2012年8月16日木曜日

大和魂と精神主義で原発ゼロを絶対到達目標とするのか

一日古くなったが昨日の北海道新聞朝刊に枝野経済産業大臣の発言が報道されている。

周知のように政府は2030年時点の原発依存度など将来のエネルギー戦略を定めるための検討を進めている。これに関連した意見公聴会で電力会社職員が登場し、それは大変不適切であると。騒動になったのはまだ記憶に新しい。

枝野大臣は「原発ゼロでも経済成長は可能」と発言し、それに対して経済界は「悪影響が大きい」と反対している。政府が国民に示した原発ゼロの場合のシミュレーションによれば、実質GDP成長率が原発依存度を20~25%に維持するケースと比較して、4割近く低下する数字になっている由 ― 小生は数字の計算プロセスを確認する意欲を感じない。そもそも20年近い将来について経済的な予測をするだけの知見は経済学においては持っていない。5年先ですらも相当の予測誤差を考慮せざるを得ず、95%予測区間の上限と下限ではイメージが全く異なった数字になるはずである。まして18年後にどうなるかなど<数字の遊び>である。枝野大臣は「試算には技術革新や制度改革のほか、国民の努力も反映されていない」と述べたそうであり、政府試算の不備が指摘されているとのこと。

繰り返すが<不備>ではない。そもそも2030年に至るまでにどのような経済成長が見通されるのかなど、予測計算は<不可能>である。正確にいえば、計算をしてもよいが、前提条件が多すぎて信頼できない。分からないことを分かったかのように形だけを整えて非常に重要な事柄をいま決定するのは、これが文字通りの<欺瞞>でなくして、何が欺瞞たりうるのか。不真面目である。枝野大臣の発言は、本筋をついていると小生も思う。

しかしながら、「だから、原発ゼロということですよね」ともならないと思う。

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枝野大臣のいう「国民の努力」とは何を指しているのだろう?原発ゼロをいま決めるのが良いという思考回路は、2030年にはこうなりますという思考回路と方向は正反対だが、奇妙なほど本質が似通っている。どちらも<独断>に立った願望である。理論なき願望、所謂<世直し主義>という点で、いまの原発ゼロ運動は、戦前期1930年代の華族・近衛文麿による<新体制運動>に限りなく近い。政府が、2030年の原発依存率の目標値を決定するとしても、それは<気休め>であって、実効性はほぼゼロだろう。ヒト・モノ・カネが国境を越えて速やかに移動するグローバル経済の時代に、中央指導型経済の行政スキルを使ってみても、日本経済が混乱するだけである。

現在という時点で、政府が為すべきことは、原子力も勿論であるが、エネルギー産業全般の安全管理の確立である。福島第一は、その安全管理を厳格にしなかったから発生した<人災>であろう。だからこそ政府・東電の責任を追及しているのではないのか。

地球温暖化防止の観点から二酸化炭素排出率を抑制することが求められた。その当初、もしもディーゼルエンジンの原則全面禁止、ガソリンエンジン車の50%削減目標など、政府が民間経済に直接介入していればどうなったか?もちろん経済が混乱しただろう。そして、その混乱はただ混乱しただけのことになり、肝心の二酸化炭素の排出抑制は混乱自体によって結果として実現できた。そういう経路をたどったはずだ。実際には、非常に厳しい排ガス基準を設け、事業者がその基準をクリアすることを必達目標とした。その結果として、国内自動車メーカーはエンジンの技術開発をスピードアップさせ、それが競争力強化にもつながっていった。ハイブリッド技術の開発、今に至る燃費向上技術の流れはその延長にある。これが枝野大臣のいう技術進歩である。

重要なことは、社会を望ましい状態に誘導していくための知恵である。原発依存率が自然に低下するような工夫を講じることが今は大事である。厳しい安全基準をクリアするのであれば、最新鋭の原子力発電を忌避するべき理由を小生は感じない。それが本当に低コストであり電気代を節約できるのであれば。そうすれば最小のコストを負担することで、日本社会は望ましい目標を達成できるだろう。結果としてどのようなエネルギー・ミックスになるのか?それは日本国に住む全ての人が18年間をかけて自然に決めていけばよいことだ。自分の好むエネルギー源を選択し、それを実際に購入することによって、誰でも日本社会を変えることはできるのだから。政府がトップダウンで、あるいは脱原発主義者がロビー活動をしてエネルギ構成の方向を決めてしまって、それによって生まれる混乱自体が原因となり、結果として原発に頼らなくてもよかったよね、と。そんなことになれば、小生、ほんとにアホとしか(どうしても)思えないのです、な。

いかなる犠牲を払っても、特定の目標を絶対目標として掲げる。その思考法こそ、精神主義であり、それが<正しい>と社会全体が認めてしまうとき、その国は息をすることすら難しい、人間性が踏みにじられる社会となる。このことを日本人は歴史において既に経験しているはずである。






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