2012年9月25日火曜日

文学と科学・市民の生き様・ビジネスマナー

昨晩、市役所で手続きがあるとかで帰宅した愚息に、その兄、カミさんをつれて、今日はお気に入りのカフェで食事をした。これから隣町のS市に帰るという愚息を駅前のバス・ターミナルまで送って先ほど帰宅した所だ。昨日の夜、3年ぶりにシャンベルタンを飲みながら、会話した内容を心覚えに記しておきたい。

1 文学と社会科学

文学も社会科学も個人や人間集団を考えている。その違いは、どこまで人間の細部を描写するかにあると思う。池の前に佇んで水の面を見つめているうちに、これという理由もなく、その人の心の中に生じる様々な行動への動機。尊敬している人に対して反感を感じるプロセス、愛情を抱いている人に憎悪を感じる瞬間の到来、そんなプロセスを跡づけるには、真と偽が両立しない数学モデルでは不十分である。豊かな表現力をもつ地の文章で書き進めるほうがずっと説得性をもち、読む人を納得させ、モラル的な判断、法律的な認定、心理的な理解を可能にする。

真なる認識、美なる表現は、物事の細部に宿っている。細部の描写は数学は得意のようだが、実は苦手とする。

だとすれば、すべてを数量に帰着させ、定量的な関係をどうモデル化するかを考える社会科学は、思想というには余りに杜撰であり、再現性の精度という点では余りに劣悪で原始的だ。経済データの定量分析を、ああだこうだとやっている間に、経済変動のレジーム、そのレジーム遷移のメカニズム自体が変化してしまい、結論が出た時には全てをやり直さなければならない。そんな一面があるのかもしれない。その意味では経済運営は、法則と精度を求めるサイエンスというより、創造と進化を身につけるべき属人的なアートであるのかもしれない。

社会については<それは正しい>と保証された選択などはない。というか、選択も一つの行為だ。しかし人間集団には、<行為>というものはなく、<出来事>があるのみだ。この点はトーマス・マンの社会観に小生は賛成だ。

社会を理解するためには、人間を描写する文学が適しているのか、社会を科学する視点がより有効なのか、自分もまだまだ思案中で、考えあぐねている。

2 市民の生き様

One for All, All for Oneという。最近どこかで ー 新聞だったと思うがひっくり返しても見つからなくなった ー 資本主義経済のモラル的基礎となった(と言われている)キリスト教・プロテスタントの精神が個人のモラルを問うのに対して、日本人には他者をみる心、共益を重視する「強み」がある。そんな見方があるようであり、そんな日本人の強さはたとえば昨年の東日本大震災でも、改めて確かめられたと、そう書かれてあった。

他者をみる心、共益を思う心が、なぜ人間が生きるためのモラルとなるのか、小生には理解できない。モラルというのは、世間の全員が「お前は間違っている」と声を揃えて言う状況を前提して考えないと、議論にはならないのじゃないか?1足す1は2であって、それは真理であって、それと同じ意味合いで「お前の行動は善い行動だ」と確信されるのであれば、それは現実に善なのであり、「あなたは間違っていませんよ」と世間の他人が教えてくれるものではない。世間が教えられるのは<慣習・常識>であり、真の意味でのモラルではない。善い行動は、善悪を理解していない人間の言う事とは関わりなく、絶対的に善いのだと言う風に考えないと、<モラル>という分野は存在できないのではないか?だからこそプロテスタントの精神と資本主義社会の中で生きる生き様との関係が学問的テーマになりえた。そう見ないといかんだろうと。

だから、上で言う「他者をみる、共益を重視する」生き様は、なるほど共同社会の和を守る上では有効な生き様かもしれないが、それは日本人の強さなどではなく、日本に市民社会が根付いていない、個人が生きるモラルが曖昧であることの証ではないか。小生にはそう思われてしまうのだ、な。

3 ビジネスマナーの重み

確かにマナーを守っていると相手に不愉快な気持ちを与える事が少なくなり、コミュニケーションが円滑になる。それはそうだ。

しかしマナーは、目的ではなく、手段である。目的はなにか?人間関係の維持である。人間関係で最も重要な事はなにか?相手が嫌がる事はしない、相手が聞きたくない事は言わない、相手が見たくないものは見せない、そういうことか?そうではないだろう。人間関係で最も重要なことは、言う事の中身だろう。自分が考えている内容を隠す事なく相手に伝える気持ちを<誠意>と言っている。外観としては<率直>という特性として現れる。食事と同じだ。マナーは盛りつけであり、味である。もちろんこれらも大事だが、食事の目的は栄養の摂取であり、究極的には食べる人の健康だろう。食べる人の健康を真っ先に考えることが誠意であって、率直であって、それは中身に関する事であり、マナーとは別の事柄だ。

「ビジネスマナーが厳重に守られているかどうかが大事である組織は、衰退しつつあるのだと思うよ、それは枝葉末節であり、発展する組織では誰がどう言っても、いいものはいい、間違っている事は間違いだ、そんな議論ができる組織だよ、無礼はいかんが、マナーは盛りつけや上着の色と同じようなもんだ」と、そう話しておいた。

プラトンが著作『ゴルギアス』の中で、料理法や弁論術を相手を気持ちよくさせる「お世辞(flatter)」であると、ソクラテスの口を借りて言っている。ビジネスマナーも同類ではないか。だとすれば、これから専門職として<顧客>と向き合わなければならない。マナーを守って相手に不愉快な思いをさせない。それは大事だが、それでいいのか?追求するべき真の使命を率直に、誠実に実行する事が、なすべきことだ。モラルとはそういうものだろう、と。そういう話しをした。最近の敬語教育、ビジネスマナー重視は、(小生もそれがどうでもいいこととまでは言わないが)、せいぜい料理の盛りつけを考えるくらいの力点を置くのが丁度よいと。まあ、そんな話しだった。

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