2014年6月2日月曜日

幼児遺棄事件続発ーこれも統計のマジックなのか

また幼児遺棄事件が発生した。食事を与えずに死に至らせ、それを隠蔽するために同じ部屋を何年も借り続ける。唖然とする愚かさと無情を感じざるをえない。

昔はこんなことはなかった…、そういうとカミさんも同意する。聞いたことないよね、と。

というより、昔は社会状況が根本的に違っていた。育てるべき子供に食事を与えず放置する。そんなこともあったかもしれないが、圧倒的に多数の乳幼児が流行病や不衛生によって命をなくしていた。成長した青年には軍隊が召集令状を送り付け、多くの若者が戦場で散っていった。幼児遺棄よりも姨捨、つまり棄老の方こそ哀れむべき行為であったろう。今は消え去った理由で、想像できないほどの多くの死が人々に訪れていた。親から放棄された末に餓死するに至った哀れな子供達もいたと思うのだが、その頃の日本社会では『大海の中の一滴』であったのではないか。むしろ貧困の中で栄養状態が極度に悪化した子供達は、親が力つきて放棄するよりも以前に、病気や怪我の悪化で命を失っていた可能性が高い…。もちろん「軍の土台」という強烈な動機が国家の側にあったから、こうした事件には国も真剣に対応したとは思うので、議論するにしても別の筋道があるかもしれない。

してみると、幼児遺棄事件ほど今日的な事件はない。病気や怪我は幼い子供が成長する中でくぐり抜ける最大のリスクであったが、もはや病気リスクや事故リスクは、安全社会の中でずっと小さくなり、代わって登場したのが両親リスクなのだろう。子供を育てられない程の極度の貧困にあったわけでもない、それでも父母の双方が子を放棄してしまう、小さな確率であれそんな不運に出会ってしまう子供はゼロではない理屈だ。

幼児遺棄問題が安全社会の象徴だと言えるのなら、経済格差拡大は長寿社会の象徴であるかもしれない。もともと高齢層は、個人間の能力差、収入差が長年累積されるため経済格差が最も大きくなる世代だ。それでも平均寿命が短かければ、高齢者は数が少なく、大きな格差が表面化することはなかった。これまでは「早すぎる死」で隠蔽されてきた経済格差が、誰にでも観察されるようになった。つまり、格差問題は長寿社会の副産物であるという一面がある。大竹文雄氏が指摘した格差問題の本質である。

長寿社会は、それ自体として、素晴らしいことである。安全社会も、それ自体としては、世界に誇れることだ。しかし、その結果として、これまで気づかずに来た小さな傷や陰に隠れていた闇が目立つようになった。喧嘩をしていたお隣さんと和解をすれば、今度は挨拶をしないお向かいが気に障る。似たようなものである。これまた「統計のマジック」に該当するのかもしれない。

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