2014年3月17日月曜日

葬式仏教が一番わかりやすい宗教活動ではないのか

「葬式仏教」という言葉は日本の仏教に対して決して誉め言葉ではない。皮肉を交えた、戒名料やお布施など不透明な「価格体系」への非難を交えた気持ちがこめられた言葉と言ってもいいのではないか。

朝日新聞がこんなコラム記事を載せている。
古代の僧侶は、国家鎮護を祈念する「官僧」だった。朝廷では「穢(けが)れ」が忌避され、いわば官僚の一員である彼らにも制約となった。穢れの最たる死をめぐっては、天皇や貴族の葬儀に関わることがあっても、積極的ではなかった。
 一方で、官僧身分を捨てた鎌倉時代の「遁世僧(とんせいそう)」は、死の穢れをものともせずに、民衆のなかで葬送儀礼に取り組んでいく。死体が遺棄されることが珍しくなかった時代に、きちんとした弔いを望む人々の声に応えることで、信者を増やしていったというのだ。「鎌倉仏教の僧侶によって、現代にもつながる葬儀に関わる儀礼が生み出された」と松尾教授は言う。
 「葬式仏教」は死への恐れや、別離の悲しみを癒やしてきた。だが鈴木、松尾両教授ともに、現代日本の「葬式仏教」はその役割を十分に果たせていない、と感じている。
 江戸時代にキリシタン禁制のため、寺と各世帯を結びつける檀家(だんか)制度ができ、明治以降も寺院経営を支えた。一方で、教育など地域で果たしてきた多様な機能は薄れ、葬式・法要に依存しきっているのが現在の姿だ。
(出所)朝日新聞、2014年3月17日

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鈴木大拙は日本の宗教的感情を進化させるうえで、浄土信仰と禅思想の二つをあげていて「日本的霊性」と呼んでいるが、この大きな思想の流れが表面に現れてきたのが鎌倉仏教である。そして鎌倉仏教と奈良・平安の古代仏教の違いは、後者がエリートである支配者のための救済を旨としていたのに対して、鎌倉仏教は命をもっている全ての存在をいかにして救済するかを訴えた点にある。救済というわけだから、生きているこの世界は苦悩にみちているという認識がある。その苦悩やあらゆる種類の負の感情からどう解放されるか、これが宗教家が果たすべき<救済>という課題である。人は死後においても魂の苦悩から免れないという認識がそこにあるのだ、な。こりゃたまらん、というのが信仰への契機である。

葬式仏教が宗教として堕落していると考えるなら、独り俗界を離れ解脱を求めて幾十年、こんな修行僧も現代日本人なら<自己満足>と酷評しそうであるし、結局は国家鎮護のためのエリート仏僧こそ偉いのだという結論になると思われるのだが、これが俗臭にみちた眼差しであるのは明らかである。

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ただ葬式仏教という言葉には、命に対する現代日本人の中途半端な姿勢が映されていると小生は苦々しく感じている-偉そうに聞こえるかもしれないが、本当に苦々しいのだ、な。

葬式を営んで故人を見送る行為は宗教的動機に基づくものだろう。魂の救済や免罪、浄化という問題意識に全く無関心、問題意識が皆無であれば、そもそも必要なことは死者の埋葬許可証だけであり、それは役所の窓口に死亡届を出せばよいわけである。葬式は必要ではなく、(多くの場合は)火葬をして、遺骨を所定の場所に安置、ないし埋葬すればよいのだ。死者の見送りなど、法的に面倒な事柄を定めているわけではない。ところが法的手続きだけでは十分でないと考える。仏教なり神道、キリスト教なりの宗教家に葬儀の主催を依頼する。そして、宗教家は謝礼としてお布施等を受け取るのだ。

もしそうした謝礼をまったく受け取らないならば、本来、宗教家は托鉢をして喜捨をうけ、それで生活するのである。しかし、普通の日本人ならそんな風に過ごす宗教家を<疑似ホームレス>とみなして、信用はしないであろう。見栄えの良い寺院に属する公式の僧侶を求めるはずだ。それに対して人はお金をわたすのである。

宗教サービスというのは、本来は無コストである-宗教儀式に必要な器具を償却するなどの要因はあるが、1回、1回の法要で計上するべきコストとしては微小な額であろう。コストがかかっていないのだから、お布施などは安くて当然であると考えるのは、ビジネスだとみているからである。しかし、ビジネスとして宗教を考えれば、それが死者の魂を救済したり、浄化できたりするわけがない。というか、確認不能であるからビジネスとしては成立しない。やっていることは文字で書かれた経文を朗読したり、高々何文字かの戒名の作文なのである。ただそれだけで死者が救済される理屈はないのである。そう考えれば、葬式は無意味だ。

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宗教家の活動はそんなものなのだが、それによって親の、子の魂が救われて、死後の平穏が得られると本当に信じているのであれば、その謝礼として親ならば、子ならば、100万円の支払いでも喜んでするはずである。お布施が高額に過ぎる、戒名料が高すぎると不満を抱くのは、それにほとんど意味を感じないからであろう。そもそも生産費はほとんどゼロなのである。しかし、意味を感じないなら、葬儀や法要をする必要はないのである。それでもするのは<偽善>である。こういう言い方が酷ならば<世間から強いられた偽善>といえばいいだろうか。いずれにしても、そこには<嘘>が混じっている。だから人はイライラとするのだと思う。

庶民の死を真剣に弔ってくれる僧侶が出てきたのが鎌倉時代である。確かに僧侶の家計からいえば<ニュービジネス>であったわけだが、ビジネスは需要がなければ成長しない。葬式仏教という言葉が定着していること自体、そもそも日本人が求めてきたからそうなりえたのだ。自ら求めてきたものを、自らが非難するのは自傷行為に似ている。

迷える日本人の心を象徴する言葉が<葬式仏教>である。そういえるのかもしれない。

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