2013年9月29日日曜日

日曜日の話し(9/29)

勤務先の入学試験があって午後からずっとつめる。それが終わって、ちょっとした紛糾ごとで相談。夕食前に帰宅してようやく人心地がついたところだ。

やれやれ、年に二回実施している入学試験もあと何度すればいいのか。もうホトホト飽きたという感じもあるが、「これからはしなくとも構いませんから、ゆっくり休んで下さい」と言われるとやっぱり寂しいだろうということも分かる。

× × ×

役人をしていた頃の同期にえらくシューベルトが好きな人物がいた。その者はいま関西の某私立大学で環境経済学専門のN.A.教授として有名になったが、役人になったばかりの頃は宇沢ゼミの直弟子丸出しの雰囲気をただよわせていた。実際、純粋の江戸っ子であるソ奴は「箱根の向こうには悪い奴しかいない」、「おいおい、それを言うなら鬼が棲んでるという所だろ」と。まあそんな人物だったのだが、よほど大学生活をしたかったのか、嫌いなはずの関西に引っ越してもう10年以上になる。小生、まだそれほどの年配でもない頃にいまの勤務先に引っ込んで、現役引退というか、土俵をおりたような田舎生活を続けているので、上で引き合いに出した人物とは以来会っていないが、もう随分姿も顔つきも変わったことだろう。彼の人物とは結構な縁(えにし)があったのか、公務員試験の二次だったと思うが、たまたま右隣にいた人物がその人であった記憶がある。試験が始まる前に小さい声で「▲▲してくれませんか」とその人物から頼まれたのだが、何を頼まれたのか思い出せない。「教えてくれ」ではなかった。いざ試験が始まってから、斜め前の別の人間が消しゴムを使っている最中に答案用紙をビリビリと破いてしまうなど、室内でも甚だ落ち着かない一帯であったことを覚えている。終わって外に出ているとき『あれはブラインダ・ソロー(Alan BlinderとRobert Solowであるとは後になってわかった)で決まりだよ』と大きな声で話すのが聞こえたので振り向くとソ奴であった。まさかその同じ人物が同じ役所に入って同期になるとは思わなかったので、もう一度見た時には吃驚した。その後も色々なことを話したが、口から出るセリフの約50%は英語の単語であるという不思議な日本語を使っていた。大変面白かった。

ま、何にしてもそれもこれも過ぎ去ったことである。そのうち覚えている人間が世を去れば、最初からなかったことと同じになる。しかし、小生がこうして書き残しておけば、いつかは愚息がこれをみて、昔あったことを記憶するのと同じになる。社会の歴史と一人の人間の存在は、記憶と忘却とが紡ぎ合わされている点で、そっくりである。存在の本質は「記憶」であり、記憶は時間の経過の中にある。

人も国も町も、その存在の本質は「記憶」にある。が、他方、すべてを記憶していると、とてもじゃないが不愉快で生きて行けない。忘れるべきは忘れるべきだ。難しい所である。


Der Erlkönig(魔王), Moritz von Schwind

シューベルトはナポレオン戦争の激動が終息し、欧州が保守的な戦後体制(ウィーン体制)に置かれた時代、つまりビーダーマイヤー時代に仕事をした音楽家である。ゲーテも老年を迎えた最後の20年弱をそんな時代に過ごしている。思想は革新的だが、社会は保守反動が支配し、前例のないことは革命を連想させるので全て悪、そんな空気は日本人も何となく共感できるのだ。

亡くなった母は1933年に公開された映画「未完成交響楽」が大変好きだった。小生も中学生の頃だったか、TVで再放送されたのだが、シューベルトのSerenadeや交響曲 "Die Unvollendete" をその中で初めて聴いた。



シューベルトの作品番号・第1番である歌曲「魔王」はゲーテの詩に曲を与えているが、そのゲーテが書いた最後の青春作品と感じられる「ヘルマンとドロテーア」には次の下りがある。
いずれの者にも死は生となるのです。
父上が感じやすい男の子に死をただの死として示されたのは、当を得ていませんでした。
若い者には気高く成熟してゆく老年の価値を教え、老人には若さを教えて、両者がともに永遠の循環を楽しみ、
生の中で生を完成するようにしたいものです。
(出所)「ゲーテ全集」(潮出版社)第2巻、詩集、401頁

経済産業省・某官僚が自分の匿名ブログを隠れ蓑にして勝手放題の暴言を書き綴っては気晴らしにしていたそうだが、「死ねよババア」という言いざまには、あまりの思想の低レベルに慄然とするしかなく、クイズのような奇問、珍問に正解する能力ばかりを評価する愚行に成り果てた現在の公務員試験にもはや何の希望も感じられないことが分かる。

実は「ヘルマンとドロテーア」にはもっと素晴らしい下りがあるのだが、それはまた次の好機に。





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