2013年8月10日土曜日

山手通りの喫茶店「エレーナ」再訪

東京に来ている。目的は両親の墓参と拙作が上野の森美術館の「自然を描く展」に入選したのでどんな感じになっているか確かめるためだ。アマチュアの出品先としては、サロン・ド・ボザール、一枚の絵が主催している日曜画家展、それと自然を描く展の三つが主であり、これまではボザール展に出していた。ところが主催団体が、このご時世もあって倒産してしまったのだな。で、今回初めて自然展に応募してみた。でもまあ、あれである、毎年の出品総数と入選数を比べると、2作出品した人は、よほどのことがない限りどちらかは入選するのじゃあないかとは思っている。

それで今年はお盆の時期に上京し、昨晩は学生時代からのポン友と横浜・中華街で食事をした。一度行った店であったが、8人兄弟が手分けをして3店舗を運営しているそうだ。親御さんは先年亡くなったそうだが、羨ましいものだ。

早めに品川からJRに乗って石川町で降り、待ち合わせの時刻が来るまで周辺を歩き回った。小生が、ずっと昔、しがない小役人をやり始めたとき、駅から歩いて10分の所にある独身寮に入っていた。駅裏の急坂を登ると、次第に海が見えてきて道の曲り口に漫画家・柳原良平氏宅が見えてくる。そこからもう一息で山手本通りに出る。左に少し歩いて、道を渡り、狭い下り道を下って、少し右に行くと独身寮がある。そんな記憶があるので坂を上って行ったのだが、すぐに息が切れてきた。昔は一気に5分以内で走るようにして上っていたのだが。それで独身寮はまだあるかと確かめるように歩いていくと、敷地内に草花や灌木が生い茂ってまるで違う佇まいになっていたが、往時とおなじ建物がそのままたっていた。何しろ一等地である。公務員の宿舎はずいぶん売却されたと聞いていたが、そうかあ、まだあったのか、結構住人はいるようだな、と。うたた感慨を覚えて元の山手通りに戻って行った次第。

山手通りに戻ると、道の向こう側に喫茶店「エレーナ」がある。店の窓から横浜港が一望できるので日曜には―当時は土曜日も半ドンであったが仕事があった―よく入って、窓際に座って一時間も二時間もいたところだ。とても懐かしい。待ち合わせの時間までそれほど余裕があるわけではないが、坂を上ったり下ったりして大汗をかいたので店に入る。年配のマスターがいる。アールグレイのアイスティーを頼む。はて、女の人が店をやっていたはずなんだが…、店内は昔とそれほどは違わないようだ。何しろ35年も前である。うん?店内にトールペイント風の作品がかかっており、"38th Anniversary"と書いてある。となると出来たばかりの頃に店を愛用していたことになるか…。海は昔はよく見えていたのだが、今は高層マンションが建ちならんで視界を遮っている。残念な景色だねえ…無粋だねえ、と。しかしまあ店内の雰囲気は昔のままじゃないか。視線をさらに送ると、壁際に品のよい女性の写真が飾ってあった。誰だろうか、マスターより少し齢が下かな?ずっと昔、小生に珈琲を出してくれていた人は、その女性であったような気もする。


写真の女性は誰なのか、マスターには聞きそびれてしまった。聞くのをためらっているうちにこんなことがあったのを思い出した。

父の胃癌が再発した秋のことである。小生は小役人になってまだ一年生であった。晩秋のある日、外は落葉を打ちしだくような時雨が降っていた。と、母から電話だと寮の管理人がいう―昔は携帯という利器はなかった。出ると『いま目黒にいるのよ、出てこれる?』と母がいう。『いいよ、すぐ出るから』そんな風にいって、多分、飛んで行ったのだろう。その日の更に以前、まだ父が元気であった時分、目黒駅から歩いて15分程の所に、家族そろって暮らしていたことがある。母は目黒の街を好んでいた。石川町から目黒駅まで何分かかったろうか、小一時間はかかったのではないか。多分、蒲田から目蒲線に乗り換えて行ったのだろうと思う。目黒のステーションビルの最上階にはレストラン街があった。上がって母を探すと、背中を『おにいちゃん』とたたくので振り向くと、母がニコニコと笑いながら立っていた。当時は、そのレストラン街にロシア料理店―「白樺」という名前ではなかったかと思うが定かではない―があった。母と私はその店に入ってボルシチを食べた。しばらく父のことや弟妹のことなどあれこれと話をしてから、母は『じゃあもう帰るわね』とでも言ったのだろう、私と別れて名古屋に帰って行った。目黒駅で別れたのか、それとも東京駅まで送って行ったのだろうか、それも忘れてしまった。私は独身寮に戻って行った。

不思議なものである。母から電話をもらって雨の中を目黒まで行こうと石川町駅まで一散に歩いて下って行ったことはよく覚えているのだが、母と別れてからの帰途、また寮へと上がって行った時のことは記憶に残っていないのだ。それと、母はなぜ名古屋から東京に来て、私と話をしたくなったのだろう。母にはそれを聞いたはずなのだがどんな内容だったか忘れてしまった。父は、癌になってからずっと丸山ワクチンを投与してもらっていたが、間に立っていた叔父からそれを受け取るのは私の役割だった。母が直接とりに出てくるはずはない。平日ならそれもあるだろうが、もし平日なら私の方が真夜中まで仕事をしていたはずである。土曜や日曜なら私が叔父からワクチンを受け取っていたはずである。そうすれば私から母に連絡をしたはずで、突然、母から電話があるとは思えないのだ。あるいはまた父が長い間投薬してもらっていた順天堂病院の神経内科に、その日、母はまた行ったのだろうか。しかし、その頃になると父はもう順天堂大学から投薬してもらってはいなかったように思う。

だから、母がなぜ東京に来て、私に電話をかけて呼び出したのか、その事情は分からないのである。いまはもう永久に分からなくなったが、その日の雨が時雨にしてはえらく土砂降りで、ザアザアと雨が降る中を暗い―暗かったように思うのだ、不思議だが、夕刻であったのだろうか―坂道を曲がりくねりながら、一散に歩いていったことだけは、よく覚えているのだ。

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