2013年4月23日火曜日

サマーズの意見 − 民主主義の機能不全

ロイターが米・経済学者サマーズのコラム記事を流している。多少古いが引用しておきたい。
米国では現在、民主主義の基本的な機能をめぐる懸念が強まりつつある。
世論調査によると、議会に対する好意は史上かつてないほど薄れている。将来の財政赤字削減に大きく貢献する措置で合意できない政治家には、四方八方から反感が寄せられている。専門家も政治家もこぞって交渉の行き詰まりをとがめ、「オキュパイ・ウォールストリート(ウォール街を占拠せよ)」運動から「茶会」運動まで政治的に両極端の抗議行動が起こり、党派心がいよいよ強まっているようだ。(ロイター、2013年 04月 16日 15:33 JST)
党派対立が政治システムに活力を与えもするし、システムを麻痺させもする要素であることは、その国が民主主義国家であるかどうかを問わず、普遍的にいえることである。絶対君主であっても国王ただ一人で国を切り回すことが体力的に不可能である以上、側近の間で国王との親疎の違いが生じ、そこから権力の格差が生まれ、主流派と反主流派が形成され党派が誕生することは、当の国王本人も防止不可能である。この辺の事情は、幕末の混乱と維新という政権交代をみた福沢諭吉も色々なところで文章にしていることであって、究極的には<嫉妬>という要素が混じるかどうかで組織の寿命は決まるというのが福沢の観察である。

サマーズの結論は楽観的なものだ。
公共政策に携わっている者はほぼ全員が、私と同様、極めて重要であるにもかかわらず実行不可能な事が現在の政治環境では多いと感じている。しかし物事は背景が重要だ。政治的行き詰まりに対する懸念は米国の政治史にはつきものと言え、理想的なチェック・アンド・バランス機能を反映している。通常認識されているよりも遥かに大きな進歩が主要分野において起こりつつある。米国の意思決定は確かに欠陥だらけだが、国際比較で見れば立派なものだ。
(中略)
日本と西欧での変化は、米国の足元にも及ばない。確かにアジアの独裁主義社会の一部には急速な変化が起きた。しかしこれは持続しない可能性がある上、良い方向に変化するとも限らない。悲観論に傾きがちな人は、スプートニク計画後の旧ソ連や1990年代初頭の日本に対して米国が抱いた警戒感について思いを巡らせてみるのが良い。自制心を持って行く末を預言する能力が発揮されたのであり、米国の最も素晴らしい強みの1つだ。
われわれが巨大な課題に直面していないと言いたいわけではない。しかしここで言う課題は、答えが明白な問題について合意にこぎ着けることではなく、格差拡大や地球規模の気候変動といった、道筋が不確かな難問の解決のことだ。問題は行き詰まりではなく、構想にこそある。
つまりはアメリカン・システムへの変わらぬ自信が語られている。行き詰まっているのではなく、構想のいかん、要するに問題はWhat To Doにあるのではなく、How To Doにある。この指摘には小生も同感であり、人間の全歴史を通じて問題はすべて解決されてきた、行き詰まるというのは嘘であると言わざるを得ない − たとえその問題解決のあり方が指導部の制御能力をこえた自然の手によるものであったにしても。

ただこれが講演であって、聴衆からの質問をつのっているのであれば、聴いてみたい点もある。日本と西欧がその問題解決能力においてアメリカに及ばないのは、アメリカの民主主義が優れていることが主要因なのか?その状況はどんな期間において観察されるのか?西欧を構成する個別の国にも差があるのではないか?それはそのまま民主主義の度合いの差と対応しているのか?

興行スポーツ・大相撲という社会ですら、力士の理想は『心・技・体』の三つであり、この三つをすべて完成させてこそ、横綱の風格が醸し出されると言われている。民主主義は国の理想だろうが、ただその一点だけを問うというのでは、あまりにも単細胞な議論だろう。せめてより良き民主主義であるための三要素くらいは挙げられるのでないと、レベルが低すぎる。それを示すこともしないで、ただアメリカは民主主義だから問題を解決できるのだと語ってみても、ロイターの読者の知的欲求を満足させることは難しいと思われるのだ、な。

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