2013年7月14日日曜日

日曜日の話し(7/14)

前週の話題は歌川(安藤)広重だった。その後また確認したのだが、広重が死んだのは安政5(1858)年である。黒船来航は1回目の浦賀が1853年、2回目の横浜が1854年である。当然のこと、『東海道五十三次』や『名所江戸百景』を制作した広重も、黒船の図を描いているに違いない、と。そう思ったのだが、これまで一度も見たことがない。そう言えば、安政2(1855)年10月2日の安政江戸大地震も広重は経験している。半壊した江戸城・半蔵門を絵にしたところが幕府から発禁処分となったことは耳にしたことがある。とすれば、黒船を絵にして販売するなど、幕府が赦すはずがない。下手をすると首がとぶか、遠島だ。「だから、ないのかなあ」と思い至った次第。

ただ、迂闊なことにいま調べて分かったことだが、広重は浦賀に行ったことがある。


歌川広重、相州浦賀、制作年:??

江戸期は上方から江戸に膨大な量の物資が船で運送されていた。「お船改め」を行う番所は浦賀に置かれていた。だから浦賀は江戸に至る「海の玄関」であったわけだ。いまは全くの田舎になっていて米海軍のペリー提督はなぜ浦賀のような辺鄙な村に行ったのか、これまで不思議に思わなかったことこそ、全く迂闊というか、だから新しく分かる事実はいくらでも残っているのだ、な。船で江戸を目指すなら、幕末の時代、まずは浦賀に行くのが当たり前であったのだ。アメリカは幕府の海上保安体制をよく調査していたわけだ。

当時の老中・阿部正弘は慎重審議を理由にとりあえずかえってもらうことにしたが、翌年また来るといったペリーは今度は江戸湾に入って砲艦外交に出るつもりだった。幕府は大急ぎでお台場を築き、横浜を新たな港湾として建設することにした。この辺の事情は、よく出てくるのだが、さて…上の作品は黒船来航の前に描かれたのか、後なのか?やはり黒船が来る前なのだろうなあ。

いずれにしても、広重が没してから10年後に幕府は瓦解して明治維新となった。黒船がきて15年が過ぎたことになる。歴史の授業を聴いていた頃、1853年から1867年までの間は<瞬時>のように思われたものだ。毎年のように起こった事件の前後関係が中々頭に入らなかったものだ。しかし「十年一昔」ともいう。小生がいま暮らしている町に来てから、ようやく21年である。その間に幼かった愚息はすっかり大きくなって一人暮らしをしている。エコノミストがいう<長期>とは、普通は5年か10年程度の時間を指して言っている。15年はそれなりに長い。赤ちゃんが思春期にまで育つ。

黒船が来たあとの15年は「あっという間の15年」ではなく、むしろ「長かった15年」、「色々あった15年」であったと言うほうが、その頃の人たちの実感に近いかもしれない。

広重はコレラ(ころり)で病没したそうだ。これまた外国からやってきた伝染病だ。コミック「Jin –仁–」の世界と同じであるわけだ。広重の絵を特徴づけた"Hiroshige Blue"が欧州に輸入されてジャポニスムの波となったのは、以前投稿したこともあったし、また別の時に。日本よりも先に欧州と接触していた中国から、書や南画・北画が輸出されていたと思われるが、ヨーロッパの感性を刺激したのは中国の陶磁器と日本の絵画だ。文化的な多様性と言っておこう。



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