2014年3月30日日曜日

Dr.Jin −「中央集権国家の堕落」という罠を思う

日本の時代劇・医療ドラマ「Jin‐仁‐」を韓国でリメークした「Dr. Jin」のDVDが、四国松山に住むカミさんの年下の義姉から送られてきた。全話22回で7回までを観たが、どうにも耐えられず、最終回をさきに観てしまった。それにしてもあれだねえ…と感じる点を覚え書きまでに。
  • 日本の「幕末」は、幕府はなるほど無事と保身が第一の旧態依然とした組織だったろうが、地方には革新的な雄藩があり、脱藩浪士や勤王志士、志しある富裕な商人が民間に多数いた。そんな新生への息吹というか、雰囲気が「朝鮮末」という社会からは窺えないのだな。
  • 韓国人が制作してそうなのだから、社会背景は本当にあのような社会だったのかもしれない。だとすると、幕末日本を舞台とする”Jin”という物語を朝鮮末という社会にはめ込むこと自体が、無理ではなかったか。
  • 中央集権的王朝政治が堕落すると酷いものだ。まだ地方分権的封建社会がよい。大体、リメークと言っても登場して来る人物はみな「官僚」とか「王族」ではないか。官に身を置かなければ、どうにもならない社会が即ち「旧体制」だろう。まったく救いようがなかったのだなあ、と。
  • 官職売買は腐敗した王朝国家では普遍的にある。日本にも御家人株があった。しかし、サムライは金銭とは縁がなかった。サムライは(それが正しいかどうかは別として)金銭を蔑視することが武士道にかなうと信じていた。もし官職を買った人間が「貴族」に成り上がって、民間の冨を公式に搾取できる立場に立てるとすれば、その国家は財政破綻とともに死に至るだろう。
  • どうも”Dr.Jin”というドラマをみていると、日本という「侵略国家」が旧・朝鮮社会を破壊しつくしたことの効果を考えざるをえないのだな。旧社会を破壊し、否定することが民族精神と国の再生(Reborn)には必要である。日本もそうであった。それを行う自発的エネルギーが枯れ果てていたのではないか。国家総動員体制以後の軍国日本も「中央集権国家の堕落」という罠に落ちたが、自己革新へのモメンタムを社会のどこかで保持する仕組みが最も大事である。朝鮮末という時代がドラマの描く世界と似ていたのであれば、これは救いようがなく、外国の支配を免れる力は既に残っていなかった。そう考えざるを得ないだろう。
しかし、不思議だねえ・・・"Dr. Jin"という韓流ドラマは著作権利用で色々と問題があったというが、あえて日本で放送したことの狙いは何だろう。ま、所詮、ドラマであり、フィクションである。とはいえ、日本人に<比較同時代史>にも似たことを行わせるようなドラマ制作をする意図が分からぬ。

ま、これ以上のことは最近読んだ『戦争の日本近現代史』(加藤陽子)に、なぜ日本は朝鮮併合への道を歩まざるを得なかったかについて、(日本側から見て適切と思われる)議論が展開されている。たかがフィクションであるが、Dr.Jinを観てこの著作を思い出した次第だ。

☓ ☓ ☓

日本は幕末・安政5(1858)年にアメリカと日米修好通商条約を締結し、翌年の安政6年に横浜を開港した。下は幕末日本を舞台にした”Jin”の世界を切った一断面である。


神奈川横浜新開港図、歌川貞秀、万延元年(1860年)
(出所)横浜開港資料館

日米修好通商条約は、その後、日清戦争後の不平等条約解消に伴って「陸奥条約」、「小村条約」に改変され、昭和14(1939)年に日本の中国進出を牽制するためアメリカが破棄するまで存続した。再び、日米友好通商航海条約が結ばれるのは昭和28(1953)年を待たねばならない。

そんな進展の末にオバマ大統領訪日前に、もう一度、日米TPP交渉をしようという現状がある。

2014年3月27日木曜日

19世紀墺太利の大麻は何であったか?

カンタータやジャズ、シャンソンといった多数の楽曲カテゴリーの中にワルツがあって、その中に19世紀ウィーンで流行した趣味で作られたウィンナワルツがある。

多くのウィンナワルツは、『ワルツの王』と呼ばれる作曲家ヨハン・シュトラウス(Johann Strauß II)が作っている。そのシュトラウスは1825年に生まれ、ずっとウィーンで暮らし、ヨーロッパや遠くアメリカまで演奏旅行をしながら、1899年に亡くなるまで人気が衰えることはなかったという。

小生もこのウィンナワルツというのは大変なお気に入りだ。小学生5年だったか、4年だったか、父がまだ転勤したてで伊豆の三島市の狭い社宅で暮らしていた時分に、母が沼津の商店街まで出かけてきて買って帰った10インチLP盤を聴いて以来の熱狂的なファンを自称している。

そのLP盤は、まことに小さなプレーヤーで、子供が両手で抱えて移動できるほどの小さなプレーヤーで再生され、その後の度重なる転居でも運んで回り、とうとう傷だらけになりながらもいま暮らしている北海道の小生宅の納戸の奥にしまわれてある。ジャケットには青を主調にシュトラウス二世の肖像が描かれていて、録音はおそらく1960年代ではなかったか-確かめるにも納戸の奥から出すのが大変だ。今から数えれば大変古いレコートであるせいかネットで検索してもヒットしない。演奏は確かウィーン交響楽団-フィルではない、Wiener Symphoniker-であるから、指揮者はサバリッシュだろう。そのレコードに"An der schönen blauen Donau"が入っていた。それがオリジナルのままの男声合唱であったのだ、な。いまではコンサートのプログラムに「美しき青きドナウ」の男性合唱を入れるなど滅多にない。母が買ってくれたレコードは非常に本格的で玄人好みであったのかもしれない。

★ ★ ★

さて、この「美しき青きドナウ」が、作曲され初演されたのは1867年の早春である。この年は、オーストリアがドイツ統一を目指すプロシアと普墺戦争を戦い敗北した翌年にあたる。普墺戦争は、ドイツ圏内の大国オーストリアと規模は小さいながら精強なプロシアとの戦いであり、ドイツ統一の路線対立から発生したものであった。しかるに始まってみると、総合国力ではいい勝負であったというが、モルトケ参謀総長の機動作戦と銃の技術的優越が奏功して、2か月とかからずプロシアが快勝した。これによりドイツ統一でオーストリア帝国を除外することが決まり、いまに至るまでオーストリアはドイツとは別の国である。

シュトラウスが「美しき青きドナウ」を作ったのは、意気消沈するオーストリア国民を元気づけるためだった。確かにウィンナワルツは、沈んだ気分を明るくするのに著しい効果がある。これは確かなのだ、な。特に勇壮な調べでもなく、ロックのようなノリもない。が、きいているとクヨクヨしても仕方ない、何とかなる、そんな風な気分になるから、ウィンナワルツというのは本当によく作られている不思議な音楽だと思う。遊園地でもよく流れているが、理由なく楽しくなるのだねえ、聴いていると……。

ただこれって、不幸をとりあえず忘れる、悲哀の痛みを一時的に麻痺させる。そういうことではないかと。そう思いいたると、確かにウィンナワルツは、大体が10分以内の演奏時間であり、それを次々ときき、全曲終わると最初からもう一度繰り返してきく。そんなこともこれまでやってきたのだね。聴いている間は、気分が明るい。終わるとまた暗闇が訪れる。う~ん、確かに麻薬的陶酔作用があるのかもしれないねえ…。

こんな風に考えると、シュトラウスのウィンナワルツは、大国の地位から転落したオーストリア国民にとっての麻薬でもあり、時間がたつにつれて現実と直面することができるようになる、そうなるまで現実を理解するまで、傷ついた自尊心の痛みを和らげる麻酔的作用を墺太利人にほどこしてくれた。そんな音楽であったのかもしれん、と。ちなみにオーストリア・ハプスブルグ帝国が、ドイツに味方して第一次大戦に敗北し、全面的崩壊に至ったのはシュトラウスの死後19年後のことであった。

とすれば、戦後日本の衰え行く淋しさをいくらかでも忘れ、21世紀に発展するだろう新しい国の形を理解し、受け入れるまでの精神的痛みを緩和する、ウィーン市民にとってのウィンナワルツにも似た何がしかの文化資源がいまの日本人には必要なのかもしれない。……アベノミクスと右翼的言動は、日本人にとって痛み止めの点滴なのかもしれない。そのうち、現実を理解し、受け入れ、様々の自由化、開放、改革に反対しなくなるのやもしれない。

あまりこんなことをいう人はいないと思うが、今日もまたシュトラウスの「芸術家の生涯」を聴きながら思いついたので覚え書きまでに記しておく。いや、小生よりオーストリア国民がいまもってシュトラウスのウィンナワルツをこよなく愛している。毎年正月にはNeujahrskonzertを開いている。その愛の裏側には多くの涙や悲哀もあったのだろう。そんな歴史的経緯に思い至ったのだ。

2014年3月25日火曜日

自由資本主義 vs 国家資本主義

このところの産經新聞の論調は「右」だというには余りに右で、「これは極右か」と感じることもしばしばであったが、中には良い筋をついているコラム記事が載ることもある。
 筆者は、NATO(北大西洋条約機構)に倣う体裁で、日米同盟を軸にして豪印両国や東南アジア諸国を加えた「アジア・太平洋版NATO」の結成を提唱してきた。故に、筆者は、石破幹事長の発言が同じ政策志向を示している限りは、それを歓迎する。
……
第1に、この構想は、「自由、繁栄、法の支配、人権の擁護」を趣旨とする、戦後国際秩序の尊重の上に立つものである。故に、この構想が対中牽制(けんせい)の趣を持つものになるかどうかは、中国の対応によってもたらされる結果でしかない。
 中国政府は、「戦後国際秩序の尊重」を掲げて対日批判に及んでいるけれども、彼らの政策志向においては、「自由、繁栄、法の支配、人権の擁護」といった価値観は、どこまで実の伴ったものになっているのか。日本にとっては、「アジア・太平洋版NATO」結成への努力は、こうした価値観の意義を確認することと軌を一にしている。
(出所)MSN産経、2014年3月25日 、櫻田淳「正論−アジア版NATOは西独に学べ」

確かに外から観察していると、日本の戦略は日本、東南アジア、インド、オーストラリア、アメリカと、海洋沿いに並ぶ自由民主主義国家と連合して、中国・ロシアというユーラシア内陸国家と対抗しようとするものである(ように見える)。こういう意図があるのだろうなあ、とは相当程度まで「見え見え」なのだな。日本が中国との対抗軸を形成しようとするなら、そんな発想になるのは極めて自然なことだ—だから相手からも予想しやすいし対抗策もつくりやすいのだが。

中国は、口では平和的台頭を唱え、経済制度には自由資本主義的要素を広く導入して発展を続けていながら、根本的価値観としては「自由」よりも「国威」を重視していることは自明であろう。価値観を共有するか否かという一線で、中国との協調の在り方は大きく異なることになる。

大事な点は、自由資本主義の目指す理念が国民個人の幸福と利益の増進にあるのに対して、中国の国家資本主義では何よりも国益、いや国益そのものというより共産党の利益を「国益」と呼んでいることだろう。よく「米中の新たな大国関係」と言われているが、アメリカの国益がアメリカ国民の集合利益を意味しているのに対して、中国の国益は、中国国民というより中国共産党の利益を指す。これは共産党という「政治結社」の成立過程とその目的からして明らかだろう—共産党が追求する国威(≒党益)と中国ナショナリズムとが結合している箇所もあるから単純な割り切りは大変危険だが。

「価値観の共有」という一線を日本側が引けば、それは反・共産党であるのと変わらず、そこで中国は「旧敗戦国が何を言うか」と歴史的観点から日本に対抗するのである。もしも日本が経済的な共同利益を目標として、価値観の共有には固執しないと言い出せば、中国は融和的な対日姿勢に転じるだろうことは確実である。それが中国共産党の利益に最も適うからだ。しかし、日本のこの選択が中国国民の文字通りの利益に適うかとなると、必ずしもそうは言えまい。

いずれにしても、米国のホンネは「共産党なき中国」との協調と交流にあるのは間違いない。それ故、現在の中国との間で日本(そして、東南アジア、豪州まで?)が、対中経済関係を深め、価値観までも中国との親和的路線にシフトしていくとなると、それはアメリカの安全保障を毀損すると判断され、そのような事態は許容できないはずである。つまり、日本は冒険的対米外交を採りたくないなら「価値観の共有」を言い続けざるを得ない。そうなると中国にとって日本は、価値観を共有しない目の前の潜在的敵対国であり、しかも攻勢的姿勢をとる歴史的正当性も中国の側にある。

このように見ると、米中の二大国が、自由や民主主義といった価値観を互いに相対化できない間は、中国はまず日本をたたく戦略から得られる利益が高く、コストも低いわけであり、その日本をアメリカが支援しようとすれば、「戦後国際秩序の尊重」を主張するという有効な対抗策が手元にあるのだ。それに対して、アメリカはまだ成案をもっていないと思われ、アメリカの戦略的劣勢が確かにここに一つある。つまり、近年の中国の姿勢を中国にとって最適戦略としているのはアメリカの戦略的不備である。そうなるのではないか。

確かに、上の記事が引用部分のすぐ後で主張しているような韓国の「不実な二股外交」を日本がいま採っているわけではない。しかし、日本も採らざるを得ないような強烈な圧力を中国が加えていることは確かだ。そして、このような情勢は(特に大きな政治的変化がない限り)向こう10年かそれ以上の間、人口構造や移民政策など基本的要素が変わらない限り、ずっと続くことが予想される。

2014年3月24日月曜日

日米韓首脳会談は誰かにとって<技あり>なのか

オランダ・ハーグで日米韓の首脳会談がやっと開催の運びとなった。議員レベルでも慰安婦問題の解決へ向けて両国の議員連盟が協力していくことが合意されたとのことだ。

従軍慰安婦や強制徴用などずっと引きずってきた問題は、解決しようという意思表明が大事な一歩だ。

将来へ向けては、より多くの若い世代が交換留学生として相互に相手国で学べるよう国費で基金を開設する位のことはしてほしいものだ。中国も含め、日本は中国・韓国へ、中国は日本・韓国へ、韓国は中国・日本へ、毎年100名ずつでも新規留学生が生まれれば、合計で毎年300名、10年続ければ3000人、30年続ければ9000人になる。これだけの大人数になれば共同フォーラムも定期的に開催できる。そうすれば「歴史問題」をどう理解し、どう取り組んで相互理解に達するか、互いの国情を深く理解した人たちから自然に知恵がわいて出てくるだろう。

いわゆる「首脳」がタイマンで協議をしても、よほどの国内指導力がなければ、実質を変える力はない。今回やろうという日米韓首脳会談に、小生、大した期待はもてないと予想する。強いて言えば、安倍首相にとっては<有効>でややプラス、韓国の朴大統領にとっては<指導>でややマイナス、オバマ大統領にとっては日韓を調停したという形で僅かにプラスの<効果>というところか。

現時点で首脳がどんな話をするかではなく、将来結実する行動をいま始めることが真の戦略だ。戦略は、レトリックではなく、アクションである。行動を躊躇う心理がまだあるのであれば、いまどんな話をしても時間の無駄になる可能性が高い。

2014年3月23日日曜日

これは嫌だという三つのこと

チャーチル元・英首相は亡くなるときに『もうウンザリだ』と言い残したという−本当かどうかは知らない。

それほどウンザリしていることは、小生には今のところはないが、死後に何かの世界があるとして、そこでもやらないといけないとすれば、流石に「もう勘弁してくれよ」というのはある。

(1)カネ
カネのやりくりにもウンザリしているが、株価の上げ下げに一喜一憂するのもせいぜいこの世限りにしたい。そもそもこの世の悪の原因はほとんどがカネであると小生は思っている。聖書の世界にエデンの園を追われたアダムとイブが登場するが、それ以来、何かを得るには何かを犠牲にしなければならない、そんな収支バランスの制約に人間は置かれることになった。食っていくためには、まずカネをもらわないといけない。この世の原理・原則はここから来る。能力と運のある人間はカネを多くもち、能力も運もない人間にはカネがない。本当にもうウンザリだ。

(2)会議
「みんなで話し合って決めよう」というが、窮極のところ「少数は多数に従え」という手続きが会議である。道理や筋道を探るために会議があるのではない。異論をこれ以上述べることは反組織的であるというケジメとして行うのが会議という行為である。小生はそう観察している。やはりウンザリである。

(3)選挙
言わずもがなであろう。彼岸の世界に神がいるとして、そこでも神々の首座を誰にするか、下々の人間の精霊が選挙を行うとしたら、これ以上ウンザリすることはない。神は永遠の生命をもつ。最高の愛と知性をもつ主神が決まっていれば、永遠に主神は主神であるべきであり、選挙は必要ではない。選挙による民主主義は、人間には寿命があり、どんな聖君も老化するからだ。子は親の才能を受け継ぐとは限らず、臣下たちの権力闘争によって、王朝政治は必ず堕落し、腐敗する。選挙は、それ故に必要であり、民主主義が人間社会では望ましいが、肉体を脱した魂が来世でも選挙をするとなると、これはもってのほかであり、ウンザリする。


キリストのイコン、ビザンチン帝国1100年前後

800年代から1200年頃までコンスタンティノープル(現イスタンブール)を都にして広大なギリシア語文化圏の最盛期を築いたビザンチン帝国であれ、どこであれ、時代を問わず、国を問わず、人間なら喜んでする話しが三つある、というのは小生がまだ学部学生を主な対象として授業をしていた時に好んでとりあげた話題だ。

イ.食べ物の話し
何がうまいか、何が名物か。どんなものを食べているか、どんな料理の仕方をしているのか。この話題は、どんな人間も必ず興味を持つ。
ロ.愛憎の話し
お家騒動、跡目相続争い、正妻と愛人の争い等々は、どんな国のどんな時代であっても、その人の貧富を問わずして、人間社会には必ず存在する。聞いていると、身につまされたり、勉強をさせてもらうことも多いのが、この話題である。
ハ.財産の話し
カネの話しである。どんな人がどの位のカネをもっていて、家の大きさ、領地の大きさ、支配している人間の数はどうか。その財産をどのようにして築いたのか。うまい方法はあるのか。戦争をした時にはどんな戦略で勝ったのか。人間は必ずこの種の話題に興味を持つ。明治維新のときの指導理念となった富国強兵は、財産の話しが国家戦略へと昇華してできたものである。
上の(イ)は無害であるが、(ロ)と(ハ)は一国の盛衰にもつながる大事である。特に国の財産は「国富」とも言うほど重要な話題だ。人が興味をもつのは当然である。その財産は、多分に運による。人間が神を信仰するのは、これだけが唯一の理由ではないが、財産のためである。小生はそう思っている。


2014年3月21日金曜日

<嫌韓+嫌中+嫌ロ+嫌米≒鎖国願望>ではなかろうか

ロシア・プーチン政権によるクリミア編入でEUも対ロ追加制裁を実施する方針らしい。ただ欧州の対ロ貿易は、アメリカのそれの10倍にも達するということなので、効果的経済制裁にまで踏み込むかどうかは、なお検討中であり、おそらくそこまでは行かないのではないか、特にドイツはロシアとの経済的繋がりが強く、対米追従姿勢もないと言えるので、そう予想されているようだ。

日本の領土交渉にも影響しそうだ。安倍政権が進めようとしている北方領土交渉にとって、いまの国際環境が吉となるか、凶となるかは、二つの正反対の見方があるという。どちらにしても、ロシアのナショナリズム、日本の嫌ロ感情の高まりが、今後の交渉の行方を大きく左右するだろうという専門家の解説が本日の道新に掲載されている。

それにしても年末の総理靖国参拝に失望したというアメリカに日本国内では嫌米感情が高まったというし、中国、韓国の反日に対する嫌中、嫌韓は言わずもがな。それに加えて今度は嫌ロでござるか…。オーストラリアとのFTA交渉では、先方が自動車で譲るかわりに日本は牛肉で譲れと。そうなると安い牛肉が入ってきて、国内では嫌豪感情が高まるかもしれない。労働市場が規制緩和されれば、反日感情が比較的弱い東南アジアから多くの人が流入してきて、嫌ア感情が高まりそうだ。

こんな風では日本人の本音は<鎖国願望>なのではないかと憶測されるのだな。海外旅行にはいくが、日本に帰ればマイホームに帰ったようにリラックスできる。そんな国にしたい風でもある。しかし、日本文化を日本人だけが消費するというわけにはいかなくなっている。日本人だけが世界とは別にこの国で暮らしていけば、人口は3千万人程度にならなければいけないし、それでも生活水準はいまの10分の1程度ではおさまるまい。いま現時点の貧困生活と同等の水準になるのは容易に予測できる。日本は、日本人にとって故国であるが、外国人にとっても来やすい、留まりやすい、住みやすい、働きやすい、遊びやすい空間であることが大事だ。それがいまこの国で暮らしている日本人の為すべきことであるし、また為しうることでもあると思う。

2014年3月20日木曜日

給与の国庫返納は「あざと過ぎる」振る舞いではないか

日常会話ではあまり使わないが、アザトイという形容詞がある。意味は、Goo辞書によれば
1 やり方があくどい。「―・い商法」
2 小利口である。思慮が浅い。あさはかだ。
ニュアンスというか、語感はまさにこの通りだと思う。

さて、二、三日前に日経新聞が報道した次の記事。
政府は14日の閣議後の閣僚懇談会で、安倍晋三首相と閣僚らの給与を国庫に返納する措置を来年度以降も続けることを申し合わせた。東日本大震災の復興財源に充てるため、2012年度から2年間の特例措置として首相は30%、閣僚と副大臣は20%、政務官は10%を減額してきた。法律上は今年度末で終わるが、引き続き歳出削減に取り組む姿勢を示す。
 政府は一般の国家公務員の給与も平均7.8%削減してきた。この特例措置は13年度限りで取りやめる。
(出所)日本経済新聞、2014年3月14日

国家公務員の給与が2年間、平均で8%弱減額されてきたことは周知のこと、それがこの3月で終わる。「給与引き下げ」ではなかったのだ。労働基本権を制限したまま、使用者側が恒久的に8%程度給与を引き下げると決めれば、さすがにそれは憲法違反になる(と小生は思っている)。引き下げではなく、震災復興に対する(強制的な)有期限協力である。これなら理屈は通る。

しかし安倍内閣の閣僚たちは、自分たちだけは4月以降も同じ減額措置を続けると決めたという。これは「あざとい」ねえ・・・、そう感じたわけだ、な。

それほど震災復興に協力したいなら、首相は50%減額でも暮しには困らないだろうし、政務官も10%では減額率として甘いのではないか。政務官も副大臣も年間収入で2000万円を優に超える。総理大臣は4000万円に達しているはずだ。そもそも国会議員はすべて毎月200万円弱の給与を支給されているのだ。日本では議員歳費は事務次官を下回らないことになっている。カネの恨みは怖いとはいうが、一度、海外の政治家・公務員給与事情を報道すれば啓蒙的効果があるだろう。米国の大統領と日本の総理大臣は、在職中の給与に限れば概ね同額のはずだが、これを適切と見るかどうかは、その人の立場によるだろう。

ま、いずれにせよ毎月の手取りが40万円ほどの大学教員もまた10%の減額を忍んできた。忍んできたが、井戸端会議で声高々とこれを論じれば、嫌味な奴と思われるだろう。あざとい……。

給与は規定で定められているのだから、受け取ることは受け取って、寄付をすれば同じ目的は達成できる。課税優遇措置もあるし、匿名の寄付という形で復興に協力しても良かったのじゃないか。




2014年3月18日火曜日

ベビーシッターの国家資格まで行くとは・・・世も末じゃなあ

ベビーシッター紹介サイトを通して依頼したところ預けられた幼児が死亡するという大変痛ましい事件が起きた。

そもそも幼児を預ける・預かるというサービス取引がビジネスとして成立するのだろうかという疑問を小生はもっているのだが、今回の事態に鑑みて—役所風の言葉だ—厚生労働省まで出てきて、ベビーシッターを行う人間の質を保証する仕組みを作りたいと言い始めたのには驚いた。
インターネットの紹介サイトを通じてベビーシッターに預けられた男児が死亡していた事件を受け、田村厚生労働相は18日、ネットを介したシッターの仲介について、実態調査を行う考えを明らかにした。
同日午前の閣議後記者会見で「どういう仕組みなのか、状況を調査してみたい」と述べた。
 森少子化相も同日の閣議後会見で「保護者が安心して子どもを預けられるように、子どもの命、健康が第一に守られるようにする」と述べ、ベビーシッターの質を保証する仕組みを検討していく考えを示した。

(出所)読売新聞、2014年3月18日

ベビーシッターは、もちろん英単語であり、特にアメリカでは10代の女子にとって最も人気のある家事手伝い、あるいはアルバイトとして知られている(参照:ブログ「日米文化」)。ブログの記述は個人的意見ではあろうが、同様の話しは小生の同僚もよくするところだ。アメリカで数多く開かれるホームパーティでは夫婦同伴で参加するのが常識で、それも夜に開かれることが多い。だから、パーティが終わるまで両親は留守をする。自宅で幼児を見守る年長者が求められるのは当たり前のことになる。必要があるから、応じる人がいるのであって、自然発生的に生まれてきた小遣い稼ぎのチャンスなのだ、な。ちなみに女子はベビーシッターだが、男子は芝刈りが人気トップのアルバイトらしい。いまも同じではないかと思う。

もちろんベビーシッターにまつわる事故も多いようで、ちょっとネットを検索しても出てくる、出てくる……、ただ寡聞にして、年若のベビーシッターが油断をして、不幸にもその家の幼児が亡くなってしまった時に、関係者ーたとえば預かった若者の親や亡くなった幼児の親など−がどう対応するのか、そこは熟知していない。そんな場合には、近隣付き合いもできなくなるのではないか。思わずそんな心配もしてしまうが、当然、類似ケースは多数発生しているので、裁判になるとしても陪審員は豊富な経験知に基づいて審議できるはずだ。そうした判例や社会常識の蓄積があると思われ、ここが昔の日本ならいざ知らず、現代日本とはかなり社会生活のスタイルが違う。日本は、アメリカのあとを追うようにして豊かになってきたが、ベビーシッターの利用頻度という点では、なかなかアメリカの真似をしない。アメリカの真似はしたくない、そんな幾つかの事例の一つだと思ってきた。

その原因は複数あると思うが、結構入り組んでいると思うし、今は主たる論点ではない。それよりもベビーシッターを行う人の質を国家が保証するという引用記事は、本当に全くもう吃驚してひっくり返りそうだったのだ。

こんな風では近所の助け合いもままならない国になるだろう—何か頼まれて、もし何かの手違いが起きてしまったら、自分の責任を厳しく追及され、依頼した側、依頼された側の相互了解がどうであったかとか、社会慣習はどうかという段階を通り越して、ただちに法律が適用されるということになる。日本には陪審員がいないのだ。謝罪をしても、土下座をしても、償っても、一度び事故を起こせば、もう本当には許してはくれぬ。過失致死傷罪が認められれば罪人となる。そんな社会で人々の助け合い精神が自然に生まれてくるだろうか。

助け合いの魂をもって復興に取り組む東北地方において、そこで暮らしている人たちの絆を破壊しつつあるのは、悪口や喧嘩などのトラブルではないという。むしろ外側の上から目線でカネを配分する大企業や、法律と規則で一律に統制しようとする政府のデリカシーの欠如が原因というではないか。ベビーシッターの質を国家が保証するとき、自由な人々の交流に任しておけば円滑に発展していく助け合いが、また一つなくなるのだ。そう考えるほうが的を射ているように思う。

10代の若者のアルバイトを厳しく制限し管理しようとする社会的感覚と、その若者が大学に進学したいと思うとき資金は全面的に親に依存しようとする姿勢は表裏一体である。自主独立の精神が、本来ならば日本の若者に育つ可能性があるのを、社会的に訓練する機会を安全確保という大義名分から制限しているのが日本社会の特徴の一つである。ここに目を向けるべきじゃあないかと小生はずっと思っているのだが、この話題はまた別の機会に。

2014年3月17日月曜日

葬式仏教が一番わかりやすい宗教活動ではないのか

「葬式仏教」という言葉は日本の仏教に対して決して誉め言葉ではない。皮肉を交えた、戒名料やお布施など不透明な「価格体系」への非難を交えた気持ちがこめられた言葉と言ってもいいのではないか。

朝日新聞がこんなコラム記事を載せている。
古代の僧侶は、国家鎮護を祈念する「官僧」だった。朝廷では「穢(けが)れ」が忌避され、いわば官僚の一員である彼らにも制約となった。穢れの最たる死をめぐっては、天皇や貴族の葬儀に関わることがあっても、積極的ではなかった。
 一方で、官僧身分を捨てた鎌倉時代の「遁世僧(とんせいそう)」は、死の穢れをものともせずに、民衆のなかで葬送儀礼に取り組んでいく。死体が遺棄されることが珍しくなかった時代に、きちんとした弔いを望む人々の声に応えることで、信者を増やしていったというのだ。「鎌倉仏教の僧侶によって、現代にもつながる葬儀に関わる儀礼が生み出された」と松尾教授は言う。
 「葬式仏教」は死への恐れや、別離の悲しみを癒やしてきた。だが鈴木、松尾両教授ともに、現代日本の「葬式仏教」はその役割を十分に果たせていない、と感じている。
 江戸時代にキリシタン禁制のため、寺と各世帯を結びつける檀家(だんか)制度ができ、明治以降も寺院経営を支えた。一方で、教育など地域で果たしてきた多様な機能は薄れ、葬式・法要に依存しきっているのが現在の姿だ。
(出所)朝日新聞、2014年3月17日

★ ★ ★

鈴木大拙は日本の宗教的感情を進化させるうえで、浄土信仰と禅思想の二つをあげていて「日本的霊性」と呼んでいるが、この大きな思想の流れが表面に現れてきたのが鎌倉仏教である。そして鎌倉仏教と奈良・平安の古代仏教の違いは、後者がエリートである支配者のための救済を旨としていたのに対して、鎌倉仏教は命をもっている全ての存在をいかにして救済するかを訴えた点にある。救済というわけだから、生きているこの世界は苦悩にみちているという認識がある。その苦悩やあらゆる種類の負の感情からどう解放されるか、これが宗教家が果たすべき<救済>という課題である。人は死後においても魂の苦悩から免れないという認識がそこにあるのだ、な。こりゃたまらん、というのが信仰への契機である。

葬式仏教が宗教として堕落していると考えるなら、独り俗界を離れ解脱を求めて幾十年、こんな修行僧も現代日本人なら<自己満足>と酷評しそうであるし、結局は国家鎮護のためのエリート仏僧こそ偉いのだという結論になると思われるのだが、これが俗臭にみちた眼差しであるのは明らかである。

★ ★ ★

ただ葬式仏教という言葉には、命に対する現代日本人の中途半端な姿勢が映されていると小生は苦々しく感じている-偉そうに聞こえるかもしれないが、本当に苦々しいのだ、な。

葬式を営んで故人を見送る行為は宗教的動機に基づくものだろう。魂の救済や免罪、浄化という問題意識に全く無関心、問題意識が皆無であれば、そもそも必要なことは死者の埋葬許可証だけであり、それは役所の窓口に死亡届を出せばよいわけである。葬式は必要ではなく、(多くの場合は)火葬をして、遺骨を所定の場所に安置、ないし埋葬すればよいのだ。死者の見送りなど、法的に面倒な事柄を定めているわけではない。ところが法的手続きだけでは十分でないと考える。仏教なり神道、キリスト教なりの宗教家に葬儀の主催を依頼する。そして、宗教家は謝礼としてお布施等を受け取るのだ。

もしそうした謝礼をまったく受け取らないならば、本来、宗教家は托鉢をして喜捨をうけ、それで生活するのである。しかし、普通の日本人ならそんな風に過ごす宗教家を<疑似ホームレス>とみなして、信用はしないであろう。見栄えの良い寺院に属する公式の僧侶を求めるはずだ。それに対して人はお金をわたすのである。

宗教サービスというのは、本来は無コストである-宗教儀式に必要な器具を償却するなどの要因はあるが、1回、1回の法要で計上するべきコストとしては微小な額であろう。コストがかかっていないのだから、お布施などは安くて当然であると考えるのは、ビジネスだとみているからである。しかし、ビジネスとして宗教を考えれば、それが死者の魂を救済したり、浄化できたりするわけがない。というか、確認不能であるからビジネスとしては成立しない。やっていることは文字で書かれた経文を朗読したり、高々何文字かの戒名の作文なのである。ただそれだけで死者が救済される理屈はないのである。そう考えれば、葬式は無意味だ。

★ ★ ★

宗教家の活動はそんなものなのだが、それによって親の、子の魂が救われて、死後の平穏が得られると本当に信じているのであれば、その謝礼として親ならば、子ならば、100万円の支払いでも喜んでするはずである。お布施が高額に過ぎる、戒名料が高すぎると不満を抱くのは、それにほとんど意味を感じないからであろう。そもそも生産費はほとんどゼロなのである。しかし、意味を感じないなら、葬儀や法要をする必要はないのである。それでもするのは<偽善>である。こういう言い方が酷ならば<世間から強いられた偽善>といえばいいだろうか。いずれにしても、そこには<嘘>が混じっている。だから人はイライラとするのだと思う。

庶民の死を真剣に弔ってくれる僧侶が出てきたのが鎌倉時代である。確かに僧侶の家計からいえば<ニュービジネス>であったわけだが、ビジネスは需要がなければ成長しない。葬式仏教という言葉が定着していること自体、そもそも日本人が求めてきたからそうなりえたのだ。自ら求めてきたものを、自らが非難するのは自傷行為に似ている。

迷える日本人の心を象徴する言葉が<葬式仏教>である。そういえるのかもしれない。

2014年3月16日日曜日

大規模移民受け入れの足音と右傾化現象

何かの事情があるとき、国は大規模な移民を受け入れる選択をするものだし、実際多くの国はそうしてきた。以下の報道がある。
[東京 14日 ロイター] -菅義偉官房長官は14日午前の会見で、政府が移民の大量受け入れの検討に入ったとの一部報道について、「政府としてそうしたことを決定した事実はない」と否定した。

菅官房長官は、1月に経済財政諮問会議の下に「選択する未来委員会」が設置され、そこで人口減少などを見据えて日本の中長期的な発展を実現するための議論を進めているのは事実だとし、「先月24日の委員会で有識者から外国人労働力活用拡大の選択肢が提起された」と説明した。
(出所)ロイター、2014-3-14

菅官房長官は「政府としてそうしたことはまだ決定していない」と記者会見では発言したそうだが、これは移民受け入れを認める潮流があることを認めているわけで、政府としてもいずれ最終的に判断することを匂わせている。なので「足音」が聞こえてきた。そう思っていいのだ。

集団自衛権を憲法解釈で認めることと同程度の高いハードルであることに間違いはないが、国民の暮らしに直結するのはむしろ移民のほうである。単純な理屈でいえば、国内労働市場において労働供給を増やそうとするのだから、賃金を低めに抑圧する効果をもつ。

しかし、その結果として国内企業の収益率は改善され、株価は上昇する。ビジネスにとっては有利な制度改正だ。国民はビジネスでメシを食っているので、国民にプラスの側面があるのは否定しがたい。国内消費需要も増加トレンドへと向かうので、併せて海外から日本への投資促進策を実施すれば、設備投資が増えてGDPは成長する。これは確実である。

但し、その中で日本人の若者がどんな仕事をするか、よい仕事につけるのかと言えば、よほど頑張らないと人材として競争優位を獲得できず、高給与の職業には就けない。年金受給世代は……、年金の持続可能性だけに着目すれば、双手をあげて賛同するはずだ。

ともかく移民受け入れの前に教育制度の改革が必要だ。しかし計画的に教育制度を改革するなど、余程の政治的腕力がいる。多分、進まないだろう。故に、若年層を中心に"Japanese Only"的な右傾化現象が拡大する。そんな右傾化現象に迎合する言動を繰り返して、自分の政治的立場を強化しようとする政治家をいかにして押さえ込むかが、将来の日本の課題になるだろう。いまはそう見ているのだ、な。

× × ×

どうも最近は絵筆が進まない。模写やら模倣やらで水彩を幾つか描いているが、やりかけで放っている油彩画はもう一年間もそのままだ。今年はどこにも出品できないかも。仕事が雑用に思われるようになれば焼きが回った証拠だ。

今週もまたお気に入りのフリードリッヒから水彩画。


Friedrich, C. D., Mountainous River Landscape (Night Ver.), 1835まで

昨日は上の作品を模写、いや模倣して描いてみた—水彩は油彩より模写が難しい。模倣になってしまう。

とはいえ、上のようなモチーフは無数にある。前にも本ブログに載せたがノルデも描いている。


Emil Nolde, Stormy Sea

海を描けばどう描いてもいずれか名作の模倣になってしまう、とも言えそうだ。どちらにしても、「大規模移民」や「右傾化」よりは、美の世界を語りたいものだ。

やはり焼きが回ってきた。




2014年3月14日金曜日

才能と徳

3月も中旬となると、さすがに気温が上がり、降るよりも溶けるほうがはやくなる。北海道の春はゆっくりと来る。

12月の雪は、暖かく迎えられる
1月の雪は、降り積もる音を静かにきく
2月の雪は、雪かきの労働の友になる
3月の雪は、招かれざる客であり嫌われ者だ
4月の雪は、ノロマな馬鹿で呆れられるが名残がつきない

☆ ☆ ☆

東京で研修中の方ではなく、同じ市内に暮らしているのは兄である。もう<非正規雇用>を何年続けているのか、小生ですら分からなくなった。この3月にまた契約期限が切れるので更新されるかどうかで、ヤキモキしている。そんな就業者は全ての非正規雇用者に共有されている心理だろう。全体の4割はそうなのだ。

才ある者は徳が薄く、徳あるものは才が薄い

新井白石に6代将軍・徳川家宣がそう話したそうだ。

才ある子は、人が求むるが故に遠く旅立ち
才なき子は、人それを求めぬが故に親元にとどまり孝を為す

カミさんに上の成句を作って話すと「そうかもねえ」と言った。いわき市に住んでいる弟宅を訪れた時に話すと「そういう言い方はあんまりじゃない」と異論あり気な様子だった。

どちらが当たっているかは小生にはどうでもよいが、有能か無能かという尺度は、人が暮らしていく上で過剰に重んじるべきではない。報酬は才能に比例すべきでもない。小生は、完全平等主義者ではないが、才能が全てではないことは自明のことだと思う。


2014年3月13日木曜日

「脱原発論」は世代エゴかもしれない

今度は伊吹衆議院議長が原発反対論を公式の場で表明したという報道がある。
伊吹文明衆院議長は「われわれが電力の恩恵を享受する一方で、福島の人々にコストを負わせているように感じられる」という意味のことを述べた。同議長は国立劇場で行われた式典での追悼の辞で述べたものだ。……伊吹議長は花で飾られた祭壇を前に、日本の科学技術の進歩への称賛が「人間が自然を支配できるというおごり」を生じさせたことを嘆いた。そして「将来の脱原発を見据えて」エネルギー政策を議論していくと述べ、短い式辞を締めくくった。
(出所)Wall Street Journal Japan, 2014-3-12

× × ×

しかし、この種の意見に似ているような状況というか、例え話はいくつもある。

ある家庭は零細企業を経営することで生計をたてていた。その企業は化学工業であり、公害防止設備のメンテナンスが必要である。しかし、既設の公害防止設備は老朽化しており、だましだまし運転している状況である。そんな時に家族の父親であり、経営者でもあった社長が引退して息子に代替わりした。息子は、公害防止設備を最新機械に更新しようと考えて、必要な資金の融資について金融機関と相談を始めた。と同時に、自己資金を捻出することも大事なので、外食や家族旅行などレジャー関係費を切り詰めようとした。

そんな息子に対して引退した父親は、「そんな無理をする必要はない。この事業もそろそろ限界だ。いまある機械が運転できる間は運転して、限界がきたら廃業すればいい。そうしたら機械をまるごと入れ替える資金はいらないし、無理に資金をつくる必要もない」。

公害防止に手を抜くことはタブーである。事業継続に公害防止設備は要る。しかし、事業継続にこれ以上無理をすることはないと、父親はそう言いはじめた。父親は、廃業をしても手元の資金で余生を送れる。しかし、これから生きていく息子は事業の継続を必要としている。そもそもそんな風に育てられてきたのだ。

公害防止機械の入れ替えを怠ってきたのは父親である。怠ってきたことを事業をついだ息子が実行しようとしている。そのためのコストは、ずっと前に払っておくべきだったのだ。父親は、むしろ止めてしまったらどうだという。廃業して楽隠居をするのは父である。父が亡くなってから苦労をするのは息子である。これは父親の<世代エゴ>とはいえないか。

× × ×

安価な原子力発電で日本経済は成長してきた。しかし、それには問題があったという。止めていこうという。止めたほうがよいことを、では何故推し進めてきたのか。ここにもやはり<世代エゴ>の感性が臭ってくると感じるのは小生だけか。

将来のことは老人が決めるべきではないと感じるのは小生だけか。もちろん若い現役世代が、ほかでもない自分の将来を考えてそうするというなら、言うことはない。

経済に打ち出の小槌はない。福島第一は確かに永年のツケを払ったのかもしれない。しかし、東日本大震災で事故を起こしたのは福島第一だけなのだ。あとは設計通りに停止している。その福島第一は廃炉にしてもおかしくなかったほどの老朽原発であった。電源プラグがGE仕様で他とは異なる形をしていた。危なかったのだ。なぜそんな施設を動かし続けていたのか。その経営判断になぜもっと目を向けないのだろうか。

小生も交通事故で廃車にしたことがある。自分を信じられない期間はもちろんあった。しかし、地方で仕事をするなら車の運転を止めてしまうわけにはいかない。運転を諦めれば、他に運転してくれる人にカネを払うか、同じ距離を歩いて吹雪の中で遭難することも、より高い確率でありうるのだ。

2014年3月12日水曜日

地元紙が脱原発を唱える目的は…

定期購読している北海道新聞-まだ紙媒体を中心に販売している伝統紙だ-は、明らかに脱原発派であり、原発再稼働への反対を繰り返し主張している。今日もそうであった。
また聞かされてしまった。「じゅもん」のように繰り返されるあのフレーズ。おととい、大震災から3年を前にした記者会見で、安倍晋三首相はあらためて宣言した。「原子力規制委が世界で最も厳しい規制基準で徹底的に審査し、適合すると認めた原発は再稼働を進める」と▼私たちは、どうも「世界で最も」とか「世界一」という言葉に弱い。首相が「『最も厳しい』というなら、安全、安心だ」と思う人がいるかもしれないが、ちょっと待ってほしい▼規制委の審査の厳しさは本当に世界一なのか。たとえ世界一厳正だとしても、そもそも原発は「危険物」。危険な者同士が競い合って、「俺が1番安全だ」と胸を張ったところで、それが「危険」であることに変わりはない▼国も原子力ムラも、福島第1原発の大事故以前に、「日本の原発の安全性はとてもじゃないが世界一ではありません」とは説明していなかった。もしも真実を知らされていたら、日本列島に50基を超える原発が林立したろうか。泊原発はできていたろうか▼「鏡よ鏡。1番美しいのはだあれ」―。グリム童話の鏡は、嫉妬深く残忍な妃(きさき)の問いにも、「それは白雪姫です」と正直に答えた▼原発を再稼働させたくてたまらない政権が、「1番安全なのは日本でしょ?」と、にらみをきかせて判断を迫る中で、鏡(規制委)が割られるのも恐れず真実を答えるとも思えない。
(出所)北海道新聞、2014年3月12日

原発とどう向き合うかをとことん突き詰めていくと、日本人全体をほぼ二分するものと小生は見ているのだが、地元紙に反映される意見はどの地方も脱原発派であるように見える。いま日本で原発再稼働に積極的なのは、経済専門の全国紙・日本経済新聞、それから保守陣営の産経新聞辺りしか思い浮かばないのだ、な。

しかしながら、道新など地元紙が脱原発を唱える目的は、色々な解釈が可能であると思う。

  1. 真の意味で<脱原発>が正しいと考えている。それ故に、日本全体として再生可能エネルギーへ舵をきるべきだと主張している。
  2. いずれ日本経済の崩壊を支えるために原発再稼働は避けられない。その再稼働される原発施設は北海道外であってほしいと考えている。だから<脱原発>で地元を集約しようとしている。更に、その根底には次の心配もあるのかもしれない。
  3. 人口集中地区が近接している北海道外では、一部例外を除き、原発運転は政治的に非常に難しくなった。しかし原発は今後も必要であると政府は考えている。老朽原発はいずれ廃炉にせざるをえない。人口が希薄である北海道に原発を集中的に立地させ、電力流通市場を国内に整備すれば、安全と両立させながら、比較的安い電気料金を国内に形成することができる。この方向を実現不可能にするため、北海道内において先行的に風力発電、太陽光発電施設を集中的に立地させ、脱原発路線を浸透させる。
道新の社説などを読んでいると、原発に反対する哲学や倫理的潔癖さが確かに伝わってくるのであるが(上の1)、哲学と理想を語っているように見えて、実は北海道の地域利益を守る戦略的コミットメントであるかもしれないのだ(上の2、3)。もしそうであれば、中々、インテリジェンスにあふれた姿勢である。

いずれにせよ、同じ発言は異なった別々の動機からなされるものであって、言葉だけを聴いていても、その人の本当の意図はわからないものである。

2014年3月11日火曜日

ミニ談義 ― 伝統尊重 vs 最先端重視

週末に東京へいき、まだ新任研修中で比較的暇のある愚息を連れて両親の墓参りをしてきた。帰途、上野のトンカツ屋「武蔵野」で晩食。あとからカミさんと電話で話すと美味い、美味いと喜んでいたよし。

その前日は学生時代からの旧い友人二人と銀座「ハゲ天」で会食。店がリニューアルされたというが、どうも細部は記憶しておらず、そうかねえという感覚だ。北海道は食材はあれど、天麩羅にそれほど良い店がないと思う。改めて東京の天麩羅を食べると、ネタよりも揚げ具合なのかと気がつく。

友人たちと話をする話題は、実は無粋というか、若い時分に口角泡を飛ばして議論をしたような事ばかりであった。「ウクライナはどうなるのかなあ?」、「クリミアを超えて支配下に置こうとしている、そこが問題なんだ」、「中国が第二列島線をこえて進出し、太平洋をアメリカと東西分割すると、日米安保も韓米安保もどうなるんだ?」、「意味をなさなくなるんだよ」。ウクライナねえ…、この齢になって話すことなのか。そうも思われるのだが、永井荷風の「十九の秋」にあるこんな下りをふと思い出した。
梨花淡白柳深青
柳絮飛時花満城
惆悵東欄一株雪
人生看得幾清明
 蘇軾の詩である。
梨花は淡白にして、柳は深青
柳絮の飛ぶ時 花は城に満つ
惆悵す、東欄一株の雪
人生看るを得るは幾清明ぞ
荷風は確か第3句「一株の雪」を「一樹の雪」と書いていたのではなかったか、調べればすぐに分かるが、いま定かではない。確かに自分の年齢を忘れて、若いときと同じように、思ったことを言いあってみても、自分とはほとんど縁のない外国の政情を日本の天ぷら屋であれこれ議論してみても、得ることはほとんどなく、まあ時間のムダと言ってもよいのである。

それでは人間50になれば50にふさわしい話をする、60になれば60の話しをするべきなのか?では100歳を過ぎればどんな話をすればいいのか……、そんな風にも言えるのだ、な。

ムダに議論をしているようであっても、若い時分と変わらず語りあう、こんな時間が人生であと何回訪れてくれるのか。いま語り合っているその事が、実は最も有難く、愛おしむべきなのだ、と。そう思い至った次第なのだ。

× × ×

昔と変わらずやっている。そうかと思えば、授業のスタイル、読書のスタイル、生活のスタイルは、どんどん変わっている。

今日は会議の後、海辺のカフェまで走って同僚とカレーを食べたのだが、そんな話題になった。

小生: 本は買わなくなりましたよ。私はKindleを買ってまだ一年ですけどね、もう200冊以上の本がこのくらいの小さな端末に入っているんですよ。たとえばね、Schumpeterの"Capitalism, Socialism and Democracy"があるでしょう。あれは200円で買いましたね。

同僚: 200円!古書で買うと1500円くらいはしますよ、それが200円ですか。

小生: 著作権が切れているんでしょ。そんなことをいえば、夏目漱石全集があるでしょ?あれ全部を110円くらいで買いましたよ。持って運べないですよね、本だと。

同僚: いやあ絶句しますね。△△先生、ITでは私よりはるかに先を行ってますよ。私はどうも初版本とか、表紙のデザインとか、そんなところに目が行ってしまいます。

小生: こないだあった私の友人はネ、授業ではパワーポイントを使わないんですよ。黒板に書いた板書を書き写しているときに、大事なことは理解できるんだという信念があるんですよね。その代り、好きなクラシック・ジャズはアマゾンのMP3で聴いているんですよ。自分はどこでこだわるか。それは自分で選んでいけばいいんじゃないですか。

× × ×

いくら技術が進歩しても、料理はやっぱり板前が包丁とまな板でやっている。変えられないものは確かにある。

しかし、最先端のやり方をどんどん取り入れるほうが便利なこともある。買う本の大半をKindle本にして一番有難いことは、本をしまう場所がいらなくなったことだ。読み終わって手元におく必要がなくなれば、いつでも端末から消去できる。本は一度手放すと他人のものになるが、一度消したKindle本をまた読みたくなれば、クラウドからダウンロードすればよい。本はなくならないのだ。確かに小生が好きな紙の香り、インクの匂いはしないのだが、本の嵩張りと重さから解放された点は、誰もが認める最先端技術の有難さであろう。



2014年3月5日水曜日

結束を試されるのは日常茶飯事だろう

今朝の日経新聞朝刊は、タイトルを見ていくだけでも、現実の世界を要約している。

  • ロシア、欧米の結束試す ― プーチン大統領、旧ソ連圏強い影響力
  • オバマ大統領、シリアの失敗響く
  • メルケル首相、深い経済関係考慮
「ロシア、欧米の結束試す」に対しては「中国、日米韓の結束を試し続ける」というフレーズを連想する。「オバマ大統領、シリアの失敗響く」には「安倍首相、年末の靖国参拝がなお足かせに」と続けたいところだ。「メルケル首相、深い経済関係考慮」という姿勢は、「安倍政権、ロシアとの領土交渉を考慮」に通じるものがある。


出だしは、インド、東南アジア、オーストラリア、フィリピン、日本、アメリカと、海に沿った共同利益線の形成にむけて行動していた感があったが、ここにきてどうも「笛吹けど踊らず」というか、「結局は、自国からみた国益追求だけなんだよね」と、どうもこちら側の本音を見透かされるようになってきたのが「安倍外交」の現状かもしれない。


小生は駅伝を観るのが好きだ-駅伝にエネルギーを投入していることが日本の長距離陸上のガラパゴス化を招いているとは言われているようだが。相手のスパートにいつでも応じられる、緩急自在というか、揺さぶりに強く、スタジアムに入ってからのトラック勝負では一瞬の切れ味を見せる、勝負に徹したそんな目まぐるしいランニング・スタイルは確かに見栄えがする。本当の強さとはこういうものかと考える。しかし、実は育てるべき選手はそういうものではないのだろう。一貫したぶれない方針に基づく、体系的トレーニングの積み重ねで培われた本当の走力は、レース戦略などという次元を超えてはたらくものなのだろう。

戦術によって戦略的劣勢を挽回することはできない。
戦略によって大戦略の劣勢を挽回することはできない。

日本という国の魅力は、究極的には日本人が自分の人生にどのくらい満足するかによる。その合計で決まるのだと考えるしかあるまい。日本人だけではなく、近隣諸国の国民に対してもプラスの機会を提供し、プラスの価値を伝えられれば、それだけ多くの人が日本に魅力を感じるだろう。友邦国と敵対国を区別し、結託と対立のゲームに勝ち抜くことは確かに無意味ではないが、『モノで栄えて、心で滅ぶ』などと言われれば、この50年間、日本人はただ真面目に忙しく働いただけであり、実は何も進歩していなかったことになる。

2014年3月2日日曜日

石油より価値ある資源が日本にあるとな?

石油より価値ある資源?日本にある?メタン・ハイドレートのこと?それとも都市黄金伝説?
否。それは雪である。

こんな見解が日経新聞<ビジネスリーダー>の「星野佳路氏の経営者ブログ」で展開されている。
シベリアからの冷たい大気が日本の山にあたって大量の雪が降ります。日本より寒い場所は多くありますが、日本のように質の良い雪が降る国はあまりありません。世界的に見ると、北米ではロッキー山脈、欧州ならアルプス、アジアなら日本列島です。観光が経済に大きい影響を与える今の時代、雪は石油より価値あると思います。石油はすごい資源で、「いいなあ底から湧いてきて」と思いますが、雪は空から降ってくる資源です
(出所)日本経済新聞、2014年2月27日

 確かに上越の雪は、量的には十分だが、湿っぽくて重い。軽やかにターンをしにくい。スキーが下手になったように感じる-小生はしないがスノーボードでも同じだと思う。北海道の雪は確かにそれよりマシだ。しかし、札幌オリンピックに出場した選手たちには手稲や恵庭岳の雪は不評だったと記憶している。

外国人に評価の高いニセコですら、それほど雪質がいいのかなあ…と正直感じる。それに北海道はなるほど雪質は良いかもしれないが、真冬は吹雪が多い。1メートル先が見えない吹雪で滑るのは人とぶつかりそうで非常に危ないのだ、な。そんな荒天が非常に多いということは織り込み済みだろうか。

ちなみに小生が行った中で雪質が最高だと思うのは、旭川近郊のカムイ・スキーリンクスである。残念ながら富良野にはまだ足を運んだことはないが、ちょっと離れただけで大きな違いがあるのが雪質である。富良野もトマムも雪がいいのかどうか何ともいえない。温泉というと登別のスケールが大きいが、洞爺湖を含め太平洋岸近くの雪質は悪い。

とはいえ、『雪は空から降ってくる資源です』という表現は実に美しい。小生もこれには異論はない。そもそも小生が暮らしている街は酒醸造が盛んだが、冬季の雪があったればこそ清冽な水があるのだと聞いている。梅雨がなく台風もほとんど来ない北海道で水に困らないのは雪が降るからだ。札幌雪祭りや小樽雪明りの路も、雪があって初めて可能な祭りである。雪は積もらせてその上を滑るだけの資源ではない。


Friedrich, C. D., Winter Landscape

上のような雪野に立つ樅の樹、彼方に眺められる城館という景色が経済資源になりうるのは確実だ。この近くに温泉があり、サウナがあり、スキー場があれば申し分がない。加えて、城館には室内楽曲が奏でられる空間があって、暖炉のある個室に泊まることができ、それに隣接してカジノが開設されていれば、世界中から人を集められるだろう。

P.S.
本稿を投稿してからすぐに上にあるFriedrichを加工した作品がGoogle+経由で送られてきた。


Wonderful! が、誰なんだろうなあ…、作ってくれたのは。Googleのサービスってわけでもないと思うが。



2014年3月1日土曜日

日韓問題=慰安婦問題になってしまった

従軍慰安婦に対する河野談話を再検証するという報道だ。それに対して朴・韓国大統領が歴史とは即ち本人の証言であるという主旨の演説をしたという。

再検証とは言っても、最初から内容に踏み込むことは予定せず、まずは手続きを検証すると幹事長は話しているが、手続きが不十分であったという判断を出せば、日本政府としては河野談話は正確な事実認識に基づいたものではなかったという結論にせざるを得ないので、内容に踏み込んで新しく談話を出すという道筋になってしまうのではないか。

パターンとしては、すでに判決の出ている裁判をやり直すことに似ている。確かに「誤判」はないのにこしたことはないが、数学の問題ではないのだから、「正しいと思われる結論」が何よりも最優先されるものでもあるまい。綸言汗の如しというが、もし談話の出し直しをする羽目になれば、その新たな談話はもちろん、以後公表するすべての談話は二度と信頼されなくなるだろう。そちらのほうが心配である。なんだか親の誤りに不平を言い募る若旦那を連想してしまう…、ちょっと危ない。

☓ ☓ ☓

韓国のことではなく、中国のことだが、案外、共通の糸口になるかもしれないと感じたのが、今日読んだ本だ。加藤陽子『NHKさかのぼり日本史-②昭和 止められなかった戦争』である。

日米開戦の主因は、第一次世界大戦後の20年にわたって潜在的に在ったものであり、それは第一に巨大市場・中国をめぐって日米間の利害対立があったため、更にその背景として第一次大戦後のイギリスの凋落、中国における影響力の衰退があったため等々、全体として非常に知的刺激を感じる著作であった。

面白い箇所は数多くあるのだが、結局、次の下りが全てのまとめになっているのではなかろうか。
なぜこんなことになってしまったのでしょうか。日本が中国と真摯に向き合っていなかったことが最大の原因だと私は考えています。
この指摘に尽きると思うのだ、な。

アメリカとの開戦は多くの日本人がありうることと想定はしていたが、誰も望んでは居なかった。その対米戦争が起こってしまったのは、1937年に唐突に始まった日中戦争の早期終結に日本政府が失敗したからだ。中国の戦略が効を奏して、戦域拡大を止められず、持久戦に持ち込まれ、日本の方が窮した挙げ句に選んでしまった戦争である。では、なぜ中国との戦争早期終結に失敗したのか。それは第一に中国側の抗日意思の強さを正しく認識できなかった、第二に中国側の対日戦争準備の周到さを正確に把握していなかった。この二点に尽きる。それでは、なぜ中国は抗日意思をそれほど激しく持つに至ったか。日清戦争もあるが、根本的には日本が大陸進出への野心をもっていた、領土拡大への究極的な野望をもっていたからである。内なる意図は外に表れる行動から分かるものだ。日本は「侵略」をしようと企てたことはなかったかもしれないが、「持てる国」たらんとする野心、領土拡大を喜ぶ国民的心情を持っていたことは否めないのではないか。そして、この心理こそいわゆる『帝国主義』を支える心情であって、特に第一次大戦後は否定・非難・抑止しなければならない理念とされていた。これも新興国アメリカの国是であり、American Philosophyであったわけだ。ま、持てる国・アメリカが「現状維持」を主張するのも、当時の日本人が聞けば腹立たしかったろうとは想像できるが、ともかくあらましこんな点が、いま現時点までに専門家の間で合意されている事柄ではあるまいか。

「太平洋戦争」は、アメリカ側の呼称である。実際に、しかし、日本がずっと戦争をした相手は中国である。150万人の兵を中国に投入して、満州事変を起こした1931年から45年までの15年間、戦争をしたのは中国とである-宣戦布告をせず国際法でいう「戦争」に敢えてしなかったのは、アメリカが中立法を適用して貿易制限、金融規制の対象となる事態を日中ともに避けたためである。要するに、ドイツにとってはロシアが、日本にとっては中国が避けるべき鬼門であったのであり、現実の歴史には無数の誤りが隠されている。そう見るのがロジックだろう。

そこで上の疑問に戻るわけだ。

☓ ☓ ☓

相手が韓国になっても相手と真摯に向き合うことが大事であることは変わらない。何を認め、何を認めないかは色々な議論がある。議論は異なっても仕方がない。しかし、顔を向ける方向は同じでなければ議論すらできない。外交は外から見える行動で決まるが、議論の積み重ねがなければ相手が理解できず、理解できなければ信頼が生まれず、不信が生まれる。真剣な議論は碁や将棋と同じで「待った」や「やり直し」はきかないものである。

小生のカミさんの従姉の旦那さんの叔父さん…とまるで吾輩は猫であるの吾輩が恋をした雌猫のようであるが、アメリカ西海岸の某ロースクールを出て弁護士の資格をとろうとしたところ、ちょうど戦争がはじまって合格を取り消されたそうである。その人物は、法律に関係する仕事にはついたらしいが、永い時間がたって(とはいえ随分以前のことになるそうだが)正式にアメリカ政府から連絡があり、合格判定の確認と永年の不利益に対する謝罪をうけたそうである。卒業したロースクールには、そんな事実があったことを記憶するため、記念文庫が設けられているそうだ。

たった一人に対する迫害ですらも、確認をして必要なら謝罪をする。国家と国家の取り決めで全て済んだことにする。確かに手っ取り早い方法ではあるが、アメリカがそんな風な行動をとっていれば、上の話しをきいてアメリカという国家が醸し出すフェアネス(Fairness)に感心することもなかったわけである。少なくとも加害者の側は「それは済んだことですよね」とは言う資格がない。その心情こそ、むしろ万国共通のものである。そのことを小生ひそかに心配しているのだ。