である。そして、天才が天才を部下として活用するというのは、もっと遥かに稀である理屈だ。

リアルな孔明も光背を背負うような人物ではなく、一見普通であったそうである。そんな記録が残っている。


3週間続いてきた某企業グループのための特訓ゼミが本日で終了となった。

ビジネス戦争は、いわばエンドレス・ウォー、つまり「終わりのない戦争」だ。敗北のかわりに追従が、降伏のかわりに無力化を強いられる。熱い戦争、冷たい戦争、ビジネス戦争と、いずれの戦争においても負けたくはないものだ。

負けたくはないが、ハトに甘んじる損失が、タカになるための限定戦争リスクを下回れば、多くのプレーヤーはハトとして生きていこうとするものだ。志を捨てるといえばそれまでだが、それもいいではないか……。

ヤレヤレ…、今回は実につかれた。

夏休みが、やっと来た感じがする。

2015年9月2日水曜日

「組織」というものを誤解していた愚

大学に戻りたいと感じた動機だが、青年から壮年にさしかかる頃、「組織」、というか「宮仕え」というものが嫌になっていたことがある。ちょうどその頃、大学に残った先輩に仕事を頼みにいって「こんな毎日の過ごし方もあるのか…」と、改めて吃驚したのが、直接の動機になった。で、いまは北海道で長い年数を大学から給料をもらいながらおくってきている。

組織について誤解していた。当時の小生は『成功すれば上司の栄誉、失敗すれば担当者の責任』というのは不条理だと思い込んでいた。

実際に、後になって思い出してみると、担当者としての小生が責任を負わされたことは一度もなく、勘違いや思い込みに陥った小生はその時々の上役からそれを教えられたものだった。お陰でいろいろ大事なことを理解した。方針に沿って動けない、目標を理解できないというのは、部下としては失格であったのだ。

また『リーダーが成功の栄誉を得ることは当たり前だ』と今では考えるようになった。下は高校野球から上は内閣総理大臣まで、いかなる人間集団もトップに誰が立つかで、力を発揮もするし、弱小集団にもなる。現場で動く人間は代わりがいても、有能なリーダーは得がたいものである。

若い頃の小生の思い込みは、認識自体は正しかったが、それが不条理だと感じた点が全くの誤りであった。まったく、「青臭い」という時代は確かにあるものである。

ただし、ナポレオンは「戦争においてはいたずらに多くの人間がいても何もならない。一人の人間こそすべてである」と、認識を一貫させている。