2015年7月14日火曜日

断想 − しつけ・厳しさ・ハラスメント

人間は後天的な動物だ。成長環境によって人は作られる。

人が育つためには愛情を必要とするし、躾けや教育もいる。しかし、躾けや教育の果実は、その子供の自発的な意志で裏付けられていないと、詰まる所は空ッポのままになる。

言われる方が自発的に守っていこうと思わなければ、言ったり教えたりしたことも、結局はなかったことになるものだ。

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その昔、古代ギリシアのアテネ陣営とスパルタ陣営が30年間も続くペロポネソス戦争を始めるに際して、軍事的には劣勢であるとされるアテネの指導者ペリクレスが有名な演説を行った。その要旨はツキディデス『戦史』にもある。スパルタの若者は日頃の厳しい訓練で武技と敢闘精神を叩き込まれている。そのような軍事訓練をアテネの若者は受けているわけではない。しかし、わがポリスの危機に際して、アテネの人間は自らの意志で戦いに参加し、自発的な創意工夫で勝てる作戦を実行してきた。単に命令されたからそうするという集団より、アテネのほうが優位にあるのだ、と。

なかなか聞かせる名演説を披露したのである。

結果としては、想定外の疫病が流行したり、無謀な遠征をやってみたり、得意の海戦で計算外の大敗を喫したりしてアテネは敗北するのだが、その責任はうえのペリクレスにはない。ペリクレスは疫病流行時に落命したからだ。

戦争には負けるが、スパルタは戦勝後のバブルで堕落し、短期間の内に没落するのである。アテネは指導力を失いながらも、都市としては生き続ける。ソクラテスやプラトン、アリストテレスが哲学を語るのは敗戦後の混乱したアテネである。そこで高度の古典文化がなおも育っていったのだ。そして今に至っている。

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体罰は躾や教育には即効的である。

小生も、正直な所、愚息達が幼い頃、話してもわからないときには体罰によったことがある。が、『言われたとおりにする、マナーを守れ』というだけでは、その人の一部になり、本当の力にはならないものである。個々人が自由に行動しながら、結果としては相互に協力し、集団としての力を発揮できる社会が真に強力な社会である。

そう思うのだな。

しつけ⇄厳しさ⇄ハラスメント。目上の立場にある人間には、これらの中間がグレーゾーンなのであるが、ゴールは外面的な行動ではなく、あくまでココロにある。言うことをきかせて満足するのでは、親や教師や上役の自己満足でしかない。これだけはハッキリしているわけだ。

教えられる側と教える側の両方があるのが常なのだが、勝利の方程式など便利なツールはなく、まずは信じ合って、ひたすら相手とつきあう、勘所はこれしかないのだろう。いまの世の中で、こんな社会機能が維持されているのか、弱まりつつあるのか、正直よく分からない。

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