2014年12月29日月曜日

再考ー「民主主義」をどう考えているのか?

今年の投稿は昨日で終わりにして、あとは来年度の統計分析の授業をどうデザインするか。じっくりと考えたいと思っていた。1990年代の初め、現勤務先に転任してきたのだが、その時点で国内で、というか全世界で流通していた統計学テキストはほぼ同じ構成であった。更に言えば、小生のなくなった父がその昔使っていた『初等数理統計学』(著者:森口繁一)もまた、基本的には小生が昔書いた本と構成はほとんど同じなのだ。要するに、統計学の勉強の仕方は、この半世紀以上まったく同じだったのだな。

ところが、実際に統計分析を教えている現場で、この2、3年というもの、履修者の欲求不満が高まっていると肌で感じるようになってきたのだな。統計分析を学ぶというより、データサイエンスで何が分かるかという意識になってきた。そこを熟考したいのだ。

だから、年内は昨日で打ち止めにしたつもりだが、いざ読み直してみると、ずっと以前の投稿で述べた「民主主義をどう考えるか」という意見とかなり違っているような気がした。

★ ★ ★

今日はその検証である。そこではこう書いている。
しかし、どうなのだろうなあ?ローマ帝国は共和制から帝政になってから大いに発展して生活水準も向上したそうだ。それでも3世紀までは元首政であって、世襲による絶対君主制ではなかった。しかし社会が混乱し、それをディオクレティアヌスやコンスタンティヌスが独裁制、言い換えると真実の意味における皇帝による政治体制に変革したのだった。それで社会はある程度安定した。東ローマ帝国が15世紀まで存続した一因にもなった。民主主義政体をとっていたなら空中分解したのではないかなあ、と。そうも思うのだな。 
古代ギリシャのアテネは民主政治をある程度確立した。繁栄はしたが、ペロポネソス戦争で非民主的なスパルタ陣営に敗れ、以後衆愚政治が続き、最終的にギリシア世界はアレクサンダー大王による広大なヘレニズム世界として統合された。どの国も東洋の香りをもつ王朝国家である。 
アジアと西洋が歴史を通してシーソーゲームを繰り返しているというが、いずれかより民主主義的であった側が他方を凌駕した。そんな法則はないようである。 
大体、民主独裁制の一変種であったヒトラー時代のドイツ、社会主義時代のソ連を民主主義というか?言わないとすれば、どの国からどの国までが民主主義か?民主化インデックスを作るにしても、かなり恣意的であろう。 
小生自身は、その社会が民主主義であるかどうかは、経済成長にそれほど関係ないのじゃないかと思っている - 思っているというだけのことだが。
上の見方は、明らかに昨日の投稿と主旨が矛盾しているような気がしたのだな。そんな気がして以前の投稿の結論的な部分を再確認してみると、こんなことを書いてある。
だから、技術とイノベーションの果てにどんな社会が選ばれるか?それは、技術とイノベーションが生み出す果実を活用するのに最も便利な政治制度が、自発的に選ばれていく。そういうことじゃないだろうか?現に選ばれている社会制度は、その時代を生きている人にとってはベストであり、大いに賛美したくなるのも分かるのだが、その制度が永遠にベストであり続けるとは、到底、賛同できない。子孫は子孫で、一番やりやすいように社会を変えていくだろう。それは民主主義の廃棄、王政の復活、帝政の復活ですらも十分ありうる。そう思うのだな。
要するに、政治のあり方を含めた社会システムがどうなるかというこの問題は、その時代に生きる人たちが、その時点の技術・情報を活用するのに最も便利なように自由に選んでいけばよい。特定のあり方が最良であると、というより「正義」にかなうのだと、あらかじめ確定できる先験的な根拠などはない。そんなことを書いている。

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う〜む、・・・上の文章を書いたのは2011年9月19日である。東日本大震災があった年だ。どこことなく進化論というか、適者生存的な薫りが醸し出されているのはそのためなのかねえ・・・。当時の心持ちなどはすでに忘却しているので、どうもよく分からぬ。ただ結論で言われていることは、現時点でも響きあうものを感じる ー そりゃそうだろう、当人なんだから。

昨日の投稿で書いた次の文章は、本当に上と両立するだろうか。
「幸福」に基礎を置かずに「国益」を求めれば、国防やGDPが国家目標になるだろう。ということはだね…、国益が幸福より優先された遠因として「資本主義」をあげることは、他にも資本主義国が多数あった以上、できない。生活を犠牲にして国の利益を求めることができた主因は、資本主義ではなく、「上」が「下」を抑える戦前期・日本の「国体」そのものが、民主的ではなかったからだ。この点こそが原因か……
民主主義が「正義」に適っていると、あらかじめ前提できる根拠を小生は知らない。以前にはそう書いている。それに対して、昨日は非民主的な社会システムであったからこそ、国民の幸福とはかけ離れた国家目標を掲げ得たのだと述べている。非民主制に戦前の誤りの原因を求めているようでもある。そこで<IF…>となるわけだ。

しかし、仮に明治維新の結果、日本が非常に民主的な国となり、明治憲法が日本国憲法と同じ国民主権をうたっていたとしても、その後の産業発展や生活水準は1930年時点において、それ程大きな違いは生まれなかったであろう。もちろん日清戦争や日露戦争は発生しなかったかもしれないが、世界史的な条件が変わらない以上、別の紛争が東アジア地域で多発していたことは容易に想像できる。であれば、大恐慌から第二次大戦にかけてアメリカでも政府の役割を拡大させたように、危機の高まりの中で日本でも国家の役割が期待されていたであろう。そして旧幕下の封建制を経験している日本では、(仮想されている)民主的・明治体制への疑問から、理念に迷いが生じて、幾人かのデマゴーグが登場し、ひょっとすると歴史上の人物と同一のそれらの煽動思想家・政治家が徘徊する中で国家主導色の強い非民主的・新体制へ移行した確率は高い。そう思うのだ、な。つまり流れゆく歴史的経路は概ね同じではなかったろうかということだ。

流体力学は流水を構成する個別の分子の運動を説明はしない。歴史上のIFが無意味であるのは、「れば・たら」論には意味がない、そういう単純な意味ではなく、仮に個別の国家がその時に別の選択をしていたとしても、世界史全体としては大体同じような結果にならざるをえない。まして、一個人が特定の時点で別の選択をする、というより別の選択があり得たと仮定を置く事自体が無意味なのだろう。そんな風にも思われるのだ。

★ ★ ★

そう考えれば、民主主義に関する以前の投稿と昨日の投稿は矛盾しない。いまはそう書いておくとしよう。

『一年の計は元旦にあり』というが、小生は「計画」することも好きだが、「検証」のほうがもっと面白いと思ってきた。それに「計画」する未来より、「検証」するべき過去のほうが、齢とともにだんだん長くなってきた。それもあるのだろうねエ、3年前の投稿と昨日の投稿との矛盾について考えるなんて。

2014年12月28日日曜日

ブレないことの戦略的価値と「国益」の価値

昨日は、本当に久方ぶりに隣町のコンサートホールに出かけていって尾高忠明指揮・札響の『第九』を聴いてきた。


朝の余りの大雪に地下鉄を降りてからホールまで歩いていけるのかと少々心配であったが、上の写真の通り、ホールのある公園内は綺麗に除雪されていて、大変気持ちがよかった。開演は午後2時である。

久しぶりにきく地元の交響楽団だが、ズバリ、見直したというか、驚いた。以下、楽章ごとの感想だ。
第1楽章: こんなに底力があったか?底光りのする響きになってるなあ・・・
第2楽章: 切れがよくなってるねえ。技量、あがったなあ・・・
第3楽章: もっと天国的で優艶な調べにしないと最終楽章が盛り上がらないヨ
第4楽章: パワーがこもっている。磨きに磨きましたねえ・・・

率直に言って脱帽しました。これから定期演奏会には聴きにいくかな。そう思いました。

× × ×

開場早々ワインを注文して、ソファに腰を下ろし、最近読みふけっている川田稔『昭和陸軍全史』の第2巻『日中戦争』をKindleで読み続けた — これから聴こうという楽曲の思想と全く主旨を異にしている点、あきれ果てるのだが。

読みながら考えたのは、「国益」ということと「ブレない」こととの関係だ。そもそも、小生、ずっと「ブレない」ことが大事だと言う意見にはいつも首をかしげてきたのだな。むしろ変化する情況に置かれた人間なり、組織は、与えられた情況の下でいかにして最も合理的な行動をとるか。それが大事である以上、変化する世界の中で行動方針を変更するのは当たり前である。そのどこが間違っているのか。そう思ってきたのだ。いわば「理論」にとらわれていたのだな。

ところが、ぶれない経営が価値の源泉になる。先日、そんな議論をしてから、目から鱗が落ちるように見方が変わってきた。すべて戦略とは、今後将来の行動計画のことである。そして戦略が定まるには理念・目的が決まっていなければならない。一定の理念と目的からスタートする以上、今の行動がどうあろうと、発言がどうであろうと、最終的な目的は変わらないはずである。戦略は変わらないはずである。変わるとすれば、変化する情況の中で展開する戦術だけである。ブレない企業は、経営理念に迷いがないので、その理念に共感し支持する人は継続的に安心して投資する。その結果、低い資本コストで資金が調達できる。ブレる企業は「分からない企業だ」と見られる分、資本コストが上昇し、そこに競争上の優劣が生まれる。そんな議論をしたのだ。

逆に考えると、特定の理念、目標に束縛されない「柔軟な」姿勢を保つと、その時々の条件の下で利益・国益を最大化する政策をとりうることになる。しかし、このような行動方針は、結局は「機会主義」になるのであり、変化する情況の中で次は何をするか外からは見えにくい。そんな組織的行動とならざるをえない。つまり信頼されない。そういうことなのだろうと考えるようになったのだ、な。

そんな目で『陸軍全史』を読んでいると、1920年代から30年代にかけて、何が時代のキーワードであったかといえば「グローバルな構造変化」である。その変化の中で、帝国陸軍は国益を守り自存自衛の必勝態勢を築くことを政策目標とした。これ自体は国益と合致している。そんな議論なのだが、これは原敬以来の政党内閣が目指してきた英米協調路線とは全く異なる。その意味では、「昭和陸軍」は国内でも国外でも「革新」を支持し「新体制」に共感したわけであり、そうすることで「国家改造」を目指していった。であるが故に、必然的に大日本帝国の理念と目標がブレ、対外的信頼性が毀損されることで政治資源を失い、現実に認められる中国の頑強な抗日姿勢とも融和できず、最終的には不利な戦争を余儀なく選ぶという結末に至った。

簡単に言えば、使い古された表現だが、一貫性がなく、機会主義的であった。大戦略なき戦略。それを立派な戦略と思い込んだ。そう思ったわけだ。そして更にその根本的原因を探ると、そもそも戦前期・日本は広く国民の幸福を増進するために出来た国ではなかった。上(=国と官)に下(=地方と民)が従う非民主主義国家であった。この点を無視することはできない。「幸福」に基礎を置かずに「国益」を求めれば、国防やGDPが国家目標になるだろう。ということはだね…、国益が幸福より優先された遠因として「資本主義」をあげることは、他にも資本主義国が多数あった以上、できない。生活を犠牲にして国の利益を求めることができた主因は、資本主義ではなく、「上」が「下」を抑える戦前期・日本の「国体」そのものが、民主的ではなかったからだ。この点こそが原因か……

そんな感想 −どうも「戦後知識人的見解」になってしまうので意外感を感じつつあるのだが − ホールの壁際のソファに座って、あれこれと思いをめぐらせながら、歳末の『第9』開演をまったわけだ。

☓ ☓ ☓

【追記】 好き好きだけでいえば、小生、同じベートーベンの交響曲なら第3番のエロイカの方が圧倒的に好きである。かつ、歳末に聴く楽曲としてもエロイカには明瞭で壮大なストーリー性があるので、好適ではないかと思案している、というより以前から歳末のエロイカ演奏を熱望しているのだ。ま、そんな世の流行に逆行するようなプログラムを組む楽団は今後も現れないであろうが。やはり第2楽章の葬送行進曲かねえ、ネックになるのは。全体としては偉大なる不死と復活のイメージなのだが。

で、やはり聞きたくなってAmazonで買ったトスカニーニを聴くと、さすがに「これは違う」とー フルベンが手に入ると思ったのだが、検索で出てこないのだなあ。おかしい。ところが探すと、"All Time Greatest Hits"というアルバムが見つかったのだが、これが往年の隠れた名指揮者Carl Schurichtの名演集であった。新年早々のお宝発見となった次第。


2014年12月26日金曜日

来春の賃上げは確実とは思うが……

本日の日経速報で労働市場の明るい現況が伝えられている。
厚生労働省が26日まとめた11月の有効求人倍率(季節調整値)は1.12倍と前月より0.02ポイント上がった。改善は2カ月連続で1992年5月以来の22年6カ月ぶりの高い水準だ。企業からの求人が高止まりする一方で、新たに働きに出る人が減っているため。総務省が同日まとめた完全失業率は3.5%と前月と同じだった。 
 有効求人倍率は全国のハローワークで職を探す人1人に対して、企業から何件の求人があるかを示す。ハローワークが11月に新たに受けた新規求人数(原数値)は前年同月より4.4%減った。情報通信業や建設業、サービス業で10%超のマイナスとなった。過去に出した求人が採用につながらないまま積み上がることが増えており、求人数全体で見るとプラスが続いている。 
 一方、新たに職を探す新規求職件数は10.9%減った。職探しをする少数の人を多くの企業が奪い合う状況が続いている。
 (出所)日本経済新聞、2014年12月26日

求人と求職の関係はバブル景気ピークアウト直後の1992年5月以来というから嬉しいではないか。というより、人手不足については相当以前から耳にしていたことでもあり、改めて現在の雇用状況がわかってきたというわけでもある。もちろん人によっては、非正規雇用ばかり増えても意味がないという向きもあるだろうが、そもそも非正規雇用が全体の40%前後を占めるようになった現在、「正規」、「非正規」という呼称そのものからして非現実的になった。現在は、戦後日本の企業別労働組合で身分が強く保護されてきた社員が、本来の「労働者」に解体されつつあるプロセスにあり、いずれ技能・職能ごとに団結できるまでの過渡期にあるのだと小生は思っている。景気とは関係のない構造的な変化である。

ま、いずれにしても人手不足である以上は、来春において賃上げが通るのはほぼ確実である。

ではどの程度の賃上げになるだろうか?

何の説明変数もつけずに、毎勤ベースの全国5人以上企業における所定内給与を予測すれば、来年4月時点の賃金は実はプラスには出てこない。


上図の黒い実線が本年10月までの実績、青い線が11月から来年7月までの9か月予測である。縦軸は2010年平均を100とした指数の対数である。4月時点の前年比をみてみると、来年4月には予測値が元の指数で100.4(▲0.2%)となる。若干のマイナスである。もちろん予測は確率的にみないといけないので95%予測区間の上限を確かめると101.6となる。上昇率にすると1%だ。

名目賃金は、消費者物価指数の変動、その他の要因に影響されているので、名目賃金一本で統計的予測を行ってみても、それはあくまでも参考に過ぎない。しかし、賃金変動には、景気や消費者物価、生産性向上などあらゆるマクロ的変動が織り込まれているのであり、そもそもそれが予測可能であるのなら、賃金データ自体に予測の基礎となるべき統計的パターンが残っているはずなのだ。その統計的なパターンを見る限り、来春時点の賃上げは吃驚するほどの引き上げ率にはならない。これが(現時点において)示唆されることである。

消費者物価は、なるほど、消費税率引き上げに伴って上がっている。とはいえ、消費税は広く消費者全体が負担する税であるというのが基本的な理屈である。政府は、消費税率引き上げ(物価ベースで2.9%の上昇)を取り戻すほどの賃上げを企業サイドに求める気はさらさらないはずだし、もしそんな要請をするなら健全な経済運営とはいえない。

2014年12月24日水曜日

政治の「不正経理」という前近代性

「不正経理という前近代性」…あまりに大上段に標題をつけると、書かなければならないことが増えすぎる。実は、そんな風に考えてはいない。単なる覚え書きである。

政治資金については以前にも投稿したが、そこでは以下のように記してある。
いずれにせ不正経理はまずい。すべて過失はまずい。
不注意によって何らかの損失は生じる。過失をどの程度罰するかという問題は、その過失によって生じた損害を見てもよい。そしてその損失とは、目標を達成する上で生じた損失を指すと考えるのが合理的だ。
大体、政治資金の決算については政府に「政治資金適正化委員会」が設けられている。「政治資金監査人」は登録制になっている。監査が期待どおり機能していないのではないか。
サラリーマンの収入はガラス張りだが、個人事業、専門的職業に従事する人は誰でも税理士と相談しながら経理ミスを防止しているはずだ。もちろん監査済みの決算に不正が見つかったからといって、ミスは監査人の責任ですとトップは責任を回避することはできない。しかし、経理ミスを見逃す監査人は、能力を疑われ、業務を継続できなくなる。
上の記述に何か付け加えることがあるか。

こんな報道が出てきている。

安倍内閣は首班指名のあと全閣僚を再任する予定であったと伝えられていた。ところが、江渡防衛相の資金管理団体が江渡氏自身に350万円を寄付したと政治資金収支報告書に記載されていた。「これは政治資金規制法違反にあたる」といわれ、民主党など野党から攻撃されそうなので、再任を辞退した、と。そう報道されている。

政治資金の収支は、制度上、「政治資金監査人」の監査を受けなければならない。

決算報告を作成したところ—というより、すべて決算は法に沿って適正に行わなければならないのが民主主義と公平な課税を基礎とする近代社会なのだがー政治家本人に法律違反の疑いが波及する。これはそもそも「監査」を行うべき者が適正に業務を遂行しなかったことになる。監査人の怠業があったか、監査人に対する政治家の圧力があったか、監査業務内容の定義に不十分な箇所がある。そのいずれかである。

監査人は総務省に届け出なければならない登録制である—総務省:登録一覧。無資格の者が好き勝手に政治資金収支の公正を証明することは出来ない。その監査業務が、最近の事例を観察すれば、正常に機能していない。監査に問題があることは明らかだ。
なぜ政治資金収支で「監査」が正常に機能しない傾向があるのか?
「法の前の平等」と「議員定数配分」も確かに重要な問題ではあろうが、「経理の公正」は、近代化の前提であり、定数是正よりも早期に解決するべき問題だと思われる。こちらのほうが先に解決するべき基本的な問題だ。そう思うのだ。

2014年12月22日月曜日

自分の人生の味

小生がまだ役所勤務の頃、同じ課でお世話になり―というより面倒をかけたことの方が多かったと思うが―現在は首都圏の某大手私大の教授をしているTKさんが、連載しているコラム記事で「三人の師」の思い出を書いておられた。

文中に登場している三人の人物のうち、YK氏は(小生も事務的なやりとりをしたことはあるが)深い関係を持てなかった。しかし、あとの二人、MY氏とSS氏は小生にとっても直接上司であったことがあるので、大変懐かしい思いがしたのである。

とはいえ、小生自身の立場からいうと、SS氏よりはその前任のYO氏には客観的にはもっと多くの厚情をたまわった感情がまだ残っている。また、MY氏よりはYM氏から頂いた多大な愛情の温もりをいまも忘れられずにいる。

しかしながら、当地に来てから上の二人とは次第に疎遠となり、疎遠のままで両氏とはすでに幽冥を異にしてしまった。それどころか、1992年の春、小生は離京したまま唐突に役所を辞してしまった事情もあって、二人の先輩とも連絡がいつしか途絶え、二人が他界したという事実すらずっと後になってから人づてに知ったくらいであった。

最初に述べたコラム記事を読んで、懐かしさとともに苦味と後悔の念が昔と変わらずまたも胸にしみとおってきたのには意外な感がした。旧友と歩く道を異にしたまま、裏山道を長閑に歩かせてもらったが、どこか贖罪意識を胸のうちに持っていたのだろうか。

小生の人生は塩味が隠し味というには少しききすぎているようだ。

2014年12月20日土曜日

石油安値はOPECではなく米国の戦略なのか

先日の投稿とは別に、プーチン露大統領が、いまの石油安値はアメリカの経済制裁の一環であるという見方を示していて、これまた中々根強い見方だ。
 これに真っ青なのがロシアだ。プーチン大統領は10月の会見で、「1バレル=80ドルなら、経済が崩壊する」と発言。閣議で予算増を求めた閣僚を「君は原油価格がどうなっているか知っているのか」と叱りつけたという。歳入の半分がエネルギーという資源依存経済のロシアにとって、原油価格の下落は一大事だ。
 同大統領は中国紙との会見で「原油価格には常に政治的要素がある。価格が変動すると『してやったり』と思う勢力がいる」と政治的陰謀を示唆した。具体的言及は避けたが、ロシアでは今般の原油価格下落は「米国とサウジアラビアが仕掛けた秘密工作」(露・コメルサント紙)とする見方が有力だ。
(出所)週刊文春WEB、2014.11.21 07:00

とはいえ、シェールオイル革命が今後将来の石油価格について天井観を形成しつつあったが、これはプーチン大統領とは関係のないことだ。

大方の見方はアメリカによる陰謀でまとまりつつあるようだが、そんな力が今の米政権に残っていたのだろうか?そんな力があるなら、そもそもシリアでもう少しマシな対応ができたのではないか。イラクでもう少しマシな対応ができていたのではないか。TPP交渉でもう少し上手に対日交渉が出来ているはずではないか。

解せんねえ……、一体、アメリカ現政権の誰の企画なのだろうか。

OPECの安値攻勢に一歩引き下がったアメリカが、『アアあれか?あれはナ、わざとやったんだヨ。作戦だヨ。あまりしゃべるなよ、秘密だぞ』、こんな所ではないのかねえ…。

マウンドに送ったリリーフ投手が9回表に逆転ホームランをあびた。ところが9回裏にピンチヒッターが、再び逆転ホームランを打ってサヨナラとなった。『いやあ、どうです?メークドラマでしょ!これが野球なんですよ』。似ているねえ。小生はそう見ているのだが、どうだろう。

2014年12月19日金曜日

STAP騒動ー研究失敗と記者会見をめぐる第一印象

「研究」というのは、人と違ったことを人よりも早くやってなんぼ、そんな活動だから、失敗や間違いは必然的に多くなる。ずっと以前、日本が生活大国になったというので、これからは手本にする国がない、そんな意味をこめて『海図なき航海』という言葉が流行ったことがある。1980年代だ。海図がなければ船は座礁する確率が高いだろう。研究は、座礁を覚悟で多数の船を繰り出して、隠された航路を発見しようとする偵察活動と同じだ。犠牲はつきもの、失敗はつきもの、ちょんぼも勘違いも、その他失敗をもたらす原因は無数にある。これがスタート地点だろうと。そう思っているのだ。

そんな目線で書いておきたい。理研のSTAP騒動が永らく世を騒がせてきたが、再検証でも確認はできず、ようやく収束したようである。
「まず、最初に結論を申し上げさせて頂きます。STAP現象は再現することができませんでした。来年3月までの予定だったが、検証実験を終了することとしました」
(中略)
2時間以上にわたる会見を終え、退席しかけた相沢氏は立ち止まり「モニター監視や、立ち会いを置いた小保方さんの検証実験は、科学のやり方でない。そういう実験をしてしまったことに、検証実験の責任者としておわび申し上げるとともに、深く責任を感じている」と謝罪した。
(出所)朝日新聞、2014年12月19日14時04分

別の報道によれば、懲戒処分を検討していた当事者から退職願を受理するのは問題ではないかという主旨の質問まであったそうだ。

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ずっと昔、記者レクを聴いていたこともあるので、時々気になっていたのだが、記者会見というのは結局何なのだろうと疑問に思うことがある。会見をする側が伝えたいことを伝える場であるのか。それとも、会見に出席するメディア側が伝えたいことを確認する場であるのか。伝えたくないことはメディア側が食い下がっても話しはしないものだ。無理に聞き出したことを報道しても聞き手の主観的バイアスが混じる分「情報」としては落ちる。また、伝えたいと思うことをその通りに報道してもらうなどは最初から期待するのが無理だろうと思う。ホームページや、その他SNSがあるのだから、当事者の立場からネット経由で伝えていけばいいことである。

最近の情報過剰時代に、小生、「記者会見」とか「記者レク」というのは、一体誰の・誰による・誰のための場であるのか、ちょっと分からなくなっているのだ、な。

ま、どちらにせよ、研究活動というのは知的ベンチャーである。ベンチャービジネスは、概ね、100分の1だと耳にしたこともある。百発一中なら満足せよということなのだろう。ということは、うまく成果を出せなかったにしても、早とちりをしたとしても、反証が第三者から早々に出されたにしても、決して恥ではなく、更に言えば(今回のケースが該当するという意味ではなく)出世欲にかられた欺瞞や、嫉妬や疎外を恨んだ犯罪行為に汚されるとしても、専門的能力はあるがその他は未熟かもしれない人間がすることである以上は、あらゆる醜聞もまた予想しておくべきである。そう思うのだ。当然、使った金の返済を求めるべきではないし、あらゆる失敗のコストは稀な成功で取り返す。失敗した研究者は、逆転ホームランを打たれた投手さながら、淡々と悪びれずに敗者としてその場を退場すればそれで済むことだ。スマートなビジネスというより、ギャンブラーに近い知的な賭博。それが「研究」なのだと思う。

三流の研究者くらいには入っていたいと願う小生はそう感じているし — もちろん、研究というより、確実なビジネスをする感覚で仕事を進める「研究者」もいるし、またいてもよい — もしアカウンタブルな経理とギャンブルはなじまないと思う人がいれば、そもそも知的ベンチャーには最初から手を出すべきではない。時代を切り開くような研究は他の先進国に任せておけばよい。小生、そう考えるのだ、な。『後手の先』という言葉もあるではないか。なにも先頭をきって進む必要はない。たとえばナイロンとか、ペニシリンとか、そういうエポック・メイキングな革新的特許は他国に譲って、我が方は改善とマーケティングとCRMで競争優位を築いてもよいのだ。巨額の創業利益は得られないがリスクがなく安全確実である。こんなこと位は周知のことではあるまいか。

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丁度、3割バッターが3打席のうち2打席に凡退しても「打てない」わけではなく、あとの1打席でヒットを打てば「好調を維持していますね」。そう評価されるのと同じである。研究活動の成否は、集計的・統計的に行って初めて意味があるものであり、個別のケースに厳しい目を向けても、世の中がギスギスするだけで、何のプラスにもならない。

マスメディアは確かに有益な情報の流通に大きな役割を果たしているが、取材・検証・発信のコストはゼロではない。小さな事実に大きなコストをかけるのは無駄である。色々あったが敗者の退場を静かに見送る。これで良いのではあるまいか。"Such is life", "Such is scientist's life" である。

2014年12月18日木曜日

あの猛吹雪警報はどこに行ったのでしょう…

道北・道東では暴風雪が吹き荒れ、それと併せて北海道全域で猛吹雪への厳重な注意が呼びかけられていた昨日であったが、結局、昨日の夜の授業はやることにした。

道央地域では「夕方から荒れる」から「夜8時以降は吹雪に注意」という風に警告も次第に変わってはいたが、雲の情況をみるとほとんどないのだね。で、雪が降るにしても、どこの雲から降って来るのかわからない。ま、降らんね、というので授業をやった次第。

授業は6時過ぎに始まり、9時過ぎに終わる。同時間帯にある他の授業もやはり開かれていてワイワイと賑やかだ。流石に「今日は9時過ぎから吹雪になるという見通しもありますから早めに終わりましょう」と言ったのだが、いざ終わってからブラインドの隙間から外を除くと「雪は…まったく降っていませんね」。帰りの高速バスでは渋滞もなく、さすがに月は出ていなかったが、快適であった。迎えにきたカミさんは「明日が吹雪のピークみたいよ」と。

一晩あけてから、夜の間に雪が積もったかどうかをみてみる。「どう?降ってる?」、「いや、まったく降ってないな。ベランダの手すりにも全然」。どないなってるのや?

朝のニュースにする。今日の臨時休校を決めている小中学校が多いらしい。ホントか?行けるんじゃないか?各地点から寄せられる声を地図にプロットした画面が出た。みると北海道全域で「雪が降っている」地点はわずかであり、「荒れていない」という地点が70%、小生の地元は「風が強い」という情報が集まっていた。全く、どないなっとるのや?

明日は気温が上がるらしい。どうやら今回の「猛吹雪騒動」も収束する気配である。やれやれ。今度はほんとに警報に振り回された。今度はもっときめ細かく地域の違いに目を向けて現実的に情報を提供してほしいものである。心からそう願うばかりだ。今頃は、二日連続で小中学校を臨時休校にした地元の教育委員会が「軟弱にすぎる」と叱責されているのじゃないかねえ・・・。

たとえば弟が暮らしている福島県は比較的面積の大きな県である。天気情報は「浜通」、「中通」、「会津」と3地域に分けて提供されている。若かったころに仕事をしたことのある岡山県なら「県南」、「県央(だったか?)」、「県北」の3地域だ。郷里の愛媛も「東予」、「中予」、「南予」の3区分。こんな風にみれば、北海道は福島県の約6倍だから、単純計算で北海道全域を18区域に分けて、地域ごとに天気情報を提供して、バランスがとれる理屈になる。「オホーツク沿岸」とか「根室地方」、「釧路地方」という表現は、現地を知らぬ、あまりに粗漏な伝え方ではあるまいか……。

今日は打ち合わせがあるので大学に登校。終わってから書店。『岸信介の回想』(文藝春秋)を買う。戦前の革新官僚も、今になってから振り返ると、「意図せざる軍国主義路線」をとったのだと思われるが、たとえ「あの時はああいうつもりでした」というのであっても、読めば面白かろうと思う。

2014年12月17日水曜日

中央の気象庁には「北海道」が見えてないのじゃないか?

小生は道央の小都市で暮らしているのだが、いまもTV画面には『数年に一度の猛吹雪』という警報が文字表示されている。

★ ★ ★

なるほど道北の網走、北見では、いま現時点でも暴風雪がひどい。根室では高潮被害もあった。しかし、札樽地区のTV画面にまで、それも朝から、暴風雪警報を表示する必要があるのだろうか?大変疑問である。非現実的だと言う人すらいるだろう。

大体、小生が暮らしている町から道北の網走市までは380Km離れている。東京と名古屋よりも離れている。東京が荒れたからといって、名古屋もすぐに荒れるという同時性はないだろう。警報はリアルタイムで地区に応じて適切に流すべきだろう。北海道は都道府県の中の一つだが、面積は日本の国土の2割強を占める。「北海道の人」というには広すぎるのだ、な。

★ ★ ★

Yahoo!の天気予報コーナーをみると、道央部は今日は「曇りから雪」、明日は「吹雪」になっている。いま窓の外の空は薄晴れである。それでもTV画面には『数年に一度の猛吹雪』とある。奇妙である。腹も立つ。


上の図は14時現在の雲の状態である。道北は大変だが、道央、道南には雲がない。道北・道東地域については一生懸命解説したり予報をしているが、道央、道南については住民が知りたいと思っているはずの情報を提供していると言いがたい。

いまの時刻になって、吹雪のピークは道北では今夜、道央では明日。こんな説明がでてきた。道東はどうなのか?道南はどうなのか?

小生が暮らしている町の小中学校は気象庁の予報を心配して今日は臨時休校にしたそうである。見事に空振りに終わった模様だ。

所詮、東京にある気象庁が管理しているようでは駄目じゃないか。北海道の気象予報サービスは、地元にあって組織・人員ともに層が厚い北海道庁が責任をもって対応するべきじゃないか。東京の気象庁は「気象データセンター」としての役割に徹するほうが良いのではないか。そのための移管・線引きを行うほうがよい。国は国で為すべき仕事に専念するほうが資源の無駄がない。

『こりゃあ官庁には見えてないねえ…』、そう思いつつ、今日の夜の授業は休講にしようかどうか、情報不足で頭を転がしながら、迷っているところだ。終わるのが10時前だからねえ…どうなっているか。交通はどうなのか。慎重であるべきなのか?まあ、10時までなら大丈夫なのか?

いま現時点で知りたいと思う情報が提供されていないことは驚く程である。

2014年12月15日月曜日

選挙の結果ー予想通りの「難クセ」

与党圧勝は予想通りであった。

投票率が史上最低記録を更新したことも予想通りであった。

そして、終わってから出てきた「難クセ」も予想通りである。たとえば
半分の有権者は棄権した。支持したわけではないことを肝に銘じよ。
……全くねえ、「大のおとな」が今になって何を言うのか、と。慨嘆に堪えないのだなあ。

大学の定期試験で欠席した学生が後になってやってくる(とする)。欠席すれば、当然、ゼロ点になっている(はずだ)。部屋にやってきて『受けなかったから分かっていないと判断するのはおかしいんじゃないですか?」と、そんなことを言いにくる学生が(万が一の仮定として)いれば、小生はゼロ点ではなく、マイナス点を与えるつもりだ。

「こんなことも分からないのか」。言われる方は「恥ずかしい」と感じてほしいのだねえ……。

投票の意志があれば、何らかの方法で投票は可能だ。自分の意志を伝えられる。にもかかわらず投票を棄権すれば「白紙委任」になる理屈だ。『どうでもようござんす』と言いたかったのでしょ。委任状を出したわけではないというのは屁理屈だ。数に入っていない。それでおしまい — 「降りたサ」、そんなライフスタイルも低徊趣味的で嫌いじゃないのだが。つまり、というか、故に「難クセ」である。見苦しいねえ…、バブルのようだ。放送する価値はないのじゃないか。

★ ★ ★

もちろん、これを以て安倍政権が信任に値すると結論されるわけではない。それは英誌"The Economist"が書いている通りだ。
The question is whether alongside all of these tasks Mr Abe can use his renewed political capital to drive through structural changes to Japan’s economy, such as loosening the rigid labour market, and taking on the country’s vast and monopolistic network of agricultural co-operatives. Dispiritingly for pro-reformers in his government, he made little mention of such priorities during the campaign. Yet his third resounding electoral victory in two years means he has no excuse not to press ahead.
Source: The Economist, Dec 15th 2014

今回の大勝で得た政治資産を活用して日本経済の構造改革を推し進めていかないとすれば、安倍首相はもうどんな言い訳もできない — やる気がないのだと見られるだけである。

おそらく日本以外の外国はこんな眼差しなのだろう。「構造改革」。 一つはアンフェアな労働規制の緩和。もう一つは全国に網を張る独占的な農協団体。この二つを挙げているが、もう一つ。「人道的な倫理と規制」を断固として支持する医療関係者がいる。それより司法府の現実感覚を鍛えることも必要かもしれない。

ズバリ、岩盤規制の創造的破壊である。これが出来るか?この程度が出来なければ憲法改正もできないでしょう。そういうことである。

小生、別に靖国神社を参拝する人を支持するわけではない。「侵略戦争」を美化するつもりもない。が、安倍政権は日本社会をもっと豊かにできる。困った人が問題を解決できる機会をもっと増やせる。うまいやり方があるが、強硬に反対する人がいるのだ。もうズバリ語って行ってもいいのじゃないか。さあ、それが語れるか・・・イギリスの週刊誌が書いていることだが、自由化と規制緩和で恩恵を受ける分量の方がずっと多いはずである。

みんなで貧乏になるよりは、まず全体の豊かさをトータルで増やす方が先決だろう。全体が増えれば、あとはどうとでもなる。どうにもならないから、みんなで平等に貧乏に。それは最初から諦めている。敗北主義だと言うも可であろう。

2014年12月14日日曜日

夢想-個人的な理想社会

普通なら赤穂義士討ち入りの日であるが、今冬は投票日ということに相成った。

北海道は昨晩から今朝にかけて猛吹雪との予報が出ていた。夜中、猛烈な風の音が聞こえてきて、起きたらどんな状況になっているのか不安になり、投票どころではないわと思ってもいたのだが、さて朝が来ると晴れている。雪はほとんど積もっていない。『いったい、どないなってるのや』と、呆気にとられた。吹雪や豪雨は分厚い雲の下にどこの町が来るかで決まるので、多分に運・不運が左右するものなのだ。

今年を象徴する漢字は「税」という字に決まった。

税かあ・・・という心持だ。小生、個人的には社会保障の充実にカネがいるなら増税をしても、それはそれで筋が通っていると思う。また、社会保障よりは仕事の数を増やすべきでしょ、と。そんな考えで減税+財政支出削減を行うなら、これまた本筋であると。両方とも理に適っている。そう思うのだな。ま、好みからいえば「減税+財政支出削減」を進めて軽い政府にするのが、ビジネスや起業・イノベーションには優しいので好きである。

☓ ☓ ☓

軽い政府といえば、小生にも理想社会のイメージはある。

税でいえば、すべて国民は市町村に確定申告をする。源泉徴収などという制度は廃止する。市町村は市民を相手に直接的に徴税事務を進める。

市町村は集めた税から必要な経費を差し引いた残余を都道府県に納付する。都道府県にも警察業務など広域的に提供するほうが効率的なサービスがある。やはり経費がいる。それを差し引いた残余を中央政府に納付する。中央政府には長期的な財政均衡を義務づける。

中央政府は都道府県から国税を受け取るのみであり、国民に対する徴税権はもたない。だから税務署はすべて市町村に移管する。

こと、税については、小生はこんな夢を持っている。何も無茶な話でもないと思う。江戸・旧幕時代には、江戸の公儀は地方の藩に対して徴税権どころか、行政権も司法権もなく、地方支分部局は藩領地内には置けなかったのだ。中央政府たる幕府が有していた全国的権利は、外交権と正貨発行権、地方藩主に対する官職任免権、そして武士の憲法たる武家諸法度の公布権くらいであろう。封建制度と言ってしまえばその通りだが、いわば究極の地方分権制度と言える。分権だから生活水準横並びの保証などはなかった — というか、今でも横並びなど約束されていない。不平等だとひがむ理由もなく、独立自尊、甘んじて己が自然の境遇に安住することができていた(と思う)。

これに比べれば、小生の夢は穏やかなものだ。国の徴税権は対都道府県に限定し、都道府県の徴税権は対市町村に限定する。国は自治体の剰余の何割を収納させるか、その負荷率を決めるだけである。それほど過激な地方分権でもないと思う。穏やかなものである。そう思うのだがなあ・・・。

個別の税目は市町村が決める。納税義務は個人を原則として、法人には課さない。というより、法人所得はすべて個人所得に帰属させる。

いいと思うなあ・・・軍事力拡大などはまず無理だろう。国家権力の暴走は原理的に起こらなくなる。地方交付税や補助金など中央権力の源も雲散霧消する。国民の精神衛生が向上するのは確実ではないだろうか。

小生の夢想の最大の問題は、同じ所得、同じ資産であっても、暮らしている市町村によって課税額が違う。これは法の前の平等に反する。そんな違憲訴訟が続発するかもしれないことだ。

それを言うなら、今だって住民税ーというか、諸々の公租公課ーの高い町、安い町がある。とはいえ、もちろん国の仕組みについて「これで良い」と憲法で規定しておくのは当然だ。




2014年12月13日土曜日

「少数の軍国主義者」が実は純粋で正義感にあふれた好人物だったらどうする?

中国の習主席が南京事件の追悼式典で演説をしたそうである。
習主席は演説で「30万人虐殺の事実の否定を13億の中国人民は受け入れない」と主張。同時に「中日両国人民は世代を超えて友好を続けていくべきだ。我々は少数の軍国主義者が引き起こした侵略戦争により、その民族を仇(かたき)として敵視すべきではない。戦争の罪と責任は少数の軍国主義者にあり、一般民衆にはない」とも強調した。
(出所)日本経済新聞、2014-12-13-12-57

南京事件の在り様については数多くの事実と憶測が提出されていて、事実か憶測かの線引きにも数多くの違いが残されたままだ。

とはいえ、上の演説は全うなものだと思う。特に「少数の軍国主義者」が引き起こした戦争という事実認識については、これまた多くの議論があるわけだが、詰まる所、この認識に間違いはない。調べれば調べる程、そう思うのだな。というより、「少数の軍国主義者」は決して日本の陸海軍で伝統的に主流であり続けた勢力ではない。

★ ★ ★ 

戦前期日本の迷走が1931年の満州事変から始まったという点は専門家も含めて大体合意されつつあるのではないだろうか。

大正期の1910年代から1920年代を通して、日本の政治は明治藩閥・元老から政党へとリーダーシップの所在がシフトしていった。身分格差、資産格差、所得格差を別にして、大きな流れとしては「民主化」が進んだと(小生には)思われる。外交は政治家が行うべきものとされ、まずは国際協調、対英米協調路線が支配的だったと(これも小生には)思われる。

しかしながら『対米追従ではいかん』、『腐った上層部の言うことなど当てにはできん』という純粋な青年は、文字どおり、いつの時代もいるものである。そんな若者に世間は共感するものだ。

そんな若手を直接の部下にもつ中堅管理層も自己利益追求とは無縁の若者達が醸し出す熱気に打たれるものである。

とはいえ、組織的意思決定は最高責任者の判断によって形成されるべきであるし、そうでなければ組織としては機能しない。政治はいつでも人間の生身にも似て汚れ、邪念にまみれ、不潔なものである。純粋な愛国心では政治はできない。

★ ★ ★

警察ドラマでは、大体が係長がまとめ役になり、数人の部下と部長、課長との板挟みになることが多い。出先の所轄を統括する本庁から人が来て『もうこの辺でやめろ』というと、現場の若手が『上からの指示ですか?』と反発するのが常である。

このような情景が、1930年代の陸軍省・参謀本部と出先の関東軍や支那派遣軍との間で何度も繰り返されたに違いない。というか、確認されている事実だ。

しかし、近代軍隊は(警察も検察もそうだが)政府と切り離されて存在はしえない。そして(民主主義国においては)全て行政は政治に従うべきものである(のが理屈だ)。行政機構が政治に優越することがあってはならない(のが理屈だ)。多くの人は反対するかもしれないが、小生はそう思っているのだな。

★ ★ ★

後になってみれば、上からの組織統制をしっかりとやっていれば出先の暴走はなく、日中戦争の泥沼もなく、対米関係の決定的悪化もなかったかもしれない。そんな後知恵もあるのだが、これって『たとえ腐った上層部であっても上の指示には従え」と、純粋で一途な部下にそう言えと。普通の日本人には「そんなことでいいのか」と、納得できない面もあるのだろうが、「止めろ」と言うべき時に「止めろ」と言う。指示に従わない純粋な部下がいれば、規律違反として直ちに懲戒する。これがあるべき姿であった、と。

実は当たり前のこのことが情に流されて出来なかった。戦前期の失敗と犠牲から得た貴重な学習はここにある。最近何度も思った感想はこんなことである。

2014年12月11日木曜日

アメリカの天敵は今もOPECなのか

リーマン危機以前は石油価格が高騰するとアメリカ経済の先行きには警戒信号が灯った。2002年以降の安定成長が、リーマン危機よりもずっと前にピークアウトしていた背景には、石油価格上昇があったことは否定できない。

ところが、だ・・・あれから6年しかたっていないのに、時代は変わってしまったようである。
週明け8日の原油先物相場は一段安となり、米国産標準油種(WTI)は1バレル=62ドル台、欧州の代表的な原油指標である北海ブレント原油先物は65ドル台まで一時値下がりし、いずれも約5年ぶりの安値となった。
 石油輸出国機構(OPEC)が総会で減産見送りを決めた11月末以降、下落基調が強まっている。需要の先行きを不安視した石油メジャーの一部は来年の設備投資を削減すると発表した。
(出所)産経ニュース、2014-12-09-10-00

OPEC減産見送りで価格低下、米シェール業界の投資が抑制される。この道筋は文字どおりアメリカに対する増産戦略牽制、安値戦争の脅し。つまりOPECによるタフコミットメントである。これに対してアメリカは正直に「押さば引け」の戦略的代替関係を身を以て証明しつつある。・・・どうも現在のアメリカは、民間企業も政権も闘争回避の安全路線を基本戦略にしているかのようである。いうまでもないがシェールオイル業界の慎重投資はOPECとの協調をとる選択である。

ところが
【ニューヨーク時事】10日のニューヨーク株式市場は、原油安が重しとなり3営業日続落。優良株で構成するダウ工業株30種平均は前日終値比268.05ドル安の1万7533.15ドルで終了した。下げ幅が250ドルを超えるのは約2カ月ぶり。ハイテク株中心のナスダック総合指数は反落し、同82.44ポイント安の4684.03で引けた。(中略)市場関係者からは「従来は原油安で消費が伸びるという見方から株価が上昇していた。あすの小売売上高が悪ければ、株安が加速するだろう」(日系大手証券)との声が聞かれた。
(出所)時事通信、2014-12-11-07-00

原油安が負のショックになって米株安を誘ったというのだから、時代は変わる、というか
〽 まわる〜まわる〜よ、時代はまわるう
〽 よろ〜こび〜 悲しみ〜くり〜返し〜 
ただ、日本の原発も(いろいろヤジは飛ぶだろうが)再稼働されるだろう。 大体、多くの国民が再稼働に本気で反対しているなら、「再稼働する」とハッキリ明言している自民党が大勝するかもしれないという雰囲気になるはずがない。

ま、選挙は水物であるが、本当に与党が大勝すれば、年明け以降は粛々と原発が再稼働される。日本の原油・天然ガス輸入はピークアウトする。トレンドとして化石燃料依存度をおさえたいという欲求は世界で共有されている。再生エネだけでは足りない。原発施設の増加トレンドに変化はない。そう思うのだ、な。

OPECの安値形成は、参入阻止価格戦略のつもりなのだろうが、もはや市場規模成長の見通しには先が見えている。米国内・シェールオイル資本が敢然と拡大路線をとり続ければ、過剰設備調整に動くのはOPECの方だろう。その前に産油国の団結そのものが維持不能になる。そう小生は見ているのだ。

2014年12月10日水曜日

覚え書—合理的「裏切り」を許せるか、許せないかの国民性

今夜の授業から同僚の担当モジュールになったので大分楽になった。とはいえ傍聴はしたいので、午前の仕事を早めに切り上げて宅に戻ってきた。

食事を終えて昼のワイドショーにつきあっていると舟木一夫が出ていた。『人気は衰えないねえ』、『芝居で主演すると今でも満員になるというからねえ…』、他愛ない会話をする。
○○家にお味方したいという存念は某(それがし)にもござるが、それは某のみの一存にて、それより先祖代々当家が▲▲家からこうむってきた恩義を思えば、某の一存で裏切ることは到底できぬ。お察しあれ…これも浮世の義理というものでござる。
確か、NHK大河ドラマ「毛利元就」ではなかったかなあ。敵将の一人として出演していた記憶がある。その時、よく覚えてはいないが、上のようなことを語っていたと思うのだが…ま、定かではない。とはいえ、上のような台詞は日本人が最も好きな台詞であるのは確かだと思うーおそらく今日でも。

「泣かせるねえ」というヤツだが、合理的に行動する人間に涙を流すことは決してないものだ。正面切った侵略や爆撃より、多分「裏切り」をはるかに決定的に嫌う点で、日本人の倫理観はユニークなのかもしれないけれども、この点を広く検証したわけではない。

2014年12月8日月曜日

修正: 7~9月期速報の「GDPショック」

この7~9月期のGDP速報に関して、先日の投稿では「多くのエコノミストは前期比プラスを予想していたという。ところが2期連続のマイナスとなり驚きの念を隠せなかったようだ」という報道はおかしいと書いた。

その後―この素材は将来予測には格好の題材なので授業の事後課題にしたので-公表された季節調整済系列を使って、すこし丁寧な検討をやってみた。

そうすると違った絵図が浮かんできた。

下の図は前期4~6月期までに基づいて7~9月期の数字を予測したグラフだ。青い点が予測値、赤い三角が公表値である。


本当は4~6月期の二次速報が出た9月時点で利用可能だった数字を使うべきなのだが、そこはヨモダ(つい四国方言が出た・・・)をして、11月速報における4~6月以前を使っている。

7~9月期の事前予測値は前期比でプラス0.07%(年率0.3%)と出た。う~ん、確かにプラスの予想だねえ…。思わず納得。公表値は当初予測値を0.48%下回った。そのために前期比は▲0.4%(年率▲1.6%)に沈んだ。

当初予測値から0.5%下振れするのは確かに大きいと感じるかもしれない。とはいえ、(上図から明らかなように)マクロ経済に伴う不確実性を考えれば、それほどの驚きには値しない。これまた変わらない事実である。

それにしても本日公表された7~9月期・二次速報値ではマイナス幅が更に広がった。7~9月期には負のショックが発生した点について疑いはないようだ。「負のショック」、つまり一過性の予想できなかったショックといえば、やはり悪天候と気象災害が思い浮かぶ。とはいえ、悪天候がどの程度までマクロ経済に影響を及ぼしうるのか?勉強不足でよく分からない。「全国的な悪天候」でなければ影響はローカルなものにとどまり大したことはないはずだ。



2014年12月6日土曜日

妙な納得:午年は荒れる

午年の株式市場は「尻下がり」といわれてきた。縁起的には吉というより凶に近い、そんな印象のようだ。

気になってネットで検索すると、下の記事をみつけた。本年1月6日の日付になっている。
もしかすると、今年は桁違いに日本で大変なことが発生する年になるかもしれません。日本という国全体の占いを見てみると、どれもあまり良くない傾向を示しています。易占い(えきうらない)では「凶」となり、天災の危険性を示唆しました。また、五行においては、午(うま)は爆発や銃火をもたらすとても力強い火のエネルギーであるため、午年である今年は大きく荒れる可能性が高いです。
(出所)http://ameblo.jp/sekainosyoutai/entry-11744350318.html

干支といい、易といい、一種の経験則なのだろう。ビッグデータもよくいえば統計的な真理を探究するのだが、要は<漢方統計>であるようでもある。

振り返ってみると、冬の東京で降った大雪、夏の猛暑、御岳山の噴火、阿蘇山の噴火、尖閣諸島と小笠原、そして年末解散と世は騒然としている。世界ではクリミア、ウクライナ東部、シリア、イスラム国、そしてアメリカ中間選挙で与党大敗。大変な一年であったのは確かだ。

やはり「午年は荒れる」か・・・。

小役人をしていた時の同期の一人が次官になった。「上がり」である。愚息は、どこが気に入ったかまたその同じ界隈で仕事をし始めた。 今日届いた葉書によれば、役所に入って初めて仕えたO課長補佐、その後は審議官で退き某国立大学で教授を続けていたが、亡くなったそうである。まさに悵然たる思いを禁じ得ず。

また、本日は同じ年に着任した同僚HSさんの父上が亡くなられその通夜が深川であった。事情が許さず参列はかなわなかった。

小生も齢をとるはずだ。「代替わり」だと言うなら、これもまた「時至りて実りあり、またよろこばしからずや」、その一つの形なのか……。が、やはり寂しくて仕方なし。

2014年12月2日火曜日

選挙戦: 政党に差別化はあるか?

利益を高める製品差別化には「最大化原理」というのがある。

顧客満足を形成するうえで最もウェートの高い次元においては差別化を最大化する。思い切って違いを出す。そうではない細かな次元については差別化を最小化する(=同質化)する。それが理に適っているという定理である。

いま進行中の選挙戦では各政党が-もうマニフェストという呼称は下火になったが-自党と他党との違いをアピールしようと一生懸命のようである。がしかし、と同時に、なぜここで一歩踏み込まんかなあ…と、そんなイライラ感にも似た欲求不満的もどかしさ。そういう複雑な感覚をも覚えるのである。

要するに、だ・・・

民主党: ほんとうはカネをばらまきたい。というか、特に低~低めの中所得層に手厚く給付をしたいのだと。この国で暮らしに困っている人を支援する責任は政府にある。口の端々にそう言いたげな雰囲気が伝わってくる。だから本当は「増税」したい。すぐに増税すべきだと。そう言いたい。だから野田政権ではそう決めた。集めた財源で教育や社会保障を増やしたい。ホントはそうなんでしょ?ハッキリ言った方がいいと思うのだ、な。 「増税は期限をつけずに延期」。これは自民党との違いを出すための「苦肉の策」である。そうなんでしょ?ほんとは言いたくないのじゃないですか?
自民党: ホントはとにかく企業減税をしたい。そうなんでしょ?社会保障なんかより、企業が大事。ホントはそう考えているんでしょ?企業がビジネスを拡張すれば雇用が増える。仕事が増える。政府がカネを渡すより、自分で仕事を見つければもっといいじゃん。それが本音なんですよね。だから、ビジネス環境をよくする。これが第一。法を重視して、国際平和を重視する。国防は平和維持には必要だ。本当はこれを言いたいんですよね。 
共産党: 消費税に反対しているようですけど、富裕層や企業への資産課税を強化する。そうすれば日本国内からいくらでもカネは集められるよ。集めた金を低所得層に渡せばいい。何しろ人数が多い。一度これをやれば、共産主義がいかに公平で良いシステムであるかが分かってもらえるからね。政権は安定だ。本当はこれをやりたいんでしょ?

公明党、その他諸々の政党はいいだろう。

大体同じようなことを言っている政党ではあるが、本音を語らせれば、本当は目指す方向に大きな違いがあると。感覚ではそう感じるのだが、どの代表者もズバリ本音を言わない。

それは平均的日本人は「ばらまき」を嫌うし、「企業優先」も嫌う。だから国民から反発されないように、特に選挙期間中は言いたいことを我慢している。見え見えなのだな。そこが実にもどかしい。

中には『消費税率を上げるなら、まず公務員の給与を2割下げる。身を切る。これが先でしょ!』と。…広く社会保障を充実するため消費税を上げよう、みんなで負担しようという時に、なにゆえに警察官を減給しなければならないのか、なぜ判事や自衛官の給料を下げるのか…。(何度も言うが)バカではないかと。単に税金を払いたくないだけだろうと。そんな社会保障であるなら、別に充実する必要もないだろうと。カネがかかりすぎます。助け合いなら感謝もしようが、いやいや負担するような年金などは結構ですと。そう小生は思ったりするわけだ、な。いや思わず、力が入ってしまった。

ただ、まあ『そこまで言っちゃっちゃあ、身も蓋もないってものですよ』。だから、穏便な政見表明になっている。それは分かるのだが、こんなフワ~ッとした打ち出しで選挙の機能を果たせるのだろうか?