2014年8月26日火曜日

移りゆくものへの感性が日本文化の粋ではなかったか

先日、カミさんと隣町のアウトレットパークに行って、ただいま進行中の内装工事の騒音から逃れてきたことは既に投稿した。

どの店だったか、並んでいた食器をみていると、主菜、副菜を盛り付けるのに便利なように仕切りをつけた皿があった。「そういえば、うちも昔、こんな皿を使っていたなあ」と、しばらく懐かしくなって見ていたのだ、な。

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小生はまだ小学生だったと記憶しているが、ある日、父と母が買い物に行くと言って家を出た。帰ってきてから包みをガシャガシャとほどき、家族の人数分の皿をテーブルの上にテキパキと並べていった。その皿には仕切りがあって、薄い緑色をしていたが、素材はプラスチックで、手に持ってみると大変軽かった。『これなら一枚の皿におかずを盛れるから効率的だ』、父はそんなことを言っていたように思うが、少年というのは邪気がないもので、物珍しい形の皿とプラスチックという言葉の響きに浮かれてしまって、しばらくはその一枚皿に盛られたおかずと、米飯、味噌汁というまるで学寮か軍隊のような食生活をおくりながら嬉々としていた。

ずっと後になってから思い出すと、プラスチックの一枚皿で毎日夕食をとった経験というのは、決して豊かさを感じさせるものではなく、むしろ友人に話すのも遠慮しがちで、父はなぜこんな皿を使って食事をしようと思いついたのか、もちろんそれは母の感覚とも違うので、ずっと疑問に思っていたのだ。

年月が経たのちにやっと分かる親の思いというのは、もう何年も前に尽き果てたかと思っていたが、どうもまだ残っていたとみえる。

粗末とも形容できるあの皿を買ったのは、一つには四国から慣れない伊豆に五人家族で転勤して、中々馴染めないでいた母の家事を少しでも楽なものにしてやりたいという気持ちに父はなっていたのかもしれない。洗い物の数が減れば母の負担は減るし、プラスチックは瀬戸物より割れにくい。そんな風に父は思ったのかもねえ…と。それから、新任地で新たに研究課題として与えられたプラスチック事業の見通しに何らかの参考になるのじゃないかという気持ち、こんな思いも父の心の中にあったかもしれない。父の会社は合成繊維メーカーだったが、プラスチックは何に使えるのか、父も土地勘がなかったのだろう。それで味も素っ気もない、給食にでも使えばいいような、緑灰色のモノトーンをしたプラスチック製の皿を買う気になったのじゃあないか。だとすると、こんな思いは子供には絶対わからんわな。そう気づいた次第だ。

母は父のそんな思いにもかかわらず30台後半から40代にかけて体調を崩し、伊豆から首都圏の某ベッドタウンに転居したすぐ後に入院を余儀なくされた。父の取り組んだプラスチック事業も、ニュービジネスにともなうリスクが顕在化したのだろう、結局はジョイント先との関係も悪化し、行き詰まり、多額の費用をかけて欧米を視察してきた甲斐もなく、事業としてはとん挫することになった。父はエンジニアとして悩みぬき、心身の健康をそこない、50台になって間もなく癌を患い亡くなった。そして母の命日である秋の彼岸がまたやってくる。もう24年になる。両親はお互いに思いやる気持ちを十分すぎるほど豊かにもっていたと、そのことを今更ながら知るに至ったのだが、会社や組織の中にいる人間の運命は所詮は自然の中で暮らす動物とあまり変わらないものである ―いや、広島の土砂崩れで明暗をわけた人たちを報道で見るにつけても、一人一人の智慧や才覚、思いやりや助け合いは、それだけでは人生の無事を約束するものではないことがわかる。

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一人の人は一枚の葉のような存在なのだろう。いつ芽吹いて、いつ樹を離れるか、一本の樹が成長する中でみれば、それほど大事ではない。樹全体が生命活動であるからだ。

本日の日本経済新聞にはAmazonやGoogleが進めている無人飛行機や自動運転自動車が紹介され、最後は以下のように締めくくっている。タイトルは、『無人機時代、クルマには受難か』である。
……それはいい。ただし、自動運転車の時代は日本車メーカーにとって微妙だ。たくさんつくって売るのが自動車メーカーの伝統的なビジネスモデルだとすれば、自動運転車はIT(情報技術)を駆使して多くの人とクルマを共有し、稼働率を上げることを可能にする技術。要するに、車の数は必要最小限でいい、という時代の始まりになる可能性があるのだ。
 グーグルが資本参加したウーバーテクノロジーズが象徴的だろう。空いているハイヤーなどをチャーターし、「また貸し」しつつ、車の稼働率を上げて利益も得るビジネスである。
 日本にとって自動車産業は最後の砦(とりで)だ。空に、ITに、「無人」で扉をこじ開けようとの動きがでてきたとすれば、当然見逃せないことだ。
(出所)日本経済新聞、8月26日

自動車産業も日本経済という樹に育った大きな枝と葉の繁りである。いずれもっと高くなった樹の中で日陰となり、新しい葉はそこには生えなくなるものだ。自動車もプロダクト・サイクルの栄枯盛衰から逃れることはできない。「最後の砦」という見方は適切ではない。生命とは移り変わりゆくものである。

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