2013年3月19日火曜日

ビジネスが習慣を決める、それとも逆?

ガルブレイスが主著"The Affluent Society"(1958年、邦訳『ゆたかな社会』、1960年)の中で、メガ企業による宣伝と、宣伝によって自分が何を欲するかを決める「消費者」という存在、そんな現代資本主義社会を描写した時には、ビジネスが習慣をつくるという見方が現実にぴったり当てはまるように感じた。

いい例がバレンタインデーだ。小生が10代の頃にはなかった習慣である。ましてホワイトデーなどは言葉すらなかったと思う。ボジョレー・ヌーボーも恵方巻もそうだ。今も続いているそのころの習慣といえば、新しいものでは歳末の第九コンサート。年の瀬にベートーベンの歓喜の歌を聴く、そしてやがて来る年に思いを馳せるのが、まあ自称・知性派・エリート青年の行動パターンになりつつあった。その青年集団は、いま現在、70歳台である。いまなお社会の消費生活を主導していく意気が高いと耳にしている。シルバー文化華やかな時代がこれから到来する可能性もあながち否定しきれない。

こんな記事がある。少々古いが後々の参考情報として引用しておきたい。
バレンタインのお返しは「あげたチョコの金額より多いか同額分は欲しい」と考える女性が、義理チョコで6割、本命チョコで5割以上もいることが、イザ!とサンケイリビング新聞社のサイト「シティリビングWeb」が実施した合同アンケートで明らかになった。 
 義理チョコの方が、高額なお返しを期待しているようで、「『3倍返し』というくらいだから期待している」との意見も。一方、約3割の女性は「お返しはなくてもOK」だった。 
 「バレンタインはあった方がいいか」という質問には、「なくなってほしい」「興味がない」が7割を占めた。「あった方がいい」は3割だけで、「職場での義理チョコが面倒だ」との意見が多かった。 
(出所)msn産経ニュース、2013.2.1 18:26配信
 「義理チョコ」という普通名詞は、小生がサラリーマン ― まあ月給トリという意味では今もなおサラリーマンではあるが ― をしていた頃は、まだ使用されていなかった(と思う)。でもまあ、デスクの上に何気に置かれてあったチョコレートは、文字通りの義理チョコだったのだろうと今にして思う。

上の記事にあるように、義理チョコに対して、それと同額乃至三倍返しのお礼をホワイトデーに期待するというのは・・・、これはガルブレイスが指摘するビジネス主導の習慣形成消費、つまり依存効果でなくして、一体なんと言おう。

それにしても『義理チョコ謝絶』の字を記した小旗が販売されていないのは、これまた不思議である。お子様ランチにたてられている日の丸よろしく、謝絶札をデスクに置いておけば、気持ちだけを受け取り、実物は断ることができよう。余計なお礼を返す煩わしさも避けられよう。謝絶の字を記した扇子を置いておけば『お断り』、多謝の字を記した扇子を広げておいておけば『ご笑納』。これも中々優雅にして能率的なオフィス内習慣になりうるか。扇子に和歌でも、くれ竹万年毛筆をとりだしてサラサラと認めておけば、もっと文化的で奥ゆかしいビジネス生活となろう。

資本主義経済は、需要のあるところ供給がある。小生思うに<義理チョコ謝絶旗・謝絶札>には必ずオフィス内ニーズがある。そのニーズを狙った新商品が発売されないのは、バレンタインデー/ホワイトデーという行事そのものが、地に足の着いた生活習慣というよりは、ビジネス主導のマーケティング戦略であるからだろう。それがもう4、50年もの間、単純反復されて、年中行事になっている。これではイノベーションは起こりますまい。

それともそんな小旗はもう販売されているのだろうか。

それに対して恵方巻は関西地方の生活習慣が商品化されて全国に広まったもののようだ。最近では北海道地方でも節分の日には売るようになった。こちらは、やりたくない人はやらないだけの話しである。他地方で廃れても、元々習慣として根付いていた関西地方では、ずっと継承されていくに違いない。もっと新たな習慣、ひょっとするとフェスティバルやカーニバルなどに大化けすることもあるかもしれない。

想像できないことだけに面白さを感じる。
小生、だんだん、そんな風になってきた。

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