2015年8月31日月曜日

たしかに「ヘイトスピーチ禁止法案」では通るまいヨ

「ヘイトスピーチ禁止法案」の今国会での可決が見送られるとの報道あり。憲法で保障している「表現の自由」と抵触する怖れがあると、与党が二の足を踏んでいるためらしい。

法案の具体的な背景は、(言うまでもないが)在日韓国・朝鮮人を標的にした粗暴な街頭宣伝が目に余るレベルに達していて、これ自体が日本の社会問題になってきている点だ。

が、「ヘイトスピーチ禁止法案」は、直接的に発言を公権力で禁止するわけなので、確かに憲法との兼ね合いが心配されるだろうねえ…、とは思われるのだ。

とはいうものの、何度も投稿しているように憲法の定める「表現の自由」は、何を言っても責任をとらなくともよいという意味ではない。

口にしたことで相手が傷ついても「表現の自由」を名目に責任をとる義務がないならば、そもそもセクハラやパワハラ、マタハラ等々、現代日本社会で蔓延する<口先暴力>を抑止する根拠が全くなくなってしまう。言おうと思って、相手に言ったことは、すべて発言した人物が責任を持つ必要があるし、精神的苦痛を与えてしまった場合は<謝罪>と<賠償>の義務が生じるのは当然だ。もちろん、これらの判断は裁判にまつ必要がある。

ヘイトスピーチとは、人種・宗教などを理由とした<エスニカル・ハラスメント>に該当する。分類としては、セクハラ、パワハラと属性を共通する不当行為だと見るのがただしい。

更に、口で言ったことだけが不当行為なのか?口ではなくLineなどネットを利用した<ハラスメント>も同種の行為ではないか。落書きをする、ビラをまくなどもそうであろう。もっと一般的にみて、ネガティブな流言やデマを意図的に拡散させる行為もこのカテゴリーに含まれると考えれば、ライバルに対するネガティブ・キャンペーンもそっくり含まれてくるだろう。

ともかく、表現の自由を悪用した不当行為は、情報化が飛躍的に進んだ現代社会では根深く広がっていて、蔓延している。そう思われるのだな。

ところが、<ハラスメント>一般を法的に定義する基本法が日本にはまだない。<口先暴力・ネットバッシング>もまた一種の<暴力>であるととらえる視点が求められているのであって、その中のヘイトスピーチだけを取り出して、『こういうことは演説してはならない』と定めるのであれば、確かにそれは権力の肥大化につながる悪しき道である。そう思われるのですな。

いずれにせよ、ハラスメントを「口先(筆)による犯罪」と認めるなら、言った人は(書いた人は)お上に罰金を払うか、刑務所でオツトメをするわけだ。それよりは、言われた人(書かれた人)へ償いを行う民事上の措置の方がはるかに大事ではないのか?億円単位の賠償判決でも出しますか…全部裁判するの……?どっちにせよ、きちんと一般的な目で審議することが望まれているのは確かだ。


2015年8月30日日曜日

『4分の1の有権者が与党に3分の2の議席を与えた』という迷妄

2014年12月の衆議院選挙で与党は定数475人のうち3分の2を超える326議席を確保した。

ところが、その日の投票率は52.7%と大体半分の有権者しか投票所には行っていない。そして小選挙区における自民党の得票率は48%であったから(資料)、ザックリと計算すれば4人に1人が自民党を支持しただけで、自民党は衆議院の60%超を制するに至った、と。よくこんな指摘がされる(資料)。


確かに小選挙区制では、特定の政党が僅差で勝つことによって全体としては大勝するという現象も起こりうる。しかしながら、自民党はたったの4分の1の有権者を得ただけで第1党になった、残り4分の3の民意が無視されている、と。まさかこんな風に考える人は数理的な感覚がまったくないとしか言い様がない。

比例区で議論しよう。2014年衆院選比例区の自民党得票率は33%である。得た議席は38%だ。ここで当時の政党別支持に関するNHKの世論調査をみてみよう。そうすると2014年12月時点における自民党の支持率は38%と出ている。(資料)。NHKの世論調査はサンプルが2000名程度、回答数が約1350名である。未回答の発生で何等かの系統的バイアスが混入しないと前提すれば、誤差は真値を中心にして概ね±2.6%程度までの範囲に収まる。実際には、世論調査よりは有意に低い得票率になっているが、サンプル数が1000名程度のアンケートであっても、有権者全体の意識は、マアマア、かなりの程度まで正確にとらえられていることは分かる ― だからこそ、サンプル調査の威力をビジネスに取り入れたアメリカのアンケート調査会社ギャラップの発する情報には価値があると認められたのだ。

衆議院選挙では、有権者総数1億人のうち約半分にあたる5千万人が投票している。確かに投票率は半分にしかならないが、もし投票率が100%であっても結果は大差なくほとんど同じであったと。まず確実にそう言える。というか、そもそも開票直後にしばしば当選確実の速報が流れる。あの報道は、出口調査などを利用しているサンプル調査の一種である。それでもほぼ確実に当選・落選は予測できている。投票率が高いことは、有権者が自らの参政権を現に行使しているという意味であり、確かにそれは「良い」ことである。しかし、投票者の代表性という統計的側面に着目すれば、投票率は100%である必要はなく、また50%程度で十分であり、もっと低くとも民意は十分正確に反映されるということも理解しておく必要があるだろう。

そもそも政党別支持率などは、千名少々で十分精度の高い情報は得られるというのが数理的な結論だ。であるので、4分の1の有権者が3分の2の議席を与えたという理解は不正確であるし、政治的プロパガンダとしても非文明的であろう。3分の2の議席を与党が占めたという結果は、有権者すべてが投票していていたとしても、変わらなかったはずだ。だからこそ、「選挙」という意思決定システムは、権力的な投票妨害行為などがない限り、民意を反映し、故に信頼されるのだとも言える。投票率によらず、だ。


もちろん得票率が48%であるのに60%にも達する議席を自民党が占めてしまう小選挙区選挙に疑問を抱く余地はある。が、これはまた別の問題だ。何より野党が意味なく多数分立していることがほとんど全ての原因である。というより大事なことは、小選挙区は、同じ選挙区から同一政党に属する立候補者が立ち、そのため党内が派閥に別れ権力闘争をするという中選挙区制に嫌気がさした日本人が選んだ選挙制度である。現に自民党内の派閥抗争は衰退してきており選挙制度改革は所期の目的を達成したと言える。得票率や投票率とはまた別の問題であるのは明らかだ。

【追記】それから、選挙に関しては「一票の格差」という問題点もあった。これについては以前に投稿しており、見方に変更はない。



2015年8月27日木曜日

データ分析におけるPython利用計画の変更

統計分析でメシを食っている小生はこれまで幾つものソフトを利用してきた。

最初は ― もう随分昔になったが ― FORTRANで書かれたソースプログラムの管理と時どき必要になる修正、それに新規ルーティンの追加だった。どうしても納得できないので1行1行、サブルーティンの間をたどりながら調べていくと、変数名が"TSUIKA"と"TUIKA"になっている複数の箇所があることに気がついたこともある。まあ、今ならデバッガーがあるし、昔は変数宣言がなくとも警告は出なかったのだ、な。その後は、PL/Iが伝家の宝刀になった。これまさにIBM−MVSのJCLとともに「我が懐かしの言語」である。

そんな時代が怒濤のように過ぎ去ってから使ってきたのは、SAS、RATS、SPSS、TSP、MATLAB、GAUSS、JMP、Ox…まだあったかな、VBとかそういうのは除く。そして今ではもう20年くらいR(昔はS)を使っている。

ところがごく最近になって機械学習ではPYTHONの方に最先端のパッケージが揃っていると聞いて、統計分析の覇権争いに新星現るかとも思われ、本式に勉強してみる気になった……のだが、結局は止めることにした。

その理由は、

  1. 最先端の機械学習ルーティンは(Pythonの世界に一歩だけ時間差が出るにせよ)Rでもどんどん開発・提供されている。
  2. 日本語テキストの分析を予定しているが、愛用しているMeCabはPython2.7にしか原則対応していないようである。文字列データの処理はUnicodeに統一されたPython3でないと使う気になれない。Rの"RMeCab"はとにかく使いやすく、文字処理については"stringr"で間に合っている。
  3. 時系列データ解析でARIMA分析ができるのは当然だが、Prof. HyndmanがRの予測用パッケージとして提供している"forcast"相当の機能がPythonにはない。特に"auto.arima"がないのは致命的である。
  4. 樹木構造分析で不可欠な描画機能がPyhtonは弱い(という印象だ、Pythonのこの分野はよく知らないが)。
  5. これは特定の言語に限った話しではないが、e-StatのAPIを利用できるデータの中に景気動向指数(CI)が含まれていない。もし含まれているなら、Pythonでソースを書こうと思っていた。が、ないならこの作業も取りやめだ。一体、このオープンデータの時代に内閣府は何をしているのだろうねえ…

すべて仕事には不可欠であり、優先度が高く、この夏にとりかかろうと考えていたのだが、こんな状態である。で、出した結論はPythonに時間をかけて勉強する価値は少ないというものだ。失われる機会コストをカバーできるとは思えない。故に、計画は取りやめにした。

Pythonほど関心をそそられながら、本式にマスターしようとすると『ま、いいか』と思わせる言語、というかツールには、これまでに出会ったことがない。

Juliaは小生が現役の間にメジャーになるとは思えない。Scalaの方はどうだろう。こっちを少しやってみるか…いいかどうか分からないけど。小生の言語趣味の近況はこんなところだ。

2015年8月26日水曜日

安保法制審議 ー 不必要なドタバタ騒ぎか、信念による政治改革か?

参議院での安保法制審議もようやく佳境に入ってきた感じがする。これから野党が提出する対案との擦り合わせが(多分)行われ、衆議院による再可決という最悪の事態を避けられるかどうかが、今後のカギになるだろう。

やはり「我が国の存立危機事態」に対して集団的自衛権を根拠に自衛隊という武力集団が対応するという根本的設計が違憲であるという、この難問が壁のように立ちふさがっている。武力集団が海外に派遣され活動すること自体、イコール武力行使になろうという単純なロジックである。

そもそも「存立危機」に対応するためには武力行使はやむを得ないという発想は、戦前期・明治政府の理念と全く同じである。

昭和天皇による玉音放送には次の下りがある。
帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
「帝国の自存」と東アジア地域(=東亜)の安定が目的であり、他国の主権を排し領土を侵す意図はなかったと記されている。

この立場は開戦の詔勅から一貫している。開戦時の詔勅には以下のように表現されている。

少し長いが関連する部分を引用しておく。
米英両國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ
逞ウセムトス剰ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ增強シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル
妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復
セシメムトシ隠忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ
益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ增大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル
帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ

要するに、我が国のほうは平和を願ってきたが、米英は「平和」を口実に日本の生存に重大な脅威を加え、平和に向けての積年の努力も水泡に帰したため、帝国の存立が危殆に瀕することとなった。こんな事実認識が文章になっている。・・・いわばまあ、日独伊三国軍事同盟は当時の政府が選択した集団的自衛権の行使であった。

もちろん、事後的に日本と日本の外側を公平に眺めれば、日本のほうが東アジア地域を侵略していると同時代で判断されたのは仕方がないし、現時点においてもそう判断するべきだと小生は思う。

とはいえ、戦前期・明治政府はただ自存自衛のために武力を行使したのだと言っている。

存立危機事態に関連する自衛隊法の改正については『「新三要件」で新たに可能となる「武力の行使」は「我が国を防衛するため」のやむを得ない「自衛の措置」で あり、「存立危機事態」への自衛隊の対処は、自衛隊法第76条(防衛出動)と第88条(武力行使)によるもの とし、第3条(自衛隊の任務)において主たる任務に位置付ける。』と政府は説明している(資料) 。

原案のままでは、太平洋戦争開戦時の理念とどこが違うのか、違いがよくわからない。

「武力行使」以外の外交的努力を政府に強制している点が現行憲法の最大の特徴である ― これは前にも投稿した。武力を使うかどうかで憲法は内閣の(改憲も可能な国家自体の、ではない)手足を縛り、政治的裁量を与えてはいない。『刀を抜くな』、『抜きたい時も、刀以外で解決せよ』と普段の行政をつかさどる内閣には求めているわけであり、これまた歴史の反省に立った一つの国政上の原理だと言えよう。現在の批判は、これを覆す意図があるのではないか、というものだ。

そんな「覆す意図はない」と(いう意味のようなことを)安倍首相は述べているが、実際には開戦の詔勅と終戦の詔(のような歴史観)は誤っていないと(ホンネでは)考えているので、今回のような原案になってきている。どうやらそう見ておくのがロジックは通るような気がするのだナ。だとすると、集団的自衛権の行使容認という今回のアクション自体は正当だとしても、意図している本来の目的について不安を持たれるのは当たり前であり、文字どおり御本人及び悪質な取り巻き達の「身から出た錆」というものだろう。

いずれにしても、9月に成立の可能性は高いし、おそらく成立するのではないか。が、成立した法を根拠に自衛隊が派遣された瞬間に、違憲訴訟が出てくるに違いない。そして、現在の学界の傾向をみれば、最高裁で違憲判決が出て来る可能性が高い。そのとき、まだ安倍政権が続いているか、他の自民党政権になっているかによらず、安全保障政策を変更しなければ内閣不信任案が提出されるのは確実だ。その不信任案を否決すれば自民党の集団的自殺につながるだろうし、仮に解散をすれば、まず100%の確率で、自民党は負けるであろう。そして安保法制は大幅に修正されることになろう。

ブレの大きいこうした進路は、日本の「評価」という無形の外交資源を浪費することと同じであり、最終的には経済的国力の維持にも負の影響を与えるに違いない。

2015年8月24日月曜日

特訓ゼミ進行中

現在、某企業グループから派遣された社員に向けて有志教員による特訓ゼミが進行中である。

4日で1クールの四つの単元に分かれており、小生はビッグデータ時代の中のビジネス経済分析、つまりは経営戦略を担当している。

1クールが終わるごとに飲み会が催されている。若かった頃は声も嗄れず、課外のイベントが楽しみであったが、だんだんと億劫になってきた。が、マネージャー役の教員の趣味志向でもあるので、無視もできぬ。

これをゲーム論では『デートゲーム』的状況と称し、同調への動機があり、実際に同調することがナッシュ均衡となる。が、通常は複数の均衡点が存在し、どの均衡が実現されるかは何らかのフォーカルポイントが要る。それは習慣であったり、序列であったり、シグナルであったり、占いであったりする。

がんばるマネージャーもまた集団全体の中ではフォーカルポイントである。ボートでいえばコックスに相当する。

2015年8月21日金曜日

『日本に永世中立国は無理だよ』という話し

かなり以前のことになるが、こんな話しをしたことがある。誰と話しをしたのか、ハッキリ覚えていない。

小生: 日本がスイスのような永世中立国の道を選べば、憲法の理念とは完全に合致するんじゃない。

A: ただ宣言するだけじゃダメだよ。攻められたらどうするんだよ?

小生: 周囲の国が承認して、保証するんだったよな。

B: だけどさ、スイスなら侵略しても、あまり利益はない。逆に、侵略した側が周りを敵にするだけになるんだけどサ、日本は中立国ですと言ったって、世界は認めてくれないよ。

小生: 何で?

C: スイスなんて、あれだろ?あんな小面積、少人口、民族構成は複雑を極める山間部の国なんて、誰がほしい。攻撃して自国の領土にして統治しようとしたところが、うまく治まるはずはないんだよ。手に入ったところが、利益は差し引きマイナスさ。

B: たしかにな、産業は時計産業くらいだし(現在では製薬産業もあるが)、ドイツが侵略すれば、フランス語系住民が暴動を起こすし、フランスが間接統治しようとすれば北半分は分離するかもな。

A: スイスという国が解体されて、大国同士が隣り合うより、スイスという永世中立国があったほうが全体にとっていいんだよ。それが分かってるから、どこもスイスを侵略して自国の領土にはしないのさ。

小生: 日本も小国だろ?

C: 海に囲まれてるよ。

小生: 海が関係あるのか?

B: 軍港をつくれば制海権を握れるじゃないか。それに不沈空母でもあるから、空軍基地もつくれる。制空権を握るベースにもなる。海に囲まれているから守りやすい。大陸に近い。日本には軍事的価値があるんだよ。

A: それに日本はスイスのような多言語国家じゃない。均質な単一言語国家だ。それに日本人は集団でまとまる性癖がある。治めやすい。統治できるんだよ。一度馴染めば、その国の巨大な資源になってくれるんだよ。そんな住民が1億もいるんだ。中立なんて不可能だろ?

小生: 日本人がなにもしなくとも、大国の侵略欲の標的になりやすいってことか?

B: そう。だから日本だけで永世中立国を宣言しても、必ず認めない国が出てくるのさ。

C: その場で認めても、互いに疑心暗鬼になるだろうな。

A: ま、海国日本の宿命だな・・・。

もう相当昔になるが、いま思い出すと現実的な意味が結構あるような気がしてくる。覚え書きに記しておこうと思った。


2015年8月20日木曜日

日・韓それぞれの歴史の相似点

韓流時代劇は、端的にいって面白い。まあ、真面目になって時代考証までチェックしながら観るとなると、ケチのつけどころは多数あることはあるのだろう ― その辺は詳しい人に任せたい。

聞いた(読んだ?)ことがあるのだが、現代韓国において「あと10年は長生きしてほしかった」という人は18世紀後半の国王・正祖(イ・サン)であるそうだ。その父親である英祖と一緒にして、二人の在位時代75年間(1724年~1800年)を朝鮮史では「英正の治」と呼んでいるそうである。方向としては開明的で、経済的進歩を目指した政治が行われた時代であったようだ。

日本史でいえば、実証主義的な8代・吉宗将軍から直系三代である家重、家治までの時代がそれに該当するかもしれない。徳川吉宗による享保の改革を受け、家重から家治の時代にかけて革新的な経済政策を展開した老中が田沼意次であることは誰でも知っている。意次は、最終的には蝦夷地開発のあと、鎖国停止とロシア貿易再開までを展望していたという見方もあるから、その気宇は極めて壮大なものがある。もし開明的な幕府政治が松平定信の保守反動的・反改革に妨害されず、1787年以降も継続されていれば、天保の改革のドタバタも必要なく、ペリーの黒船が来航する以前に洋式軍事改革の必要性も幕府の認識するところとなっていた可能性がある。

歴史に<れば・たら・IF>はタブーだが、11代家斉将軍以降、名門譜代・門閥層が再び幕府の政治を主導することによって、旧幕体制は最終的には暴力的な力による瓦解に向かわざるを得なかった。こう要約することもできるのではあるまいか。まったく福沢諭吉が回顧するように名門・門閥層が国の発展を阻害すること想像にあまりあるのだ、な。

韓国史においても、比較的優秀だったと記されている純祖が成長するまで、あと10年、正祖が長生きをしていれば、正祖の急逝後、皇太后の依拠する保守的・名門両班層が革新官僚を追放し、すべてを旧に戻してしまうこともなかったろう。成長後の純祖の周囲にかつて父王をささえた開明的人材は残っていなかったそうだが、子が成長するまで父が健在であれば、人材は維持され、政治を継承することもできていただろう。王といえども一人では何もできないものだ。その間の事情は戦前期・陸軍が日本の政治を牛耳った頃と同じである。

近世における改革を進めながら名門門閥層の反改革に直面してトップダウンの改革に挫折したことは日韓双方で共通している。ところが、日本では黒船来航を契機にして政権が短期のうちに瓦解し、それで明治維新を行い、他方韓国では自己改革勢力が革命政府を樹立できずに終わっている。

その理由は、日本では大名という名門貴族層が経済的に破綻し、何の行動も起こせなかったこと、また地方の雄藩という潜在的敵対勢力が幕末に至って経済的富を蓄積していたことにある。日本の政治体制は封建体制であり、韓国のような唯一の王をいただく君主国家ではなかった。ここに違いを分けた主因がある。


政治体制は上部構造であり、その違いが経済発展を左右することはないというのがマルクス的見方であるが、政治体制が国の歴史を大きく決めてしまう。この点もほぼ自明だろうと思う。

国際社会がおかれている諸条件の下で、同じ社会的変化を遂げるにしても、ある政治体制をとっている国は、少ない犠牲で速やかに豊かになる。別の国は、内部の紛争によって多くの犠牲をかけ、収束点に到るまで多大の時間を費やする。

いずれにしても、上のような違いがあるにせよ、日本は戊辰戦争、西南戦争の内乱、打ち続く対外戦争を経たあと、太平洋戦争で全てが転覆して国の独立を失った。その間、数多の犠牲者が出た。朝鮮王朝は大韓帝国となったものの日韓併合によって国の独立を失い、大戦後は朝鮮戦争が発生し国は分裂した。犠牲者は巨大である。

日韓の違いの話しをしたのだが、明治維新から軍国主義政権の崩壊までの78年を日本の近代化の全体とみれば、社会的進歩の背後で夥しい犠牲者を出してしまったのだから、やはり日本もまた極めて下手くそ、拙劣に近代化をやった。今後、そんな評価になっていくのだろう ― そんなことを言えば、フランスが、ドイツが、近代市民社会の定着までにどれほどの犠牲者を出したか、これまた数えきれないし、アメリカの南北戦争もまた19世紀アメリカにあった要因が引き起こした戦禍であるには違いなく、近代化の模範例などはないかもしれないが。

観ようによっては、17世紀イギリスの国内革命を発端にして、人類社会は近代化のための長い戦争を続けてきているのかもしれない。と考えれば、石原莞爾流の「世界最終戦論」に近くなってしまうか……。やはり、おかしいかネエ。が、しかし、ポストモダンいまだ遙かなり、の感はある。


まあ、超保守層は不満だろうが、日本の現在が出来上がるまでに戦後体制の貢献が大であったことを否定するのは無理だ。「日本国憲法なかりせば」と夢想するのは、やはり意味のない<保守反動的レバ・タラ論議>としか言い様がない。

もちろん、そうだからと言って、『日本国憲法の一字一句、変えてはならぬ』と言うのは、頑迷な名門・門閥と同種であり、国の発展を阻害する原因になりうる。変わる時代の中で、憲法の条文を常に見直し、真剣に現実を分析し、憲法の理念に実効性を与えるよう努力することが必要であるのは当然だ。


2015年8月18日火曜日

愚息の夏季休暇

昨日は新潟で勤務している下の愚息が休暇をもらって帰省してきたので白老のウエムラ牧場までステーキを食べに遠出をした。

先日は非正規雇用で市内でのん気に暮らしている上の愚息を誘って同じ白老の「牛の里」にくりだした。あれは美味かったが、ちょっと寄って食べるという感じで、昨日はある程度本式にステーキを食したかったのだ。

道央高速でいくと1時間余りで着くのだが、料金も3000円ほどかかり、走っていて面白くない。それで余市まで広域農道を走り、倶知安、京極と回り、道道86号を下って行った。あいにく羊蹄山は雲に隠れて見えず、京極から白老までの山間部は霧でフォグランプをつけた。霧雨が緑をにじませる中、対向車は1台も来ない。白老霊園にさしかかるころ雨が上がる。

着いてからレストランの方に入り注文する段になって、ステーキ鉄板焼き三種盛りが人気だと知って、カミさんがそれにしようという。確かに写真は極めて美味そうである。三人とも同じものを頼む。確かに極上であったが、やはり当初のプラン通り、愚息は200グラムのサーロインステーキ、小生は150グラムのステーキ、カミさんは三種盛りにして、お互い交換するべきだった、と。安くて済んだことはよかったが後悔が残る。

帰りは苫小牧から支笏湖経由をとる。支笏湖にある鶴雅リゾート「水の謌」のケーキショップによって色々と買って帰る。あの店の味噌プリンは相当のレベルだ。陶器の柄がみな違っていて他に転用できるのもよい。

愚息はこの夏インサイトを新しく買ったとはいえ、運転させてみると割とヒヤヒヤさせるので、千歳からは高速にのって早々に帰宅する。

★ ★ ★

父と息子というのは、当然のこと、世代が違う。生い立ちも価値観も、加えて同時点の年齢、人生経験も違うというフェーズ効果もある。

だから、血族とはいえ互いに理解するのは難しい。どちらかと言えば、親と子が似ているとして、子がいま生きているステージは、かつては親、つまり自分が立っていた地点である。故に、親が子を理解するほうが、一般的には容易なはずである。

しかしながら、『最近の若い人たちは何を考えているのか分からない』と言われることが多いようだ。本当は、若い年齢層が『大人たちがなぜそんなことを言うのか、よく分からない』という方が自然である。

互いに理解しあえない世代固有の心理は、いずれ過去という時間の古層に埋もれていくのである。世代を経るというのは、忘れてもいい部分と忘れてはいけない部分が仕分けられることでもある。

歴史のプロセスで何がどう進むか、数人の人間の努力で変えることなど出来るはずがない。100万人を単位とする世代集団が共有する意識だけが後の世代に伝わるのみ。

父と子というのは、親子であるという関係のみが意味のある事実かもしれず、その現実的なありようは無限に可能と思っておくべきだろう。




2015年8月15日土曜日

一言だけ: 戦後70年談話

安倍総理の戦後70年談話。何をしゃべるかだけで、これほど注目の的になってしまったこと自体が、戦略ミスじゃないか、と。何を言っても、必ず批判される。

出てきたものは、可モナシ不可モナシの作文ではあるまいか。

そう思いました。

以下の下りが新聞では頻りに引用され、外国では『・・・子どもたちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません』という辺りが、むしろ非難の感情をこめてとりあげられているようだ。
日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。
しかし・・・上の文章は所謂「反語的修辞」というヤツである。より強く言いたいのは、それに続く下りにあることは、読めば分かる。
しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。
次の文章があるとする。
夏の甲子園は所詮はゲームであります。しかし、それでもなお、人生のある時期を野球にかけることは素晴らしいと思うのです。
これを読んで『夏の甲子園なんて(単なる)ゲームだ』と主張したと、そう言って非難する。そういう読み方しかできない人は、おそらく国語が苦手で入試に失敗しているはずだ。

まあ、無難な作文だ。それ以上でも以下でもない。

とはいえ、同じことを考えているとしても二人の人物が、同じ作文をすることはない。どちらも自分の作文の方がいいと思っている。

どの新聞社も文章でメシを食っている。当分の間は、これではダメだと、さかんにダメ出しをされるだろう。

【追記】

ただ、あれであるナ・・・小生の個人的印象としては、確かに戦争を推し進めた世代は(小生からみれば)曽祖父と祖父の世代であって、小生はあずかり知らぬことである、それでも、マア、100年は贖罪意識を持つべきではないか、と。100年がいい節目ではないかと感じる。

戦後70年の時点で、『戦争を知らない世代が増えてきましてネ・・・』と言い出すのは、ちょっと早すぎない?あと30年は「悪かった」といって、赦しを請うてもまさかお人好しだと馬鹿にはされますまい。何と言っても、日本の領土でもないのに、満州で出先の部隊が勝手に軍事的覇権を握り、加えて万里の長城をこえて進撃し、中国政府を四川盆地に追い詰め、臨時首都である重慶に対して(ドイツによるゲルニカ爆撃が1年前にあるので世界初ではないものの)無差別戦略爆撃を敢行して、降伏寸前まで圧迫したのである。たとえ、それが中国の戦略的焦土作戦であったとしてもである。当時の中国が日本に勝つ戦略は自国を生け贄にした末の国際的戦略効果を期待するしかなかった(胡適の議論を参照)。文字どおりそれしかなかったはずである。とはいえ、その人道的非道さを非難する権利は中国国民にあって、日本にはない。こちら側に拡大への野心がなければ、侵略サセラレルこともなかった。1931年以降の日本の軍事行動が「侵略」ではないという歴史学者が今後増えることはない。その前提で、語ってもよかった。語るとすれば70年はいい節目だったはずだ。


節目観が少しずれたようだね。

個人的感想はこんなところだ。

2015年8月13日木曜日

予想はしていたが・・・「リスクはイヤ」症候群

川内原発再稼働が、今夏の政治的危機をもたらす可能性は、以前から指摘されていた。内閣支持率の低迷がここ当分は続きそうなだけに、盆明け以降の大きな政治問題になるかもしれない。

噂では首相の体調が悪化していると言う。もしダウンすれば、日本の株価は2割は急落するだろう。

この点に関して、大方のマスメディアの反応は予想どおりである。

安全が保証されないままで再稼働を認めてよいはずがない。
安全基準をクリアしたからと言って、安全であるわけではない。
責任は直接的には事業所が負う。しかし、規制当局も一般の責任はある(と思われる)。
最終的な責任はどこに所在するのかが曖昧なままでは無責任と言うべきだ。
云々・・・

まあ、大体、、こんな感じだ。

要約すれば、リスクを国民に負担させるのは政府が無責任である。これを言いたいらしいのだな。

しかし、このような発想のほうが真の意味で無責任である。日本政府がリスクを引き受ければ、「日本国民」はそのリスクを回避できる、と……こんなはずはないことくらい分からないのだろうか。危険から目をそらしたい(目をふさぎたいと願っている)点は、日本の戦後・左翼的発想から常ににおい立つ共通の迷妄であり、なぜこうなのだろうとずっと不思議な思いでいる。


再生エネルギーを利用しようが、石油・天然ガスなど化石燃料系を使おうが、原子力を利用しようが、いずれのエネルギーを選んでも、日本全体としてエネルギーリスクを回避することは不可能である。

原発という選択肢をとることの効果は、ある特定のリスク(=原発事故)を引き受けて、別の特定のリスク(=中東リスクなど海運リスク、外交リスク等々)を抑えることにある。二酸化炭素排出、発電コスト面での利点もある(と言われる)。

つまりは、リスクというコストも含めたときの最適なエネルギーを選ぶという問題だ。原発事故をひき起こすかもしれないというリスクも、天然ガスの供給国が日本に対して無理難題を押し付けてくるというリスクも、どちらも日本にとっては大問題であることに変わりはない。そして、どちらも関係者の知恵で予防することが求められていることに変わりはない。どちらが予防しやすいかが今の論点である。

どんなエネルギーを選んでも、日本は常に危険であり、ヴァルネラブル(Vulnerable)である。これが出発点だろう。


にもかかわらず、民間企業が「勝手に」原発を再稼働させることに拒否反応を示す人たちもいる。それは国が責任を引き受けるべきだという感性に基づいている。

というか、理想的には脱原発にコミットし、安全な再生エネルギーを中心にして国の未来を切り開くべきだという理想が根源にある。

理想は高い。しかし、再生エネルギーを増やせば、電力コストが上がる。これが現在の生産技術だから仕方がない。ところが、同じ脱原発派は、コスト上昇に応じた電力価格引き上げに反対することが多い。電力価格を規制するべきだと主張することが多い。

小生の感覚では不思議なのだが、これらの条件をどう充足すればいいか?目指すべき方向というのはあるのか?


現在、どの電力会社も「無配」である。配当を支払えない会社の株価は本来はゼロであって当然だ。それでも株価が形成されているのは利益回復・配当再開・株価上昇への期待があるからだ。

もし本当に現状の経営状態が永続化するのであれば、長期的には、電力会社はすべて倒産するか、補助金事業にするか、国家直営にするか、そのいずれかでなければならない。

それでもいいと原発反対派は考えているのであろうと推察する。



思い切って、戦前期・日本のように「電力国管」を再現しますか?これまた社会民主主義が行き着くべき一つの帰結だ。

しかし、「親方日の丸」の国家直営組織は果てしなく不効率になるものだ。日本経済が丸ごとエネルギー官僚の人質になるだけである。


はっきり言えば、原発部門を電力会社から分離して、JRタイプの、というか日本郵政タイプの「(仮)日本エネルギー機構」の株を国家が保有することで原発に国が責任をもち、そこで生まれる利益を民間の発電事業者への補助金として支給する。そうしなければクリーンエネルギー拡大はできない。

この方向のみが(脱原発派にとっては)採りうる道だろう。が、政府が電力株を買い取れる?・・・民営原発を禁止する法案を通せばよい。そうすれば買取りのための資金はほとんど要らない。

こういう方向を、経済産業省は拒否するはずがない。政治家も嫌がるはずがない。国が関与すれば、その分だけ権力がそこに生まれるからだ。それでも敢えて言い出さないのは、言えばあまりにも本音が露わになるからだ。というより、憲法で保証する財産権不可侵の原則もある。電力株をタダ同然にする法案などそう簡単には出せない。


故に、脱原発論者の方から提案するのが責任ある態度というものだろう。


ただ反対するのは無責任である。慨嘆にたえない。

2015年8月9日日曜日

「歴史とは合意されたストーリーである」の一例

ナポレオンの名言としては必ず挙げられるのが本日の標題だ。

今日、日経をブラウザで読んでいる際に、不図アクセスランキングをみるとコラム「春秋」が3位になっていた(10:30現在)。
8月6日の広島、9日の長崎。米国では長い間、70年前の2つの原爆投下は正しい行いだったと考える人が多かった。戦争終結を早め、失われたかもしれない多くの人命を救ったという理屈だ。こうした米国での原爆肯定論が遠くない将来、変わるかもしれないという。
ある会社が今年の夏、米国で実施した世論調査がある。2回の原爆投下が「正しい」と思う人が46%に対し「間違い」が29%と肯定派がまだ多い。しかし半数を切った。背景は世代交代だ。18~29歳の若年層だと肯定31%、否定45%と逆転する。30~44歳の回答も否定派が36%に達し、肯定派の33%をわずかだが上回った。
本日は長崎に原爆が投下されてから70年目の節目にあたる。TVでは記念番組を放送している。大変な犠牲である。その犠牲も、あのまま戦争状態を継続し、本土決戦をしていたなら避けられなかった双方の犠牲者を少しでも少なくするためのやむをえぬ選択であった・・・

というのが、戦後ずっと合意されていた「歴史」であると思われる。

早く戦争を終結させたかった。それは事実であると推測される。というのは、ソ連が参戦する約束になっており、時間を費やすれば満州、さらに北海道を含め日本本土の北部領域全体までが全てソ連の管轄下に入ることが確実だったからである。ドイツの二の舞である。

日本海軍は壊滅していたので、本土強襲上陸をせずとも、主要港湾を海上封鎖し、兵糧攻めをとっていれば、昭和20年年末までに日本は継戦能力を失い、自壊降服していただろうという見方が多くなってきているという。しかし、年末まで待てない。ソ連には参戦を依頼済みだしなあ・・・

それに・・・

こんな風に見れば、原爆投下は犠牲の回避というより、次の戦争、つまり冷戦を予想したアメリカの国家戦略であったことになる。

行為には意図がある。そして、異なった意図で同じ行為がなされうる。真の意図など、当事者にも分からないものだ。故に、ストーリーが要る。一つの世代で共有されるストーリーが「歴史」である。歴史とは、その時々の世代が直面する別の問題を解決するための必要から生まれる話しである。そう思うのだ、な。

2015年8月8日土曜日

国内景気: 停滞なるも先行き改善の気配ありで、末吉

先日、内閣府から景気動向指数が公表された。6月分速報である。それをみると、先行指数、一致指数とも前月からプラスになっている。

ただ、5月までのデータを使って6月以降半年間の予測を行っていたところ、先行指数は上昇トレンドが見込まれていたものの、一致指数では当面低下が続く方向が示唆されていたのだ。

ところが6月の速報は予想ラインを超える高い数字が出た。上が先行指数、下が一致指数だ。



直近公表値である6月分はブリットで示している。

これをみると、先行指数の上昇はほぼ予想通り。一致指数の上昇は、低下傾向が予想されている中での上振れであることがわかる。

そもそも景気の先行きを示唆する先行指数は悪い動きではない。

8月、9月にかけて、消費税率引き上げ以降、ずっと湿りがちであった景気が改善してくる可能性がある。

8月下旬に予定されていると伝えられているTPP交渉がうまくまとまれば、(一部の既得権益層を除いて)陽光が射してくるかのような心理的好転も期待できる。

安倍現政権の運勢がもう一度回復する可能性は経済データを見る限り大いにあるとみる。

2015年8月6日木曜日

人工知能は人間に代替できるか

ずっと以前に下書きを書いてはいたものの、その後忘れられていた文章がいくつかある。これは面白いので、本日、投稿しておく。


人工知能の発展によって、やることが正確かつ効率的になる反面、人を配置する必要がなくなるかもしれない業務として、複数の分野が挙げられている。

その代表例が、医療と裁判だそうだ。

成程ねえ・・・と詳しい解説を省いても(それなりに)納得できる人は多かろう。

まず、ヤブ医者なるものは、原理的にいなくなるワナ。
また、トンデモ判事なるものも、安心して早期退職させられるワナ。

そう期待する向きもあるようだ。つまり、専門職に従事する一部のヒトは、たしかに機械学習と人工知能の発展によって、機械、というかロボットに代替されるわけだ。


しかし、ちょっと待てよ・・・と。

与えられた法律を具体的事案に適用して、結論するべき刑罰を速やかに引き出す。今でもそんな仕事にたけた人材はいるはずだ。そんな人材が優秀だと評価されているのか?

人間が人間を裁くには、具体的事案それだけに限定して話を聞くだけでは不十分である。そうではないか?

事件を理解するとは、その事件が発生した経緯の全体を視ることだ。関係者を理解する。社会の中でみる。世界の中でみる。生い立ちと歴史の中でみる。でないと、理解したとは言えないだろう。

そんな仕事はやっぱり人工知能にゃ無理っていうものですぜ。
あいつらは、とどのつまり、機械だ。

医師の診療もそうである。ビッグデータと機械学習を活用すれば、現在でも患者の病状から自動的に治療の基本方針は出てくるだろう。IBMのワトソンは既に癌治療の現場に導入され始めている(資料)。将来は不可欠のアシスタントになっていくだろう。しかし、患者の人生全体をみるのは無理だ。家族の人生にも思いを馳せる。幸福について考える。未来予想図を提供する。そんな風に、全体を理解するのは、人工知能にはまだ無理だ。


機械で仕事を失うのは、機械的に仕事をしている人達である。

確かに(その時は)不幸かもしれない。しかし、機械的な仕事は、機械にまかせるほうが人間にとっては楽ではないだろうか?

同じ仕事を機械がして、GDPを同じだけ稼いでくれれば、ヒトは好きなことをしながら、パンとサーカスにただ興じながら、自由に人生を送ることが可能になろう。これが理屈ではないか。豊かになるとはそういうことを言うのではないか。

ケインズが言った『経済問題は、所詮、経済問題なのだ』。それを地でいく終着的世界ではないのか。

2015年8月5日水曜日

雑話 ― 最近面白いこと

最近面白いこと:

① 夏休みの宿題代行業

クレーム: 子供にウソをつかせているじゃありませんか?それでいいとお考えですか?

業者: いいか悪いかではなくて、必要とされているのですネ(=頼む人がいる、ニーズがある)。

小生の感想: 宿題をしなければよい。体裁を繕うだけのためにカネを支払っているのは親が愚かである ― ネグレクトを隠蔽するツールになるという悪意の見方もあるくらいだ。その場を切り抜けることを優先する育て方も子供にとっては損になる。故に、カネを払う側には実質的な利益がない。夏休みの宿題を、自慢にはならぬが、小生、半分もやったことはない。しませんでしたの一言ですませてきた。自分の関心に集中することの方が大事だ。

② 安倍内閣の不支持率

不支持率が58%にまで上がったとの報道あり。道新による道内世論調査である。

政党支持率は自民党が30%以上あり、それほど低下していない。民主党の支持率は10%である。政党支持の情況に大きな変化はみられない。

内閣支持率が特に下がったのは40台から50台で今年4月に実施した前回調査比でなんと▲28%。それに対して、20台から30台では支持率がなお60%を越えている。そして、高齢者は▲13%と現役世代ほどには下がっていない。このように年齢層で反応が分かれている。回答者は500人程度だから、標本誤差はせいぜい5%である(真値の両側で10%あるのでサンプルをとりなおすと10%程度までは上がるかもしれないし下がるかもしれない、が、これは極端だろうという意味)。大勢判断は数字のとおりだ。

学生デモが注目されているが、同じ若者で安倍内閣の不支持率が高いというわけではない。世間の現象をみて、一般化して判断しない方がよい。

現役世代の不支持率上昇は、アベノミックス→消費税率引き上げと進んできた経済政策が狙ってきたはずの<賃金引上げ→デフレからインフレ基調への転換>。この段階がうまく進んでいない。ここを注意してプッシュする必要がある。でなければ、一過性のボーナス増額で終わってしまう。ところが、政府の関心は、経済ではなく、結局は憲法問題・安保政策にある。まあ、この辺の期待外れ感が根底にあると見られる。安保政策自体に反対であると決めつけないほうがよい。

高齢層の不支持率上昇は当たり前。戦後的価値観と正反対の姿勢であれば、これはおかしいと感じるはず。

いずれにせよ、現内閣の政治姿勢に対して社会的ブーイングが広まっているのは事実だろう。とはいえ、内閣瓦解へ潮が流れ始めたとまでは言えない。流れが逆転する潜在的可能性をなお含んでいるとみる。

③ 民主党代表と韓国大統領の会談

日本では国会が開会中であるのに、わざわざ野党代表が韓国に行って大統領と会う。ふ~~んというタイミングだが、あれですな、首相の戦後70年談話。これだろう。

一方は崖っぷち。他方は追い風を生かせない焦りがある。「会おう」になったのだろうが、より困っている側が、先に持ちかけたのだろう。


2015年8月4日火曜日

政治家の志 vs 民主主義

安倍総理は取り巻きの失言、妄言、迷言に足を引っ張られ、次第に支持率を失い、最後には現政権は自滅する可能性があるということは、ずっと以前から本ブログに投稿してきた。

やっぱりと思われる、今日この頃でござります。

礒崎陽輔首相補佐官は3日の参院平和安全法制特別委員会の参考人質疑で、安全保障関連法案に関する「法的安定性は関係ない」という発言を撤回して陳謝した。政府・与党は幕引きを図ろうとしているが、野党は安倍晋三首相の任命責任を含めて追及の手を緩めない方針で、参院審議の火種となりそうだ。(本日付け、日本経済新聞)

上の補佐官の場合は、話し全体が報道されたのを読んだ(聴いた?)ことがあるが、個人的にはそれほどの違和感を感じず、政治の現場で活動する「政治家」なら、当然のことこんな思いはあるだろうなあ、と。そんな感覚だった。このくらいで辞任させたら政治の堕落だと。

他方、現在炎上中の与党議員のツイート。

安全保障関連法案への反対デモを国会前で続ける学生グループ「SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動、シールズ)」に対し、自民党の武藤貴也衆院議員、滋賀4区、当選二回=が自身のツイッターで、「彼ら彼女らの主張は『だって戦争に行きたくないじゃん』という自分中心、極端な利己的考えに基づく」と非難していたことが分かった。(本日付け、東京新聞)

こちらの方は悪質、というか文字通りの妄言に近いかもしれない。

「戦争に行きたくない」のは、当たり前である。もし「国家のためなら出征を名誉と思い喜んで戦場に赴く所存であります」、こんなことを若者が言っていれば、戦争の準備ができているということであり、日本の軍国主義はまだ健在である証拠となる。戦前の日本の誤りは戦争教育を重要視した、つまり正にこの点にあったと。そう初等教育でも教えているはずだがなあ……。もし若者が滅私奉公を口にしていても、政治家たる者は『気持ちは誠にありがたいが、憲法は戦争以外の手段による外交的解決をわれら政治家に求めている』、こういう心構えでなければ、国会議員としては失格であろう。政治家は憲法に尽くすのが職分であることを理解してない。ここが致命的である。

気に入らない憲法なら変えてしまいたくなる気持ちが本音にあるのだろうが、変える・変えないを決めるのは国民の意志による。

まあ件の国会議員はまだ若い。志には「平成維新」を夢見る青春の息吹を感じる。しかし、彼と同タイプの人がよく口にする「明治維新」は、陰謀による宮廷クーデターに過ぎない。模範ではなく、反面教師とするのが適切だと小生は今では思っている。

自らたてた志ではなく、大多数の人―選挙区の支持者のことではない―が願うことを自分の目標にして活動するのが、民主主義国家の政治家の理想であろう。自ままに己が志を追いかけても、独断的で迷惑かつバカバカしい政治になるだけである。

議員もまた人間一人、一人をとればそれだけの価値しかない。謙虚が大切だ。いや、もう遅いかも…、一発レッドカードの結末になってしまうかもしれぬ、成り行きによっては。

2015年8月1日土曜日

東電経営陣・強制起訴について思う

自動車を運転することに未必の故意による殺人罪を行う意図が含まれているか?

交通事故で人身事故を起こす確率は無視できない。人を死に至らしめるような重大事故の加害者になってしまうリスクはゼロではない。だからこそ、人は自動車保険で対人支払い限度を無制限にすることが多い。その可能性を認めているわけだ。

自分がひき起こす交通事故で人を死に至らしめることはありうると知って、なお自動車を運転し、そして一人の人を死に至らしめた。これは未必の故意による殺人罪に相当する。

この議論は、理屈は通っているかもしれないが、ムチャクチャである。誰しもがそう思うはずだ。

こんなことを言い出せば、包丁を製造するメーカーの経営者も多数の殺人罪の共犯に問われてしまうかもしれない。

★ ★ ★

東電・旧経営陣が<十分な注意>を払っていれば、小生も福島第一の原発事故は回避できたと思う。安全対策は不十分であると判断できる情報は確かにあった。つまり原発事故の原因は不可抗力ではなかったと思う。

そもそも、2011年の大震災で過酷事故を起こした原発施設は福島第一だけであり、それ以外の施設は重大な事故には至っていないのだ。何らかの<見落とし>があったことは事実において明らかである。

★ ★ ★

文脈は異なるが、1990年代のバブル崩壊の果ての金融パニックの中、経営責任を追及された銀行経営者のうち、何人かは有罪となり、ある人は命を失った。原発事故は、勝るとも劣らないほどの苦痛を多数の人に与えている。責任のとり方の均衡という観点も欠かせないだろう。

にもかかわらず、刑を課するに相当するほどの重大な責任を東電・旧経営陣が負うべきだとは、小生にはどうしても感じられない。上の自動車事故と同じ論理だ。

<行うべき注意>とは、世の中が慎重な配慮として求めている常識的かつ合理的な範囲の注意であると思われるのだ、な。

大多数の関係者が「そこまでしなくとも大丈夫でしょう」といえば、経営トップといえども『いや、それでも気になる』と主張して、独断的に自らの懸念を押し通すことは、現実の問題として不可能であったろう。

そして、その「常識的かつ合理的な範囲の注意」とは、結局は科学の発展、予測精度等々、学問的な知見に依存するのであって、地震学会、土木学会などで認識されていた危険はどうであったか。結局はこの点に帰着する、と。そう思う。

福島第一原発の安全対策には危険があるという学問的判断が大方の勢力を占めていなかったという事実がある限り― その事実をどう解釈しようとも ―経営トップ個々人に刑罰を課すべき程の重大な間違いがあったとは、小生、どうしても思えないのだ。

事故発生時の法律に適合していたという事実も、もちろんのこと、無視するべきではない。

結果として重大な事故に至ったからといって、結果に基づいて、刑事責任を負わせるという論理は常に成り立つわけではない。

行うべきことは、国家による刑罰ではなく、補償であろうと思うのだ。

★ ★ ★

東電・旧経営陣に、刑事罰が課されないとしても、実質的な制裁は行われている。強制的に起訴され、裁判が行われ、最高裁までいって無罪となるとしても、また再び再審請求が行われる可能性がある。生涯を通して、世間の指弾を浴び続けるであろう。名誉はすべて奪われている。文字どおりの「針の筵」であろう。加えるに、自らの胸中をさいなむはずの後悔と罪悪感が消えることもないであろう。経営判断を誤った当事者として<十分重い制裁>であると小生には感じられる。