2012年9月10日月曜日

バブルであるのは政治家なのか、高級官僚なのか?

経済分析で「バブル」という用語が登場したのはそれほど昔の事ではない。周知のようにケインズ経済学は「予想」を経済変動要因として非常に重要視した。予想に合致した価格変動は、それがたとえファンダメンタルズとかけ離れた不合理なものに見えても、予想が実現しているというその点において、持続可能になりうる。しかし、それは水面上に一定期間浮かぶ泡沫のような存在で、それがバブルだと気がつけばバブルは崩壊する。水の表面は、どれほど表情が豊かであれ、自然を変える力はもっていない。現実に力を持っているのは、見えない水面下で水が流れようとする方向である。

社会に問題があるとすれば、その問題を解決してほしいものだ。その力と能力を持つのは、政治家なのか、高級官僚か?

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橋下徹の「維新の会」が国政に進出するというので、選挙を控えた永田町は騒然としているそうだ。同氏は、永田町と霞ヶ関を解体して、新たな統治構造に造り直すと言明している。それに対して霞ヶ関の中央官庁では、変えると言ってもそれは困難です、と。どこも反発していると報道されている。

反発するくらいなら、問題をサッサと解決すれば良いのだと、ここで言っても始まらない。ただ、霞ヶ関の官僚層が、なるほど橋下という人物は元タレント・新興政治家ではあるが、仮にも地方分権を主張し、現に地方選挙に当選した政治家である。そういう人物が提案している構造改革案に対して、「全く実現困難」と切り捨て、反発するというのは、官僚として許されるのか?大手報道機関は「許されないじゃないか」と批判してはいない。

考えてもご覧あれ。赤字体質が染み付き、いよいよ経営不安になったメガ企業が、次期社長を社外から招聘することに決めたとする。巷の噂になっているある財界人が、この企業の抜本的構造改革の構想を語って、それが報道されたとする。それに対して、そのメガ企業の部長・課長といった<社員>が「そんな提案は実現不可能です」とか、「夢物語です」とか、構造改革的な議論に対して後ろ向きの反発を示すとすれば、みんな呆れるであろう。正にそこが駄目なんだと。『それほど言うなら、あなたたちで再建して見なさい、期限は▲▲年以内!期限内に達成できないなら支援打ち切り、強制退去』と。昔なら切腹である。まあ、この位の事は言われるのが当たり前だ。

では、新興政治家たちが社会を変える力を代表しているかといえば、これまたどうもそうは思われないのだ、な。感覚的な言い方だが、全く迫力がない。それに細かく言っている事をチェックすると、理屈が合ってない所も多い。社会主義を標榜するはずの日本共産党が<増税反対>を言うような奇妙な点がある。どこかで嘘を言っている。言葉という衣装を変えながら<政治的コスプレ>を演じているようでもある。

更に言うと、小生、現実がどれほど不合理に見えても、本当に不合理な現象が持続することはないと思っている。おかしいと考えるのは、現実が不合理なのではなく、我々の理解不足であると考えているのだ。確かに、中央官庁は言語道断とも思える言葉をはいている。しかし<構造改革>が日本で進まず、その改革を阻止しているのが中央官庁だとすれば、それは阻止を容認する社会的な力が現実に働いていて、それが他の勢力を抑えているからだ。阻止するのが社会的には合理的であると。反対するのが(実は)多数派なんだと。そう思っている。

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小生が見て不思議に思うのは、票が欲しいはずの<新興政治家>だ。

いまの社会経済システムは、将来世代の消費抑制を前提した国債依存財政を柱にして、やっと運営できている。これは確かに長期的に持続不能である。しかし、それが持続できているのは、ツケを負担する幼少年齢層、まだ生まれていない将来世代に投票権がないからである。この悪循環を阻止できるのは、選挙とは無縁の官僚層であるとみるのがロジックだ。官僚なら非民主的な発想をして、非民主的な手続きを経て、実は国家百年の理念に適った提案を政治日程に供する事ができる。

しかし、官僚が構造改革を主導するのではなく、票が欲しいはずの<新興政治家>が既存システムの打破を言い出している。既存システムが打破されて喜ぶのは、将来世代であり、現在世代は困るはずだ。であるのに、維新の会、及びその他の新興政治家達は、自分たちの主張が多数の国民の利益になると言っている。どこの誰にとって、どのような利益になるのかを語る時期が来ているように思われる。

どこかで嘘をついていないか?

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