2014年6月7日土曜日

江戸末期の「ご公儀」と現代の「公的年金」がどこか似ている

厚生労働省の年金財政再計算と年金の持続可能性がまだまだ尾を引いていてTVのバラエティ番組でも何かというと話題になっている。

昨日もタレントの坂上忍が最後に言っていた―何歳からもらえるのかハッキリしない、いくらもらえるのかもハッキリしない、本当にもらえるのかどうかもハッキリしない、そんな年金なんて信用できませんよ、国民年金保険料を払うのは国民の義務だと言われても、そりゃ払いませんよ、そんなの!

うちのカミさんは「これが正論だよねえ」と相槌を打っていた。多分、相槌をうつ日本人が大半であろう。おそらく当の厚生労働省の官僚も内心では相槌を打っているに違いない。

国営の公的年金制度は、そろそろ幕引きというか、撤収戦略を考えるべきだ。小生はそう見ている。すべての国民に十分なお金を死ぬまで支給しますから、と。そんな公約が正義であると感じる倫理的基礎は、ロシアの社会主義革命に象徴されるような20世紀初めという時代を前提とした、極めて一過性の社会哲学であったとみる。全く間違いではないものの、その当時に善とされた政策が今でも意味のある理念であるとは限らない。そもそも世界初の社会主義国家であるソ連は自壊し、中国共産党が支配する中国は経済格差で苦しんでいるのだ。現実に立ち戻るべき時期だと思う。

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2050年の世界 英『エコノミスト』誌は予測する」を寝る前にパラパラ読み始めて結構時間がたつ。その中に、世界の宗教勢力がどうなるかという予測がある。一般的には、周知の事実だろうが、近代化と経済発展によって宗教の存在感は弱まっていくというものだ。先進国であればあるほど、社会生活に宗教が占める役割は低下する。その唯一の例外がアメリカだというのだ、な。

この辺が面白い説明なのだが、ヨーロッパではキリスト教の影響力が弱まってきているが、それはキリスト教を捨てる人たちが増加しているからであって、宗教としてのキリスト教は今なお純粋性というか、教理に忠実である側面があるという。それに対して、アメリカではキリスト教、というか宗教全体が世俗化した。自らの魂の救済を求めて、というよりコミュニティセンターとして教会にいく、教会は人間の救済というより地域の絆であらんとして活動をしている。救済ではなく、慈善を志している。まあ、そんな説明をしている。その理由は、『何といってもアメリカ人は広い国土に住んでいるし、親や親せきと離れて暮らす傾向が強いんだ。教会に行けば、友達ができるんだ』、そんな発想である。確かに欧州はカトリック、プロテスタント、ギリシア正教に分かれているし、それぞれの領土的広がりは狭い―ロシアは広大だが人口が集中している。

日本も国は狭くて小さい。教会や寺院がコミュニティセンターになる必要はないということか。まあ、宗教が世俗化してもいいし、社会が宗教離れしてもいいし、どう変わるかは、その国が選んでいくわけだ。日本でも「無宗教」だという人が最も多くなっている。

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社会を支える柱がなくなるという事態は想像しがたいものだ。江戸時代なら、まさか幕府が、まさか「ご公儀」が消滅するとは考えられなかったに違いない。しかし瓦解した。そのシステムを支える経済的・人的リソースが枯渇したからであるし、それより黒船来航とそれに対応する「ご公儀」の行動をみて従来の社会システムを支えることが善いのだと感じるモラル的な土台が崩れてしまった。この点がより本質的だとみる。憂国の志士が広く交わりを求め、世論を刺激する事態に幕府は危機感を募らせ、安政の大獄では強権を発動して大量処刑に踏み切った。これが将来を決める分岐点になったと事後的にはわかる。

マクロ的変化の根底には、「社会があるべき方向へと変わりつつある」と、そう考える人々が非常に増えてきている、特に指導的な立場にある人がそう感じはじめている。こういう社会状況が必要だ。

「倒幕」こそ国のためになるのだ。そんな考え方が広く一般に浸透してしまった時点で、江戸幕府が存続する可能性はなかったのである。同様に、いま公的年金なる制度が存続するべきシステムなのだ、そう言い切れる人が減りつつある、保険料を払わない人が増えているというのは、そういうことだろう。小生はそう考えるのだが、どうだろう。

公的年金制度が、もっと一般的な生活保護制度に吸収されていくのは、さほど遠くないと思う。求められているのは、支払った保険料をどう返還するかも含めた『公的年金縮小戦略』であろうとみている。顧客志向に徹した金融サービス、保険サービスの提案を刺激するには、この分野の徹底した規制緩和が必要なことは言うまでもない。

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