2013年8月27日火曜日

言葉遊びをもう一度: 日本的な失敗方程式

福島第一原発の汚染水問題で政府もやっと腰を上げるつもりになった様子だ。責任を引き受けて問題を解決する自信ができたのか?自信があるなら、なぜもっと早く実行しなかったのか?なかった自信がわいてきたなら、何がどうなって自信ができたのか?自信がないままに税金を投入するなら、それを事前に伝えておくべきではないか?

ま、とにかく分からないことだらけだ。

「全てが闇の中で分からない」というのは、日本の軍事・政治・行政、というかあらゆる組織運営において非常に頻繁に目につく失敗例であると思うのだ。今日はメモにすらならないが、ちょっと思いついた言葉があるので書き留めておく。日本特有の失敗の方程式は、よく耳にする三つのセリフから構成されている。

心配ご無用!
  ↓
申し訳ござらぬ
  ↓
……春さそふ〜(辞世・切腹)
春さそふ〜というのは余りに優雅な辞世であるが、典型的には吉田松陰の一首などは同感だという日本人が多数いると思う。
かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂
まあ、大体、組織の基本方針に逆らって、独善・独断的な単独行動に出る場合は、上のような心理状態にあるものだ。それをみる野次馬的な大衆は概ね助命嘆願を繰り広げる。こんな情景は日本の歴史上、あまりに多くみる『いっちゃん、ええとこ』なのである、な。

☆ ☆ ☆

仮に昭和6年時点に関東軍参謀だった石原莞爾が、何か計算違いをおかしていて、満州の武力侵略が失敗していたら、上の失敗の方程式に当てはまっていたであろう― あてはまる確率もそれなりに高かったと小生には思われる。

心配ご無用とは、口出し無用という意味であるが、もし神風特別攻撃が作戦決定される前に、誰か数人が出撃を志願して「どうするつもりか?」と上官から質問されれば、何も言わずに「心配ご無用に願います」と答えるに違いない。すべてを察した上官が「そうか…生きて帰れよ」と言葉をしぼり出す。無言で去った数名は、いよいよというときになり、生還できないことを「申し訳ございません」と謝罪し、上官は死んだ部下の文箱から辞世の句を見いだす。パターンは変われど、こうした場面はなぜ日本人の胸を打つのだろうと、常々、不思議に思っている。

満州事変にまで遡らずとも、1980年代のバブル景気の時代、銀行内部でも上の失敗の方程式の該当例はおびただしく発生していたであろう。「心配ご無用です」…、「申し訳ありません」。

一体、誰がモデル・ケースになって、ずっと模倣されているのだろうと。 実は、よく出来た作品には、「心配ご無用です」という二流の人材の傍らに、かならず物事のよく見える一流の人材がいるもので、ところがお上の信頼は二流の人材にある。だから一流の人材の意見は通らないのだな。それで、最後の修羅場になって二流は逃亡し、一流が最後の望みを託され、しかし遅きに失し「申し訳ござらぬ」と、謝罪するのは責任のないその一流の人であったりする。

東電は「心配ご無用」といい、監督官庁は全てを知りつつ「そうか、よろしくお願いする」と答え、いざ大問題になってから「申し訳ございません」と東電は謝罪し、おそらく直接責任者が詰め腹を切るのだろうし、一介の責任者の処罰などマスメディアは見向きもしない。政府は淡々粛々とあとを引き継いで巨額の税金を投入してとりくんでいく。その体制作りの犠牲が責任者の生首である。

茂木経産相が示した五つの方針は、政府発表の新作戦というわけであるが、まるでサイパンが落ちたら、硫黄島を死守せよ、そこも落ちたら沖縄決戦だ。これでは大本営発表の二番煎じではないか。そう感じるのは、小生だけだろうか。いつになっても変わらない失敗のパターンを繰り返す根本原因は、ズバリ、<情報隠蔽>である。誰をかばうのか、自らをかばうのか、トップをかばうのか分からないが、この情報隠蔽を<忠義>と勘違いして穏便にはからうマスメディアも、もしそんな姿勢をとっているなら、同罪であろう。そして、暴動の一つをすることもせず、ずっと「エリート」を信じ続ける「普通の人たち」、この図式が日本的な失敗が生じる基本構造である、と。

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ずっと若い頃に、そんな議論をして日が暮れたものだが、案外、それほど間違ってもいないと感じる最近なのだ。

結果としては、今回の原発事故においてもまた、<普通の人たち>が捨て駒となり、<最上層部>が傷つかないまま未来に残る、そんな行為を又々とっているのではあるまいなと邪推したくなるのだ、な。普通の人たちの集団的利益こそ守るべき<国益>であろう。そのための基本はノーブレス・オブリジェ(noblesse oblige)である。城が落ちたら城主が責めを引き受けて、配下は生きるのだ。その覚悟があって城主は命令を下せる。楽員は演奏中は指揮者に従うのだ。指揮者は指揮をして、出来が悪ければ「すべては私の出来が悪いからです」というのだ。これを部下、いや楽員が言ってはムチャクチャだ。上にその覚悟がなければ、下の方から「心配ご無用」となる。これが下剋上にそのまま状態遷移することもたまにある。太平洋戦争に敗北した際には、仕方がないのでこの原則を(基本的に)受け入れたものの、日本の歴史を通して「ノーブレス・オブリジェ」は決して倫理であったことがない。日本の指導層は基本的に不可侵なのだ。上が不可侵だから下が捨て駒になる。とても民主主義とは言えない。このスピリットと民主主義の精神との両立をどうするかが、日本の民主主義の最大のウィーク・ポイントだと小生は思っている。

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