2013年9月12日木曜日

人は育てるのか、育つのか

三国志の終盤は、諸葛亮孔明と司馬懿仲達の戦いで始まり、幕を閉じる。その司馬仲達は才が嫉まれ、永い期間、郷里に逼塞していた。ところが「天めぐり、地転じて」、蜀の勢いが増し、魏国内でも反乱が兆す。そこで仲達が再び朝廷に召し出されることになった。朝廷は遠い。途中、回り道をして反乱の芽を摘んでから、都に上るのが上策と考えた仲達は息子二人を呼んで自分の方針を伝えようとした。ところが仲達の息子は、仲達自身を上回る程の才能にめぐまれていて、朝廷が父をそろそろ召し出すはずということも、途中で回り道をして反乱へ対処する方を優先するであろうことも全て予想していた。予想した上で、必要な準備を全部済ませていた。そう答えると、司馬仲達は「いつの間にか我が家にも麒麟(=天才)が育っておったか」と感慨無量であったそうだ。

羨ましいねえ。何度そう思ったことか。

子供は育てるものか、育つものか。小生にも分からない。誰にも分からないだろう。誰にも分からないから、人によって色々とやることは違うだろうし、方針も違う。要するに正解などはないのだろうと思う。そんな分からないものを、国があたかも正解を知っているかのように「これからは人を育てることが大事です」と。そんな風に言うのは、パフォーマンスとしては有効だろうが、本気になって国が人作りに出てきたら、そりゃ鬱陶しいだろうと心配になる。ロクなことがないからね……。

少し旧聞に属するが、以下のインタビューがあった。相手は元国連難民高等弁務官・緒方貞子氏である。
「国際化と多様化がやや混同されている面がある。本当に必要なのは、いろんな価値を比較習得していく人材が日本の中で育っていくことだ。それは国文や漢文の分野でだっていい。多様性が出てこないと本当の意味で近代国家とは言えない」

 「私は国連難民高等弁務官をしていたころ、随分旧ソ連の国を訪れた。そこで旧ソ連の教育の仕方は画一的で、日本に似ていると強く感じた。画一的な教育はある程度のレベルまでみんなを引き上げるが、本当に強い国、リーダーシップを持った国になるには画一的ではだめだ

 「みんなが同じ発想と内容をもっているのは弱い国だ。それは全体主義の中でしか成り立たないはずで、日本の教育はやや全体主義的なところがある。それは長い島国の伝統といった側面もあるのかもしれない。みんなが同じような生活をして、同じように協力してきたのだけど、変わっていかなければならない状況になってきた。日本にとっては大きなチャレンジだ」
(中略)
「講義だけで終わりではなく、ゼミなどできめ細かい指導が欠かせない。米国の大学院に留学していたときは、ほんとうにたくさんのペーパーを書かされた。必要なら米国のように学生の教育指導にあたるティーチング・アシスタントを増やした方がいい。学生が論文もかかないで講義だけ聴いて卒業していくのは楽過ぎる気がする」
(出所)日本経済新聞、2013年8月29日 
人は誰でも本来はユニークでバラバラであるわけで、寧ろそれが良いのだという趣旨だ。国がやると、原理、原則的に最もよい方法を採ろうとする。自然と統一的になる。自由でバラバラの教育をするのは、国には理屈として不可能であると、そろそろ見切った方がよい。

人は「育てる」のではなく、自然に「育つ」のを応援する。国がやるべきことはこのくらいである。それ以上の役割を国が担おうとするなら有害であると、小生、考えているのだ、な。日本がいま世界で立っている位置は、幕末、明治維新の時代とは全く違う。そもそも「日本人は…」という見方そのものが時代遅れであり、今後将来のテーマになるだろう、移民促進にもマイナスの影響をかもし出すであろう。150年前の日本はどうであったか、歴史的発想はそれなりに大事であるが、明治と現代が全く違うということも核心的事実である。

幕末から明治維新にかけては、長岡藩の米百俵の逸話ではないが、とにかく人を育てることが最重要な課題であった。そして当時は学ぶべきことは誰にでも分かっていた。国の独立を全うするには西洋の知識と技術を吸収することが効率的だった。追いつく先が一つなのだから、教えることも一つでよかった、というよりそれ以外の教育方法は明治から大正にかけて、ダーウィン的メカニズムで自然淘汰されてしまい、加えて国定教科書による国の介入によって衰退し、結果として日本の教育は画一的になってしまったのが現実だったろうと理解している。その果てに、均質化と序列化が進み、戦前期・昭和の退廃が進んだのだろうと思っている。

読ませるのは一律・統一的にできるが、書かせたものを熟読して討論の相手をしてやるのは、大変なエネルギーを必要とする。人はそれぞれ違った考え方をするし、何でも違う理解の仕方をするからだ。どれを優等であると評価するかは国が基準を決めることができるが、仮に国家から評価されなくとも、書けば誰かが必ず読む。読んだ人は感心するかもしれない。確かに140字限り、60字限りなどなど、ネット社会は形成されているが、上に引用するように『学生が論文もかかないで講義だけ聴いて卒業していくのは楽過ぎる気がする』。最後の形容詞は、「楽すぎる」ではなく、「淋しすぎる」、「哀れすぎる」と。ボロボロになった廃屋で「暮らし」とも言い兼ねる毎日をおくっているのが「憐れ」であるのと同じ意味で、書くことをせずに、学生時代を終えるのは、どことなく「哀れ」であるような感覚を覚える。高額の授業料とバランスしていないと思う。

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