2013年7月28日日曜日

日曜日の話し(7/28)

旭川で修習中の愚息は、中々進路が決まらなかったが、某所からやっと内々定の連絡を得て、その祝いもあって昨日拙宅に帰り、モエ・シャンドンのシャンパンを一本空けて、福島名酒「奥の松」と地元の「男山」を飲み尽くしてから、イモ焼酎「一刻者」をほとんど平らげた後、今日の昼また旭川に帰って行った。亡くなった父が愛飲していたと語って聞かせた"Jonny Walker -Black Label-"も一本カバンに入れてだ。もし就職先が決まらなければ、最悪の場合、博士後期課程の入学試験が来年2月にあるだろうから、それを受けてどこかに籍を置くしかなかろう、そして良い応募先があれば大学のポストでも探すしかなかろうなどと、カミさんとは相談していたところだ。そうなると、まだまだ授業料を払ってやらねばならなくなり、一体いつまで親の脛をかじるつもりかと。TVドラマ「半沢直樹」のカミさんではないが、『アア〜ア、ロースクールなんて行かせるんじゃなかった。カネはくうし、借金は増えるし、職にはつけねえし、屁理屈だけがうまくなってツブシはきかねえし、どうにもなりゃしない!いつまでも脛をかじってんじゃねえぞお』くらいは言ってやるかと内心思案していたところだ。

帰りしなに歴史小説は読んだことがあるかと聞いてみた。ないという。司馬遼太郎は知っているか?聞いたことはある、読んだことはないと答える。あれだね、オレくらいの世代の誰かが、入ると上の方にいるだろうが、ほとんど全てが司馬遼太郎の何かを読んでいる、そんな時代だったよ。まず読むとすれば、『坂の上の雲』か、『龍馬が行く』のどちらか一つから入るのがいいだろうねえ。更に、それから藤沢周平の『市塵』か、山本周五郎の『ながい坂』にいけば、宮仕えの何たるかが分かるかもな、そんな雑談もしておくかと思ったが、カミさんが何かの話しで割り込んだので、途中でとぎれてしまった。ま、今度にするか。

藤沢周平『市塵』、出版社:講談社、1989年

新井白石が好きである。入門は『折たく柴の記』であるので月並みだ。


白石がこの自伝を書き遺した動機は、自分は両親が年をとってから生まれた子であり、そのため比較的若く親を亡くし、父母の記憶が少ないのを淋しく思っていたことから、息子には自分や父(=息子の祖父)がどんな人物であったのかが分かるようにしておきたい。そんな気持ちからだそうだ。『折たく柴の記』は自分の死後、家族のために遺された自叙伝であり、何かを世間に主張するための本ではない。書き出しは両親の記憶である。
むかし人は、言ふべき事あればうち言ひて、その余(よ)はみだりにものいはず、いふべきことをも、いかにも言葉多からで、その義を尽くしたりけり。わが父母にてありし人々もかくぞおはしける。父にておはせし人のその年七十五なり給(たま)ひし時に、傷寒(しやうかん) をうれへて、こときれ給ひなんとするに、医の来たりて、「独参湯(どくじんたう)をなむすすむべし」と言ふなり。よのつねに人にいましめ給ひしは、「年若き人はいかにもありなむ。よはひかたぶきし身の、命限りあることをも知らで、薬のためにいきぐるしきさまして終はりぬるはわろし。あひかまへて心せよ」とのたまひしかば、「このこといかにやあらむ。」と言ふ人ありしかど、「疾喘(しつぜん)の急なるが、見まゐらすもこころぐるし」といふほどに、生薑汁(しゃうがじる)にあはせてすすめしに、それより生き出(い)で給ひて、つひにその病癒(い)え給ひたりけり。(出所)古文の部屋『折たく柴の記』(新井白石)
タイトルの『折たく柴の記』は、承久の変に敗れて隠岐に流された後鳥羽上皇の御製
思ひ出づる 折りたく柴の 夕煙 むせぶもうれし 忘れ形見に
による。この作品の内容は、全て、一人の人間の<記憶>である。そこに、小生、非常に近代化された人物を見る思いがするのだ、な。だから好きで仕方がない。

『折たく柴の記』は、絶妙なワインの味わいに似ているが、『読史余論』もまた幕末のベストセラー『日本外史』より遥かに文章の格調が高く、事実認識のバランスもよく、論理のよく通った歴史書だと思う。専門家ではないので、精読してきたわけではないが、今の時代、ほとんど読む人がいないというのは全くおかしな話しだ。 もっと読まれていれば根拠のない尊皇思想が野方図に広まる状況にはならなかったろう。

愚息に勧めようと思っていた藤沢周平『市塵』の新井白石像は、少々、偏屈で人好きのする人物ではない。妥協を知らない始末に困る人物で、およそ江戸城中で穏やかに生きて行く人物でなかったことは確かだが、単なる気難し屋では六代将軍徳川家宣からあそこまで信頼されるはずはない。実際には、科学的好奇心にあふれた合理的な百科事典的な人物であり、理屈の裏付けのないしきたりとか、非合理な偏見に接すると、我慢がならない、前例ばかりを言い募る幕閣が愚かに見えて、情けないあまりにきついことを言う。そんな人物であったのだろう。ま、「改革」の名を借りた松平定信の保守反動政局までは、元禄・正徳・享保・天明と幕府政治には大いに活力があった。そんな良き時代を背景にしている。

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