2012年8月27日月曜日

きれいな言葉と汚い言葉の違いの本質は何だろう?

日韓両国で言葉の応酬がされている。元はといえばトップ同士でやり始めたことであり、現場はどちらかと言えば、オロオロと応対している感すら見受けられる所が、寧ろ哀れだ。ま、官僚なんて、そんなものだといえばそれまでだが。

領有権紛争自体を本ブログでとりあげてもロクな議論にはなるまい。ただ気のついたことはある。たとえば日本入国に障害がありそうな某韓国俳優がいる。竹島までの遠泳に参加したことが問題になっているらしい。日本入国が困難になったことに対する感想を記者から求められて、何も語らず、ただ自分の三人の子の名前をここで言ってもいいかと聞いたよし。その三人の子の名前は”大韓”、”民国”、”万歳”であった。

欧州では、今回の日韓関係悪化は<期限つき>と見ているようだが、上のエピソードについても、小生、憤慨や怒りの感情などは全くない。というのは、その某俳優は韓国人であり、韓国人が自国・韓国に対して<愛国心>を持ち、それを言葉で表現するのは当たり前のことである。日本人が日本に対して愛国心を持っているなら、ほぼそれと同じ感情を韓国人は自国に対して持つはずである。愛国心は、そもそも相互理解が可能な感情であり、また美しい感情でもあるはずであり、したがって相互に尊重しあうことができるはずであるし、またするべきである。

× × ×

少々別の話もある。一昨日のニュースでも報じていたが、シリア北部で取材中、銃弾に斃れたジャーナリスト山本美香さんの遺体が自宅に戻った由。父親がその思いを語っていた。TV画面に映っていた父の顔は、既に心の整理がついたのか、淡々としていた ― 事件を聞いた直後は、父が娘に寄せる愛情と労り、仕事に殉じて散った娘への誇りに娘を失ったことへの哀しみが入り混じり、それでも胸中を抑制する姿勢に清々しい人格を感じさせた。その印象は昨晩の映像をみても変わらない。

太平洋戦争中、子息を戦死で失ったことを知らされた母親は、最初に名誉の戦死を遂げられたことへの喜びを言葉にしたそうである。涙は一人になってから流したそうだ。こういう場面は、いまでも、毎年の夏、よく戦中ドラマとして放映されたりもするが、分かってはいてもそんなシーンになると観てしまうものだ。劇的であるからだ。ドラマトゥルギー上の位置づけでいえば、死に行く人の自己抑制、見送る人の自己抑制にも通じ、私たち日本人はそこに厳格に守られている行動規範を見てとり、<美>を感じ、その健気さに感動して、泣くのだ。

<自己抑制>というのは、自らがあるべき姿を思い起こし、ともすれば激しい感情や欲望に支配されがちな自己を知性によって抑える行為である。そんな時、日本人は ― というより、ホメロスの戦記叙事詩『イリアス』を読めば、洋の東西を問わず、時代を問わず、人間共通の心理でもあると思うが ― どれだけ人間自然のありかたと反していても、とるべき規範に従うその行動パターンに清らかさを感じる。そこに<実践理性>という哲学者カントが発見した人間の善なる本質をはっきりと見てとれるからだ、とまあこう言えば、何も日本人だけに当てはまる特殊な傾向とも言えまい。

× × ×

理屈の通った話をするから人は納得するのではない。モラルと節制には善を感じ、美を感じ、真理を見る思いがする反面、この2,3年の間、日本の永田町に往来している政治家が何か話をするときは、なるほどロジックは通っており、色々と計算をし、頭を使っていることは確かなのであるが、そこから醸し出される感覚は汚れた鬱陶しさ以外の何物でもない。

その理由は、知性が欲望に奉仕している、感情に支配されている。そんな弱さを恥じるのではなく、むしろ開き直っている姿勢全体に、そもそも政治を志すべきではない人間を見るからだ。もちろん、この言葉の美醜についての感覚は、政治家だけではなく、様々な年齢の普通の人たちにも言える事なのだ、な。

知性は、それ自体として非常に美しいものだ。愛国心も家族愛も、それ自体は非常に美しいものだ。道理を語っているとき、愛を語っているとき、言葉の中に汚れを感じるのは、理屈がけがらわしいからではない、感情が悪いわけではない、そこに欲望が潜んでいるからだ。その欲望に対して、相手は(もちろん自分自身も)怒りを感じるのだ。

欲望にけがされない、純粋の道理や感情は、時代や国籍を越えて理解可能なものである。小生はそう考えている。日本社会ではそれをまとめて<誠意>と呼んできた。人間共通の行動規範である。

0 件のコメント: