2013年9月27日金曜日

覚え書―経営者の判断ミスと刑事責任

純粋の理屈から言えば、経営者が自社の経営において失敗すれば、それが過失であろうと過失でなかろうと、投資家は経営者を免罪することはない。これは理屈だけではなく、市場による制裁として現実にそう機能するところでもある。そして会社の事故や不祥事は、基本的に経営責任者の判断で予防できるものである。真に「不可抗力」であって、誰がみても「神罰」としか思われないような事故は、まあ、ないものだと小生は思う。

一方、刑事裁判の場においては、福島第一原発で失敗した東電も、尼崎事故で失敗したJR西日本も、その経営者は過失責任を問われないことになった。東電の経営者は起訴すら行われなかった。

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しかし、任期途中で詰め腹をきった現職の社長の身の不運はいざしらず、これでは事故の痛みは、<被害者>と<投資家>と<従業員>が大半を負担してしまうのではないか。経営者は(基本的に)実損を蒙ることなく人生を全うするのではないか。

一体、経営者、取締役たちは会社において何をすると期待されているのだろうか。無能と不運はそもそも線引きできることなのだろうか。不運は確かに不可抗力だが、無能はそのことに責任を担うべきだと思ってしまうのだな。身もふたもない表現ではあるが。

ノーブレス・オブリジェ(noblesse oblige)が当たり前であった幕藩体制であれば、『世間を騒がせ、数多の民草を塗炭の苦しみに追いやった罪、誠に重々不届き。因って家財没収のうえ▲▲遠島を申し付ける』、まあこの辺が相場という気がする。しかも<連座制>である。なるほどこれは厳しくて怖い。しかし怖いのは命令権者である経営陣だけであり、部下は業務命令に服従しているだけである。

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要するに、組織の失敗に対してトップがどれほどの個人的責任をとればよいかが論点なのである。近代的な資本主義国家の法制において株式会社の取締役社長の権限と責任は限定的に定義されている。出資者である株主たちの有限責任ともバランスがよい。ちょうどそれは疑獄事件が裁判になったとき総理大臣の職務権限がポイントになるのと同じである。官僚は基本的に大臣から命令をうけて職務にあたる立場にある。その大臣は国民から付託をうけて政治をする。そして国民はというと「日本太郎」なる人物はどこにもいない。この民主主義の論理とも共通している。

まあ、細かい議論はともかくとして、法は国民に刑罰を科することもできるわけである。指導層が法によって保護される一面がある― 法が保護するのは指導層だけではないが ―のだとしたら、とるべき倫理的責任を厳しく追及されても、それは仕方のないことだ。

しかし、法の足らない所を倫理に期待しても無益だろう。社会というレベルでは、誰でも自己利益を優先する誘因がある以上、倫理は機能しない。

法はそれ自体に価値があるわけではない。窮極的には国民の幸福を増進しなければ価値はない。それには国民の「道理の感覚」に沿うことが必要だ。法の論理ではなく、法の使用者である国民が抱く道理感、倫理観を志向する<法の技術進歩>が本来なされるべきことだろう。法は、静態的にとらえるべきではなく、進化するツールとして見るべきだ。フェアな社会を作るのは法の役割である。経営者の倫理に丸投げするべきではない。


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