2013年3月21日木曜日

非エルゴード的かつアブソープティブな過程ってなに?

以前の投稿を何気に読み直していると、その時は自然に書いているつもりであっても、あれっと思う下りを見つけることがある。
人生、非エルゴード的である。歴史もまた非エルゴード的である。生命は、正常状態のまわりで循環する運動ではなく、非常に長い目でみれば誕生から成長、老化、死へと変化する非エルゴード的な、アブソープティブな変化である。
長い目でみれば、特定の状態に収斂する、こんな過程はエルゴード的だ。更に、状態確率が一定値に収斂するのではなく、不可逆的な状態があって、超長期的にはその状態にほぼ確実になる。そう予想できるならアブソープティブな過程である。超長期的には人間誰しも死を迎える。なので、上のように”非エルゴード的、かつアブソープティブ”と言ってしまうと、ロジックとしてはおかしいのだな。

しかし、その時は自然な感覚で書いたことだ。歴史が非エルゴーディックであることは、1993年にノーベル経済学賞を受賞した学者Douglass Northが著書” Understanding the Process of Economic Change”の中で力説していることだ。歴史上現れたすべての制度、組織、システムは、環境への適応を常に求められており、善悪のモラルを超えた適者生存原理の中に置かれていた。そして生き延びたシステムとは、不確実な世界で取引コストを最も合理的に最小化できる技術を見いだしたシステムである、と。不確実なショックとショックへの適応過程が歴史であるなら、当然、我々の歴史とは、どこから来たかが分からず、どこへ行くのかも分からない、非エルゴード的な性質を帯びる、と。そんな議論をしている。

人生も同じだ。そんなことを書いたつもりだったが、みんな死ぬ、これは確実に予測できるじゃないか。これはエルゴードじゃないか。

こんな詩がある。
地の表にある一塊の土だっても、
かつては輝く日の面、星の額であったろう。
袖の上の埃を払うにも静かにしよう、
それとても花の乙女の変え姿よ。 
(出所)オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』から「無常の車」
輪廻転生の超長期的な時間の中でみれば、人生もまた、どこへ行くかも分からぬ非エルゴード的な過程であろう。どんな風にして、生きていくか、そして死んでいくか、予想はつかないであろう。そこが非エルゴード的である。そんなニュアンスで書いた下りであったのだ。

TPPでどうなるか?
分かりませんよ。ただTPPに入らないより入って自由化するほうが、中期的に日本の実質GDPが拡大するのは、まず確実であると小生は確信している。それが経済の理屈であるし、戦後日本の歴史からも立証されているし、もしマクロモデルをまわして、違う数字が出てくれば、そりゃおかしいと感じるはずだ。しかし、20年、50年、100年の単位でみて、日本の歩む歴史がどう変わってくるのか?全く見当がつかない。日本が日本のままでいるのか、いないのか?正直、分からないのだな。でもまあ、そんなことを云えば、約300の分国に分かれて、憲法も議会もなかった江戸期・封建制度の日本より、不完全ではあったが明治日本になって良かったと。その後の150年程を集計して、そう思わないかい?そんな話しであると見ているのだな。

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