2013年10月13日日曜日

日曜日の話し(10/13)

日曜日の話しとしては血なまぐさいが、三鷹市のストーカー殺人事件の被害者は加害者と交際関係にあり、その後は印象が悪化したのか、加害者が何度携帯電話をかけても拒否されるようになったことから、恨みを募らせた。そんな風に報道されている。具体的にどんな経緯があったのか、第三者には窺い知るべくもないが、大体の大筋をきけば何となくアウトラインが浮かんでくるようでもある。

どう言えばいいのか分からないのだが、最近の若い人は対人的なコミュニケーションが下手というか、どこか幼稚で、しかも心が傷つきやすいという傾向があると小生はみている。大学でも学生の気質は20年前と今とでは相当違うことは、日頃、若い人と接している人なら共通して分かることだと思う。

何があったか知らないが、何度電話をかけてもつながらない、そんなことは昔だってよくある愛のもつれ、友情のもつれ、単なる口喧嘩であっても電話口に出ようとせず家族に断ってもらうなどは日常茶飯事であった。だから加害者がそれで恨みを募らせたのだとすれば、あまりにナイーブでひ弱だと思うのだが、被害者も同世代なのだから、相手を傷つけてしまっているかもしれない位のことは分からなかったのか……、分からなかったのだろうねえ、そこが今の若い人の、よく言えば善意があって暢気で自己肯定的である、悪く言えば偽善的で鈍感で危機管理意識に乏しい傾向であるような気もしてくるのだ。


Klimt, Mada Primavesi, 1912

古代ローマの政治家シーザーは、若い頃は無名であったが、無名時代から既に交際する女性は数知れず、別れた女も数知れなかったそうだ。塩野七生『ローマ人の物語』の第5巻は「ユリウス・カエサル」で一冊丸ごとを使ってシーザーという男の生き様を描いている。ともかくシーザーは歴史上の有名人物だから話しの筋は多くの人が大体知っている。著者である塩野女史からみて驚嘆に値するのは、あれほど多くの女性とつきあいながら、一人の女性ともトラブルに至らず、死後もずっと感謝の気持ちで追憶されていたらしいという事実だ、そう書いている。こちらから別れても恨まれることがなかったというのは、確かに人との交際がよほど巧みであり、またコミュニケーションの達人、相手をホロリとさせる達人であったのだろう。

上の作品を描いたオーストリアの画家・クリムトもまた数知れぬ女性と浮き名を流したので有名だ。女性とつきあってはその姿を芸術作品に昇華させ、その作品が今に至るまで遺っているという次第だ。時には愛のもつれも行き違いもあった当人達なのに、今では一方が他方を描いた絵画だけがあって、後の世の人がリアルな恋愛の場を知ることなくみているわけだ。これって何なのでしょうね、と。

現代のほとんどのストーカー殺人事件の悲しい点は、その経緯に何のドラマもなく、伝わらず、語られず、そして世間を感動させることなく、忘却の波間に沈むにまかされ、美も真理もモラルにも、そういった後世の人が関心をもつ何らのことも生み出さずに、ただ生命がホタルのように時間がきたから消え失せて行ったという、そこにある。文字通りの不条理と言えるだろう。





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