2013年9月5日木曜日

マスコミ報道に一言: 婚外子相続格差違憲判決

昨日、最高裁が婚外子相続格差は違憲であるとの判決を下した。

谷垣法相は違憲判決を受けて、「違憲立法審査権を有する最高裁判所が、憲法違反の判断をしたことは厳粛に受け止める必要がある。判断内容を十分に精査して必要な措置を講じていきたい。相続は日々起きることなので、『法律にはこう書いてあるが、最高裁判所はこう判断している』ということで、いたずらに混乱を生じさせてはいけない。できるだけ速やかに検討して、速やかに対応策を講じていくのは当然だ」と述べているよし。

昨晩の「報道ステーション」でも当然のこと話題になっていて、朝日新聞社から派遣(?)されている記者が、個人的な意見を開陳していた。その概要は、
今回の判決は当然だと思う。ところが、与党保守勢力は家族を非常に重要視する立場をとっていて、夫婦別姓にも反対している。自民党の憲法草案をみても、『家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない』と。憲法第24条に追加することが含まれている。もうホントに時代遅れなんですね。国内で暮らす人たちの多様な価値観を認めることが何より大事ではないでしょうか。
こんな意見を述べていた。憲法草案24条については河野太郎議員が反対していて聞いている人も多かろう。

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色々な生き方を認める。小生、反対はしない、というか大賛成だ。しかし、ちょっと待っておくんなせえ。そう言いたくもなるのだ、な。

倫理をどう考えるのか?善悪の別をどう考えるのか?規範意識を放置すれば、いまでも階層化が進んでいるのに、分裂へ向かう契機になるのではないか?

前近代においては宗教が規範意識の土台であった。近代に至って、理性が神に置き換わり、カントは実践理性の存在を認めた上で、普遍的な倫理規則をすべての人間が共有できるはずであるという結論に至った。そこには「個人別々の倫理を認め合う」という思想はない。

「多様な価値観」という言語表現のうちに、何が善であり、何が悪であるかについても、個人個人で色々な考え方、別々の倫理観があるという見方が含まれているなら、是れ既に「倫理の否定」であって、悪を羞じる心がなくともよいという立場に陥るのではないか。その人にとって、その行動は「悪」ではないのだから。

人として何が大事か、まあ色々考え方もありますから……と、こんな風に言い出せば、反政府勢力に化学兵器を使っても、この国にはこの国の倫理があるのです。アサド政権はこう反論するであろう。大河ドラマの八重ではないが『ならぬことはならぬのです』と、そこから生きる事を始めるのが「倫理」であろう。多様である余地は、「倫理」にはないのであって、意見が異なるのは「色々な倫理」があるからではなく、個々人の理解が不十分だからだ。こうも言えないか。

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だから、単に自民党保守勢力が主張していることだから、古臭いに決まっている、時代遅れに決まっている、時代遅れのことは間違っているに決まっていると考えるとすれば、とんでもなく傲慢な姿勢である。

とはいえ、「国民共通の規範」という概念自体、時の権力の統治ツールであった面も見逃し難い。なぜ国民の規範意識を統一する必要があるのか?窮極的には、均質・良質の兵士を徴兵して強力な国軍を編成するため、労働者という経済戦争の兵士を調達するためであった。つまりは、「国民国家」の誕生と「神から理性」、「信仰から倫理」への置き換わりは表裏一体のものであり、歴史においてほぼ同時に進んだことである。そうしてどの文明国家も富国強兵、その果てに侵略と拡大を目指して競争する近現代400年が形成されるに至った。そう見ることも出来るような気がするのだ、な。

もし21世紀がカビの生えた国民国家が崩壊して行く時代であり、世界共通の自然観、人間観、生命観、社会観が浸透し、受容されていく時代であるなら、日本もまた日本独特の家族観に執着する必要はない。まして成文憲法に記載する必要はなにもない。有害かもしれない。そう言うべきだろう。

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