2012年12月4日火曜日

戦争放棄戦略は「戦略」でありうるのか?

国防軍論争は、ヤジの割には不発のまま、華開くことなく終わりそうな雲行きである。ま、実質同じで言葉だけのかけあいをすれば、それこそ<政治の芸能化>を加速させることにもなっていたであろう。

ただ前稿でも触れた点と関係するが、世界中の全ての国が例外なく国防軍のみをもち、侵略行為を放棄すると憲法で決めるとして、その時には戦争は地上から消え去り、永遠平和が到来するのだろうか?そう推論できるロジックを構成できるのだろうか?この問題は議論する値打ちがあるかもしれない。

小生は、その場合でも戦争は常に起こりうる。というか、ほぼ確実に起こると思う。

それには戦争を定義しておかなければなるまい。クラウゼヴィッツは戦争とは政治の延長であると考えたが、だとすれば一方の政治的意図が達成され、他方がそれを容認すれば戦争は終了するはずである。これは、しかし、タカハト・ゲームにおける限定戦争の場合である。双方の政治的意図が達成できない場合、どうなるだろう?高コストの戦争は政治ツールとしては損失が大きいので、必然的に停戦なり、和約が成立すると考えるのが理にかなう。更に、一方の政治的意図は達成されているが、他方がそれを容認しない場合はどうなるか?その場合は限定戦争から殲滅戦となり、他方が抹殺されるまで戦争状態は継続し、その後に終了する。いずれにしても<永久戦争>が可能なロジックはないようだ。

タカハト・ゲームで、自国がタカとなるために軍事力を使う。限定戦争を招くその論理は国防軍のみを持つのであれば実効性はなくなる。それ故に、全ての国が国防軍のみを持てば戦争は起こらない。こう考えていいか?

戦争とは<意図的かつ継続的な軍事力の拡大利用>のことである。こう定義すると、現に進行している武力紛争をすべて「戦争状態」として包括できるだろう。

であれば、全ての国が専守防衛の理念に徹する意志をもっているとしても、戦争は常に発生可能だ。
誓約を相手に履行させるのは、相手の誠意ではなく、自国の実力である。・・・であるが故に、物資財政の余剰蓄積は<戦力>に転換できるのである。(ツキディデス『戦史』(岩波文庫上)巻末注より)
 和約が破棄される時に相手に対して懲罰行為を実行できる能力を自らが持たないなら、相手側の機会主義的な裏切りの誘因を与えることになる。このロジックがある以上、たとえ戦争をすべての国が放棄しても、<国防軍>を放棄することは理屈上ありえない。これはビジネス界でも同じである。協調高値を維持している場合でも、リーダーと目される企業は敢えて余剰能力を持つものである。それは攻撃的な顧客奪取戦略に打って出るアウトサイダーが出現した時に、報復的な増産で対応するためである。過剰設備を有しない、フル・キャパシティを追求する合理性は、合理的であるように見えて、実はヴァルネラブル(vulnerable)なのであるな。
戦争などは起こらぬという声があるかもしれぬ。だが誤れるかな、そうではない。ラケダイモン人(=スパルタ人)は諸君(=アテネ人)の発展を怖れ、諸君を相手にして戦争をしかけることを欲している。(上記文献、87ページ)
実は、古代ギリシア世界における「世界大戦」であるペロポネソス戦争を欲していたのは、スパルタではなくアテネより以前に貿易を制していたコリントであったという解釈が多いというが、他国の経済力が自国の脅威となるのは時代を超えた真理である。
大多数の人間は真実を究明するための労をいとい、ありきたりの情報にやすやすと耳を傾ける。(出所:上記文献、73ページ)
継続的な信頼関係は、(実は)脆弱なものだと双方が自覚するとき、状況はタカハト・ゲームではなく、先制攻撃が双方の支配戦略となる<囚人のジレンマ>ゲームとして意識される。そうすれば、やはり(必然的に)戦争は起こるわけだ。誰もが予想せず、誰もが希望もしていない戦争が、現実に起こるとすれば、それは<必然的に>生じると考えるしかないではないか。

目に見える軍事力だけではなく、経済力と富の蓄積もまた戦力に転換可能な<準・軍事力>として相手側の警戒の対象となるのは当然のことだ。貿易が発展し、双方が経済協調の利益を享受し、発展したというその関係そのものが、相互に戦略的脅威を意識させる要因にもなる。

本当に人間というのは複雑かつ面白い存在だ。結局、自国と他国、自分と他人を区別して、それぞれが意思決定の自由、繁栄追求の自由をもち、その結果として競争が生じることが戦争を用意しているのである。しかしながら、自由があるからこそ、善を追求し悪を避け、自己の完成へと努力することもできるのだ。モラルが生まれるのだな。超越的な支配者に服従するもとでは、自由はなく、したがってモラルを論じること自体が無意味になる。モラルはなくなるが、同時に戦争は消え去り、永遠平和が訪れることは間違いない。とはいえ、そんな平和は誰もが望まないような平和であろう。

このように考えれば、日本国が自衛隊だけを保有するかどうかという点は、実は枝葉末節の論点であると、小生、思うのだな。 戦後日本の戦争放棄・経済重視戦略は、思うに昭和20年代、30年代には有効賢明な<撤退戦略>であったが、富裕国になったいまは日本国だけのバルネラブルな安心立命。他国からは平和主義を信じてはもらえぬ勝手な思い込み。そう言われても仕方がないのかもしれない。


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