2015年10月14日水曜日

印象派的な反・経済学スタンスの迷妄

今年のノーベル経済学賞はProf. Angus Deatonが受賞した。小生が若いころは(といっても小役人を辞めてから後のことだが)、一心に消費分析にすべてのエネルギーを投入していて、特にDeaton & Muellbauerが著した"Economics and Consumer Behaviou"(Cambridge UP)はスタンダードな教科書として隅から隅まで読みつくしたものであった。実に面白く、切れ味の良いテキストで、知的刺激という点でこの上をいく本にはまだ出会ったことがない。研究テーマの選択においても極めて大きな影響を受けた。なので、今年の受賞をきくと何だか青春時代が蘇るかのような心持になって大層感慨深いものがあるのだ。ご本人に会う機会をいまだ持っていないのが残念だ。

さて……、

とはいえ、経済学は最近ずっと分が悪い。世間では特に影が薄いというか、経済学と言う学問分野に対してあまり良いイメージを持たれていないのじゃないか。そんな雰囲気を感じたりするのは、小生が齢のせいで偏屈になってきているのだろうか。

先日、文科省が提唱した国立大学の人文・社会部門統廃合論。そうでなくとも、『経済学部に入って何ができるようになるのか』という揶揄的な目線は確かに昔からある。

『すぐに役立つことを学んでも、すぐに役に立たなくなりますよ』と話したりするのだが、一般に世の中には反・経済学感覚というのがある。

経済学を一度でも活用した人と、ずっと縁がなかった人とでは、話しをするにも時に大きなコミュニケーション・ギャップを感じることが多いのだ。

物理学や化学が分からなくとも『この分野は素人なものですから』というところを、経済学に対しては『世の中、経済云々では割り切れないと思いますしねえ・・・』などと、謙虚さとは反対に、お金の話で割り切る経済学者というイメージを藁人形にしたてるような攻勢をかけてきたりする。

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お金の話しに帰着させるのは良い態度ではない。そんな感情が根底にあるのだと思う。

「特に日本社会では」というつもりはないが、カネの話しは品が悪い。何か頼みごとをしたときに「いくらくれるんですか?」と応じられれば、誰でも鼻白むものだ。カネに転ぶ人だと思われること自体が損失である。

金銭よりは大義名分。ズバリいうならそういうことだ。

そんな貴穀賤金の思想は程度の違いはあれ、どの国にもあろうと思う。カネよりは、中身が社会を豊かにする。これは当たり前の事実だ。

それ故、カネがなければ病気も治せない。学校にだって行けない。そう言うと、それはカネ万能の世の中の仕組みが悪い。そういう議論になる。

しかし、この議論はカネが表している中身と、カネ自体、つまり紙幣とを混同している。

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経済学ではカネの話しをする。特に、マクロ経済学ではそうだ。GDPも通貨単位で測られている。

モノやサービスの裏づけがないカネは誰も使わないし、持とうともしない。持っていても意味がないからだ。

カネが増えるのは、カネで買えるもの、つまり豊かな生活をもたらすものが、それだけ増えているからだ - 「幸福」の増減とは違う。

経済学はカネの議論をするが、紙幣というモノの材質を分析することはしない。使われ方や社会的作用を分析する。

何事もそうだが、よく話しをするからといって、それが一番大事であると言っているわけではない。

音楽を仕事にしている人は、音楽の話をすることが多い。だからといって、音楽が人類社会で最も大事だとは思っていないだろう。音楽よりは食糧、いやもっと広く衣食住に欠かせない必需品のほうがはるかに不可欠だ。

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貧しい状態から豊かな社会になることで自然に解決される問題がある限り、経済学は必要である。そして、経済学はずっとカネの話しをするだろう。

カネの話しをすることによって、その国が成長軌道に乗り、乳幼児死亡率が低下していくなら、エコノミストは喜んでカネの話をするはずだ。貧困と悲惨、そして内戦や邪教の蔓延までも、豊かさを追求することで解決される問題は多い。

豊かさを通して貧困を解決することの副作用は、長寿を目指してきた医学が、長寿なるが故に独居老人の孤独を増やしてきたことと似た問題である。それはそれで解決への道筋を考えればよい。

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