2014年6月15日日曜日

天下国家論で幸福にはなれない

暮らしている地元の道新は集団的自衛権には徹底的に反対の立場である。反原発でもあるし、TPPにも消極的であるし、規制緩和には批判的である。ではこれからどうするんだと言いたくなることも多いが、要するに平等と公平を善しとする社会民主主義を目指しているようである。

小生は、性格もあるのだろうか、社会民主主義は「マユツバ・ミンナ主義」だと高校生の頃からホンネでは思ってきた—若い頃は「福祉国家」が一世を風靡していたが。

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ただ、退職したら白老町に隠居所をつくろうと思っていて、それで愛読しているホームページがあるのだが、自然を紹介するのと併せて集団的自衛権がいかに危険な道であるかを最近は連載している。確かに、地元の自衛隊員や身近の知人が危険な最前線に赴くと思えば、そういう危険が増すような政治は一切拒否するべきだ、と。これまた大いに共感できるのだ。

ただ、自由に移民をしてもいいし、自由に仕事を始めてもいい社会をつくろうとするなら、『共同社会ありき』ではいかん。仲間が手をつないでしまっては、社会が固定し、排除の原理が働く。どこに行っても肩身の狭い新参者になる。仲間ではなく、国を守るための労苦と犠牲を引き受ける人が必要なのだ。そういうことじゃあないかと納得している。

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何歳を過ぎてからだったか、毎朝、浄土系の読経をしている。阿弥陀三尊を掲げている。中央に阿弥陀如来、自分から観て右側に観世音菩薩、左側に勢至菩薩であったはずだ。東京の法隆寺宝物館には観世音菩薩や阿弥陀如来が多数ある。日本の阿弥陀信仰は実に古い。観音信仰も古い。


観音菩薩立像、飛鳥時代、7世紀

毎日やってると色々と頭に浮かぶ。「社会のことであれこれ考えるのは雑念ということかねえ…」、「家族のことを色々心配するのも煩悩かねえ」、「職場のことも雑念か…」等々。やはり全て煩悩だろう。そもそも集中していない。『満室の蒼蠅掃えども去り難し、起って禅榻を尋ねて清風に臥せん』。管領・細川頼之の感懐は全くそのとおりだ。心を煩わせること自体、幸福からは遠い。幸福にある人に接すると回りの人も幸福になるものだ。西洋哲学では最高善を幸福においてきた。人が幸福であろうと願うのは利己主義ではない。人はそうやって生きる存在なのだ。この点は「北の国から」の黒板五郎が話したとおりだと思う。



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