2013年5月28日火曜日

立憲君主制は民主主義だというウソ

橋下徹市長が外国特派員協会で会見して、まだ世を騒がしているようだ。もう、語る気にもなれないが、誰だったか「あの人は、何か言うと必ず”しかしながら”をつける。弁護士なんですねえ」と評していたが、三百代言とはよく言ったものだ。これでは誠実に仕事に取り組んでいる全国の弁護士の方たちも迷惑を被るのではあるまいかと心配する。政治家の発言は時に<口害>となる。いわゆる公害と同じなのだ。

さて、学会出張からの帰途、飛行機の中でやることがないので、考えにふけったことがある。それを記しておきたい。<立憲君主制>という言葉についてだ。

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立憲君主制は民主主義の一つの在り方だと日本ではよく口にされる。そういえば戦前の天皇機関説は、大日本帝国憲法のもとで日本は民主主義国として機能していると。そんな学説であったかと思う。一時、学界主流派の考え方になっていたようで、大正デモクラシーの時代にそんな解釈が結構流布されていたようである ― それが本質的にとんでもない間違いであったことは、その後の日本の歴史が証明しているのだが、中々、本質に無遠慮に切り込むような議論は日本ではやりにくいものなのだろう。

そもそも立憲であろうと、非立憲であろうと、<君主制>という文字が含まれているのに、その国が<民主制>であるのはこれいかに、だ。そんなわけがないではないかと、小生はロジカルに議論したくなるのだが、この辺りが偏屈なところなのだろうなあ。


しかし、イギリスはどうなのさ、と。あの国は女王が元首だよ、と。オランダは、ベルギーは、スウェーデンは?どこも国王がトップではないか。そんな国はすべて民主主義ではないの?

上に挙げた国はすべて民主主義であります。大事な点がある。イギリスは女王が元首であるが、17世紀に国民が革命をおこし、国王の首を切った国である。それでも王制は維持しようとしたが、またまた王が国の支配者であるような行動をするようになった。それでまた国民は王(=ジェームズ2世)を国外追放して、オランダから新しい王を迎え推戴した。イギリスの王は、イギリス国民が主体的に選んだ存在である。オランダ王室もそうだ。16世紀にまだスペイン・ハプスブルグ王朝の植民地であった時代、地元の豪族オラニエ家が王となって国を主導した。あの辺りの貴族の血筋は、フランドル、ブラバント、ナッサウなどの血統が入り乱れて、外国人には把握しがたいものだが、国の独立運動の中から自然に生まれてきた地生えの王がいまのオランダ王室である。スペイン国王はブルボン家の出身だが、この名門もフランコ政権時代には王制が倒壊し、苦心惨憺の末に国民が出戻りを容認して迎え入れた王である。まだまだ列挙できるが、きりがない。ヨーロッパにはこのように王を擁している国が多いのは事実だが、どの王も国民によって主体的に認められ、選ばれた王なのだ。

フランスはフランス革命でルイ16世の首を斬ったが、その後は第一帝政、王政復古、七月王政、第2帝政などを経て、とうとう王を置くのは止めてしまった。ドイツは第一次大戦の敗戦で帝政が崩壊した。オーストリアのハプスブルグ王朝もそれと前後して崩壊し、ハプスブルグ=ロートリンゲン家の皇帝カール1世は国外に逃亡した。ロシアは第一次大戦の敗勢の中、国民が蜂起し、ロマノフ王朝の皇帝ニコライ2世一家は逮捕され射殺されてしまった。革命後は共産党が政権を握った。

欧州の王と国民はこんな風に歩んできたのだ。真の意味での<国民主権>を確立するための血の歴史がある。

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そこは日本と全く違うんじゃあござんせんか。小生はずっとそう思っている。ヨーロッパは日本の参考にも模範にも全くならんのじゃあござんせんか?「立憲君主制」など口当たりのいい輸入単語を使って、いいとこどりはダメでござんすよ。そう思うのだな。

日本の天皇は、日本の国民が決意して、国民が選んだ王ではない。それどころか、まず天皇がいて、そのあと国民がある。そんな意識すら垣間見える。何が「国体」でござんすか。存在しているのは「日本人」しかおりはしません。憲法は、国権を制約づけるものであると民主党は主張している。なにもそればかりではないと小生は思うが、日本の天皇制の下では民主党の主張に分があるのも事実だろう。天皇が国家元首となり、国民の義務を憲法で定めるという発想で条文を書き下すとすれば、それでも日本は立憲君主制をとった民主主義国であるとは言えないと思うのだな。だから、自民党の憲法草案はとんでもない代物であるというのが小生の立場である。

中国・韓国は時にひどい難癖をつけると感じる時もあるが、あれだけ言い募るには言うだけの理由もあると思う。

大体、憲法の第1章が天皇になっている。これは何ということでござんしょう。江戸時代の侍どもも理解できない取り決めであろう。大昔の朱子学、宋学、近世の水戸学、国学を暗記した者には常識だったかもしれないが、そんなカビの生えた理念を21世紀の日本人が今さら持つはずがないではないか。おわらいだ。第2章が戦争放棄であるのは良いとして、第3章になってはじめて国民の権利及び義務が記述されている。これは一体何であろうかとずっと昔から疑問に思ってきた。日本が本当の民主主義であれば、第1章が国民の基本的人権でなければならない。イギリスには王がいるが、イギリスの不文憲法はマグナカルタをはじめとする数々の国民の基本的権利の確認文書である。フランスは人権宣言から民主社会を構築した。当たり前のことである。実際、フランスやドイツの憲法を調べてご覧なせえ。

皇室の尊重は、憲法の前文に皇室尊重の精神をうたっておいてあとの細部は法律に委ねるか、そうでなければ憲法の末尾に皇室の維持が日本国民の尊厳にかなうものであると規定しておくのが、せいぜいのところ最良のポジションだ。

もしそんな憲法にするなら、憲法は国権を制約するばかりではなく、今の国民が将来の国民に伝えていくスピリットを示しておく。これまた良いではないか。これこそ<大和魂>というものではござらぬか。そうであってこそ憲法は「アメリからの贈り物」ではない真の日本人の精神的財産になるに違いない。大事なものは天皇家にはない。日本人全体が持っているものだ。それもまた大事な点ではないか。小生には、それがいかにも自然の在り方だと感じられるのだ、な。

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