2012年10月11日木曜日

<社会>という実体は現実に存在しているのか?

社会的責任という言葉がある。社会システムという言葉もある。今や死語と化しつつあるが、いずれまた復活するかもしれない言葉として社会主義も広く浸透している。そもそも「社会」という言葉は古い言葉ではない。ちょっと調べてみると、明治8年に福地源一郎が東京日々新聞にSocietyの訳語として「社會=社会の旧字体」という語を使ったのが初めだという。小生、てっきり「社会」も「会社」も福沢諭吉の造語によるものと思っていたが、社会に関する限り福地の方が早いという記事がネット上では多数を占めているようだ。

社会でも、Societyでもいいが、とにかく社会という実体は本当に私たちをとりまく世界に存在しているのだろうか?

似たような問題は18世紀終盤にドイツの哲学者カントが提出して世を驚かせたことがある。それはまず「空間」とか、「時間」という使いなれた言葉に対応する実体は、私たちの外部に本当に客観的な存在として、そこに在るのかという問いかけだった。答えはNoである。空間にしても、時間にしても、私たちはそれらの枠組みなくしては物事を認識して解釈することができない。つまり私たちが生まれながらに持っている認識作用に最初から備わっている形式であるというのがポイントだ。

アインシュタインの相対性理論の登場によって、絶対的な時間、空間の客観性は否定されてしまったので、カントの議論の的確さが事後的に確認されたわけだが、晩年にかけてカントは人間の踏むべきモラルについても深く考察した。モラルを議論する時には、自由や善悪、正義などを考える必要が出てくる。神という言葉も使わざるを得ない。第一批判書『純粋理性批判』で人間は神を考えること自体できないものであると言って、ハイネはそれを「神の葬式」であると例えたのだが、第二批判書『実践理性批判』では「実践理性」なるものを出して来て、人が正しく生きようとすれば「神」や「自由」なるものを仮定せざるを得ない。それらが確かに存在しているかのように生きるしか人間は生きられない。そういう考え方である ― カント哲学の研究者ではないので、本質からずれた言い方かもしれない。

社会科学は「社会」の現象を分析対象にするというのだが、小生、「社会」という言葉も、カントのいう時間、空間、自由と同様、多数の人間を総括的に考えるとき、必然的に従わざるを得ない認識の形式であると思うのだ、な。社会を語ってみても、それは議論の中において、社会というものがあるかのように想定しているにすぎないわけであり、語られている「社会」が、文字通りの「社会」として現実に存在し、呼吸をしている。そんなことは立証もできないわけであるし、指し示すこともできないわけである。

I think we have gone through a period when too many children and people have been given to understand “I have a problem, it is the Government's job to cope with it!” or “I have a problem, I will go and get a grant to cope with it!” “I am homeless, the Government must house me!” and so they are casting their problems on society and who is society? There is no such thing! There are individual men and women and[fo 29] there are families and no government can do anything except through people and people look to themselves first.  ...
Source: http://www.margaretthatcher.org/document/106689 
1980年代の保守革命の口火をきったサッチャー元英国首相の発言である。これをドクトリンと見るか、独断と見るか、理念と見るか、偏見と見るか、洞察と見るか、哲学と見るか、それは人それぞれであろう。

確かに日本国という国家は憲法(及び天皇?)とともにあり、国際社会は日本国という国家を認めている。国内には法制もあり、税制もあり、社会保障制度もある。しかし、現在の制度は昔にはなかった。つくったものである。作ったといっても、モノとして存在しているわけではない。消えるときには形も残さず消えていくものである。ただ、多くの人が有るかの様に認め、行動しているから、あるだけの話である。

異なった人が社会について語り合うとき、社会という言葉で指している現実は、ほぼ確実に食い違っているはずだ。A氏が考えている社会と、B氏が語っている社会は、別のものなのである。そう考えるのが正当だと小生は思っている。

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