2014年2月19日水曜日

原発再稼働がないなら料金引き上げ—これは怪しからん事なのか?

昨日、四国松山に住んでいる年老いた叔父から電話があり、小生の亡くなった母と同年齢の叔母が亡くなったと知らせてきた。ついては家族葬にしたいと。だから帰らなくともよいし、香典も不要であると言う。ただ弔電だけがほしい。兄弟そろって心のこもった弔電がほしいという。それは出来るかと問うので、弔電はもちろんだと答えておいたが、香典はおくるな、弔電はくれと。その伝え方を聴いていると、年上の司令官が年下の部下に指示をする場面を連想した。もとより電話をかけてきた叔父は、亡くなった父のすぐ下の弟であり、少年期には陸軍幼年学校に通い、長じては地元の地銀に入行して宴席では常に床柱を背に座を占めてきた人である。甥とはいえ、人に指図することになれている感性が電話を通して伝わってきたのである。

本日の道新には、北電が電気料金引き上げの検討を始めたことを批判する社説が掲載されている。「泊原発の再稼働の見通しがないため、電気料金の引き上げを検討せざるを得ない。これではまるで、電気料金を維持するには、原発再稼働を認めよと言っているのと同じではないか」と。そんな主旨で北電の経営陣を非難しているのだ。

おそらく北海道新聞の論説陣は、以下のような道筋を考えている、そう解釈しないと論理が貫徹しないのだ。

  1. まず脱原発を社会的合意として決定する。
  2. 費用を利用者が負担する資本主義の論理によれば、原発を利用しないことによるコスト上昇は電気料金引き上げによって負担せざるを得ない。しかし、これは資本主義の論理だ。電気料金を引き上げないという社会的合意を形成することは可能である。
  3. その場合は、電力会社の経常赤字発生か、従業員の給与引き下げのいずれか、または双方を甘受せざるを得ない。
  4. 電力会社が長期にわたって赤字を出し続けることは不可能である。かといって、社会的に合意された安価な電気料金に合わせる水準に社員の給与を引き下げるのも理不尽である。大体、そんなことをすれば社員が流出するだけである。それ故、赤字補填のため政府から電力会社に経常補助金を支給しなければならない。
  5. 経常補助金の財源は租税である。しかし、社会的に必要な電気料金安定化のための措置なのであるから、税をもってそれを実現するのは当然である。

かつて戦後日本ではずっとコメの安定供給と米価安定を大義として、食糧管理特別会計(=食管)が設けられ、農家は政府にコメを売り、政府が国民にコメを転売していた。農家からの買取り価格より、消費者への販売価格が低かったが、その差額は税で穴埋めしていたのである。これと同じようなことを電気について政策的に実行せよと。そう解釈するなら、道新の主張は理解可能である。

しかしこれは社会主義なのである、な。すべての社会主義は、社会的弱者を救済するという大義があり、発想自体が倫理的に間違っているわけではないのだが、実行するには強い権力が必要である。政府の指示の通りに商品が流通する必要があるのだ。そのため現場をモニターして抜け駆けや自己利益追求行為を取り締まる必要がある。社会正義を求める心は正しいのであるが、そのためのツールは権力なのである。

冒頭の叔父は何事も取り仕切ろうとするのであるが、上から下をみる目線は権力を使い慣れた目線でもあるのだな。どうも小生は、そんな社会や慣習には辟易とする。

そんな権力を認めてでも原発は止めておきたい、それほど原子力発電なるものが嫌なのだろうか?いくら科学技術が進歩しても絶対に嫌なのだろうか?宇宙開発においても原子力エネルギーは容認できないのだろうか?原子力以外なら何でもよいのだろうか?正直なところ、小生は科学技術の進歩が成し遂げてきた成果に評価を惜しむことはしない。技術進歩がなければ生産性は低い。生産性が低ければ全て割高になる。価格を下げるには安く生産できることが必要だ。それには新しい、優れた技術進歩をどんどん採用しないといけない。その心構えが、窮極的にはより一層の安全にも結びついていく。安全は守りでは達成できない。普段の前向きのアグレッシブな姿勢からもたらされるものである。

理屈は簡単なのだ。おそらく理屈ではなく感情が問題の本質である。理科離れの感性はここにも観察できると思っている。

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