2012年9月20日木曜日

覚書き ― どこの、誰の、何のために政治家は活動するものなのか?

「原発ゼロ方針」を結論として得ながらも、内閣は閣議決定まではしないということになった。大手マスメディア、中でも朝日新聞のヘッドラインは、例によって、この方針変更を悲憤慷慨している。


「原発ゼロ」閣議決定見送り 怒り・失望



こんな感じだ。

2030年代に原発稼働ゼロを目指すとした「革新的エネルギー・環境戦略」。この閣議決定を野田内閣が19日、見送ったことに、県内の脱原発派からは失望と怒りの声があがった。
 「国民の期待を裏切った。情けない限りだ。これでは脱原発依存を進めるのか立ち止まるのか、政権の姿勢が見えない」。東海村の村上達也村長(69)は、政府を強く批判した。
 「戦略」がまとまったのは14日。意見公募で国民の多くが「原発ゼロ」を求めたことを反映して新増設をしない方針を明記しながら、建設中断中の原発3基の扱いはあいまい。核燃料サイクル政策も維持した。
(出所)朝日新聞、2012年09月20日 

青森県や福井県などこれまでの原子力発電推進政策に協力してきた地域、あるいは原子力技術を担ってきた多くの人たちの考え方までを含めて、上の決定をどう思うか?それを本ブログで語ってみても、何の意味もない。当事者の発言記録、会議議事録のみが今後の意味を持つであろう。

ただ以前にも投稿したが、科学技術の進展、一次産品価格、二酸化炭素排出削減目標、従来形成されてきた国際的信義(=仁義?)、その他諸々の要因を考慮することなく、特定のエネルギー源を排除するという目的を、日本政府が決めて、全ての日本人を束縛するというのは、戦前・近衛内閣の新体制運動とも類似した、まあよく言えば<国民運動>のようなものである。そういう意味では、脱原発というのは、幕末の<攘夷>、戦前の<反英米>などのスローガンにも通じる一つのニュー・ジャパニーズ・スピリット。そうではないのかな、と。要するに、<再生願望>なのであろう。但し、このような精神には経済的損得計算を超脱した、非常に美しい自然回帰への感情が込められていて、だからこそ多くの人は<愚かなことを>と腹の中で感じても、頭から否定するのは辛い。そんな心情になるのであろう。日本でも「緑の党」が立ち上がりそうな状況になってきたのもその一つの現れである。小生はそう見ているところだ。

こんなことを言うと、「じゃあ、お前はどう考えているんだよ?」と、二言目にはこの質問が出てくる現在の世情が、正直なところ、甚だ情けないのだ、な。

尻取りゲームのような反復・引用をして覚書にしておきたい。

× × ×

昨日の投稿でこんなことを書いている。
こう考えると、欧米は確かに<日本の失敗>を学んでいる。日本は、色々な事を世界に先がけて体験をしてきた国だ。それでもまさか<不動産バブル崩壊>までもなあ、治療法がよく分からなかった時代に、よくもまあ果敢にバブル潰しをやってしまった。今となってはそんな風に思うのだ。
確かに1990年代、日本は果敢に不動産バブル潰しを行った。それは世論の支持を得ていたし、その当時、過剰な抑え込みによって銀行経営の健全性が毀損されるにしても、その心配は自業自得という<世の声・神の声>にかき消されるだけであったろう。ところが、20年を経過した今になって、日本銀行による過剰な引き締め、長すぎた引き締めが日本の「失われた20年」の主因になったのではないかと批判的に語られることが多いのも事実だ。それに対して、当時の日銀エコノミストが自らの著作で、当時の日銀の対処と今日の米国FRBの対応を比較して、大きな違いはなかったという議論をしている。まだなお議論が続いているのは、責める世論があるからだ。

小生は当時の雰囲気を記憶しているが<果敢に>という形容詞は当てはまらなかったように思う。<取り乱して>という方が適切だ。

政治家が国民の暮らしを第一に思っているならば、なぜ断固としてやらないのか・・・そんな論調であったかと思う。そんな言い方が何度大手マスメディアの紙上をにぎわせただろうか。

× × ×

しかし、思うのだが ― 例によってギリシア・西欧的な人間理解に沿って整理すると ― 世俗と学問、世俗と芸術という区分がよく引き合いに出される。理知の根源は哲学であり、感情の洗練は芸術であるとも言われている。確かに人間の善なる本質は理性であり、美しい感情であるに違いない。しかしながら人間は欲望をもっており、欲望が理知や感情を押し流し、その人を支配しようとするものだ。その欲望が支配している現実が、即ち生活ではないか。国民の暮らしが第一と唱える価値観に小生は、ある面、恐怖を感じる。国民の暮らしが何よりも大事であるという理念の背後には、国民の欲望をありのままに、より高尚で価値のある真なる認識、美なる感情にまして重要な政治目的にするという意志がある。そういうことになるのではないか?

国家を指導する人材が国民の欲望の充足に奉仕するのであれば、そのような人材は不要である。経済学の純粋理論によれば、欲望を充足しようとする個人が自由に行動することにより、社会的にはバランスがとれて、最も豊かな社会を実現する。色々な前提はあるものの、大筋、そんな結論が数学的に証明されているからだ。

それ故、国民の暮らしを第一に考えるという政治家は、どこかで嘘をついているか、そうでなければ無学・無教養なのではないかと、小生は見ているのだ。今回の原発ゼロ騒動でも同様な感想をもったので忘れないように書いておくことにした。

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