2014年10月23日木曜日

公と私ー「家族のために」は公か私か

道徳という授業科目が設けられるというのが話題になっている。「公道徳」という言葉も復活するかもしれない。

おそらく日本人としてあるべき姿、日本国の本来の姿を守りたい。そんな意識が指導層に広く共有されてきているのかもしれない。

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朝ドラ『マッサン』で憎まれ役だったはずの優子嬢が父の経営する住吉酒造の経営危機を救うため、どうやら銀行幹部の御曹司とお見合いをして、政略結婚を余儀なくされそうだ。

家族を守るために望まない結婚をする女性は「公」に殉じたことになるのだろうか?これは一つの倫理的問題だろう。大体、日本人は自己犠牲という行動が大好きである。それも感情を押し殺し、自分一身の都合は顧みず、他者や普遍的価値のために一身をなげうつ行為をみると甚だしく感動する傾向がある。

一般に人間の行動の善悪は、(本来的には)その人の意志によって決まる。自分と深い繋がりがある、自分を超えた全体的な価値を守るための犠牲的行為はすべて崇高であって、窮極の利他的行為と言える。そんな利他的行為は「公」に殉じようとする動機と似た動機に基づくものである。形はどうあれ、動機は美しい。強いてこの先を議論するならば、どうせ行動するなら、もっと効率的で賢明な行動があるはずだ、と。そんな会話になるはずである。これは善意志というより、理智と判断を上手に使う話しである。頭を使う話しになる。

たとえは悪いが、仁義なき世界で自組を敵から守るために敢えて犠牲となるヤクザは、その時の心情においては国を救うための特攻隊員と相似ている。たとえその者が奉仕している組織、とるつもりである行為が全てまるごと日本国の法に違反している犯罪だとしても、当事者にとっては身を捨てて組織に殉じる行為である。殉じる対象が宗教団体であれば殉教になり、会社であれば殉職となる。多くの人は、何はともあれすべて自己犠牲という動機が美しいと感じるはずである。ただ、行動の理非曲直という点については、色々な話しがある。

経営者にとっては会社全体が「公」であり、自民党にとっては自党の党利を超える日本の公益があるはずだ。これが世間の感覚だろうが、もっと視野を広げれば日本人が日本の公益のみを追求するとき、海外は日本の利己心を非難するだろう。

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何だか話しが大きくなってきた。話題を戻そう。

「家族」のために自分を犠牲にしない人が、「国」を守るなら自分を犠牲にしてもかまわないと。もしそんな人間がいれば、いかにも安手で嘘っぽく、口先はともかく信用できない。そもそも「日の本国男」や「日の本国子」という人間はいないし、「国」という存在からして甚だ抽象的である。天皇も君が代も日の丸も象徴でしかない。家族や地域が大事だという姿勢が「身勝手」であるとよく言われる。国や社会が大事だという「常識」を説く人もいる。しかし人は、まず家族をつくり、結果として地域が出来る。できた地域が統合されて国が構成される。逆ではない。

普通の人は、「公」というか「国」というか、ぼんやりと意識されているだけの存在よりは、まず自分が大事にしている親しい人達のために一身をなげうつはずである。動機が具体的であるぶん私的である。とはいえ、すべて世の中こんなものだろう。「公」は実際にそんな実物があるのではなく、意識されているから「ある」と感じるだけである。その「公」という意識は、まずその前に「私」がある、他人の「私」に敬意をはらう、相互に敬意を感じるその感覚から自然に形成されるものであろう。これがロジックである。

すべて抽象的概念は、それに先立って具体的な現実があるものだ。「公」より先に「私」がある。ずっと昔、愚息に話していたが『日本という国より、おれの家系はずっと古い。これだけは確かだぞ』。これが正しい思考の順序だろう。

故に、「公」や「国」を大事に思う心を直接に作ろうとしても、それは不可能であると思うのだ、な。「公」の意識を育てたいなら、まず多くの「私」が「公」という存在を望むところから議論を始めるべきだ。それには共同する、それには分業をする、人が集まって交易が広まる、取引を通した経済活動の拡大が、他ならない文明の進歩である。文明の進歩は「公」という意識の向上と表裏の関係にある。こんな話しは、福沢諭吉が百年以上も前に『文明論の概略』の中で云っていることである。
一身独立して、一国独立する
この認識は明治時代にだけ当てはまるものではない。

日本だけが、不可能であるはずの「公」を勝手気ままに作っても、それは偽物の「公」である。


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