2014年1月1日水曜日

二人だけの正月に逆戻り

下の愚息の就職が決まり、いまは東京にいる。今度の年末年始は9連休になるので、北海道に帰ればと勧められたらしいが、冬は帰らなくともいい、それよりベストセラーでも読んだらどうだ、東京は行く所がいっぱいあるぞと話していたので、たった独り寮に残って「永遠の0」を買ってきて読んでいるらしい。

寮に居るのは一人だが、明後日にはいわき市にいる小生の弟宅に行くつもりという。ま、そうでもしないと時間を過ごせないて。自分なら高尾山頂にある薬王院に初詣をして無病息災を祈願し、帰りに明治神宮に詣で、寮の近くにある亀戸天満宮に寄って締めくくりとするか。いや齢が齢だから、もう初詣のはしごをするのは無理かもしれんねえ。愚息と電話で話しをしていると、時代が一つ進んだのだなあという思いを感じざるをえない。

そんなわけで今年の正月はカミさんと二人で過ごしている。結婚式を挙げたのが4月で、その年の年末はまだ母が取手市に健在だったので上京した。元日はどうしたか覚えていないが、夫婦二人で過ごす正月は今回が初めてである。これまた一つの時代が終わったのだなあという証しである。とはいえ、近くに一人暮らしをしながら非正規雇用の人生を歩んでいる上の愚息が、明日は休日だというので宅に来る。三人でカニ鍋などをつつこうと思っている。

愚息の就職も決まったし、またこのブログを公開するとしてももはや支障はない。本日から以前と同じに戻そう。

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家族の過ごし方も時間が経てば変わるものである。古いものに執着していては、次の世代に花咲く若芽が蕾のままとなる。上の世代が変化を先取りして延びて行く方向の道を開くのが役割分担というものだと理解している。

結局、親は去年の葉っぱ、子は今年の葉っぱである。いま目の前で茂っている葉が一本の樹の生命を意味しているわけではない。実存しているのは、葉でも幹でも花でもなく、毎年の四季の中で循環し、次世代に継承している命そのものだ。一枚の葉は一年も生きられないが、一本の樹は何百年も生きる。そして一帯の森は何千年も生きられるのだ。

そういえば年末にイギリスのキャメロン首相が中国訪問を「許可」され、到着したらば「平身低頭」、中国のチベット支配もあっさりと認めるなど、あの大英帝国の宰相がねえという媚態外交を演じた。前にも書いたが、帝国も王朝も永く続いて400年という限界を歴史から読み取ることができると考えている。帝政ローマも400年。漢王朝も前・後あわせて400年。ビザンチン帝国の復興も800年から1200年が全盛でこれまた400年。唐帝国、清帝国は300年しかもたなかった。イギリス興隆のモニュメントなる東インド会社が設立されたのは日本の関ヶ原合戦と同じ1600年。欧州の優越と中国の没落を象徴するアヘン戦争が1840年。今はそのアヘン戦争から170年が経過し、エリザベス一世の治世から400年余がたった。中国が尊大に構え、英国が媚態を取り繕うとしても、それも時勢というものかと妙に納得をするのだ、な。

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